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フェイタリティ(因縁)

作者: 大輔華子

<一>

 朝八時の羽田空港国内線第二ターミナルの出発ロビーは、大勢の出張客に修学旅行の学生が加わってごった返していた。人混みの中、『8』番と表示された手荷物検査場の手前には、紺の上下スーツを着た一人の女性の姿があった。

 華原由希奈かはらゆきな。今年三十歳になった彼女は某中堅企業の内部監査室に属する主任監査員である。彼女の目は職種柄か、すっきりとした中に瞳の奥から鋭い光を発しているようにも感じられた。

 右手には一枚の写真が有った。顔写真を頼りに初対面の人物と待ち合わせをしているようである。そこに写っているのは白髪の老人男性であった。由希奈の鋭い視線は少し先の方でうろうろとせわしない動きをしている老人に向けられた。彼女はもう一度写真の男の顔を確認してからしっかりと頷き、その男の方にコツコツとかかとの音をたて歩いていった。『颯爽さっそう』という言葉は彼女のためにあるかの如く極めて格好がいい。


老原おいはら監査役さまですね? はじめまして。私、華原と申します。何卒今後、お見知り置きを……」


 その老人は由希奈の目をしっかりと見据え、言った。


「はあ? わしゃ野辺地のへじちゅうけえの。山口で牛飼うとるんじゃ。ねえちゃんみてえな立派な『しりこぶた(※注)』の牛ばあ(ばかり)じゃて」

(※注)「しりこぶた」:山口地方の方言で、「お尻」の意味である。ちなみに豚は関係が無い。


 由希奈は予測しない状況にややうろたえた。しかし彼女は職務柄、常に沈着冷静である。だが今回ばかりは近くで見るその老人の風貌に圧倒された。 

 その野辺地という老人は口を開くと前歯が二本欠けていてやや不気味な雰囲気を醸し出している。


――いくらなんでも、この出会いは規準に準拠していない。ひょっとして私は『人違い』という間違いを犯してしまったのかも知れない……。


 由希奈には方言がよく通じなかったが、何か失礼なことを言われているような気がして本能的にイラッときた。監査人の経験からくる『勘』である。


「ねえちゃん。便所はどこにあるけえの」

「化粧室ならこの通路を四~五十メートルほど行った右側にあります」

「わしゃ男じゃけえ化粧はせん。便所はどこじゃちゅうとる」

 

 彼女はかなりイラつきながらも、そこはぐっと堪えた。


「はい。あの……」


 すると今度は、別な老人女性が脇から由希奈に声を掛けてきた。


「おねえさん。ちょっと教えてくれへんかいな」


 老女は風呂敷き包みから一枚の紙を出して彼女に見せた。そこには、『ハウステンボスと湯布院の旅。長崎ちゃんぽんとカステラ食べまくり~! ご案内書。関東ツーリスト』と書かれてあった。


――何これ。このお腹が変になりそうな旅行企画……。


 別な女性が先ほどの老女を押しのけるように間に割って入ってきた。


「集合場所がようわかれへんのですが、この五十二番搭乗口ってどの辺じゃろ」

「はい。搭乗口は手荷物検査場の中ですから。そこで検査を済ませて中へ入ると矢印があります。五十二番はたしか、入って左側の奥だったと思います」


 格好が格好だけに、完全にフロアの所々に立っている女性案内員と勘違いされてしまっているようだ。好むと好まざるに関係なく結果として由希奈は航空会社に貢献しているかも知れない。


「ねえちゃん。のう。便所はどこじゃて」


 老人の『ベンジョ』はまだ解決していない。


「だから、あのですね……」


 すると今度は下のほうから声がした。


「おばちゃん。ママが居なくなっちゃったの」


――今度は迷子だ!


 由希奈は意識して冷静になり、その子に言った。


「あのね。私、おばちゃんじゃなくておねえさんなのよね。お・ね・え・さ・ん。はい。ボク。言ってごらんなさい。はい!」

「うん。……お・ば・ちゃ・ん」

「…………」


――こいつ! まったく、ませたガキだ。どうしてくれよう。


 しかし迷子になっている子を放っていることは出来ない。この子は今、由希奈以外に頼る人が居ないのだ。彼女は感情をぐっと堪えた。


「ちょっと待っててね。今、係の人に伝えて来るから。ママと必ず会えるわよ。大丈夫、安心してね……」


 その子は安心したような表情を見せた。そして由希奈の手を掴んで言った。


「あのね。ママが居ないからね。おばちゃん。そこのアイスクリーム買ってよ。あと、飛行機の風船も」


――何ぃ? このガキ! 親はいったいどういう教育してる訳ぇ!?


「あんたね。おばちゃんじゃなくって、おねえさんて言ってるでしょ! わからないの? 」


 すると再び背中から老人の声が……。


「あのう……」

「だから『ベンジョ』はそこ行った右側ですって! もうみんなあっち行ってよ! 私、違うんだってば! イッパン人なの!」


 振り返った彼女の前には先ほど手に持っていた顔写真とそっくりの白髪の男の顔が有った。


「あっ!」


 その老人は落ち着いた感じで由希奈に微笑んだ。


「私、老原です。あなた華原さんですね。どうかなさいましたか?」


 老原という男は相当な高齢ながらも姿勢が良く、いかにも育ちの良さそうな品のいい『老紳士』という感じだった。人違いした老人とは雲泥の差だ。由希奈は只ひたすらに間違えたことを反省した。


「いっ、いえ。何でもありません。あのジジイ、じゃなくって、あの方が、ベンジョ、うう。そんなことどうだっていいのよ! いえあの。どっ、どうも初めまして。私、華原です。はい」

「ご婦人には似合わない言いようですね。あなた、見た目と変わってとても面白い方だ」


 老原は上品に微笑んで言った。


「ちっ、違います。私は中身ちっとも面白い人間ではありません。ちゃんとした監査員です」

「ははは。やっぱり面白い」


 老原は由希奈の恥を飲み込んだ。

 由希奈の口は大人気なく尖んがった。


<二>

 羽田よりの出張先は四国、高松営業所である。先に監査に入った吉永監査室長と室員が今回の監査で経理員の金銭横領・着服を偶然に発見したのだ。室長は内々に裏付けを取るため共謀していた仕入先にそれとなく聞き取りに出向くことになったので、調査の人手が足りなくなり急遽由希奈が応援に駆けつけることになった。

 老原監査役はかつて某都市銀行の財務部門から副頭取にまでのし上がった金融界の名士である。しかも銀行在任時代に公認会計士の資格を取得している会計のプロでもある。彼は銀行の取締役を退いた後、数年間特別顧問となっていたが、融資先である由希奈の会社の非常勤監査役として名を連ねることとなった。その後、ごく最近になって会社の監査役の一人が体調を崩して入院し辞任したため、非常勤の監査役であった老原が常勤監査役として今回その任に当たることとなった。常勤着任早々に、会社がいきなりの不正行為に遭遇したため、今回老原が由希奈と同行して高松へ向かうこととなったのである。

 老原はこれまで非常勤だったため、年二回の監査役会出席以外に会社を訪れることはなかった。このため事前に由希奈との面識もない。由希奈は自分よりも五十歳近く年が離れていて、かつ華々しい経歴と資格をもった老原に対し、仕事の、そして人生の大先輩として大きな尊敬の念を抱いていた。さらに本人に実際に逢い、その落ち着いた上品な風貌を見て、由希奈は突然胸が熱くなるのを感じた。由希奈が三十路にして久しぶりに恋心に近い想いを胸にしたお相手は、なんと六十九歳、総白髪のおじいさんということになった。


<三>

 二人は手荷物検査場を通過し、動く歩道でゆっくりと搭乗口の方へ向かっていた。


「あの。老原監査役。このたびはご同行ありがとうございます。光栄に存じます」

「『老原さん』でいいですよ。それに堅苦しい言葉遣いはやめにしませんか? お互い肩が凝るばかりですから」

「はっ、はい。ところで今回、最もご年配の老原さんが高松へ出張されることになったのは何故でしょう。他にまだお若い方、居られますのに」

「多分社長のご配慮でしょう。私が四国の愛媛出身で親戚や友人も居りますからね。出張帰りに連泊して故郷に帰り、旧交を温めるようにでも、と気を遣って下すったのでしょう。でもね。松山と言っても奥道後の方で、それに四国というところはさほど広くない割に、山間やまあいが多くて起伏も激しい。地元以外の皆さんが考えるよりももっとずっと移動には不便なところなのですよ」

「そうなんですか。私も高松以外、四国の他の地域に行ったことありませんので。ということは、お国へは寄らずに明日こちらへお戻りになるのですか?」

「そのつもりです」


 老原は何か思い出したくないことがあるかのように、由希奈には思えた。これも監査人の経験からくる『勘』なのか。

 搭乗受付まではまだ四十分ほど時間がある。由希奈は広い待合スペースの老原の席の隣に座って老原の次の言葉を待った。老原は目を閉じたまま暫く言葉を発しない。眠っている訳ではない。とうとう由希奈は沈黙を破った。


「老原さん。私、飛行機大好きなんです。大きな空が好きですので。子供の頃から、楽しい時も寂しい時も、いつでも空を見上げて独り言のように空に語りかけていました。飛行機に乗るとその空と一体になったような堪らない充実感が有ります」

「そうでしたか。そう聞いてからこんなこと言うのはとてもはばかられるのですが、私の場合は飛行機が大の苦手です。あなたの言う『大空』が嫌いなのでは有りません。誠に恥ずかしいですが、飛行機に乗るのがとても怖いのです」


 由希奈は俯いて言葉を継げなくなった。


「いや、気になさらなくとも良い。あなたの方が普通なのですからね」


 それから老原は自分が大学を卒業して銀行に入行した頃の話をゆっくりと始めた。


<四>

 老原が大学を卒業して銀行に入行したのは一九六六年である。

 その年、一九六六年十一月十三日、大阪国際空港を飛び立った全日空五三三便は、愛媛県の松山へと向かっていた。当日到着空港である松山空港は深い霧が立ち込めていた。当時松山空港には大抵は瀬戸内海の海側から着陸していたが、その日は空港の終了時刻午後八時を超えていたため一旦消えていた空港の光を再点灯するのに時間が掛かり、五三三便は時間稼ぎのため山口県の岩国上空を経由しぐるりと回って四国の山側から着地することとなった。ようやく空港の準備も整って五三三便は四国の上空で着陸体制に入り空港滑走路に一旦着地したが、滑走路半ば付近を越えて接地したためオーバーランの危険性があり、その先は海となるので機長は着陸復航(着陸をやり直すため再び飛び立つこと)の判断に踏み切った。しかし、フラップと主脚を再格納した後の五三三便は、フラップの揚力を得ることができず、さらに再上昇に必要な十分なパワーを得ることが出来ず、高度三三〇フィート(約百メートル)まで上昇した後に失速、急降下し左旋回姿勢のまま午後八時二十九分に墜落、松山空港沖の伊予灘の漆黒の海面に激突しその衝撃で跡形もなく粉砕、乗務員五名、乗客四十五名、その五十名全てが犠牲になった。機材は当時のプロペラ機としては最もポピュラーに就航されていた国産機のYS―11型機であった。


◇◆◇

「事故というものは皆痛ましいものだ。だが、私の地元で起こったこの事故ばかりは、私の頭から一生離れることはないのだよ」

「老原さんはもしかしてその事故を見られたのでは?」

「いいや、翌日のテレビの昼の放送で知った。この年は私が銀行に入行した年で、翌日は入社半年後の研修を受講するため、東京のセミナーハウスへ朝一番で行っていたんだ。研修の途中で昼食をしている最中に前日の墜落のニュースが流れて初めてこれを知った。私は、万一誰か知った人間が居ないかと搭乗者リストをその日の新聞の朝刊で見ていたら、中学と高校の同級で同郷の若原君という男がリストに載っていた。『ワカハラユキオ 二十三歳』となっていたんだ」

「!」。由希奈は驚きのあまりに言葉を失った。

「同姓同名の別人であることを私は祈った。しかし、地元に電話して聞いてみると搭乗者リストに載っていたのは若原君本人だった。彼と私は中学時代から本当に心通わせる無二の親友の仲だった。私は老原幸雄、彼は若原幸男。ユキオの『オ』の漢字が違うが、私は『老』、彼は『若』で面白い偶然だろう?」

「あの……ちっとも、面白くないです……」

「彼、“若”は生まれた時から両親が無く、地元の児童養護施設で育てられたんだ。所謂いわゆる捨て子というやつだね。私はというと父親が地元松山の大地主で殆ど欲しいものは与えられて育った。名前も対照的だが、生まれた環境も対照的だった」

 由希奈はもう聞くに耐えられなくなり、「あの。老原さん。思い出したくないことを私のおかげで思い出させてしまって本当にすいません」と言った。そして由希奈は老原の目をまともに見ることも出来ず、目をつむり俯いた。

「いやいや、これは飛行機に乗るたびに思い出すことなんだ。あなたのセイではないよ。逆に話を聞いて貰えただけでも少し気持ちが楽になるというものだ」

「いえ、すいません。老原さん。もうそろそろ搭乗案内が出てみんな並んでます」

「よし、行こうか。席が少し離れてしまってるから、高松空港でまた会おう」

「はい。では到着ロビーで」


<五>

 高松行きの航空便は76P200、所謂ボーイング社製のB767という機種だった。現在全日空社では最もポピュラーに就航している航空機である。その日高松空港は深い霧が立ち込めていた。

 機内に乗り込むと朝早くのローカル便にも拘らず、ほとんど満席に近い状況で機内にはサラリーマンの他に地元の方言を話すおばさん達が多かった。


「すんまへん。ちょっくら荷物あげて貰えまへんか」


 そう言われて由希奈が振り向くと五十代半ばくらいの女性が大きなトランクと紙袋を持ったまま閉口していた。由希奈はようやく気付いたが、今日の彼女の格好は紺の上下スーツにキャビンアテンダントに良く似た紫のスカーフを首に巻いていた。


――やっぱり客室乗務員に間違われてる……。


 由希奈の身長は一五八センチである。本来のキャビンアテンダントの身長には遠く及ばない。しかし彼女は仕方なくスーツケースを手に取り上に持ち上げた。


――うっ。重い! おばさん。一体何が入ってるのよぅ。石でも入ってるんじゃないの?


 由希奈に依頼した女性は、何となく雰囲気を悟って言った。


「わて、北海道からの乗り継ぎやねん。重いやろ? ヒグマが鮭くわえてる木彫りのアレ、いくつやったか買うたやさかいね」


 由希奈は恨めしげに女性の方を見た。そして覚悟を決め、ぐっと踏ん張って上げようとしたが、重すぎて腕が伸びず荷物が収納ケースに届かない。彼女は途中で諦める訳にもいかず思い切ってシューズを脱ぎ座席に脚を掛けた。大股開きとまではいかないが、かなりのガニ股になって踏ん張った。その時、男性の小さな声が聞こえた。


「おい。見てみろよ。ガニ股のスッチャーデスさんやでぇ。滅多に見られないぞ!」


 パシャッ、パシャッ。

 携帯電話のシャッター音が聞こえた。由希奈は荷物を持ち上げたままガニ股で声のする方へ向き、シャッターを切る男性を睨みつけた。


「機内では電波の発する機器の電源は切っておいて下さい!」

「はっ、はい。すいません」


 その男と隣に居た男は俯いて小さくなった。


――意外に素直じゃん。


 由希奈の心の中は既にすっかりキャビンアテンダントになっていた。

その後機内放送が流れた。


「当便の機長は染井、チーフパーサーは吉野でご案内致します」


――ぶうっ。うけた! 季節外れのソメイヨシノだ! 


 由希奈はおかしくて席についてもしばらく笑いを堪えることができず、周りの客は一人で笑っている彼女を薄気味悪そうに見ていた。


――なんでみんな笑わない訳ぇ?


やはり彼女は老原が言う通り、中身が少し人と違って『面白い』人間なのかも知れない。


<六>

 高松空港は高松市内からは空港バスで五十分ほど掛かる山の上に作られた空港である。普段は瀬戸内海側から着陸するが、その日は天候が悪く、横風もあったので山側から着陸することになった。

 由希奈は飛行機の窓から下を見下ろした。着陸体制に入り雲を通過した後もさらにその下に真っ白に輝く厚い雲がある。飛行機大好き人間で、乗り慣れた彼女ではあったがその時彼女は初めての一抹の不安を覚えた。搭乗前の老原の話が幾分心理に影響していたのかも知れない。


「怖いわ……」。由希奈はそう一言呟いた。


 隣に座っていたサラリーマン風の男性はそれが聞こえたのか体を乗り出して窓の方を見て同じように下を見下ろした。そして近距離で由希奈と目が合った。男性は慌てて顔を伏せると小さな声で言った。

「怖いって言われましたか? 大丈夫ですよ。私、航空機のパイロットです。高松上空はいつもこんな感じですよ。山の上は雲が多くてね。でも瀬戸内側の雲は中に入っても乱気流がほとんど無い。それに機長の染井さんは大ベテランですからね」

「……あの。昔の松山の事故の話聞いたんです。それで思わず怖くなってしまって」

「ああ。あれは私も生まれる前のことですけど、そもそも空港の構造がダメだったですね。いくらYS型機でも夜間の雨雲を斜めに抜けてあの距離じゃあ止まれないこともあるかも知れない。地域の天候を考慮してあらゆる場面を想定していない。当時の操縦技術として限界に近い空港だったんじゃないかな。あの場所で滑走路はたったの千二百メートルですから。でもその事故のおかげでジェット化が進んで、今では松山の滑走路は二千五百メートルですよ」

「……」


 話がむずかしすぎて由希奈にはよく意味がわからない。会話が途切れてしまったと思う頃、彼は再び口を開いた。


「それ、雨雲ですよ。下、見えてませんけど五〜六百メートル下には滑走路があります。操縦してる人っていうのはね、雨雲があってもその下にある滑走路中心線が心の目にはっきりと見えているんですよ」

「あの……。雨雲って黒っぽくなかったですか?」

急に男性の表情が和んだ。

「ははは。下から見ると陽の光が遮られて灰色ですが、上から見るとどんな雲でも皆、真っ白に光輝いてますよ」

『皆、真っ白に光輝いてますよ』という彼の言葉が由希奈の心に響いた。

「そうなんだ……。雨雲さん差別しちゃってごめんね。な〜んちゃって。ふふ」

「へえ。あなたって、意外に見た目と違って面白い方ですね」


――ぶっ。まただ! 私、そんなに面白くなんかないから……。


<七>

「まもなく着陸します。皆様、今一度座席のベルトをご確認下さい」


――チープパーサーの吉野の声だ!


 由希奈は珍しく緊張して、何故だかどうでもいいことを心に思った。飛行機は急降下し機体に激しい雨が当たり大きく揺れた。しかし雨雲を抜けるのはほんの一瞬のことだった。 

滑走路がスクリーンに映った。由希奈はかつて何度も飛行機に搭乗していたが、今回初めて食い入るようにスクリーンを見た。

 滑走路中心線が見える。由希奈の心には僅かな不安がよぎった。これまでには無い何か独特の予感めいたものかも知れない。その直後、地面の角度が右へ左へと揺れたように感じた。

 スクリーンの映像がぷつんと切れて深い藍色になった。由希奈は窓から前方斜め下に見える主翼を見た。翼の中からもう一枚大きな翼がとび出ている。初めて見る光景だ。


――何これ! 羽根がヘンなことになってるよぅ。

―― 降りてない。まだ降りてない。降りてない。もう着地してもいい頃よ。まだー!?


 どーん! ガガガガガガ。

 ばあーーーー。逆噴射の激しい音。今度は主翼の表面から二枚の翼板がめくれ上がって主翼の中身が丸見えになっていた。


――どうなってるの? 羽根がヘンよ! 目一杯ヘンよ! やだ! 怖い。やだ! 怖いよう!


 由希奈は無意識に足を踏ん張っていた。今だかつて一度も無いことだ。逆噴射がいつもより長いように感じた。

ひゅうっ、と音がした。そして急に逆噴射の音が消えた。


「皆様。ただいま高松空港に着陸致しました。ターミナルへ到着しベルト着用のサインが消えるまで、暫くお席にそのままでお願い致します」


――うう。吉野の声だ。吉野の声はゼンゼン普通だ。何故なの! 何でそんなに落ち着いてるの?


「レディースエンジェントルメン、…………」


――吉野の奴、英語も普通に喋ってる。しかも発音に乱れも無い。ちっとも動揺してない。 


 隣の、自分はパイロットだと言った男性が由希奈の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか? お顔が真っ赤ですよ。それから、こちらを放していただけませんか?」


 男性の視線の先に目をやると、由希奈は無意識で男性の腕を握っていた。


「あっ、ごめんなさい。やだ私ったら……、大丈夫です」


 由希奈は我に帰って、その時やっと何らの問題なく普通に着陸したことを知った。


「でも、飛行機って降りる時は羽根もエンジンも『ヘン』になって総動員で本気出しますのね。初めて知りました」

「ええ? 『ホンキ』ですか……? ああ、そうそう、もちろん飛行機はいつでも本気ですよ。それに、あなたが『停まれ、停まれ』って一生懸命祈ったおかげで、飛行機の方もかなり勇気付けられたんじゃないかな。はは」

「まあ……お上手ですのね」 

「しかし、あなたって本当に面白い方ですね」

――ぶっ、だから、そうじゃないんだっての!


<八>

 高松空港の到着ロビーでは先に老原が出て由希奈を待っていた。二人は会うとすぐに空港バスの方へ向かった。


「高松駅でちょうどお昼くらいになりますから、そこで軽く昼食をとって営業所へ向かいましょう」

 由希奈は機内での緊張が嘘のように落ち着いていた。仕事モードに入っているのだ。監査員というのは何が有っても冷静沈着さを失ってはならない。老原の方も落ち着いている。空港バスは三台並んでいて既に一台目は満席のため、二人は二台目に乗り込んだ。全て二人がけのシートであったが、並んで空いている席がなかったため、バスの中でも二人は離ればなれに座った。

 高松駅まで約四十五分から五十分との車内放送があった。案内の言語は、何故か日本語・中国語・韓国語である。空港の利用客は英語圏の客よりも中国人や韓国人の方が遥かに多いということか。

由希奈の隣はやや落ち着きのない中年の男性である。中国語の案内の途中で隣の男性はいきなり吹き出した。


「ぶはあ!」


 由希奈が驚いて男性の方を向くと、彼は唐突に変なことを言い出した。


「あのね。今、『チンジャオロースー』とか言いませんでしたか? 中華料理の」

「はあ? 言ってないと思いますけど」

「いや。絶対言った。あっ、ほら今も。『トーバンジャン』とか言いましたよ。聞こえませんでしたか?」


――言う訳ないじゃないのよ! ああ、また、冷静さを失いそう……。何でこうなるの? 冷静にレイセイに……。


「聞こえません。バス停の名前か何かを言ってるだけだと思いますが」

「じゃあ。あなたは『トーバンジャン』とかってバス停があるとでも言うのですか?」

「むうう……。だからそんなこと言ってませんって」

「いいや。言いましたよ。あっ、ほらまただ。今度は『ゴモクチャーハン』って言った!」


 由希奈は、ついに『冷静さ』を失いかけて立ち上がった。


「言ってません! いくら高松だって『ゴモクチャーハン』なんてバス停がある訳ないでしょ!」

「あっ。あなた今、高松の人間、馬鹿にしましたね。そんなこと言っていいんですか? ここは讃岐ですよ」


 由希奈は一瞬言葉に詰まった。地元の人を敵に回してはまずい。しかしこのまま引っ込む訳にもいかない。


「そうじゃありません。高松の人がどうのこうのではなくって、常識で考えて言う訳ないって言ってるだけです。だいいち、『ゴモクチャーハン』ってしっかり日本語入ってますから!」


 静かな室内の雰囲気が一変して悪くなった。運転士が車内放送で言った。少なくとも運転士は地元付近の人間であることは確かである。


「そこのお客さん! 坂道でカーブが大変危険ですので、走行中は決して席を立たないで下さい!」

「はっ、はい」


――何なのよう。どうして私が悪者になる訳ぇ? おかしいのはこの男なのに……。


<九>

「あなたもちょっとしたことでムキになったり慌てたりする方ですね」


 バスを降りて飲食街で食事をしながら老原は言った。


「聞こえてたんですね。バスの中の会話。こんな所まで来て本当に恥ずかしいです。面目ございません。本当はこういう性格ではないんですけど……」

「いやいや。はっきり言ってそういう性格だね。今は自分で気付いていないだけだ。私もあなたくらいの年頃はそうだった。私が公認会計士の資格をとろうと思ったのも、実は銀行の契約する監査法人の公認会計士と口喧嘩してムキになり、それがきっかけで勉強することになったのですよ。災い転じて福を為したってことかな。そのおかげで取締役に昇格できたし、副頭取になったのもついついムキになってしまう性格が、意見を闘わせようとしない当時の取締役陣の中で、私は『情熱的』と受け取られての抜擢だったと思っている。決して悪いことではないと思うよ」


 由希奈は年甲斐も無く真っ赤になって俯いた。 


「また亡くなった『若原君』の話で恐縮だが、彼は私と境遇も正反対だが、性格も正反対だった。若いのに妙に大人なんだ。高校時代に私が先生と言い合いになって先生の方が爆発しそうになった時、先生に謝りに言ったのは私ではなく関係のない若原君だった。詳しいことは言っても仕方がないが、彼は自分が私の過ちの原因だって言って自分への処分を求めたらしい。決して私には言わないけれどね。後から先生から聞いたことなんだ」

「まあ、いい人ほど薄命だって、本当にありますのね」


それを聞いて老原は穏やかに笑いながら言った。


「私は悪党だから長生き、って訳だね。その通りだ。ははは」


 由希奈は慌てて否定した。


「いっ、いえ! 決してそんな意味では……。そういうことじゃないんです。あの。老原さんは穏やかでとってもいい方ですから。ですからね、えーっと。薄命? じゃなくって、それはまずいでしょ? えーっと。ですから長生きしちゃったりして……すいません。私、何言ってます?」

「ははは。そうやってすぐ慌てるところも若い時の私にそっくりだ」


 由希奈はどうも今日は日が悪いと諦め、暫く口を結んでおこうと思った。 

 その後二人は車を拾って営業所へ向かった。


<十>

 営業所に入ると正面で腕を組んで難しい表情をしていた高松営業所長がさっと顔を上げ、低い姿勢で自ら入口へお迎えに来た。内容によっては相当厳しく所長の管理責任を問われる可能性もある。監査役や監査部門が最終的に処分を決定する訳ではないが、特別監査報告書の書き方次第でかなり彼の処分に影響することは言うまでもない。

 奥の部屋から遅れて出てきた吉永内部監査室長が営業所長と老原監査役を相互に紹介した。

 金品を横領着服していた経理の担当者は、奥の部屋に他の監査員とともに居て軟禁状態となっている。会社が被害届を提出すれば、彼の行ったことは当然刑事告発されるべきものであるので、世間に対し明らかになる。会社はこのことを嫌い、被害届は出さず彼とは基本的に弁護士を介して和解し、横領金相当の損害額を賠償する返済計画を約束させる方針であった。しかしこれには監査役の同意が必要だ。監査役は会社の取締役の任務を監視する立場にあるので、経理担当者本人が自らの犯行を認める以上、内々にことを進めることを容認することは出来ない。もし容認するようであれば、監査役は独立的な立場にあるとは言えず、監査役自身の任務を遂行していないことになる。

 しかし、調査しているのは警察ではなく内部監査室である。警察の捜査であれば法律に基づいて進めなければならないが、内部監査室は企業に属する組織であり、調査の仕方は任意である。つまり、調査の手続きが法によって拘束されるものではないということだ。従ってその判断は如何ようにも下すことが出来る。会社が刑事的な犯罪に当たる事実は無いと判断したならば、あとは民事で和解したということで済ましてしまっても、会社が社会的な責任を果たしていないということにはならない。

 老原は言った。


「室長と良く協議して内容を精査しましょう」


『協議』というのは、『犯罪性』についての会社としての判断を協議するという意味だ。この老原の一言から吉永監査室長は十分な意味を汲み取った。同行していた由希奈も同じことを汲み取った。


――余程のことが無い限り、彼を警察に突き出すことはしない、という意味だ!


 しかし、由希奈は監査室長と違ってある種の違和感を胸に抱いた。老原はかつての自分のことを悪党のように言っていたが、今の彼に短い時間接した限りでは、すこぶる真面目で常識的な紳士である。そんな彼ならば監査役としての立場を貫き通すものとばかり考えていた。公認会計士としての立場や銀行での華々しい経歴を万が一捨てることにもなりかねないことを敢えて選択するとは意外だった。


――私、何だか、老原さんのことわからなくなってきた……。


 経理担当者は地元の高校を卒業してからすぐに当社へ採用され、四年間高松営業所で経理業務を行ってきた。現在二十三歳の男性社員である。入社当時はサブ的な要員だったが、二年前からメイン担当となり経理業務の全て及び発注・検収業務の窓口を担ってきた。その二年間仕入先と共謀し約三千万の金品を横領・着服してきた。仕入先は、室長が調べてみると既に先月倒産していて、経営者も共謀者の社員も姿をくらまして行方知らずだ。

 若い経理担当者は質問しても、只々泣きじゃくるばかりで全く会話にならない。

 老原は自分が大学を出て銀行に入行した時の頃のこと、親友の若原も高校を卒業して就職し五年目を迎えていた頃のことを回想した。二人とも今回の経理担当者と同じ、当時二十三歳だった。


<十一>

 時は再び一九六六年に戻る。全日空五三三便が、十一月に松山空港沖の伊予灘に墜落したあの忌まわしい年のことである。

 その年の春、老原は大学を卒業し念願の銀行に入行した。彼が中学から高校を卒業するまで、無二の親友として心通わせていた若原は高校卒業後すぐに地元の会社へ就職していた。このため、二人は同い年ながら、若原は老原よりも社会人として四年先輩であった。

 その年の十一月の初め、老原は久しぶりに若原と手紙で連絡を取り、二人は両方ともが会うに便利な大阪に一泊し、一杯やろう、ということになった。

 十一月十二日、航空機事故の前夜、二人は丸々四年半振りの再会を果たした。久しぶりに会う若原は立派な大人の社会人となっていた。裕福な家庭に育ちわがまま放題だった老原とは対照的に、生来親も無く高校卒業まで養護施設から通っていた若原は、学生時代から既に老原より大分大人びていたが、ここへきてさらに社会人としての二人の差がはっきりと広がっていたかのように思われた。老原はもともと勉強が嫌いではなかったので、東都大学の法学部に現役で合格したが、その後大学では親の十分な仕送りで遊んでばかりだった。その間、若原は社会人として立派に自立していたのだ。二人の姿は傍から見ても、若原が落ち着いた兄で、老原はやんちゃな弟というような感じだった。

 二人は翌日の昼食まで一緒に居て、再会を誓い別れた。 

 老原が、墜落した全日空五三三便の搭乗者リストに別れた若原の名前を確認したのは翌日東京のセミナーハウスにてであった。老原は時間的に若原が墜落した便に搭乗していた可能性も十分に有り得ると危惧しながらその名を確認し、彼の心は失意のどん底に叩き付けられた。


◇◆◇

 ところが、これには老原が由希奈に話さなかった重大な事実の続きが有った。

 何故か、若原はその日五三三便には搭乗していなかったのである。その日昼過ぎに若原は地元の会社からある一つの連絡を受けた。このため、若原は急遽松山行きを取りやめ五三三便をキャンセルすることにした。普通であるならば航空カウンターで正式にキャンセル手続きをするのであるが、彼は既に支払いが完了しており、この時間ではかなりのキャンセル料金が発生してしまうことを知っていた。そこで、彼は空港でキャンセル待ちをしていると思われて年が近そうな一人の男性に声を掛け、購入した価格でこれを譲った。このため、名前は『ワカハラユキオ』のままとなっていたのである。

 五三三便は墜落し、『ワカハラユキオ』は亡くなった。しかし、若原幸男はその死の運命を寸での所で見知らぬ男性に譲っていたのだ。そして、若原幸男は辛くも生き延びた。


<十二>

 五三三便が墜落した漆黒の海、伊予灘は、ばらばらに粉砕した機体や乗員・乗客の多くの亡骸をのみ込み、遠くへと押し流しそして沈めた。このため、確認された亡骸はほとんど機内に残された乗員・乗客のみだった。

 老原は休暇を取り松山市内で行われた合同葬に参列した。その後若原の育った養護施設を訪れ、そこで若原の遺影に合掌し焼香した。猛烈にいたたまれない気持ちが彼の心を襲っていた。

 東京に戻った老原の家には、若原からの手紙が届いていた。老原は生前最後に書かれた手紙だと思い合掌し中を開き仰天した。

 その手紙は、若原が、自分が生きていることをはっきりと伝えていた。そして、もう一つ、重大な事実を伝えていた。


◇◆◇

『……。そういうことで、僕は失ったはずの人生を得た。現にこうして生きている。

 ところが、僕は君に会うことが出来ない。何故かって? こういうことになったから君にだけは話すことにする。信じられないかも知れないが、実は僕は会社の金を二年間横領し続けていたんだ。その間着服した金は約一億円にものぼる。

 あの日君と別れた後、会社からのポケットベルが鳴ったので電話をしてみると、会社の支店に公認会計士の監査が入って横領が発覚したという連絡だった。

 僕は目の前が真っ暗になった。警察にも既に手が回されているかも知れない。一億円はどうしたかって? 競馬さ。みんな無くなってしまって手元には約百万円しか残っていない。僕はもう逃げるしかないんだ。

 そんな時僕の乗ったはずの飛行機が墜落して『ワカハラユキオ』は死んだ。この世から居なくなったんだ。だから僕はもう居ないんだよ。頭のいい君ならわかるだろう? そう、若原幸男は死んでここに居るのは若原幸男じゃない。わかってくれるね。

 また何か有ったら連絡はするつもりだ。君とは一生の友人関係で居たいから。僕には君以外、本当の意味で心を許せる人間は居ないんだ。では、また。いつになるかわからないが…… 若原幸男』


 手紙は唐突に終わっていた。

 老原の手は震えていた。


――若原……君は。わかった。君は死んだ。でも僕らは親友のままだ。ねっ。そういうことだろう?


<十三>

 今回の事件についての一通りの調査が済んだので、由希奈はその日高松で後泊して翌日東京の本社へ戻ることになった。吉永室長と他の内部監査員二名は、通常監査が完了していないので由希奈に一日遅れで本社へ戻る。老原はというと、由希奈に伝えていた通り由希奈と同じ便で明日帰ることにした。今度は一緒に予約するので、スキップサービスで隣同士の席を予約した。高松空港を明日朝九時半に出発し、十時五十分には羽田空港に到着する予定だ。使用機材(機種)は来たときと同じ、76P200,ボーイング社製のB767だった。

 今日の四国上空は折しも大型の台風が太平洋側の沖、約百五十キロ南の海上を通過したため結構な荒れ模様だった。このあとの台風の進路は風速二十五キロメートルの暴風圏が東海・関東地方をかすめた後、北東に進路をとり、今晩夜半には温帯性低気圧に変わる予報となっていた。明日の高松はおそらく台風一過で晴れ間が広がっているだろうし、到着地の羽田も朝には完全に台風が抜けていて飛行に何らの影響も無いだろうと考えられた。

 翌日の高松上空は予想した通り、雲一つない快晴だった。空港バスに乗ると由希奈は積極的に老原に話し掛けた。


「老原さん。私。行きの便で初めて飛行機に乗ることの恐怖感を覚えたんです。でも、もう大丈夫。今度は老原さんと一緒ですから」

「でも、私は飛行機が海にでも不時着したら、いの一番に逃げますよ。そういう性格だって言ったでしょう」

「嘘、嘘。老原さんは絶対そういうこと無いと思います。それ言うなら私がそうですから。泳いでいる人の背中を因幡の白兎みたいにぴょんぴょんと渡りながら逃げるタイプですから」

「あなたの言葉というか、発想はいつでもユニークで面白いですね」

「いいえ。面白い人間ではありません。真面目一筋ですから。ねっ。」

 大分二人の会話はリラックスしたものになってきた。


◇◆◇

 高松空港では予想もしなかった前日の台風の影響が出ていた。羽田行きの日本航空第一便は、高松空港発七時三十五分の予定であったが、この便が欠航になっていたのである。この便は前日の羽田からの最終便の機体を折り返して使用するものであったが、昨日の台風が関東を直撃したようで最終便が欠航になったため高松に来れず、空港には飛ぶべき第一便の機材(飛行機)が無かったのだ。

 由希奈の予約した便はそのあと、第二便の九時半発であったが、その便は当日羽田から朝一番に到着する機体を使用することになっている。こちらは今日のことなので天候の問題もなく心配なさそうだが、この便は由希奈が予約した昨日の夕方時点で、座席位置を指定する際にかなり予約で埋まっていた。欠航となった第一便の乗客を振り替えて乗せるほどの席の余裕は無い。

「まあ。一便の人、一体どうなっちゃうんでしょう。まさか私たちが後ろの便にずらされるってことないですよね」

 由希奈は第一便に『欠航』と表示されている電光パネルを見て、口を尖らせたまま老原の方に振り返った。


「!!……。 老原さん。老原さん! どうなさったの!?」


 老原の顔色は血の気が引いたように真っ青だった。目も大きく見開かれた状態で、その場に呆然と立ち尽くしていた。


「ちょっと、老原さん。ああ、ちょっと待ってて。人呼ぶから……」

「いや! 大丈夫だ。問題無い。座っていれば大丈夫だ」

「そんなこと……。顔色普通じゃないです」

「何もしなくていい!!」


 普段は穏やかな老原の突然の怒鳴り声に、由希奈は思わず目をつむった。


「私は九時半発の飛行機には乗らない。君は一人で行ってくれ」

「何のことですか? 乗らないだなんて。 やっぱり気分が悪いからでしょ」

「気分など悪くない! 乗らないと言ったら乗らないんだ」

「ええっ? それじゃあどうするんですか?」

「うるさい! 放って置いてくれと言っているのがわからないか!」

「うるさいって……ううっ、ひどい。ひどいわ。私が何したって言うの?」


 老原は由希奈の顔を見た。口がへの字になって今にも泣き出しそうである。三十路女の泣き顔ほど絵にならないものは無い。しかしついに涙腺が破裂して由希奈の頬には大粒の涙が流れた。


「ひどい。老原さん。ひどいわ。ひどい。ひどい!」


 由希奈は拳を作ってぽかぽかと老原の頭やら肩やらを叩き始めた。老原の言いようもひどいかもしれないが、由希奈の行動も人の目をとめた。抵抗できないお年寄りを叩き続ける女性の姿……。

 体格のいいサラリーマン風の男が駆け寄ってきて、由希奈の髪を掴み彼女を半ば宙に上げた。


「やめろ! この女!」

 

 老原は慌てた。


「ちょっ、違う。問題ない。その手を放してやってくれ。誤解だ。私は大丈夫だ」


 体格のいい男は掴んでいた手を放し、由希奈は床に崩れた。

 老原は俯きながら言った。


「すっ、済まない。済まなかった。どうかしていたんだ……」 


 由希奈も泣きべそ顔で言った。


「しゅいましぇん(すいません)」。


 老原はそのあとじっと地面を見つめながら大きく首を横に振って突然意味のわからないことを言った。


「私は本当はこの世に居ない人間だ」

「?……はぁ?」

「お化け? ですか? 老原さん、もしかして……」


 老原は呆れたように由希奈を見た。しかし、そのあと独り言のようにぽつんと言った。


「お化けか……。そうかも知れないな」


<十四>

 時は今から二七年前、老原が四二歳の時のことである。

 老原は当時、人事部長付主席監査員として東京の本店に勤務していた。彼は役職者ではないが、専門職の役職部長待遇であり、当時の中堅社員としては一番の出世頭であると誰もが認める存在だった。

 その日も老原は膨大な報告書をまとめ上げ、そろそろ帰宅を考えていた。その時事務所から彼の執務室に若い社員が入ってきた。ちなみに老原は個室を与えられていたのである。


「老原主席、事務所に電話が回ってきてますが」

「ん? 誰かな、こんな時間に」

「それがこちらから尋ねてもはっきり名乗らないので、概略の用件を聞きだそうとしましたが、ちっとも要領を得ません。中年から年配の男性です。どうしますか? 外出中か帰宅したことにしますか?」


 老原は、そうするように応えさせようかと思い、ふと留まった。勧誘の電話ならば嘘でも自分の名を名乗り、怪しいものでは無いように装うものだ。


「電話の主は、職名ではなく、私の名前を知っていて取り次ぐように言っているのか?」

「はい。老原幸雄さんとフルネームで」

「……回してくれ」


◇◆◇

「はい。老原ですが」

「老原君。たしか十九年振りだね。僕だ。若原、いや若原の生まれ変わりだ」

「ええ! 若原君? 君はあの若原君か!」

「そう飛行機事故で亡くなった若原だよ」

「お化けみたいな言い方するなよ。今どこから電話掛けている?」

「今は東京に来ているんだ。僕は今、大阪市郊外のとある場所に住んでいてね。ちゃんと仕事もしてるよ。今の名前は大橋幸男だ。倉庫会社の商品管理をさせてもらってる。毎日暇だが生活していけるだけの給料は貰っている。貯金はとっくに使い果たしてしまってその日暮らしみたいなもんだが」

電話の感じからして、若原には老原への特別な用事も無さそうだ。

「いつ大阪に帰るんだ」

「別に決めてない。盆休みに入るからいつ帰ってもいい。僕の帰りを待っている家族も居ないから。だが、金はないから長居するなら野宿になっちまうけどね。ははは」

「そうか。僕は実は明後日奈良の方で仕事があるから、明日夕方の飛行機で大阪に飛んで宿に前泊することになってる」

「そう。じゃあ明日、君が飛行機に乗る前にでもどこかで会うかい?」

「よし。羽田の近くに落ち着いたところを知っている。昼飯でも一緒にしよう。ご馳走するよ。昼間から酒飲んでもいいぞ。僕は厳密に言うと仕事中だが、ご接待も仕事のうちだ」

「酒かあ。もう何年飲んでないだろう。盛り上がりそうだね」


 待ち合わせ場所と時間を伝えてから、老原はゆっくりと受話器を置いた。老原は彼と自分が一緒にそして別々に歩んできた道を心にトレースしてみて、胸にこみ上げてくるものを抑えきることが出来なかった。


<十五>

 二人は久し振りに会って旧交を温めた。老原は生来『不真面目』な人間だが、人生は穏当な真面目な道を歩んできた。若原は逆に生来真面目だが、そこには節目フシメに運命のいたずらが絡んできて彼を孤児みなしごの境遇へと引き戻していた。彼は死ぬかもしれなかった命を偶然に得た。しかし、運命は命の代償として彼を犯罪者として人生の奈落へと突き落とした。

 老原は自分と彼が別々の人生を歩み始めた以降の話には意識して触れなかった。若原も同じだった。

 昼間の酒がお互いにまわっていい気分になってきた頃老原のポケットベルが鳴った。会社へ電話をすると、相手は老原に奈良への出張を指示した管財本部長だった。電話の用件は相手の都合で急遽関西行きは中止、との内容だった。


「大阪行きが無くなってしまったよ」

「なんだ。そうか。大阪行ってまた会えると思ったんだけどな」

「若原。住所だけ教えといてくれよ」

「住所不定なんちゃってな。一応こんなところだ。また、いつ変わるかわからないけどな」


 若原は老原の差し出した手帳に住所を書いた。そして、言いにくそうにぼそっと言った。


「実は、東京で遊んじゃってね。帰りの交通費が四千円しか無いんだ。これじゃあ帰れない。暫く貸しておいてくれないか」


 老原は若原の心の内側を見透かして言った。


「おい。若原。『遊びすぎて』なんて下手な見栄張るもんじゃないよ。金に困ってるならいつでもストレートに言ってくれ。僕は君が遊ぶ金を貸したりはしない。僕と違って、昔の君みたいに真面目に一生懸命働いてる君にはいくらでも貸すから……」

「いつの間にか兄弟が入れ替わっちまったな。昔は僕が兄さん役で、君には今のような格好いいことを言ってた」

「入れ替わってないよ。僕は相変わらずのちゃらんぽらんだ。そうだ、大阪行き中止になったからこの航空券あげるよ。それでいいだろう?」

「ええ? 出張中止になったんだから払い戻して会社に返さないといかんだろう?」

「いいよ。そんな心配しなくったって。全額払い戻される訳じゃないし、たいした金じゃない」

「奥さん居るんだろう? 怒られやしないかい?」

「ああ、女房ね。あいつはね。元は、僕が若い頃、銀座のクラブでホステスやってた女だからね。逆に金には大雑把なんだよ。いつでも二~三十万円持ち歩いてるけど、数万円くらい抜き取ったってわかりゃしないのさ」

「すごい話だね。でもわかった。いや、わかったことにする。ありがたく頂くことにするよ。ありがとう老原君」


◇◆◇

 翌日、日本航空一二三便は、大阪(伊丹空港)へ向けほぼ定刻通りに羽田空港を飛び立った。乗客の中に、老原が突然の出張中止で代りに搭乗した若原幸男の姿があった。若原にとって老原は、どれ程の歳月を経ても唯一無二の親友であることに変わりは無かった。若原は自分が何のために生きているのか疑問に思うことがしばしば有った。しかし、そんな時いつも彼は呟くように自分に語り掛けた。


――何故生きているのかって? 決まってるじゃないか。過去を生きてきたから、現在の自分があるんだ。現在生きているんだよ。そして現在を生きているから、未来の自分があるんだ。未来を生きていくんだよ。難しい理屈なんて要らないのさ……。

◇◆◇ 

 一二三便の使用機材(機種)はボーイング社製、B747SR46。所謂ジャンボジェットで、当時絶対に墜落しない、とされていた『ジャンボ神話』として有名なジェット機だった。

 しかし、その絶対的に安定した走行もつかの間、羽田空港を飛び立って間もなく、後部圧力隔壁がはく離、垂直尾翼を失ったまま水平を保ち続けることが出来ず、コントロールを完全に失った機は、一九八五年八月十二日午後六時五十六分、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落激突し、大破した。


<十六>

 再び話の場面は現在に戻る。

 高松空港では第一便の機材(航空機)未着による欠航を受け、由希奈の予約していた第二便の案内に『機種変更』の文字があらわれた。折り返し第二便となる羽田からの飛行機は当初のB767型機から、一便二便の乗客が一度に搭乗できるジャンボジェット機のB747型機に変更になったのである。

◇◆◇

「B747SR46。君はB747で僕を迎えに来たのかい? いや若原。君は死んでいない。僕の中で生きているんだ……」


 老原は呟くように言った。その直後である。

 老原の顔色は再び真っ青になり、由希奈の目の前に突然片膝を折りひざまずいた。両手はお腹を押えていた。顔が苦痛のあまり歪んでいる。

 ゲホッ、ゲホッ。

 次の瞬間、老原の口からは血がほとばしった。


「キャーッ!」

「だっ、誰か! 誰か! 助けて! 誰か来てぇ。死んじゃう。早く誰か来て!!」

 

 空港ターミナルビルの高天井までその声は轟いた。由希奈の断末魔の叫びである。数人の空港関係者が走ってきた。二人はそのまま脇を通過して担架を取りに行った。

 由希奈は老原を抱きかかえた。彼女の白いブラウスは老原の吐血で血塗られた。


「仰向けにするんじゃない! 吐血が気管に入るから。横にして口を床の方に向けるんだ!」

  

 医師かも知れない背広姿の男性が駆け寄ってきた。

 吐血はおさまった。しかし、老原は意識を失っているようである。


「お願い! 助けて。早く早く早く。早くう!」

「うるさい! 鼓動がよく聞こえないんだ。 ちょっとあんた邪魔! だから、そこお尻、邪魔だ! 患者さんの動きが見えないから。あんたはそっちへさがって離れていてくれ。邪魔だ」

「じゃっ、邪魔あ? ぐうう……」


<十七>

 空港の救護室に寝かされて応救処置を施された老原は、その後空港関係者の車で救急病院に搬送された。由希奈も今日の帰京は諦め、一緒に病院まで付いていった。その車は、社内に処置設備がないので救急車では無いが、一応回転灯が回ってピーポピーポと大きな音が鳴った。

 病院の処置室から出て小一時間くらい寝ていたであろうか。ふっと老原は目を覚ました。


「あっ、起きた。起きた! 気分はどう?」

「ああ、君か。君が助けてくれたんだね。色々と失礼なことを言って悪かったね」

「助けただなんて。助けようとしたけど、いちいち邪魔だったみたいです」

「はは。相変わらず正直な人だね、君は」

「どこか、お腹とか痛くない? 胸は苦しくない?」

「何だか全身の感覚が無い。あのね。私は今夢を見ていた。お化けの若原君と話している夢だ」

「あまり話すと疲れますから……。お話はあとで聞きますよ」

「いいや。今聞いて欲しいんだ」

◇◆◇

 老原は由希奈に話していなかった松山の航空機事故のあとからの話を彼女にゆっくりと聞かせた。

 由希奈には二度の偶然が必然であったかのようにも思えた。それから、老原が高松で横領・着服した男を警察に突き出すべきだとの判断をしなかったのは、時は経ていても同じ高卒の同年のその男が彼の中で若原と重なっていたのかも知れないとも思った。


「最後は結果、私が彼の人生の幕を下ろしてしまったんだ。一二三便が墜落したと知った時、私は何という運命のいたずらかと思った。いや、もはやここまできたら『いたずら』とは言えないね。運命の『意思』なのではないかと。『因縁』ってやつだ。因縁は次から次へと畳み掛けるように鎖を連ねてくる。もう、こうなると人の手には負えるものじゃないね」


「航空機の墜落全損事故なんて滅多に起こるもんじゃない。しかしあいつはそれに遭遇し、一回目、架空の死を遂げ幸か不幸か『ワカハラ』がこの世から居なくなった。そして二回目には本当に死んだ。運命の神は最後には彼を額面通りこの世から抹殺したってことだね。しかもそれを私にさせたんだ。酷い話だと思わないかい?」


「…………」


「私は彼の命と引き換えに命を貰った。そしてその後、二十七年間、今の今まで生き延びてしまった。人生のスタートはいったいどうだった? 私は裕福な家庭に育ち、彼は孤児だ。これがスタートだ。そして人生の終わりはどうだった? 最後まで彼は一人だった。こんな不公平な人生ってあるかい?」


◇◆◇

 三日後、老原は迎えに来た娘さん夫婦に付き添われて東京に戻った。

 東京に戻っても彼は地元の病院に通院し、ほどなくして紹介された総合病院に入院した。

 由希奈は彼が入院してからというもの、毎日のように見舞いに通った。その間、徐々にむくんでいく彼の足を見て死期を実感し、そして涙した。

 老原はまだ意識がしっかりしている時、彼のセカンドバックに入っていた一枚の写真を由希奈に渡した。それは彼が高校時代に若原と肩を組んで並んで写っている写真だった。

 彼はろれつが回らなくなってきていたが、はっきりと由希奈に顔を向けて言った。


「彼がとうとう私を迎えにきたよ」


 老原はむしろ嬉しそうだった。


「若原、もうすぐだ。永い間一人で待たせたな。しぶとい僕もこれが最期だ。もう、この世に未練はないよ。君に会えるのだからね。再会を約束していたからね」


 老原は年が明けソメイヨシノが咲く頃、七十歳でその生涯の幕を閉じた。


 由希奈は老原の葬式で、自分が本人に渡されて二十八年前に亡くなった若原との写真を棺桶の中に入れてもらえるよう遺族の方に頼んだ。喪主の奥さんは親族でもなく銀行の関係者でもない彼女の要求を拒否した。しかし彼女はそれは故人の遺志でした、と涙ながらに”『真っ白』な嘘をついて”出棺の寸前にそれを許された。

『嘘』かもしれないが、誰も知らない彼女の心の中でそれは決して『嘘』ではなかった。 


 由希奈は老原の最期の顔を覗き込んだ。

 永年に亘っていた胸のつかえが取れ、二十八年間待たせ続けた無二の親友のもとへ旅立つその顔は、とても穏やかだった。


『フェイタリティ(因縁)、完』


人の力は、運命を自分で開くことかも知れません。

【華】

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