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異世界転生をやめに来た。

 あれ。

 俺、死んだ?

 そう思った瞬間、妙に冷静な自分がいた。パニックになるでもなく、泣くでもなく、ただ「あれ、そうか」という感じで、目の前に浮かぶ半透明の画面を眺めていた。

 ステータス画面、だろうか。アニメで見たことがある。こういうやつ。

---

【能力選択】

あなたが次の世界で持つ力を選んでください

洞察力 / 直観力 / 共感力

観察眼 / 忍耐力 / 繊細さ

読解力 / 誠実さ / 鈍感力

豪快さ / 楽観性 / 行動力

---

 ん? 待って。魔法とか、剣術とか、そういうのじゃないの?

 「こんにちは、直樹さん」

 声がした。

 ふわりと、白い何かが目の前に降りてくる。女神、だと思う。たぶん。羽があって、光ってて、ふわふわしている。絵に描いたような女神だ。ただひとつだけ気になるのは、その女神が小脇に分厚いバインダーを抱えていることだった。

 「私はこう見えても女神なんですよ。あなたはラッキーです、異世界転生のチャンスを得ました」

 ……ん?

 どこかで、聞いたことがある気がする。

 アニメか何かで、だろうか。

 まあ、いいか。

 「あなたは先ほど亡くなられまして、画面の能力の中から、いくつかお選びいただければ——」

 「いくつか選べるの?」

 「はい、複数選択可能で……ええと」

 女神がバインダーをぱらぱらとめくった。

 「……何個だっけ」

 あ、これ新人だ。絶対新人だ。

 「確認していいですか? 少々お待ちを」

 少々お待ちを、じゃないだろう。ここ、どういう場所だよ。

 でもなぜか、怒る気にはなれなかった。バインダーの端を親指でなぞる仕草に、見覚えがある気がした。誰の癖だったかは、思い出せない。

 「お待たせしました。三つまで選べます。ただ、注意事項がありまして」

 「注意事項?」

 「ひとつ選ぶと、選べなくなる能力があります。それから、選べても負担が大きくなる組み合わせも。画面に印が出ますので」

 直樹は画面に目を戻した。

 洞察力。直観力。共感力。観察眼。誠実さ。繊細さ。鈍感力。豪快さ。

 剣も魔法も職業スキルも、何もない。あるのは全部、なんというか——人間っぽいものばかりだ。

 「これ、戦えないじゃん」

 「異世界って、戦うんでしたっけ」

 女神が首をかしげた。

 本当に大丈夫か、この人。

---

 まあ、いい。

 うだつが上がらなかった前の人生を、やり直せるかもしれないんだ。どんな能力だって、ないよりはいい。

 そう思いながら直樹は画面に手を伸ばした。

 ——でも。

 前の人生って、どんな人生だったっけ。

 頭の中に何も浮かばない。記憶というものが、するりと逃げていく感覚だけがある。

 まあ、いいか。

 直樹はそう思うことにして、「洞察力」に指を近づけた。

 その瞬間。

 誰かが、泣いていた。

 後ろ姿だけ。よく知っている、肩の震え方だった。

---

 「洞察力、ですね」

 女神がバインダーに何かを書き込んだ。鉛筆だった。なぜか鉛筆だった。

 「選んだ瞬間、組み合わせの相性が表示されます。ええと——」

 ぱらぱら。

 「……共感力は選べなくなりますね。それから、繊細さに注意印がつきます」

 画面を見ると、共感力は灰色に沈み、繊細さの横には小さな三角形が点いていた。

 「なんで?」

 「洞察力を持つと、物事を構造で見る癖が強くなるんです」

 「構造?」

 「原因とか、パターンとか、そっちを先に見るようになる。人の気持ちも、感じるより先に、分析する方向に寄りやすくて」

 女神が少しだけ言いづらそうな顔をした。

 「人の痛みを、理解はできるんですけど。一緒に感じるのは、苦手になりやすいです」

 「……それって、冷たくなるってこと?」

 「冷たいというより」女神がバインダーの端を親指でなぞった。「距離が、できやすい。外から見るのが上手くなる分、中に入るのが難しくなる感じです」

 「——って、これ説明していいやつだったかな」

 女神がバインダーをまた確認し始めた。

 いいやつだったかな、じゃないだろう。

 でも直樹は怒らなかった。なんとなく、この空気が嫌いじゃなかった。

 「次、どうしますか?」

 「直観力にしようかな」

 「あ、それ選ぶと——」

 「消えるやつがあるんだろ」

 「そうなんですよね。読解力と、誠実さが選択欄から消えます。今あるものを失うわけではないんですけど、伸ばしたい力を選び直せなくなるんです」

 直樹は少し止まった。

 誠実さ。

 その言葉がどこかに引っかかった。刺さる、というより——思い当たる節がある、みたいな感覚。

 「……誠実さって、俺に必要だった?」

 「え?」

 「前の人生で、ってこと」

 「それは私には答えられないことに、なってます」

 女神が静かに言った。

 妙な言い方だった。できない、じゃなくて——なってます、という言い方。

 誰かに決められたのか、自分で決めたのか、よくわからない言い方だった。

 「じゃあ直観力はやめとく。誠実さを選べないことには、したくない」

 「わかりました」女神が鉛筆を持ち直した。「では残り二つですね」

---

 画面に残っている能力を、直樹はゆっくり眺めた。

 鈍感力、という項目が目に入った。

 「ねえ、鈍感力って何?」

 「細かいことが気にならなくなります」女神がすぐ答えた。「行動量が増えますし、メンタルも安定します。人気ですよ」

 「人気なんだ」

 「楽になれますから」

 女神が少しだけ遠くを見た。

 その一瞬だけ、表情が変わった気がした。

 楽になれる。

 その言葉を聞いた瞬間、ふと思った。

 ——あの人は、一度でも楽になれたことがあったんだろうか。

 笑っている顔が浮かんだ。明るくて、どこにいても目を引く笑い方。困ると、手元の紙の端を親指でなぞる癖があった。

 でもある日気づいた。

 笑い方が、完璧すぎる、と。

 目が笑っていない日があることに——俺は、いつ気づいたんだったか。

 「……繊細さって、何?」

 直樹は別の項目を指さした。

 女神がバインダーをめくった。かなりめくった。

 「……小さなことに気づく力、と書いてありますね。人が見落とすものを、見落とさない」

 「それって、強いの?」

 女神が少し間を置いた。

 「……おすすめしないですね、これ」

 めずらしく即答だった。

 「え?」

 「生きづらくなります。疲れやすいですし、人の感情に引っ張られやすいですし、ちょっとしたことで消耗します」

 「やけに具体的だね」

 「……データです」

 少し間があった。

 「豪快さとか、鈍感力とか、そっちの方が人生は楽ですよ。たぶん」

 「なんでそんな能力用意してるんだよ」

 女神は少し黙った。

 それからバインダーを閉じた。今度は、何も見ずに話し始めた。

 「能力って、追加じゃないんですよ。配分なんです」

 「配分?」

 「人間の処理容量って、そんなに増えないので。何かを鋭くすると、別の何かが追いつかなくなる。繊細さを上げると、音も、光も、人の気持ちも、拾いやすくなります。その分、疲れるのも早いんです」

 「それって、弱点じゃないの」

 「弱点でもあります」

 女神がまっすぐ答えた。

 「ただ」

 「ただ?」

 「繊細さを持つ人は、人が見落とす小さな変化に気づけます。誰かが『大丈夫』と言ったとき、本当はそうじゃないのかもしれないって、立ち止まれることがあるんです」

 直樹はその言葉を、うまく飲み込めなかった。

 「……鈍感力と繊細さって、共存できる?」

 「できません」女神がきっぱり言った。「感受性を上げる方向と、下げる方向は、同時に走れないので」

 直樹はふと、画面から顔を上げた。

 「これって、誰かの分まで選べたりする?」

 「それ、マナー違反ですよ」

 女神がそう言った。

 いつになく、きっぱりした声だった。

 「その人のものですから。たとえ、よかれと思っても」

 その言い方を聞いた瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。

 薄暗い部屋。

 カーテンの閉まった窓。

 『あなたにふさわしい人は、私が選んであげます』

 誰かの声。低くて、きれいで、刃みたいな声。

 『その人と会うのは、やめなさい』

 ——ちがう、これは。

 直樹は頭を振った。

 記憶なのか、夢なのか、わからなかった。

---

 画面の中に「鈍感力」という文字があった。

 選べば楽になれる。疲れなくなる。細かいことが気にならなくなる。

 そう思った瞬間——

 また、断片が来た。

 薄暗い部屋の隅。

 膝を抱えた人影。

 焦点が、どこにも合っていない目。

 名前を呼んだ。

 その人は俺を見た。

 でも——俺を見ていなかった。

 そして、笑った。

 目が、笑っていない笑い方で。

 その笑い方に、別の日の声が重なった。

 『私、こう見えても、けっこうしぶといんです。直樹さんはラッキーですよ。私に会えたんですから』

 ——アン。

 違う。まだ先がある。

 名前の、もう少し先まで。けれど最後まで届かなかった。

 直樹は声に出せなかった。

 声を出したら、何かが崩れそうだった。

 鈍感力を選んでいたら。

 たぶん、気づかなかった。

 何に、とは言えない。

 でも——何かに、気づけなかった気がする。

 それだけは、嫌だった。

 「……繊細さ」

 直樹は言った。理由は、うまく説明できなかった。

 「それにする」

 女神は繊細さの横の注意印を見て、鉛筆を止めた。

 「その組み合わせは、疲れますよ。わかってしまうことと、受け止められることは、別ですから」

 「……それでも、見落とすよりはいい」

 女神が鉛筆を走らせた。

 その瞬間、画面が光った。

---

 「選択完了です」女神が微笑んだ。「洞察力と、繊細さですね」

 「二つしか選ばなかったけど、いい? 誠実さも、残ってるよな」

 「問題ないです。必要なものが選べていれば。それに、選ばなかった力が消えるわけでもありませんから」

 なんか急にちゃんとしたことを言うな、と直樹は思った。

 「ねえ」

 「はい」

 「俺、前の世界で——誰かの話を、ちゃんと聞けてた?」

 女神はすぐには答えなかった。

 「……聞かない方がいいやつです、それ」

 また、その言い方だった。

 できない、じゃなくて。答えない、でもなくて。

 聞かない方がいい——まるで、知っているのに、知らないふりをしているような。

 「なあ」

 「はい」

 「転生しない選択って、できる?」

 女神の手が止まった。

 バインダーをめくりかけたまま、固まっている。

 「……それは」

 「答えられないことに、なってる?」

 女神が、少しだけ笑った。

 「……私には、わからないことにしてます」

---

 「俺、戻りたいんだ。前の世界に」

 「……なぜですか?」

 「気づいたことがあるから。まだ、聞いていないことがある。今なら間に合う気がする」

 「直樹さんって、珍しいですね」女神が静かに言った。「せっかくやり直せるんですよ。能力も選んで、人生も変えられる」

 「うまくやりたいわけじゃないから」

 「同じ能力を持って、同じ世界に戻って——前と同じような生活をループするかもしれませんよ?」

 「かもな」

 「それでもいいんですか」

 「いいんだよ」

 女神が、鉛筆を置いた。

 「なぜ、そんなに戻りたいんですか」

 「会いたい人がいる」

 「……その人は」女神がゆっくり言った。「何を望んでいたんでしょうね」

 「わからない。俺、聞いてなかったから」

 「……聞くのが、こわかったんですか」

 直樹は言葉に詰まった。

 「……あの人は、ずっと完璧でいなきゃいけなかったんだと思う」

 また、断片が来た。

 今度は鮮明だった。

 廊下。

 床に飛び散った、赤。

 『行くなら、この屍を乗り越えていきなさい』

 低くて、きれいで、刃みたいな声。

 扉の前で、動けなくなっている後ろ姿。

 肩が、震えていた。

 安奈は何も言わなかった。

 俺も、何も言わなかった。

 ——あのとき俺は、声をかけることさえしなかった。

 直樹は奥歯を噛んだ。

 「あの人は、弱いところを見せたら負けみたいな——そういう場所で育ったんだ。でも本当は」

 声が、少し変わっていた。

 「抱えきれなくなってたんだと思う。ずっと前から。俺は気づいたふりをして、何も聞かなかった」

 「遅かったかどうかは、その人が決めることだと思いますよ」

 女神が小さく言った。

 一瞬だけ、バインダーから目を離した。

 「……それなら、言えます」

---

 「なあ」

 「はい」

 「戻してくれよ」

 返事がなかった。

 「あの人の話を、ちゃんと聞きたい。何をしてほしいのか、何もしてほしくないのか。それすら聞いてなかったんだ、俺」

 「……戻ったとして」女神の声が、少し低くなった。「二度とここには来られませんよ。次に亡くなったとき、選び直すことはできません。あなたという存在は、そこで終わるかもしれない」

 「わかった」

 「本当にいいんですか」

 「いいんだよ」

 直樹は笑った。

 「俺まだ死にたくないし。だから戻る」

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。

 それから——女神が、小さく息を吐いた。

 「……直樹さん」

 「うん」

 「その人の話を、今度は最後まで聞いてくださいね」

 その声が、どこかで聞いたことがあった。

 ずっと前から知っている、声だった。

 「……なあ」

 「はい」

 「お前、名前は」

 女神が少し止まった。

 それから——笑った。

 完璧じゃない、少し崩れた笑い方だった。

 「私には、わからないことにしてます」

 「それ、自分で決めたやつだろ」

 「……そうかもしれないですね」

 女神の白い羽が、少しずつ消えていく。

 光が、ほどけるように広がる。

 部屋の輪郭が揺らいで——

 「あ、そうだ」

 遠くなりながら、声がした。

 「この話、私には答えられないことになってますから。内緒ですよ」

 笑っていた。

 今度は、目も笑っていた。

 ——その笑顔で、全部戻ってきた。

 名前が、完成した。

 「——安奈」

 直樹は言った。

 迷いは、なかった。

 光が、すべてを包んだ。

---

 白かった。

 天井が、白かった。

 消毒液のにおい。点滴の音。カーテン越しに、誰かが話している声。

 病院だ、と思った。

 生きてる。

 それだけが、最初にわかったことだった。

---

 どのくらい経ったのか、看護師が来て、先生が来て、いくつかの質問に答えた。

 救急車で運ばれたときには意識がなかったこと。頭を打っていること。しばらく安静が必要なこと。家族への連絡はどうするか。

 直樹はそれをぜんぶ、どこか遠くで聞いていた。あの場所が夢だったのかどうかも、わからなかった。

 目が、窓を探していた。

---

 夕方になって、ようやく一人になった。

 直樹はゆっくり体を起こした。

 頭が重い。腕に管が刺さっている。足は動く。

 窓の外、空が橙色だった。

 安奈は今、どこにいるんだろう。

 あの部屋にまだいるんだろうか。

 カーテンの閉まった部屋で、膝を抱えて——

 ——連絡しないと。

---

 こわい、という気持ちは、相変わらずあった。

 声をかけるのがこわい。返事を聞くのがこわい。なにより、今さら連絡して、安奈に何と言われるのかがこわい。

 人の顔色を先に読んで、言うべきことを飲み込む癖も、たぶん変わらない。

 変わってない。

 なにも、変わってない。

 でも。

 直樹はシーツの上に置いた手を見た。

 指先が、少し震えていた。

 こわくなくなったわけじゃない。

 ただ、こわいままでも動かせる。

 それだけは、わかった。

---

 自分のペースでいい。

 自分の言葉でいい。

 うまく話せなくても、言い直しても。それでも、相手の答えを聞けるなら。

 誰かに選ばれた能力じゃなくて。

 俺が選んだ、俺のやり方。

---

 直樹は枕元のスマートフォンを取った。

 窓の外、空はもう暗くなりかけていた。

 今すぐ安奈のところへ行くことはできない。でも、声なら届くかもしれない。

 何を言えばいいのか、まだわからない。

 声が震えるかもしれない。

 あの部屋のドアを、いつか自分の手でノックしたい。

 開けてくれなくてもいい。

 話したくないと言われたら、それも聞こう。

 ——そしてもし、扉の前に誰かが立ちはだかるなら。

 もう、引き返さない。

 低くてきれいな声に、黙って頷かない。

 俺の人生は、俺が決める。

 安奈の人生は、安奈が決める。

 あなたじゃない。

 画面に、安奈の名前があった。

 通話の印に触れようとして、指が止まる。

 断られるかもしれない。返事さえないかもしれない。

 それでも直樹は、指を下ろした。

 呼び出し音が鳴る。一度。二度。

 今度は、彼女の答えを待とう。

---

了


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