第2話 優しさという名の檻
エリナの専属護衛騎士となって三ヶ月が経った。
季節は秋から冬へと移り変わり、王都の朝は冷え込むようになっていた。俺は、彼女の生活の全てを把握していた。起床時刻、食事の内容、魔法訓練の進捗、祈祷の回数、就寝時間。
数字と出来事が、俺の記憶の中に整然と並んでいる。
「カミシロ様、おはようございます」
朝の祈祷を終えたエリナが、控え室から出てくる。淡い金髪を後ろで結い、白い聖女見習いの衣装に身を包んだ姿は、三ヶ月前よりも少しだけ凛としているように見えた。
だが、俺は彼女の首元を見て、小さく眉をひそめた。
「その青いリボン……初めて見ますね」
「あ、はい。これは実家の母が、王都へ発つ時に持たせてくれたもので……少し古いですが、お守り代わりにと思って」
エリナは大切そうに、そっとリボンに手をやった。
確かに、平民の村ではそれで十分だっただろう。しかし、ここは王都の大神殿だ。ただでさえ平民出身ということで注目を集めている彼女が、そんな安物の、しかも色褪せた布切れを身につけていれば、貴族の令嬢たちからどんな陰口を叩かれるか。
「エリナさん。お母様のお気持ちは素晴らしいですが、それは自室で大切に保管しておくべきです」
「え……?」
「神殿には神殿の、聖女見習いとしての『ふさわしい装い』というものがあります。隙を見せれば、そこから悪意が入り込んでくる。俺は、あなたが理不尽な嘲笑で傷つくのを見たくないんです」
俺は優しく、だが反論を許さない視線で彼女を見つめたまま、白銀のリボンを差し出した。
「さあ、ご自分の手で。古いものは、俺が預かっておきましょう」
エリナは少し口を開き、視線を青いリボンと白銀のリボンの間でさまよわせた。おそらく彼女の頭の中では、「母の思い」と「俺の忠告」と「周囲の目」が複雑に絡み合い、どう答えるべきか必死に計算が行われているのだろう。
三秒、四秒。
最終的に、彼女は小さく頷いた。震える手で首元の青いリボンを外し、俺の手に渡すと、代わりに白銀のリボンを不器用に結んだ。
「……はい。ありがとうございます、カミシロ様」
その表情には微かな戸惑いがあったが、俺の「君を守るため」という論理の前に、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
それでいい。彼女の不器用な優しさは、俺がこうして正しい方向へ導いてやらなければならないのだから。
◇
その日の午後、魔法訓練の終わりに、指導教官のガルバンがエリナを呼び止めた。
「ノーヴァ。お前の浄化魔法は純度が高い。だが、出力制御にまだムラがある。どうだ、今夜、少し個別に指導してやろうか?」
ガルバンの提案に、エリナの目がわずかに輝いた。彼女は学ぶことに対して非常に意欲的だ。
しかし、彼女はすぐには返事をしなかった。視線を宙に泳がせ、瞬きを繰り返している。「夕食の時間」「祈祷のスケジュール」「明日の体調」といった条件を、頭の中で一つ一つ検証しているのだろう。
だが、俺にはわかっていた。ガルバンは魔法の探求に熱中するあまり、生徒の体調管理には少し鈍いところがある。
夜の特別指導は、確かに彼女の魔法技術向上には有益だろう。
しかし、今のエリナには休息の方が必要だ。俺の目の届かないところで無理をさせるわけにはいかない。
エリナが口を開きかけた瞬間。
「ガルバン導師。ありがたいお申し出ですが、今日は控えさせていただきます」
俺は一歩前に出て、穏やかに告げた。
「専属護衛として、彼女の体調管理も俺の責務です。エリナさんは最近、夜間の睡眠が浅く、疲労が蓄積しています。無理をすれば、かえって魔力が乱れる危険があります」
「そうなのか、ノーヴァ?」
ガルバンがエリナに視線を向ける。エリナは俺を見上げ、それから困惑したようにガルバンを見た。
俺は振り返り、エリナに向かって心からの心配を込めて微笑んだ。
「無理をしてはいけませんよ」
俺の目を見つめ返した彼女は、また少しだけ思考の海に沈み——やがて、諦めたように目を伏せた。
「はい……カミシロ様のおっしゃる通り、少し疲れているようです。申し訳ありません」
「ふむ。なら仕方ない。無理はするなよ」
ガルバンが去った後、俺たちは無言で廊下を歩いた。
「エリナさん」
俺は立ち止まり、彼女の肩に手を置いた。
「あなたは自分の限界を分かっていない。真面目すぎるから、導師に期待されると無理をしてしまう。俺には見えるんです。今日のあなたの顔色、魔力の揺らぎ」
「私の、顔色……」
「ええ。同僚の騎士たちや導師は、あなたのことを表面的にしか知らないからそう言える。でも、俺は三ヶ月近く一緒にいて、あなたがどういう時に困って、どういう時に無理をするか全部分かってる。だから、俺が先回りして危険な状況を避けてあげる必要があるんです」
エリナは、俺の言葉をじっと聞いていた。
「エリナさんは優しすぎるから、頼まれると断れない。でも、俺が間に立てば、あなたが罪悪感を感じることなく、適切な判断ができる」
「……私のために、ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
その素直な様子に、俺の胸は温かい満足感で満たされた。
エリナが安心したように微笑むのを見て、俺は改めて確信した。無理に周りに合わせて疲れるより、俺の用意した正解の中で心地よくいられる方がずっといい。
三ヶ月前より、この確信は日ごとに強くなっている。
彼女のこの純粋で、思考ばかりが空回りする脆い性質は、俺が適切に先回りして答えを与えてやらなければ、すぐに悪意に潰されてしまう。
だから、俺が守る。この手で、完璧に。
◇
その夜、俺は自室で報告書を書いていた。エリナの一日の記録。体調、食事、訓練内容、人間関係。全てを、細かく記録する。
彼女の成長を見守るため。彼女を守るため。
ペンを走らせながら、俺は満足感を覚えていた。
エリナは、俺の保護下で、確実に成長している。無駄な人間関係に煩わされることなく、聖女としての本質的な修行に集中できている。
ガルバン導師も、マリア・フェルナンドも、同僚の騎士たちも、彼女のことを表面的にしか理解していない。
彼らは「エリナの可能性」を口にするが、その可能性を最大限引き出すための「適切な環境」を用意できるのは、俺だけだ。
これは、彼女にとって、最善の環境だ。
そして、俺にとっても——彼女を完璧に守れているという、この満足感。
これ以上の騎士の誇りがあるだろうか。
そういえば先日、同僚の騎士から妙な忠告を受けた。
「最近、王宮法務院のソーマという法務官が、騎士の護衛任務に目を光らせているらしい。過度な干渉は控えろ」と。
馬鹿げた話だ。俺の純粋な『保護』を、権力を笠に着た干渉と一緒にしないでいただきたい。
まあ、エリナには関係のない話だろう。俺がいる限り、彼女が法務院の世話になることなど、ありえないのだから。
◇
――エリナの祈りの日記より
『王暦1525年、冬の月、第4日
今日も、カミシロ様に守っていただいた。
朝、母からもらった青いリボンをつけて部屋を出た。
カミシロ様は、それが貴族の方々の嘲笑の的になると教えてくださり、ご自身で用意した美しい銀のリボンを差し出してくださった。
「古いほうは預かります」とおっしゃって、私から青いリボンを受け取り、代わりにその銀のリボンをつけるよう、穏やかに勧めてくださった。
母からもらった大切なお守りを身につけていたい、という私のささやかな気持ちよりも、私が傷つかないことの方を、あの方は優先してくださった。
午後、ガルバン先生から個別指導に誘われた。
私は頭の中で、夕食の時間、祈祷のスケジュール、明日の体力配分を計算していた。
でも、答えを出す前に、カミシロ様が断ってくださった。
「疲労が蓄積している」と。
私は、疲れていたのだろうか。
自分では全く気づかなかった。でも、いつも私を注意深く見てくださっているカミシロ様が言うのだから、きっと私は疲れていたのだ。
カミシロ様の判断は、いつも私より早くて正確だ。
私が頭の中で三つも四つも計算している間に、あの方は一瞬で「私にとっての最適な答え」を提示してくださる。
あの方は、私のために、私の世界を安全なものにしてくださっている。
危険なもの、疲れるもの、傷つくものを、すべて私の目の前から取り除いてくださる。
マリア様とは、あれ以来、お話しする機会がほとんどない。
廊下ですれ違っても、カミシロ様がいつもそばにいらっしゃるから、立ち話をする時間もないまま、会釈だけで終わってしまう。
マリア様は、私のことを避けるようになったのかもしれない。
それとも、私が忙しすぎて、お付き合いできない人だと思われているのだろうか。
とても、ありがたい。
私は幸せな見習い聖女だ。
それなのに。
私の目の前に用意された「安全で正しい道」を歩いていると、時々、自分が透明になっていくような錯覚に陥る。
私が何を着るか。誰と話すか。何を学ぶか。
私が頭の中で必死に計算して出した答えは、一度も口から出ることはなく、カミシロ様の「正しい答え」に上書きされて消えていく。
まるで、私の思考そのものが、最初から存在しなかったかのように。
カミシロ様は優しい。絶対に間違えない。
悪いのは、考えるのが遅くて、自分の意見をすぐに言えない私だ。
でも、この銀のリボンは、少しだけ首が苦しい。
母のお守りは、もう二度とつけられないのだろうか。
……考えすぎかもしれない。
カミシロ様は、私を守ってくださっているのだから。
私が傷つかないように、恥をかかないように。
それなのに、なぜこんなに息が詰まるんだろう。』
第2話を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
表面的には「優しさ」に見える小さな出来事の積み重ねが、エリナの「なぜ息が詰まるんだろう」という疑問に繋がりました。この違和感が、やがて大きな覚醒へと発展していきます。
貴重なお時間をこの物語に使ってくださったこと、心から感謝しています。 続きも読んでいただければ嬉しいです。




