第4話 綻びと無意識の抵抗
エリナの魔力が乱れ始めてから、三週間が経った。
春の暖かい陽射しが王都を包んでいるというのに、俺の心には冷たい焦燥が居座り続けていた。彼女の不調は一向に改善されず、それどころか新たな問題が表面化していた。
体重の減少。
白い聖女見習いの衣装が、以前にも増してぶかぶかに見える。頬の肉が落ち、鎖骨が浮き出て見えるようになった。食事の席でも、俺が栄養を考えて選んだ料理を前にして、彼女は申し訳なさそうにフォークを動かすだけだった。
「……食欲がありませんか?」
昼食の席で、俺は穏やかに尋ねた。
エリナはびくっと肩を揺らし、慌てて顔を上げた。
「いえ、そんなことは……。カミシロ様がわざわざ用意してくださったのに、申し訳ありません。ただ、少し胸がつかえてしまって……」
「無理をして食べる必要はありませんよ。午後はもっと消化の良いスープに変えさせましょう」
「ありがとうございます……」
エリナは、ふわりと微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。以前の彼女の笑顔は、もっとおどおどしていて、自信がなさそうで、でも純粋な喜びが滲み出ていた。しかし今の彼女の笑顔は、まるで精巧に作られた陶器の人形のように完璧だった。
俺が何かを提案すると、彼女は三秒ほど沈黙し、それから完璧な角度で口角を上げ、「ありがとうございます」と答える。
彼女は、俺を心配させまいと必死に気丈に振る舞っているのだ。自分の不調で俺に迷惑をかけていると自責し、せめて笑顔だけは絶やさないようにと、俺の期待に応えようと無理をしている。
なんていじらしく、健気な子だろう。俺の教育の成果が、こうして現れている。
◇
その数日後、俺たちは祈祷室へ向かう回廊を歩いていた。
「エリナ!」
不意に、鋭い声が響いた。回廊の角から現れたのは、マリア・フェルナンドだった。侯爵家出身の彼女は、俺の姿を見ても臆することなく、真っ直ぐにエリナへと歩み寄ってきた。
「マリア、様……」
エリナが立ち止まる。俺はすかさず、エリナの斜め前に出た。
「マリア・フェルナンド見習い聖女。エリナさんはこれから祈祷の時間です。立ち話は——」
「カミシロ騎士」
マリアは俺の言葉を遮り、真剣な目でエリナを見つめた。
「エリナ、あなた……顔色がひどいわ。それに、随分と痩せたんじゃない? 最近、ちゃんと笑えているの?」
「は、はい。カミシロ様が、いつも私のことを……」
「私が聞いているのは、あなた自身の気持ちよ」
マリアの言葉に、エリナの瞳が激しく揺れた。彼女の頭の中で、また複雑な計算が始まっているのがわかった。マリアの気遣いにも応えたいのだろうし、俺への配慮もあるのだろう。あれこれを同時に考えすぎて、言葉が出なくなっている。
「フェルナンド様。彼女を困らせないでいただきたい」
俺は、穏やかだが明確な拒絶の意志を込めて言った。
「彼女は今、魔力の不調に悩まされています。外部からの不用意な刺激は、彼女の精神的負担になる。専属護衛として、これ以上の接触は控えていただきます」
マリアは俺を見、それからエリナを見て、小さく息を吐いた。
「……わかったわ。でも、エリナ」
マリアはすれ違いざまに、俺には聞こえないほどの小声で、しかし切羽詰まった様子でエリナの耳元に何かを囁いた。エリナの肩が微かに跳ねるのを見逃さなかった。
「——忘れないでね」
最後にそう言い残し、マリアは足早に去っていった。
「エリナさん。何を言われたんですか?」
俺が尋ねると、エリナは三秒の沈黙の後、ゆっくりと首を横に振った。
「……いえ。お大事に、と」
嘘だ。彼女の瞳の奥が、微かに揺らいでいる。だが、ここで問い詰めて彼女を怯えさせるのは得策ではない。
「そうですか。では、祈祷室へ向かいましょう」
俺は、何事もなかったかのように歩き出した。
◇
翌日の午後。エリナが珍しいことを口にした。
「カミシロ様。少し、調べ物をしたいのですが……図書室へ行ってもよろしいでしょうか」
「調べ物、ですか?」
「過去の聖女様たちの、魔力不調を乗り越えた記録を、自分で探して読んでみたくて。少しでも、早くお役に立てるようになりたいんです」
俺を見上げて懇願する彼女の姿に、俺は少し考えた。自発的に不調を乗り越えようとする姿勢は、素晴らしい。それに、図書室なら俺も同行できる。
「わかりました。行きましょう」
大神殿の奥にある大図書室。エリナは歴史書の棚へ向かい、背表紙を指でなぞりながら本を探し始めた。俺は少し離れた場所から、彼女の背中を見守っていた。
数分後、足音が響いた。
「これは、カミシロ騎士」
振り返ると、騎士団第一部隊の副隊長が立っていた。その隣には、落ち着いた灰色の瞳をした男——王宮法務官のソーマがいた。
「王宮法務院所属、ソーマ・ヴァレンティンです。本日は神殿の監査と、……ええ、いくつかの個別案件についても対応するために参りました」
ソーマは丁寧に一礼した。俺は表面的な敬意を払って応じる。
「カミシロ騎士、あなたの護衛対象であるノーヴァ見習い聖女について、簡単に状況を伺ってもよろしいでしょうか」
「問題はありません。彼女は順調に成長しています」
俺は即答した。
「そうですか」
ソーマは俺を一瞥した後、本棚の前にいるエリナへと視線を移した。そして、彼女の胸元で微かに光る青い魔石に目を留め、微かに眉をひそめた。
「……エリナ・ノーヴァ見習い聖女」
ソーマが声をかけると、エリナは驚いて振り返った。
「その胸の魔石。随分と強力な『追跡』の術式が編み込まれているようですが……」
その言葉に、エリナが息を呑むのがわかった。俺は即座に二人の間に割って入った。
「俺が護衛のために用意したものです。彼女は平民出身で、万が一の時のための『お守り』です」
「ほう。お守り、ですか」
ソーマは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、冷ややかに言った。
「『連絡用』と説明されたものが、実際には『常時位置監視』の機能を持つ。興味深い『お守り』ですね」
俺は言葉に詰まった。この男は、魔法の術式を正確に読み取っている。
「彼女の安全を完璧に保障するためです」
「なるほど」
ソーマは俺の言葉には答えず、俺の肩越しにエリナを見つめた。
「エリナ見習い聖女。王国法第三条は、聖女の心身の自由と尊厳を保障しています」
ソーマの声は、静かだが、図書室の隅々まで届くほど明瞭だった。
「もし、あなたが日々の生活の中で『息苦しさ』を感じているのなら。あるいは、自分の意志が透明になっていくような感覚を覚えているのなら」
エリナの肩が、びくっと震えた。
「——記録を残しなさい。感情ではなく、事実を。誰が、いつ、何を言い、どう行動したか。それは必ず、あなたを守る『盾』になります」
「法務官殿! これ以上、彼女を不安にさせる発言は控えていただきたい!」
俺は声を荒らげた。ソーマは涼しい顔で俺に向き直った。
「不安にさせているのは、果たして私の言葉でしょうか。……それとも、その首を締めつける『お守り』でしょうか。監査の途中ですので、これで失礼します」
ソーマは踵を返し、足音もなく図書室を去っていった。
俺は荒い息を吐き出し、エリナを振り返った。彼女は本棚を握りしめ、俯いていた。
「エリナさん。あんな男の言葉を気にする必要はありません」
俺は彼女の肩に優しく手を置いた。
「あなたは何も心配しなくていい。俺が、すべて守りますから」
エリナはゆっくりと顔を上げた。そして、三秒の沈黙の後、いつもの完璧な角度で口角を上げた。
「……はい。ありがとうございます、カミシロ様」
その笑顔は、いつも通りだった。だが、その淡い青灰色の瞳の奥に、今まで見たことのない、冷たくて硬い光が宿っていることに、俺はこの時気づくことができなかった。
◇
――エリナの祈りの日記より
『王暦1526年、春の月、第20日
最近、自分がどうやって笑っているのかわからなくなる。
カミシロ様が何かを言ってくださるたびに、私は「ありがとうございます」と微笑む。そうすると、カミシロ様はとても安心した顔をされるから。
私が笑えば、カミシロ様は満足する。だから私は、鏡の前で一番角の立たない笑顔の作り方を練習した。
でも、マリア様は私のその笑顔を見て、怯えたような顔をした。
「図書室で、王宮法務官のソーマ様に会って」
すれ違いざまに、そう囁かれた。
カミシロ様に隠し事をするのは、とても苦しい。
それでも、マリア様の心配そうな目が頭から離れなくて、
私はカミシロ様に小さな嘘をついて、図書室へ向かった。』
『王暦1526年、春の月、第21日
ソーマ法務官様にお会いした。
ソーマ様は、私の胸の首飾りを見て「追跡の術式」と言った。カミシロ様は「連絡用の通信魔法」だと言っていたのに。
私の居場所は、ずっと監視されていたのだ。
ソーマ様は言った。「記録を残しなさい。感情ではなく、事実を」と。
私は今まで、この日記に自分の不甲斐なさや、苦しい感情ばかりを書いてきた。私が悪いのだと、自分を責める言葉ばかりを。
でも、もし。もし、間違っているのが私ではないとしたら?
カミシロ様の言葉と、実際の行動の矛盾。「私のために」と言いながら、私の選択肢を奪っていく事実。「連絡用」と言いながら、私の位置を監視していた事実。
私は考えるのが遅い。その場で言い返すことは、絶対にできない。
でも、書くことならできる。頭の中で何度も反芻して、事実だけを、正確に書き残すことなら。
今日から、書き方を変えようと思う。神様への祈りではなく、私自身の思考の証明として。
私の中に残っている、最後の「私」を守るために。』
第4話を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
首もとの違和感と、日記の一行目。
小さな変化が、エリナの世界を静かに変えていきます。
次回からは、彼女の「考える時間」が武器に変わっていきます。。
貴重なお時間をこの物語に使ってくださったこと、心から感謝しています。




