『断罪された悪役令嬢ですが、テンプレ通りにざまぁしてみることにしました』─監修 元悪役令嬢会
「今回は、ちゃんとテンプレをやるんでしょうね」
原稿を開いた瞬間、そう言われた気がしました。
声の主は、私の背後にいる――元悪役令嬢会です。
「やります。逃げません。断罪も、婚約破棄も、証拠提示も、逆転も。読者が“それそれ”と言う流れを、きちんと辿ります」
「じゃあ、約束が二つ」
彼女たちは、いつもの調子で淡々と言います。
軽い冗談みたいなのに、妙に重い。
「一つ。相手を壊して終わらせないこと。破滅は楽だから」
「二つ。主人公を“使い捨ての悪役”にしないこと。あなたがそれを一番嫌うから」
私は、ペンを持ったまま少しだけ黙りました。
テンプレをやるのは、楽です。分かりやすくて、強くて、すぐ届く。
でも楽な道は、ときどき書き手の足場を崩します。
「分かりました。嘘が通用しなくなるところまで。過剰な罰は描かない。勝つのではなく、戻るためのざまぁにします」
「よろしい」
そう言って、彼女たちは席を外した気配がしました。
監修は、便利な言葉です。責任は作者に残しながら、背中を押す手だけは確かにある。
それでは、始めます。
『断罪された悪役令嬢ですが、テンプレ通りにざまぁしてみることにしました』
─監修 元悪役令嬢会
断罪の場は、いつだって明るい。
王宮の大広間は陽光がよく入るように作られていて、白い床は磨かれ、壁の装飾は光を返す。そこに集まった貴族たちの衣擦れは、期待の音に近い。誰もが、これから起きる「分かりやすい結末」を待っている。拍手の準備をしている人までいるのだから、ずいぶんと親切だ。
私は中央に立たされていた。背中に伸びる視線は、私の背筋を折るためのものではなく、物語を折り目正しく畳むためのものだ。悪役令嬢が断罪され、婚約が破棄され、新しい恋が祝福される。決まった手順で、決まった役割が演じられる。
王太子は、いつもよりも声を張っている。正義の声というより、後ろめたさを押し潰す声だ。隣には聖女がいる。涙を浮かべる横顔は美しく、彼女の信徒たちはそれだけで「清らかさ」を確信する。
「……あなたは、聖女を虐げ、悪意を持って噂を流し、さらには神殿への寄進を横取りした」
聞き慣れた台詞だと思った。自分の人生に、テンプレートが被せられている感覚。私は口を挟まない。挟めば挟むほど、悪役令嬢らしくなる。反論は、言い訳に変換される装置の中に投げ込まれるだけだ。
「証拠もある」
王太子が合図をすると、取り巻きの貴族令嬢が一歩前に出た。扇子で口元を隠しながら、勝ち誇った声で言う。私が聖女に嫌がらせをした場面を見た、と。私が神殿の帳簿を弄っていたのを見た、と。私が陰で人を操っていた、と。
見た、見た、見た。
その言葉は、便利な証拠だ。誰の目にも見えない場所で起きたことは、誰の口からでも生まれる。私は黙って聞いていた。怒りがないわけではない。喉の奥で熱いものが膨らみ、唇の裏側を噛みたくなる。それでも、ここで噛みちぎってはいけないと分かっていた。
聖女が涙を落とした。床に落ちる前に、誰かが息を呑む。泣いたという事実が、彼女を守る盾になる。私の発言よりも、彼女の涙の方が信用される。それがこの場のルールだ。
「よって……婚約は破棄とする。君の家には処分を下す」
王太子は、私の顔を見ないまま言った。彼は私を見れば、何かを思い出してしまうのだろう。幼い頃の約束か、政治の結びつきか、それとも「自分の弱さ」か。見ないことで、彼は正義を演じ切れる。
周囲がざわめき、誰かが拍手をしようとして、隣の者に止められた。拍手はまだ早い、という顔だった。断罪の儀式には、段取りがある。悪役令嬢が泣き崩れ、悪態をつき、最後に引きずられていく。それを見届けてから、祝福の拍手が始まる。
私は、泣かなかった。
泣けなかったのではない。泣けば期待を満たせると分かっているのに、泣くことを自分が許さなかった。ここで泣く涙は、自分のためではなく、彼らの結末のための涙だ。
「承りました」
静かに言うと、場が一瞬止まった。悪役令嬢の台詞として、あまりにも丁寧すぎたのだと思う。誰かが「強がり」と囁く。誰かが「最後まで悪役ね」と笑う。誰かが「潔くない」と言う。潔さを求めるくせに、潔くされると困る。人の正義とは、いつもそういうものだ。
私は一礼し、背を向けた。衛兵が腕を掴もうとしたが、掴ませなかった。逃げるわけではない。ただ、触れられる理由がない。
歩き出すと、背後で聖女が小さく息を吐くのが聞こえた。安心したのだろう。物語が予定通りに進むことへの安心。私はその音を、胸の奥にしまった。
廊下に出ると、光が薄くなった。大広間の光は、舞台の照明だったのだと分かる。廊下は現実の色をしている。私は一人で歩きながら、自分に言い聞かせた。
テンプレ通りに、ざまぁしてみることにしました。
言葉にすると滑稽だ。自分の人生で、そんな宣言をする人間がどこにいる。けれど滑稽な宣言ほど、足場になる。私は足場が欲しかった。怒りで倒れないための足場。恐怖で座り込まないための足場。
部屋に戻ると、侍女が青い顔で待っていた。目を赤くして、私を見るなり膝をつく。
「お嬢様……!」
泣き声に引きずられそうになって、私は手を上げた。彼女の泣き声は私を守ろうとする泣き声で、断罪の場の涙とは違う。だから余計に、こちらが崩れそうになる。
「大丈夫よ。泣かないで。今は、確認することがある」
侍女は頷こうとして頷けず、唇を噛んだ。私は彼女を立たせ、机の引き出しを開けた。そこには帳簿がある。神殿への寄進の記録。家の出納の記録。私が毎月、見直していたものだ。
「寄進の帳簿は、誰が触れた?」
「……神殿の会計係が持ち帰って、後日写しを渡してくれます」
「写しではなく原本は?」
侍女が一瞬だけ目を逸らした。その癖は、嘘をつく時の癖ではなく、恐れている時の癖だ。
「……去年の秋に、神殿側が“監査”と言って持っていきました。王太子殿下の印がありました」
私は深く息を吸った。王太子の印。つまり、私の知らないところで、手続きはすでに動いていた。断罪は突然のように見えて、準備されていたということだ。だからこそ、こちらも準備で返すしかない。
「それでも、こちらの控えはある。控えが残っている限り、真実は消えない」
言いながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。大広間では震えなかったのに。ここで震えるのは、守られた場所だからだ。守られている場所でだけ、人は弱くなれる。
私は机の上に紙を広げた。まずは状況整理。断罪の場で言われた罪状は三つ。聖女への虐げ、噂、寄進の横取り。これらは別々の話に見えるが、一本の線で繋がっているはずだ。誰かが私を悪役にしたい。目的は、婚約破棄の正当化と、聖女の神格化。だから、罪は「私に似合うもの」が選ばれている。
「侍女の皆を集めて。今日は“全員”」
侍女が驚いた顔をした。全員、と言うと大事になる。大事になれば、外に漏れる。漏れれば、さらに叩かれる。けれど私は、漏れるのを恐れて動かない方が危険だと知っていた。動かない悪役令嬢は、悪役のまま処分される。
「それと、父に面会を求める。今夜中に」
「お嬢様……当主は……」
侍女の言葉が濁る。父は私を守る人でもあるが、家を守る人でもある。家を守るために私を切り捨てる可能性もある。私はそれを責めない。責めても意味がない。だから私は、父に「家を守るために私を守る道」を用意する必要がある。
「私が家の不利益になると思うなら、切り捨ててもいい。そう言っていい。でも、その前に一つだけ。家の帳簿と、神殿の帳簿を突き合わせたい。断罪が真実なら、家も神殿も問題ないはず。真実ならね」
侍女は頷き、走るように部屋を出ていった。私は一人になり、椅子に座った。ここで、心が折れる暇はない。折れるのは後でいい。今は、手を動かす。
夕刻、侍女たちが集まった。年若い者も、古参もいる。彼女たちの顔には恐れと怒りと、そして「お嬢様を守りたい」という一つの熱があった。その熱に甘えたくなる。甘えれば楽になる。けれど楽になってはいけない。楽になった瞬間、私は“守られるだけの人”になり、皆を巻き込む。
「今日は、確認する。皆、正直に答えて」
私は一人ずつ、名前ではなく役割で呼んだ。厨房、衣装、書庫、出納。誰がいつ、どの書類に触れたか。誰がどの客人と会ったか。神殿から来た人間は誰か。王太子側の使者は誰か。聖女の侍女が来た日はいつか。
答えは断片的だった。けれど断片は繋がる。繋がると線になる。線になると、意図が見える。
秋の“監査”の直前、聖女の侍女が屋敷に来ている。寄進の話をしたと。私が不在の時間に。
冬の初め、王太子の使者が帳簿を確認したいと言っている。父は拒否したが、後日神殿が持っていった。
最近、庭師が見慣れない男に声をかけられている。屋敷の裏門の使い方を聞かれたと。
誰かが屋敷に入り、誰かが書類に触れ、誰かが噂を流す準備をしていた。噂の方は、もっと簡単だ。噂は誰かの口があれば育つ。私は育てられた噂の中に沈められた。
「皆、ありがとう。今夜から、屋敷の出入りを記録する。裏門は閉じる。書庫の鍵は二重にする。出納の帳簿は写しを取る」
侍女たちが頷く。その頷きが私の背中を支えた。支えてもらう代わりに、私は結果を出さなければならない。彼女たちの勇気を無駄にしてはならない。
その夜、父が来た。父は疲れた顔をしていた。怒りも悲しみもあるはずなのに、どちらも見せない顔だ。家を背負う人の顔。
「……お前が、今日の場で泣かなかったと聞いた」
「泣けば、物語が完成してしまいます。私が悪役である物語が」
父は眉をひそめた。物語、という言い方が癇に障ったのだろう。けれど父は理解もしていた。貴族社会はいつだって物語で動く。誰が主役で、誰が悪役か。誰が悲劇で、誰が祝福か。
「家は揺れている。明日には、縁を切れと言う者も出る」
「分かっています。だから、家を守るために私を守ってください。家の帳簿に不正はありません。神殿の帳簿と照合すれば、横取りは虚偽だと分かるはずです」
父は沈黙した。沈黙の中で、計算している。勝てるのか、負けるのか。何を失うのか、何を守れるのか。私はその計算を邪魔しない。計算が終わった人は強い。感情だけで動く人は、簡単に折れる。
「……照合の場を用意できるか」
父の言葉に、私は心の中で小さく息を吐いた。父は私を切り捨てる道を選んでいない。少なくとも、今夜は。
「神殿に正式な照会状を出してください。家の名で。監査の名で。王太子側の印で動いたなら、こちらも印で動かす。形式が整えば、神殿も無視できません」
父は頷き、紙に手を伸ばした。彼の手が震えないのを見て、私はふと分かった。父は怒りを、形式に変換している。怒りは刃になる。刃は、柄がなければ自分も切る。柄が形式だ。
翌日から、屋敷は静かな戦場になった。
照会状を出し、写しを取り、証言を集める。侍女たちが淡々と動く。私は書庫に籠り、過去一年分の寄進の記録を整理した。金額、日付、担当者、受領証。受領証がある限り、横取りは成立しない。受領証が偽造されていれば話は別だが、偽造には署名が必要だ。署名には癖が残る。癖は消せない。
その間にも噂は流れ続けた。
私は部屋で人を虐げた。
私は聖女の水に毒を入れた。
私は神殿の孤児に酷いことをした。
聞くたびに、笑ってしまいそうになる。私はそんなに暇ではない。けれど噂は「暇な人の正義」でできている。暇な正義ほど手強い。だから私は、噂を否定するのではなく、噂が通用しない土台を作ることにした。
一週間後、神殿から返答が来た。
照合の要請は受け入れる。ただし神殿内で行う、と。
そして、聖女も立ち会う、と。
父はその文を読み、私に見せた。父の指が少しだけ紙を強く押さえていた。怒りが柄から漏れかけている。
「神殿内なら、向こうの場だ」
「それでも、形式は整いました。あとは、こちらも形式で返しましょう」
私は、父の机の上にもう一枚紙を置いた。
王宮の文官宛ての請願書。
断罪が行われた以上、家の名誉と神殿の透明性のために、照合の場に第三者を入れるべきだ、と。
断罪は王宮の場で行われた。なら、検証も王宮の目の届く場で行われるべきだ。これは正義のためではない。制度の整合性のためだ。制度の矛盾は、貴族が最も嫌う。
父はゆっくり頷いた。
「お前は……」
言いかけて、父は言葉を飲み込んだ。褒めるべきか、恐れるべきか迷ったのだろう。私は褒められたいわけではない。ただ、戻りたいだけだ。私の名前に。私の立場に。私の人生に。
請願書は受理された。
王宮の文官たちは、神殿と王太子の顔色を伺いながらも、「断罪が先に行われた以上、検証が必要」と判断した。彼らは自分たちの仕事を守りたい。制度の穴を放置すると、責任が自分に降るからだ。
そして、再度の場が設けられた。
王宮の小評議室。大広間ほど派手ではないが、貴族たちが傍聴できるように席が並べられ、記録官が筆を取る。記録官がいる。これは大きい。記録官がいる場で嘘をつくのは難しい。嘘は記録になると重くなる。
私はその場に入る前、深く息を吸った。
怖い。怖いのに、背筋が伸びる。
“監修”の声がどこかから聞こえた気がした。過剰な罰は禁止。相手を殺すな。嘘が通用しなくなるところまで。戻るためのざまぁ。私はその声を、自分の中の規律として受け取った。
評議室には、王太子がいた。聖女もいる。断罪の場ほどの華やかさはない。だからこそ、彼らの表情がよく見える。王太子は硬い。聖女は落ち着いている。彼女は、自分が勝っていると信じている顔だ。
議長役の大臣が口を開く。
「本日は、先日の断罪に関し、寄進記録の照合、ならびに関連する証言の確認を行う」
大臣は慎重に言葉を選んでいる。断罪そのものを否定するとは言わない。否定すれば王太子の権威が揺れる。揺らすことは、この場の誰も望んでいない。彼らが望むのは、最小の痛みでの修復だ。私はその望みを利用する。私の目的も、修復だからだ。
「まず、神殿側の寄進記録を提示せよ」
神殿の会計係が帳簿を出した。厚い帳簿。紙の匂い。墨の匂い。誰かの手垢。帳簿は嘘をつける。しかし帳簿同士を突き合わせれば、嘘は線として浮かび上がる。
次に、我が家の帳簿が提示された。父が提出したものだ。写しではない原本。金庫から出したと言っていた。父はここで自分の家の信用を賭けた。私が負ければ、父も傷を負う。それでも出した。私はその重みを背中に感じた。
照合は淡々と進んだ。
日付が合う。金額が合う。受領証が合う。
合っている。横取りの余地がない。
この時点で、断罪の罪状の一つが崩れた。
聖女の頬が、わずかに引きつった。
王太子が視線を逸らした。
貴族たちがざわめく。ざわめきはまだ小さい。彼らは、様子を見ている。どちらに転ぶかを見ている。勝ち馬に乗る準備をしている。
「次に、神殿側が持ち出したという“監査”について」
大臣が言うと、神殿の会計係が困った顔をした。困った顔は、無知の顔か、責任を負いたくない顔だ。たぶん後者だ。
「監査の命は、王太子殿下の印にて……」
「その監査で、帳簿はどのように扱われた?」
「……神殿内で保管し、必要に応じて写しを……」
大臣が視線を送ると、記録官が淡々と筆を動かした。
言葉は記録になる。記録は後から逃げられない。
私はここで、口を開いた。
叫ばない。罵らない。ただ、置く。
「受領証の筆跡鑑定をお願いしたいのです」
大臣が眉を上げた。「鑑定」という言葉は、場を硬くする。
「理由は?」
「受領証は一致しています。ですが、断罪の場で提示された“横取りの証拠”としての受領証の写しが、私の控えと一致しないのです」
ざわめきが一段大きくなった。
私は紙を一枚差し出した。断罪の場で見せられた写し。あの時、私は一瞬だけ目に焼き付けた。侍女に命じて、同じ形式の紙を探し、控えと突き合わせ、違いを見つけていた。違いは小さい。数字の癖が違う。署名の払いが違う。偽造は、癖を消せない。
大臣がその紙を見て、神殿側に向けた。
「これは神殿が出したものか」
会計係が慌てて首を振る。
「その写しは……存じません。神殿が正式に出したものは、こちらです」
会計係が別の写しを出す。こちらは控えと一致していた。
つまり、断罪の場で出された“横取りの証拠”は、神殿の正式なものではない。誰かが途中で差し替えた。差し替えられる場所に、誰かがいた。
視線が王太子に向く。
王太子は唇を結んだ。
聖女は、初めてほんの少しだけ目を見開いた。
ここで人は、誰かを断罪したくなる。
「誰がやった」と叫び、悪役を入れ替えたくなる。
けれど私は叫ばない。叫べば、この場はまた劇場になる。劇場になれば、別の悪役が必要になる。私は悪役を作りたいわけではない。
私はもう一つだけ、置いた。
「断罪の場で、私が聖女を虐げたと証言した方がいました。ですが、その時間、私は王宮の衣装室にいました。衣装係の記録と、出入りの署名があります」
衣装係が呼ばれ、記録が出された。
署名がある。時刻がある。証人がいる。
こういうものは地味だ。地味だから強い。
派手な涙よりも、地味な署名の方が真実に近い。
証言した令嬢の顔が青くなった。
彼女は立ち上がり、口を開こうとしたが、言葉が出なかった。
彼女は嘘をついた。あるいは、嘘を言わされた。どちらにせよ、今この場で彼女が背負うのは重い。私はその重さを、必要以上に増やさない。
大臣が冷たい声で言った。
「証言の撤回は」
令嬢が震える声で言った。
「……私は……そう聞いたと……」
「聞いた、では証言にならない。誰から聞いた?」
令嬢の視線が、聖女の側の侍女に一瞬だけ滑った。
その一瞬が、致命傷だった。
聖女の頬が、白くなった。
王太子の手が、机の端を強く握った。
貴族たちが息を呑む。今、この場は劇場ではない。けれど、真実が露出する瞬間は、どうしても劇的になる。
大臣が、聖女に向き直った。
「聖女殿。あなたは、断罪の根拠として、これらの証言と写しを提出したのか」
聖女は、声を整えようとした。整える時間が必要だった。だが時間は与えられない。記録官の筆が動いている。
「……私は、神殿がまとめたものを受け取りました」
「誰から」
「会計係から……」
会計係が首を振る。
聖女の言葉が、空中で落ちる。
落ちる場所を失った言葉は、嘘の形になる。
王太子が、ようやく口を開いた。声がかすれている。
「……聖女。あなたは、私に“証拠がある”と言った。私はそれを信じた」
聖女は首を振った。否定の仕方が美しい。美しい否定は、時に正義に見える。けれど今回は、正義の形がもう崩れ始めている。
「殿下、私は……私は悪意で……」
「では、悪意でないなら、何だ」
王太子の声が強くなった。
強くなる声は、自分を守る声だ。
私はその声を責めない。責めると、また対立になる。対立は物語を楽にする。楽な物語は、誰かを悪役にする。
大臣が言葉を切った。
「断罪の根拠として提示された資料に、偽造の疑いがある。証言は伝聞に堕している。寄進横取りの事実は確認できない。よって、先日の断罪は——」
ここで大臣は言い淀んだ。「無効」とは言えない。王太子の権威が揺れる。だが曖昧にすれば、制度が揺れる。彼は制度を守りたい。制度を守るためには、言うしかない。
「——事実認定に重大な瑕疵があったと認める」
ざわめきが、今度ははっきりと広がった。
これは「ざまぁ」の音だ。
拍手の音ではない。言葉が崩れる音。
嘘が通用しなくなる音。
私は、そこで初めて、心の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
勝った、ではない。
戻れる、という感覚。
大臣が続けた。
「婚約破棄の手続きは停止する。改めて、当事者の意思と、王家の判断にて処理する」
王太子が目を閉じた。
彼は今、失脚していない。破滅していない。
ただ、責任を引き受ける場所に立たされた。
それは彼にとっての罰であり、制度にとっての修復だ。
聖女は俯いた。
彼女もまた、破滅していない。
けれど「清らかさ」の盾がひび割れた。
ひび割れは、元に戻らない。
「聖女殿の提出資料については、神殿と王宮の合同で調査する。関係者の処分は、その結果に従う」
大臣がそう言うと、神殿側が顔を青くした。処分は避けられない。だがそれは公開処刑ではない。制度の中の処分だ。私はそれでいい。私は誰かの破滅を祝いたいわけではない。嘘が通用しない世界に戻りたいだけだ。
大臣が私に視線を向けた。
「……令嬢。何か申すことは」
この場で、私は相手を罵ることもできた。
泣きながら「許せない」と叫ぶこともできた。
貴族たちはそれを待っている顔をしていた。
それが劇場の仕上げだからだ。
私は一度、息を吸ってから言った。
「戻れますわね。私の名に」
それだけで十分だった。
周囲が一瞬、理解できない顔をして、次に少しずつ理解した。
勝利宣言ではない。復讐宣言でもない。
ただの帰還宣言。
けれど帰還は、時に勝利より強い。
評議室を出る時、王太子が私を呼び止めた。声は低い。
「……すまない」
私は振り返った。彼の目は揺れている。正義を演じる目ではない。弱さを持った人の目だ。弱さを見せられると、こちらの心も揺れる。だが私は、揺れたまま立つ。
「謝罪は、あなたのためにするものです。私のためではありません」
王太子が唇を噛んだ。
「……婚約は」
「私は、もう一度考えます。形式も、心も、整えてから」
私はそれだけ言って、歩き出した。
背中に、聖女の視線が刺さる。刺さるけれど、倒れない。
刺さる痛みは、ここまで来た証拠だ。
屋敷に戻ると、侍女たちが玄関に並んで待っていた。誰も声を上げない。泣きもしない。ただ、私が戻ってきたことを確かめるように、深く頭を下げた。私はその静けさに救われた。拍手よりも、ずっと。
部屋に入って、扉を閉めた瞬間、足が少しだけ震えた。
やっと震えられる。
ここが、私の守られた場所だから。
机の上には、私が書き散らした紙がそのまま残っていた。照会状の写し、帳簿の控え、証言の記録。どれも地味で、どれも重い。地味な重さが、私を戻してくれた。
窓の外を見ると、空の色が少しだけ変わっていた。
断罪の場の光は明るい。けれどあれは舞台の明るさだ。
今見ている空は、現実の色だ。
現実は、派手に祝福してくれない。
けれど現実は、嘘が通用しなくなった瞬間の重さを、確かに残してくれる。
私は椅子に座り、手を膝の上に置いた。
テンプレ通りにざまぁしてみることにしました、という宣言は、たぶん嘘ではなかった。
けれどテンプレ通りにやったのに、私の中に残ったのは快感だけではない。
安堵と、疲労と、そして少しの寂しさがある。
相手が落ちたからではない。
自分が戻れたからだ。
戻れたのに、戻れた場所が以前と同じではないことも分かってしまったからだ。
私は机の引き出しを開け、白紙を一枚取り出した。
これから先のための紙。
婚約をどうするか。家をどう守るか。神殿の調査が終わった後に何が起きるか。
そして、自分がこれからどこへ行くか。
その白紙の上に、私は最初の一行を書いた。
「私はもう、悪役ではない」
書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
温かさは勝利の熱ではない。
帰ってきた人間の体温だ。
扉の外から、侍女の声がした。
夕食の支度ができた、と。
いつも通りの報告。
いつも通りの生活が、戻ってくる。
「今、行くわ」
返事をして立ち上がる。
足の震えは、もう止まっていた。
私は廊下へ出る。
光は薄い。
薄い光の中で、私は自分の影を見た。
影はまだある。
けれど影は悪ではない。
光があるから、影ができる。
私は影を引きずって歩く。
それでいい。
影ごと戻ってきたのだから。
そして、もしまた誰かが私にラベルを貼ろうとするなら。
今度は、今日の記録がある。
私の名が、私の手の中にある。
それは十分な“ざまぁ”だと思った。
「……で?」
原稿を閉じたところで、そう聞かれました。
今回は、私の隣に彼女が座っています。
断罪された悪役令嬢——今回の主人公です。
振り返らなくても分かります。元悪役令嬢会でした。
「ちゃんと、ざまぁでしたか」
「逃げていませんでした?」
「楽なところで終わらせてない?」
問いは、いつも通り一つずつ。
私は答えを探しましたが、
先に彼女が口を開きました。
「ざまぁには、なったと思います」
声は静かでした。
断罪の場に立たされていた時と、同じ温度です。
「でも、相手を壊すためではありませんでした」
「自分の名前と立場に、戻るための手続きです」
「……なるほど」
誰かが、短く息を吐きました。
「正直に言うとね」
「もっと破滅させた方が、テンプレ的には爽快だったと思う」
その言葉に、彼女は否定も肯定もせず、黙っていました。
「でも」
声が、続きます。
「それをやると、この話は“相手を落とす話”になる」
「悪役令嬢が戻る話じゃなくなる」
「だから今回は、そっちを選ばなかった」
会としての結論でした。
「破滅は楽なのよ」
「一瞬、気持ちいい」
「でも、その後に残るものが、少なすぎる」
彼女は、静かにうなずきました。
「壊さなかったのは、優しさではありません」
「壊した後に、私が立つ場所がなくなるからです」
「作者」
今度は、私が呼ばれました。
「その方向にも、書けたでしょう」
「読者受けも、たぶん良かった」
「でも、今回は止めた」
私は、少しだけ肩をすくめました。
「会に止められましたので」
「破滅させるのは簡単すぎる、と」
「そう」
声は淡々としていました。
「禁止ではない」
「でも、今回は違う」
「嘘が通用しなくなるところまでで、十分」
評価なのか、確認なのかは分かりません。
「あなたらしいと言えば、あなたらしい」
「次は、どうするんですか」
その問いには、二人で答えを探しました。
「分かりません」
「次は、もっと壊すかもしれません」
「でも、その時は——」
「また止める」
「過剰な破滅は禁止」
「理由があるなら、議論する」
相変わらずです。
でも、その声がある限り、
彼女も、私も、
“一番楽なざまぁ”だけを選ばずにいられる気がします。
ざまぁは、誰かを落とすための装置です。
同時に、書き手と登場人物が
自分の立ち位置を確かめるための道具でもあります。
今回のざまぁは、
断罪された令嬢と作者が並んで立ち、
「どこまで壊さないか」を確認するためのものでした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
監修はこれで一旦終了です。
あとは、読む側の番ということで。




