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松茸山の守り子

 ミナは、朝が好きではなかった。


 朝が嫌いなのではない。


 朝は、いろいろなものが変わるから嫌いだった。


 布団の匂いが薄くなる。

 昨日の夜に丸めて置いた毛布が、誰かの手で畳まれている。

 窓の外が明るくなって、鳥が鳴いて、廊下を歩く足音が増える。


 昨日と同じ部屋なのに、昨日と同じではない。


 それが、ミナには少し怖かった。


「ミナさん、おはようございます」


 つむぎの声がした。


 その声だけは、昨日と同じだった。


 やわらかくて、低くて、急がせない声。

 ミナは布団の端を握ったまま、顔だけをそちらへ向ける。


 つむぎが笑っている。


 笑っている人は、怖くない。

 でも、笑っていても、急に手を伸ばす人は怖い。


 つむぎは手を伸ばさなかった。


 それが、好きだった。


「今日は、松茸山の日です」


 まつたけ。


 その音を聞いた瞬間、ミナの指が動いた。


 ま。

 つ。

 た。

 け。


 言える時もある。

 言えない時もある。


 今日は、口の中で音が転がるだけだった。


「ま……」


 つむぎは待った。


 待ってくれる人は、好きだった。


「ま、た、け」


「はい。松茸です」


 つむぎがそう言うと、ミナの胸の奥に、ぽっと火が灯った。


 松茸は好きだった。


 味は、分からない時もある。

 硬い時は嫌い。

 ぬるぬるしていると嫌い。

 でも、松茸ご飯の匂いは好きだった。


 白い湯気。

 薄い茶色。

 鼻の奥に入ってくる、土と秋の匂い。


 あれがあると、世界が優しくなる。


 だからミナは、松茸山へ行く。


 食べるために行くのではない。

 いや、食べたい。

 食べたいから行く。


 でも、それだけではない。


 ミナには、松茸山に好きな場所があった。


 赤い松の根元。

 少し曲がった石。

 踏むと、しゃり、と鳴る落ち葉。

 風が右から来る場所。


 そこに座ると、胸の中のざわざわが小さくなる。


 ミナは服を着替えるのが苦手だった。


 袖が裏返っていると、もう駄目だった。

 首のところが引っかかると、怒りたくなる。

 怒りたいのではない。

 ただ、首が嫌で、布が嫌で、分からなくなって、声が大きくなる。


 昔は、そのたびに怒られた。


 ちゃんとしなさい。

 静かにしなさい。

 もう大人でしょう。

 わがまま言わないの。


 その言葉の意味は、全部は分からなかった。


 でも、声の硬さは分かった。


 硬い声は、嫌いだった。


 月夜の里では、つむぎは怒らない。

 袖が裏返っていたら、つむぎは服を広げて、床に置く。


「右手、ここです」


 ミナは、右手を入れる。


「左手、ここです」


 左手を入れる。


「首、ゆっくりです」


 ゆっくり首を通す。


 それだけでよかった。


 できた。


 ミナは、自分で着た。


 つむぎが拍手をする。


 拍手は少しうるさい。

 でも、つむぎの拍手は小さい。

 ぱち、ぱち。


 だから嫌ではない。


「できましたね」


 できた。


 その言葉は、好きだった。


 ミナは靴を履く。

 右と左は、たまに分からない。

 今日は、右の靴を左に履いた。


 足が気持ち悪い。


 ミナはその場に座り込んだ。


「いや」


 それだけ言えた。


「靴ですね」


 つむぎが言った。


 ミナはうなずいた。


 どうして嫌なのかは言えない。

 でも、つむぎは靴を見た。


「反対でした。直しましょう」


 直った。


 足の中の気持ち悪さが消えた。


 世界が少し戻った。


 外に出ると、朝の光が眩しかった。


 ミナは目を細める。

 耳の奥で、鳥の声が跳ねる。


 鳥は嫌いではない。

 でも、たくさん鳴くと痛い。


 つむぎが、ミナの耳に柔らかい布を当てた。


「今日は鳥が元気ですね」


 元気。


 鳥が元気。

 ミナはその言葉を、胸の中に置いた。


 鳥が悪いのではない。

 元気なだけ。


 そう思うと、少し我慢できた。


 松茸山への道は、決まっている。


 石段を三つ。

 右の木。

 白い花。

 細い橋。

 大きな松。


 この順番でなければいけない。


 違う道を行くと、体の中がぐちゃぐちゃになる。

 足が止まる。

 息が浅くなる。

 頭の中で、何かが叫ぶ。


 でも今日は、同じ道だった。


 石段を三つ。


 一、二、三。


 右の木。


 白い花。


 細い橋。


 大きな松。


 ミナは、ほっと息を吐いた。


 松茸山に入る前、八咫烏が低い声で言った。


「本日のシロ守り、開始」


 シロ守り。


 それは、ミナの役目だった。


 難しいことはできない。


 字は読めない日がある。

 お金は分からない。

 時間もよく分からない。

 昨日と明日も、たまに混ざる。


 でも、この山の「いつも」は分かる。


 いつもの匂い。

 いつもの風。

 いつもの落ち葉。

 いつもの石。

 いつもの、踏んではいけない場所。


 ミナは山の中を歩く。


 しゃり。

 しゃり。

 しゃり。


 落ち葉が鳴る。


 いい音。


 胸の中が丸くなる。


 だが、途中で足が止まった。


 しゃり、ではなかった。


 ふか。


 ミナは眉を寄せる。


 もう一度、足で踏む。


 ふか。


 嫌だった。


 そこは、ふかふかしてはいけない場所だった。

 いつもは、もっと薄くて、乾いていて、しゃり、と鳴る。


 ミナはしゃがんだ。

 落ち葉をつかむ。

 湿っている。


 指に、黒い土がついた。


 嫌。


 胸の奥がざわざわする。


「いや」


 つむぎが近づいてくる。


「どうしました?」


 ミナは言葉を探す。


 ふかふか。

 黒い。

 重い。

 違う。

 昨日じゃない。

 ここじゃない。


 たくさんあるのに、口から出ない。


「いや、ここ、いや」


 それだけだった。


 でも、つむぎはうなずいた。


「八咫烏。確認を」


「腐葉層、通常より二・八センチ増加。湿度上昇。通風低下。手入れ推奨」


 つむぎが、ミナを見た。


「見つけてくれたんですね」


 見つけた。


 ミナは、言葉の意味を全部は分からない。


 でも、つむぎの声が柔らかい。

 八咫烏が怒っていない。

 山の人たちが、そこを見ている。


 だから、悪いことではない。


 ミナは、黒くなった指を見た。


 嫌な指。

 でも、見つけた指。


 つむぎが小さな布で拭いてくれた。


「ありがとう。ここは、今日のうちに手入れします」


 ありがとう。


 その言葉は、好きだった。


 ミナはまた歩く。


 赤い松の根元に着いた。


 そこは、ミナの場所だった。


 石に座る。

 右から風が来る。

 松の匂いがする。


 大丈夫。


 大丈夫な場所。


 ミナは、膝を抱えた。


 遠くで、誰かの声がした。


「うわっ、松茸だ!」


 知らない声。


 足音が近づく。


 速い。

 重い。

 落ち葉が乱れる。


 ミナの体が固まった。


 その足は、そこへ行ってはいけない。


 そこは、駄目。


 そこは、昨日も駄目。

 今日も駄目。

 明日も、たぶん駄目。


 ミナは立ち上がった。


 うまく言葉が出ない。


 足が近づく。


 駄目。


 駄目。


 駄目。


「だめえええええ!」


 声が山に響いた。


 男が驚いて止まる。


「な、なんだよ」


 ミナは泣いていた。


 涙が出る理由は分からない。

 怒っているのか、怖いのか、悲しいのかも分からない。


 ただ、そこを踏まれると、山が壊れる。


 そう感じた。


 つむぎが走ってきた。


「そこで止まってください」


「いや、松茸が」


「止まってください」


 つむぎの声が、少し硬くなった。


 男は足を引いた。


 八咫烏が地面を照らす。


「菌糸帯境界を確認。踏圧危険域。侵入禁止」


 男の顔色が変わった。


「……す、すまん」


 謝る声。


 それは嫌いではない。


 ミナは泣きながら、地面を指差した。


「だめ」


「はい。そこは駄目です」


 つむぎが言った。


 同じ言葉を言ってくれた。


 ミナの中で、ぐちゃぐちゃだったものが少しだけほどける。


 だめ。


 そこは、だめ。


 分かってくれた。


 それだけで、息ができた。


 昼になると、食堂で松茸ご飯が出た。


 小さな茶碗。

 白い湯気。

 薄い茶色。

 鼻の奥に、山の匂い。


 ミナは、茶碗を両手で持った。


 熱い。


 でも、嫌な熱さではない。


 つむぎが隣に座る。


「今日の松茸ご飯は、ミナさんが守ってくれた山のものです」


 守った。


 ミナは首を傾げる。


 守った、は難しい。


 でも、山。

 松。

 だめ。

 ありがとう。

 松茸ご飯。


 それらが、胸の中でゆっくり繋がる。


 ミナは一口食べた。


 おいしい。


 言葉が出る前に、体が揺れた。


 嬉しい時、ミナの体は揺れる。

 昔は、それも止められた。


 じっとしなさい。

 行儀が悪い。

 大人でしょう。


 でも月夜の里では、誰も止めなかった。


 ミナは揺れながら食べた。


 おいしい。

 山の匂い。

 朝の風。

 しゃり、と鳴る落ち葉。

 踏んではいけない場所。

 つむぎの声。


 全部が、茶碗の中に入っている。


 ミナは顔を上げた。


 つむぎを見た。


 言いたいことがあった。


 ありがとう。

 もっと食べたい。

 山に行きたい。

 ここにいていい。

 私、ここにいていい。


 でも言葉は、ひとつしか出なかった。


「まつたけ」


 つむぎは笑った。


「はい。松茸です」


 ミナも笑った。


 その日、ミナは全部は分かっていなかった。


 自分がどんな役に立ったのか。

 松茸の菌糸が何なのか。

 腐葉層がどうとか、踏圧危険域がどうとか。


 そんなものは分からない。


 でも、ひとつだけ分かった。


 自分が「いや」と言ったら、誰かが止まってくれた。


 自分が「だめ」と言ったら、山が守られた。


 自分がそこにいることを、誰かが喜んでくれた。


 だからミナは、明日も松茸山へ行く。


 石段を三つ。

 右の木。

 白い花。

 細い橋。

 大きな松。


 同じ道を通って。


 同じ風を探して。


 しゃり、と鳴る落ち葉の上を、ゆっくり歩く。


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