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誕生日

作者: 文屋カノン

 第42回北日本文学賞で、4次審査で落選した小説です。総応募数1020編の内3次審査を通過した作品は50編でした。

 小説をネットに投稿するのは初めてなので、文字数が少なくてある程度の評価を受けたものがいいだろうと思い、この作品を選びました。どうぞお読み下さいませ。

「ハッピーバースデー」と叫びながら、僕がクラッカーを鳴らした時の紀子の反応は、確かに少々、常軌を逸していました。

 そもそも紀子の誕生日である今宵、一人暮らしの僕のアパートの部屋に彼女を招き、クラッカーを鳴らしたのには、理由がありました。

 現在大学四年生である僕は、ただでさえ卒論と就活に忙しいのに加えて、紀子との交際も三ヶ月前に始めたばかりでしたから、バイトをする時間も捻出できず、実家からの仕送りだけでは、とても紀子の誕生日を豪勢に祝ってやることができなかったのです。

その為、用意したプレゼントは、ノンブランドのシルバーネックレスに、食事はデリバリーピザとケーキと、シャンパーニュ地方以外の場所で作られた発泡ワイン、つまりはシャンパンではなく、ただのスパークリングワインのみという侘しさでしたので、何かもう一つ誕生日らしい活気を、紀子に味わわせる手立ては無いものかと、無い知恵を絞って実践したのが、クラッカーを鳴らすことだった訳です。

それなら、安価な値段でおめでたい気分に浸ることができますし、たった一瞬パアンと明るい爆音を放ちながら、色とりどりのテープを部屋に飛び散らせるという、全く実用的でない代物に敢えて金を投じることが、貧乏な僕には、何とも華々しく贅沢なことに思われ、是非使ってみようと考えた訳です。

 けれど紀子は、浮き立った僕の心とは裏腹に二重の大きな瞳に驚愕の色を浮かべると、ワンピースの裾をグシャリと握り締め、微かに唇を震わせました。日頃は肉感的に艶めいているその唇が心なしか妙に白っぽく、またワンピースの青色が肌に映ったせいか、顔色までもが何やら青白く、まるで病み上がりの女の様に見えました。

 その時僕は、紀子の不健康さに色気を感じて少しゾクリとしました。実は僕は紀子と出会う前に、バイト先で知り合った新島さんという女の子に片想いをしていたのですが、彼女は化粧気の無い顔に、まるで田舎の子供の様な真っ赤なほっぺをした子で、僕としては彼女のその、今時珍しい程の純朴かつ健全な雰囲気に惹かれていた訳ですが、そんな僕が今や恋人の不健康な様に劣情を催すとは、人の心というものは不思議なものです。

 けれどそんなのん気なことを考えていられたのは、まだその時には、クラッカーを鳴らしたことが、それ程大きなことだとは認識していなかったせいかも知れません。

当初僕は、紀子はせいぜい、突然の爆音に驚いたのだろうくらいにしか思っていませんでした。けれど彼女の顔色には、いつまで経っても血の気が戻る気配がありません。

ふと耳を澄ますと、血の気の失せた唇の間に覗く更に白い幾本もの歯が、かち、かち、と、小さな音を立てていることに気付きました。その音はパイプベッドの枕元に置かれた黒い目覚まし時計が時を刻む音と相まって、不気味な不協和音を、狭いワンルーム内に響かせ始めました。

たまらずに僕は紀子に理由を尋ねました。けれど紀子は

「ちょっと、びっくりしただけ」

と、当初の僕が予想していた通りの返事をし、ぎこちない笑みを浮かべながら

「さあ、食べよう」

とピザの箱に手をかけましたが、その手をぴたりと止めると

「あ、でもまず片付けなきゃね」

と、クラッカーの残骸に向き直りましたが、またすぐに

「あ、違うね。片付けは普通後よね。まずは飲食よね。えーと」

と一人納得すると、スパークリングワインの注がれたグラスを掴み

「じゃあ、二十三歳に乾杯」

と勝手に音頭を取ると、まだ僕がグラスを手にしてもいないというのに、卓上に置かれた僕のグラスに、ガツンと大きな音を立ててグラスを打ち付け、あっという間に中身を飲み干してしまいました。

先程の台詞は、本来なら僕が用いるものではないでしょうか。一体紀子は何故、通例を忘れる程、動揺しているのでしょうか。一歳上の姉さん彼女ということもあり、普段は比較的冷静な振る舞いが多い紀子が、こうも気を動転させているのは珍しいことでした。

そこで僕は、再度紀子に理由を問いました。だがまたしても彼女は

「あたし、おっきい音ちょっと苦手なの。だからごめんね。せっかく用意してくれたのに、びっくりし過ぎちゃって」

と誤魔化しました。

僕は、おっきい音がここまで苦手な人が、あんなにも勢い良く乾杯をするだろうかと思いましたが、それを深く考える間も無く、今度は紀子が、スパークリングワインの瓶を倒しました。

泡だらけの金色の液体が、シュワシュワと音を立てながら、フローリングの上を広がっていきます。その泡は、クラッカーを鳴らした後で紀子に渡そうと、僕が傍らに置いていたプレゼントの包みまで攻撃し、包装紙に染み込んでいきました。僕は慌ててそれを持ち上げましたが、濡れてブヨブヨになった包みに、液体が流したクラッカーの残骸がへばりつき、せっかくのプレゼントは見るも無残な代物へと変貌していました。

二人でそれらの後始末をする間、紀子は一言「ごめんね」とつぶやいただけで、後は無言でした。僕も「いいよ」と短く答えただけでやはり無言を貫きました。

口では「いいよ」と言いながらも、紀子のことを怒っていなかったと言えば嘘になります。いくら安価な物とはいえ、クラッカーといいワインといいプレゼントといい、僕が紀子の為に用意した物が、次々と台無しになっていく過程が、面白いものである筈はありません。

とはいえ今日は紀子の誕生日です。誕生日の夜に、これくらいのことで文句を言うべきではないのではないかとも僕は考えました。そこでとりあえずは、床にこぼれたワインを拭くことに専念しようと思い、僕達はしばし黙々と雑巾がけを続けました。幸いプレゼントは包装紙が濡れただけで、中身に被害はありませんでした。

ハーフボトルの瓶でしたので、雑巾がけはすぐに終わりました。とはいえ部屋の中にはまだワインの匂いが立ち込めていましたが、初夏のことで、窓は開け放たれていましたから、その内この匂いは夜風がさらって行ってくれるだろうと思えました。

そう思ったと同時に、先程までの苛ついた感情は、ワインの残り香よりも先に外の闇の中へ吸い込まれて行き、僕は途端に紀子を気にかける余裕が生まれました。黙って雑巾がけをしていた間、紀子は何を考えていたのでしょうか。

雑巾を干した後、洗面所で手を洗っていた紀子は、僕の視線に気付くと、思い詰めた様な顔をしながらハンガーにかかっていたタオルで手を拭いましたが、その後僕の方に向き直り「あのね」と言いました。僕は「うん」と短く答えました。

「始君がせっかく用意してくれた物だから、『苦手』とか言ったら、悪いと思ってたんだけど、ここまでうろたえちゃった訳だし、クラッカーが駄目な理由を、ちゃんと説明しなきゃ、むしろ悪いよね?」

「悪いとか悪くないとかじゃなくて、何でだろうとは思うけど」

自分から「悪い」と認めている人間を、更に責める必要も無いと思い、僕はそう答えました。すると紀子は

「じゃあとりあえず食べながら聞いてよ。ちょっと長くなるからさ」

と、ピザとケーキが出しっ放しのままの食卓を指しました。僕はうなずくと食卓前に敷かれた座布団の上にあぐらをかきました。

冷めたピザをかじりながら、僕は紀子の告白に耳を傾けました。それは大体次の様な内容でした。


あたし実は母親と誕生日が同じなの。前にも話した通り、父親はあたしが物心つく前に交通事故で亡くなっていたから、幼い頃あたしと母親は、いつも二人でひっそりとお祝いしてたんだ。

でもそのささやかな誕生会が、あたしは毎年楽しみでね。当時母親はあたしを育てる為にスナックで働いてたから、あたしは週の内五日か六日は、夜になると母方の祖父母のうちに預けられてたんだけど、誕生日の夜は母親が一緒に過ごしてくれただけじゃなく、ちょっとしたご馳走やケーキやプレゼントを用意してくれたから。

でも九歳の誕生日だけは、二人じゃなく三人でお祝いすることになったの。その頃母親はスナックの客と付き合っててね。本名は知らないけど、母親が「ヌウ君」って呼んでたから、あたしも真似してそう呼んでたんだけど、そのヌウ君があたしと母親を遊園地に連れてってくれるって言い出した訳。

あたしはそりゃあもう嬉しくてね。母親は仕事上夜型で、そもそもあたしは遊園地どころか、近所の公園すらろくに連れて行ってもらったことが無かったから、前の晩は興奮してろくに眠れなかった。

母親の彼氏に、連れて行ってもらうっていうくすぐったさにも緊張してね。きっとはたから見たら、親子に見えるんだろうなあというか、これでようやく普通の世間の枠組みを経験できるというか、そういう晴れがましさを感じた。

ヌウ君が自分の本当の父親じゃないとか、そんなことは気にならなかったよ。子供ってごっこ遊びが好きじゃない?その日一日ヌウ君が父親役をやってくれるなら、もうそれだけであたしは嬉しくてたまらなかったの。というか、本当のお父さんになってくれればいいのになあとも思ってた。うちにも何度も遊びに来てたから、子供好きで優しい人だってことは知ってたしね。

ヌウ君のことを、そんな風に思っていたことが、亡くなった父親に対して悪いことだったのかどうかはその時は分からなかったし、今となってもやっぱり分からない。

亡くなった父にも勿論関心はあるし、できれば死なないで欲しかったし、何で死んじゃったんだろうとか考えてると、たまらなくなって今でもたまに泣いちゃうこともあるけど、でも泣こうが喚こうが、亡くなった人は還らない訳だから、そうすると頃合の男性に父親としての役割を求めたくなるのは、仕方がないことじゃない?というか母親の彼氏に嫌悪感持つよりは、子供としてはずっと物分かりの良いことよね。

だからまああたしとしては、寝不足とはいえルンルン気分で、誕生日の朝を迎えた訳だけど、何とその朝ヌウ君の来た直後に更に来訪者が二人もあった訳。

最初は母親の知り合いかなと思ったの。母親と同い年くらいの女の人達だったし、玄関のドアを開けた途端「ハッピーバースデー」なんて叫んで、クラッカーを鳴らす様な人達が他人だなんて、普通想像しないでしょう?そう確かに他人じゃなかった。彼女達はヌウ君の奥さんとその友達だったの。

まずヌウ君が青くなって、その様子を見て母親も焦りだしたんだけど、事情の飲み込めないあたしは、何が起きてるのかよく分からなくてね。分からないまま母親に

「おばあちゃんちに、行ってなさい」

って玄関の外に押し出されたの。母親のあんな怖い顔はあの時初めて見た。そしてヌウ君が、あんなにも強張った顔をしてたのも初めてだった。

それにあたしは、クラッカーを鳴らした女の人達も何だか怖くてね。誕生日の朝にお祝いに来てくれたはずの人達なのに、クラッカーを鳴らした途端、意地悪そうな目で、その辺に用意されてたリュックとか地図帳なんかを眺めながら

「へえ、これからお出かけの予定だったの。ふうん」

 なんて、嫌味たらしい口調でつぶやくんだもん。一体この人達は何なんだろうって凄く不安に感じた。

 だから、突然おばあちゃんちに行けなんて言われたことは勿論嫌だったんだけど、でもそれ以上にあたしはそこにいるのが怖くて、案外素直に、そのまま家を出て祖父母の家に向かったの。

 でもあいにく誰もいなくてね。始終出入りしてたから鍵は持ってたんだけど、そういう状況の時に、誰もいないシンとした家の中に一人でいるのも嫌で、友達のうちにでも行こうかなあとも思ったんだけど、母親にはおばあちゃんちに行けって言われた訳だしなあなんて思って、とりあえず留守宅にあがり込んでぼんやりしてたんだけど、その内、前夜の寝不足がたたって眠り込んじゃったの。

 母親とおばあちゃんの話し声で目が覚めたのは、もうお昼を回ってからだった。あたしは隣室から聞こえてくる話し声と、もう午後になってしまったという事実に愕然としてね。

 正直、遊園地行きはとっくに諦めてたんだけど…。そりゃあ眠れない程楽しみにしてた訳だけど、でも元々母親はあんまり約束を実行するタイプじゃなかったから、約束破られることには慣れてたし、だから遊園地行きが不意になったのは悲しかったけど、でもまあしょうがないやと思ってたの。

 でもおばあちゃんと母親が、起こしてくれなかったことが不満でね。今日は滅多に無い母親と一緒に過ごせる日なのに、しかも誕生日なのに、どうしてあたしを除け者にして二人で話なんかしてるんだろう?って、それが悔しくてね。それであたしは跳ね起きて隣の部屋に行ったんだけど、ドアを開けたあたしを見て二人は何だか困った顔をしてる訳。

 それを見たら、何だか身の置き所が無い様な気持ちになってね。もう起きたの? もっと寝てれば良かったのにって、二人が思ってるのが手に取る様に分かって。ああ、あたしは邪魔者なんだ。一年で一番我儘言って甘えられるはずの日でも、こうして邪魔にされる存在なんだってひしひしと感じたの。そしてその直感は間違って無かった。その一週間後に母親は家を出て行ってしまったから。

 どうやら母親は、ヌウ君と駆け落ちしたらしいの。ただ駆け落ちするならするで、どうしてあたしを置いて行ったのかは、よく分からない。ヌウ君を子供好きだと思っていたのは勘違いだったのか、それともヌウ君以前に母親自身が子供嫌いだったのか。

 確かに別に苛められはしなかったけど、たいして可愛がられた記憶は無いから、子供好きな人ではなかったんだろうね。というか一般的な「子供」うんぬんじゃなく、あたし自身のことが、あんまり好きじゃなかっただけかも知れないけど。

 母親からはその後、一回だけ

「ママはヌウ君と暮らすことにしたから、紀子はこれからは、おばあちゃん達の言うことをよく聞きなさい」

 って電話がかかってきただけで、連絡先も何も知らされず、その後は音信不通になっちゃったから、まあいずれにしろ母親はあたしよりヌウ君を選んだってことよね。自分の生んだ子供より、妻のいるヌウ君を選んだってこと。

 その事実にあたしは随分苦しんできたし、今もまだ克服はしてない。でも自分が不幸な人間なのかどうかはよく分からないけど。世の中には、コインロッカーに捨てられる子供だっている訳だから、それと比べれば自分の親元にあたしを押し付けた母親は、まあ常識的だと言えなくはないし。でも親ではない身内の家で育てられるのは、やっぱ何かと気苦労があるものよ。

 だけど、ヌウ君の奥さんと友達のことは恨んでないよ。愛人の家にクラッカー鳴らしながら上がり込んで来るなんて、尋常じゃない気もするけど、でもあたしは二人の気持ちが分かるから。

 どういう経緯かは知らないけど、二人はヌウ君が、愛人の誕生日を祝いに出かけたことを察してそれにムカついた訳でしょう? それで愛人宅に乗り込むことにした訳だけど、一人で行くより二人の方が心強いから、二人で行くことにして、そしてヌウ君と母親をびびらせるには、クラッカーを鳴らすのが、手頃で効果的だと思って実践したんじゃないのかな。

 物事の主導権を握るには、まず相手の度肝を抜くっていうのは一つの手だから、それを実践した二人には、成る程と思える節もあるの。でもその方法が功を奏し過ぎて、ヌウ君と母親は、度肝を抜かれ過ぎて逃亡しちゃった訳だから、結局ヌウ君の奥さん達は目的を……、つまりはヌウ君を取り戻すかあるいは相応の慰謝料を取って離婚するかの、どちらも成し遂げられなかった訳だから、要は失敗しちゃった訳よね。

 結果的にヌウ君の奥さんは、法律が定めた当然の権利を侵害され、権利を獲得する為に動いて失敗した被害者な訳だから、そんな哀れな被害者をあたしは恨む気にはなれない。

 ただそうは言っても、あの日「ハッピーバースデー」の声と共に、鳴らされたクラッカーの音が、その後のあたしの生活を変え、今日まで続いた苦悩のスタートになったことは事実なの。だからさっき始君が「ハッピーバースデー」ってクラッカー鳴らした時、その事実が急に思い出されて、ぎょっとしちゃったの。

 不思議ね。クラッカーがあたしに危害を与えた訳じゃない。悲しみの要因は母親に捨てられたことだって理解してるのに、それでもそれを想起させる小道具に出会うと、平静ではいられないものね。だからあたしはクラッカーの音が苦手なの。特に「ハッピーバースデー」の声と共に、鳴らされるクラッカーの音が苦手なの。あたしのそんなトラウマのせいで、せっかくの始君の好意を無にしちゃって悪かったわね。


 肩を落とし謝る紀子を見て、僕はいたたまれない気持ちになりました。紀子は何も悪くないのに何故謝るのでしょう。ただ、では僕が謝るべきなのかというと、それは腑に落ちない気がしました。クラッカーの音に紀子がそんなトラウマを抱えていたなど、僕に予想できたはずは無いのですから、僕にも謝る道理は無い筈です。

 とはいえ、何も悪くないのに頭を下げる紀子の姿は不憫でした。そこで僕は紀子の傍らに近づき抱きしめると

「もう、クラッカーを鳴らしたりしない」

 とささやきました。

 問題はクラッカーではなく、紀子が母親に捨てられた事実なのだということは理解していましたが、その件に対し、僕には何もできません。僕ができることと言ったら、紀子にいたずらに、過去を追憶させないことだけです。だから僕はとりあえず問題をクラッカーに置き換えて彼女にそう約束しました。

 けれど紀子は、僕の腕の中で強く首を振ると

「それじゃ駄目なのよ。クラッカーを克服しないと」

 と小さく叫びました。そして僕の腕を振りほどくと

「コンビニに行こう。そしてクラッカー山程買って来よう」

 と真剣な面持ちで提案しました。

 一体クラッカーとは、克服しなければならない程の物なのだろうかと、僕が考える間も無く、紀子はさっさと窓を閉め施錠すると、バッグを片手に、「行くよ」と玄関を指しました。僕は慌てて財布と携帯を掴み立ち上がりました。

 サンダルを履くのももどかしく、外に飛び出して行く紀子に、僕はいささか面食らいましたが、そうは言ってもこれは別にたいしたことではない様な気がして、僕は紀子の半歩後を急ぎ足で歩き出しました。

 時刻はまだ夜の九時を回ったばかりです。この時間帯に、思いつきでコンビニを訪れるのはよくあることですし、何といっても今日は紀子の誕生日です。恋人の誕生日にこれくらいの気まぐれに付き合わされるのは、別にたいしたことではない筈です。

 けれど僕は、すぐに別のことに思い当たりました。紀子はおそらくここから徒歩五分の最寄りのコンビニへ向かうつもりでしょう。そこは僕が去年までバイトをしていた店、つまりは新島さんが働いている店なのです。アパートから近いこともあり、僕は四年になってバイトを辞めた後も、時々は店に顔を出していましたが、しかし紀子を連れて訪れるのは今日が初めてでした。

 久し振りに新島さんの姿を見られるかも知れないという密かな期待と共に、彼女に自分の恋人を見せることになるかも知れないという可能性に、僕は胸の高鳴りを覚えました。紀子は、素朴で幼い線の残った新島さんとは対照的な、垢抜けた大人の女です。そんな紀子を伴う僕を新島さんはどう思うでしょう。

 僕は新島さんの反応を、見たい様な見たくない様な複雑な思いに囚われ、そっと紀子の方を窺いました。紀子は相変わらず何かに憑かれた様な顔をして、店に向かって歩みを進めていました。

 多くの場合、迷いのある人間というものは迷いの無い人間の意思に引きずられがちです。僕は観念すると、紀子と共に店に向かって足早に歩き続けました。この時二人の向かう方向は同じでしたが、胸に去来する思いは全く別のものでした。ひょっとしたら恋人同士というものは、得てしてこの様なものなのかも知れない。ふとそんな思いが胸をよぎりました。

 その思いが不意に破られたのは、店の駐車場に群がる野次馬達と、そこに停められた一台の救急車に気付いた時です。僕と紀子は顔を見合わせると、野次馬の群れの間をぬう様にして駐車場を横切ろうとしました。その時店の入り口から、一台の担架が運び出されて行くのが見えました。その担架の上に女が一人、息も絶え絶えに横たわっていました。新島さんでした。

 僕は呆気にとられ、しばらくその場に立ち尽くしました。新島さんを乗せた担架は救急隊員の手によって、速やかに救急車の中に運ばれて行きました。チラと見た彼女の顔はチャームポイントの頬の赤みが顔中に広がって、酷く紅潮していました。

 その時、「始じゃんか」と僕はかつてのバイト仲間である太志に肩を叩かれました。太志とは、バイトを辞めた今でも家を行き来する間柄で、紀子のことも紹介済みです。僕は早速、何があったのかと彼に尋ねました。

「参ったよ。新島ちゃんがバイト中に急に産気づいたと思ったら、あっとゆう間に破水しちまった」

「新島さん、妊娠してたのか?」

「本人も言わないし、誰も気付かなかったんだよ。最近ちょっと太ったかなあとは思ってたけどまさかできてるとは思わんかった」

 僕はその言葉に、思わず頭がくらくらしました。新島さんに彼氏がいると知った半年前、僕は不甲斐無くも太志の前で涙をこぼしましたが、しかし今のショックはその時とはまた一味違った衝撃がありました。

 まるで昔の田舎娘の様に赤い頬をした、純朴そうな新島さんが、彼氏ができた途端に破水するとは一体どういうことでしょう。つまり僕が失恋の涙をこぼすその前に、新島さんはとっくに身ごもっていたということです。何も知らない僕は、そんな新島さんを清らかな処女と思い込み片想いしていた訳です。

「だって初産でしょう?それなのに陣痛来た途端もう破水したの?」

 紀子が口早に太志に尋ねました。僕には出産のことはよく分かりませんでしたが、その質問により、どうやら事態は緊迫しているのだということが窺えました。

 その時、救急車の中から、赤ん坊の泣き声が響き渡りました。「生まれた」「生まれたね」野次馬達が口々につぶやきました。

 気付くと太志は、今しがた連絡を受けて駆けつけたらしい店長の元に駆け寄り、何事かを報告していました。僕は店長に挨拶するべきだろうかと一瞬迷いましたが、不意に紀子が僕の手を取り「帰ろう」と促しました。混乱していた僕は紀子の提案に従い、「うん」とつぶやくと、野次馬達の間をぬいながら元来た道を引き返しました。

 初夏の夜の甘い闇に包まれながら、僕と紀子は手をつないだまま、てくてくとアパートへの道を歩きました。道を一本逸れて住宅街に入ると、コンビニでの騒ぎがまるで嘘の様に辺りは静まり返っていました。けれど先程聞いた産声が僕の頭に残っており、僕の脳裏では、まだ新生児が声を上げて泣き続けていました。

 その時僕は確信したのです。今後赤ん坊の泣き声を聞く度に、自分が新島さんのことを思い出すであろうことを。

 甘く切ない片想い時代。新島さんへの幻想。叶いもしない期待を抱いていたこと。友人の前で泣いた恥ずかしさ。その後恋人ができた後も、新島さんを意識して胸を波打たせながら店を訪れようとしたこと。そんなことを通りすがりの赤ん坊の泣き声が、僕に想起させることになるのでしょう。

 そして僕はやっと、紀子がクラッカーを克服したがった心境が分かった気がしました。母親に捨てられた苦悩を克服できないからこそ、せめてクラッカーだけは克服したい。いやクラッカーを克服することにより、母親に捨てられた苦悩の克服への足がかりにしたい。ひょっとしたら、足がかりになるのではないか。そんな期待を抱く程、紀子は切実な苦悩を抱えているということなのでしょう。

 そこで僕は、「クラッカーは?」と隣を歩く紀子に尋ねました。新島さんの出産騒ぎに気を取られ、つい手ぶらで家路を辿ってしまいましたが、クラッカー購入の件は一体どうなったのでしょう。

 ところが紀子は

「何か、どうでも良くなった」

 とけろりとした顔で答えました。

「あたしもあんな風に、泣きながら生まれてきたんだなあと思ったから」

「どういうこと?」

 僕はけげんに思い、紀子の顔を見詰めました。すると紀子は闇夜に向かってフウッと溜息を吐き、こう答えました。

「あたしはもしかしたら、誕生日ってものを、勘違いしてたのかも知れないなあと思ったの。九歳の誕生日に起きた出来事をきっかけに、あたしという存在を誕生させた母親に捨てられたせいで、せめて運命には、あたしの誕生を祝福して欲しいみたいな気持ちがあったっていうか。別に誕生日に、物凄く素敵な出来事が起きなくてもいいから、せめて自分なりに良い誕生日だったと思いたいって願望が、人より強かった気がするの。でもさっき赤ん坊の泣き声聞いたら、そうか誕生日は初泣きの記念日なんだって気付いて……、そしたら誕生日っていうのは、泣く程辛いことがあるくらいで、丁度いいんだって気になったの」

 ということは、僕が今宵鳴らしたクラッカーは、紀子にとってはやはり泣く程辛い出来事だったということなのでしょうか。僕はすっかりしょんぼりし、何だかこっちが泣きたい様な気分になりました。

 すると紀子は、つないだ手に力を込め更にこう付け加えました。

「だからさ、泣く程辛いことがあるくらいで丁度なら、こうして隣で祝ってくれる人がいるなんて、考えられない程幸せってことじゃん?」

 僕がぽかんとしていると、紀子はつないだ手を乱暴に振りながら、ずんずんとアパートに向かって歩き始めました。僕は強く握られた手が痛くて何だか涙がこぼれそうでした。

「あたしと母親と、同じ誕生日に生まれてしまったあの子。あの子もきっとこれからの人生、何度も何度も泣くのね」

 ふと感慨深げに紀子がつぶやきました。その時僕は、息も絶え絶えに運び出された新島さんの顔を思い起こしました。紀子の母親もあの様に苦しみながら子を生み、そしてその子を捨てたというのでしょうか。捨てた後、一度も泣かなかったのでしょうか。

 僕は黙って紀子の手を握り返しました。初夏のことで、その手は少し汗ばんでいましたが、僕にはその湿り気が紀子の涙の様に思えました。

 つないだ手から紀子の涙が流れ込み、僕の掌もしっとりと濡れてきました。僕はふと、この体液こそが人間がこの世に生を受けた証なのだという気になりました。

 泣きながら生まれてきたのなら、人生に涙がつきものなのは当然なのでしょうか。

 僕は星の瞬く夜空を見上げました。喉元に何故か塩辛いものがこみ上げました。


 思ったままどんなことでも構わないので、感想を頂けたら幸いです。

 作成済みの小説がまだ20編以上ございますので、随時投稿していきたいと思っております。よろしければそちらにもお目通し下さいませ。

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[良い点] ・ヒロインと主人公のトラウマがきれいに対比されている。 ・ヒロインに非常に感情移入しやすい。 ・ラストに切なさがあり読後感が良い。 ・読みやすい文章。推敲がしっかりされているところ。 ・丁…
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