15 【閑話】不遇の王子と神からの娘 3
シュヴァイツは臣下として、民がひしめく前庭より一段高い場所から貴族たちとともにバルコニーを仰ぐ。
この場所にこれ程の民が集まるのは、前代未聞。近衛は総出で警戒にあたり、それでも足りずに軍までが出動した。
近衛と軍の調整は至難の技で、バルコニーの端に王族として出ますリオネル王子が、細かく指示をしているらしい。
サクラに先んじて、王族達がバルコニーに並ぶ。中央に国王と王妃、二人を挟む形で王女と三人の王子。群集が歓喜に湧く。
国王が一歩前に出て、片手を上げると、スッと鎮まる。斯くして民に向けての演説が始まった。
始まりは穏やかに語りかけ、少しずつ声量を上げて朗々と紡ぐ言葉に、じっと民が聞き入る。当代の国王の得意とするところだ。
「神事で神から賜った奇跡の娘。国を安寧と繁栄に導くに相違無い!」と、国王は民の興奮を煽りたて、演説を終える。聴いていた民も貴族達も、期待に目が輝く。
そして国王は後ろを振り返り、大げさに過ぎる芝居がかった動作で、サクラを招く。
なかなか現れないサクラを、民は固唾をのみ、待った。
シュヴァイツも居並ぶ貴族達とともに、瞬きを惜しみながらバルコニーをみつめる。
ややして、窓からバルコニーへ、小さな黒き姿が前へ進み出で、ゆっくりと異国の礼をとる。
ざわめいていた群集が、動きを止め水を打ったかの如く静まり返る。だが次の瞬間、空が震えたかと思うほどの歓声が、会場内に響き渡った。
戦場で勝利した瞬間のような、いや、それよりも。 あたかも神が姿を現したかのような――――――
シュヴァイツはバルコニーに凛と立つ小柄な姿に息を呑む。
神の持つ色、黒の地に、淡い薄紅の花弁が肩のあたりに乱れ飛ぶ見たことも無き装束は、見事としか言いようがない。背に流した髪色と相まって、秘密めいた美を体現するかの如く立つ姿。
軽く目を細め、引き結んだ唇で笑みつつ、手を軽く振る様は、生まれながらの高貴な姫君のよう。 民の熱狂を前に、これだけ落ち着いているのは、さすが神が選んだ娘だ。
会う度印象が変わる不思議な娘。何故に我が国に現れた。
神はこの娘に、いったい何を託し、我が国に遣ったのか。
そして夕刻。
シュヴァイツは夜会服を身に纏い、サクラの元を訪れた。
「少々御疲れのご様子で」
迎えてくれた女官長が、声をひそめ告げてきた。
「無理もない」
王城に民が入りきらず、二度顔見せを行ったのは異例。寛ぐ時も与えられず夜会なのだ。
国策で進められる行事を、サクラはただ受け入れ期待以上の働きを見せてはいる。見た目通りの幼き反応、例えばいっそ厭がるなり泣くなりしてくれた方が、安心できるようにも思う。
仕度が整ったと、部屋に通された時、サクラは所在無げに座っていた。物憂げな顔が、シュヴァイツの存在に気づいた途端、微笑を湛える。
永いこと王宮で、うわべを取り繕う貴族に囲まれてきたシュヴァイツにとって、そのの笑顔が無理に捻り出されたものだと即座に気付く。
望まれる立場を解し、演じることを躊躇わず、それでも不安気に佇む姿。
せめて自らの存在が、小さな救いになれば、と、シュヴァイツはおどけて話しかけた。
自分がまるで、サクラの祖父であるかの如く、初めての夜会に臨む孫を勇気づけるように。
会場の貴族達に怯むことなど無いと、軽い冗談で笑わせる。それに素直な笑みを見せるサクラは、市井の娘のように愛らしい。
だがやはり、どんな造りかも解らない複雑な染め付けと織りを多用した衣裳を身に付けて、優雅に振る舞う姿に、我が国の叡智など赤子のように思わせるほどの威怖も同時に感じることは否めない。
そしてサクラは、民が怖いと呟く。己れを慕い熱狂する民が怖いと呟き、儚く微笑む。それが意味することは、深い。
孫娘と話しているつもりが、古の哲学でも問答しているような錯覚に襲われる。さらに、投げ掛けられたサクラの言葉に驚いた。
サクラは民を案じていた。
あれだけ多くの民がひしめいていて、傷付いたり弱った者がいるのではと気に病んでいる。
…………自分のことではなく、か。
ふと頭に浮かぶのは、かつて似たようなことをシュヴァイツに問うた幼き王子。
彼に訊いてみるよう勧めたのは、シュヴァイツの微かな希望だ。
夜会におけるサクラの振る舞いも、文句のつけようも無いほど、洗練されていた。常に微笑みを絶やさず、貴族達の中身の無い話も丁寧に聞く態度を崩さず頷く。
ただし時々、ほんの僅かに素の表情が覗く。ずっと傍らに立つシュヴァイツが、注意を払ってようやく判るほどの。
入場した時の呟きは、きっと悪態だったに違いない。王子達のダンスの誘いを断る口実に、衣裳を持ち出した件は、最初から用意していたものだろう。
もっとも今回は、まだ習いもしていないのでシュヴァイツが止めるつもりではあったのだが。
伯爵令嬢が、王妃の件を持ち出し、王子の品定めを披露している間も、応庸に構えている。何度か接点がありながらも、心動くことは無い風情だ。
時が立つにつれ、次第に表情に陰りが出始める。疲れもするだろう。断ることも出来ず笑みを保ち続けるサクラが、気の毒でならない。
テラスへ連れ出すと、サクラは深い呼吸を繰り返した。余程緊張していたのだろう。
お。
窓の光が延び、闇と交わるところに、リオネル王子が独り立っていた。あれ(・・)以来、夜会を嫌うリオネル王子は、早々に引き上げる事が常なので、珍しいとも思える。
話し掛けると穏やかな声が返る。機に乗じてサクラに、先程の問いを促した。
サクラは戸惑いを見せたものの、シュヴァイツに話す時と然程変わらぬ態度だ。怯えも嘲りも無い、真っ直ぐな眼差し。妙齢の女性が、このようにリオネル王子に話し掛けることなど、絶えて久しい。
王子も顔を背ける事無く対峙しているので、シュヴァイツはそっと距離を置いた。
室内に入る時に聞こえて来たのは、久しぶりにリオネルを見た貴族達の、小声での悪口。獣は番犬の如く砦に篭れば良いなどとのたまっている。全く腹が煮える。
顔だけだ。顔だけなのだ。本質は何一つお変わりになってなどいないのに。
この国の貴族達は、見た目だけで彼を嘲笑う。シュヴァイツはそれが悔しくてならない。
サクラは。
サクラはリオネルをどう思っているのだろう。
神事の時も今も、サクラがリオネルを見詰める時には、恐れの色は無い。但し、特別な感情も抱いてはいない。
会う機会を増やせば、何かが育っていくやも知れぬ。しかしそれが、二人にとって善き事なのか。シュヴァイツには判断しかねる。
神は何も語らない。十年前も今も。
教えてはくれぬのか。それとも迷いながらたどり着くのを、待っているのか。
獣の顔をした王子と神の遣わす娘。役目も知らされず、ただ神に翻弄される二人に、何も示すことの出来ない老いた身を、シュヴァイツはただ呪わしく思った。