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神様、今日も転生者を眺めています  作者: 仲村千夏


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19/20

能力:因果透視

 白き空間に、ひとりの女が立っていた。


 若くはない。


 背筋は伸びているが、その立ち姿には長い年月の疲労が滲んでいる。


 白衣ではない。だが、その佇まいは確かに“医師”のそれだった。


 数えきれないほどの命と向き合ってきた者の目。


 救えた命も、救えなかった命も、すべて抱え込んだまま終わった人生。


 女は静かに、目を閉じていた。


 思い返しているのだろう。


 最後の病室。


 消毒の匂い。


 自身の診断結果。


 末期癌。


 医者であるがゆえに、誰よりも正確に理解してしまった余命。


 そして、どうにもできないという現実。


 ◆


「——我は問う」


 荘厳な声が空間に満ちる。


「汝、次の生で——何を望む?」


 女はゆっくりと目を開いた。


 目の前にいる存在を見上げる。


 恐怖はない。


 驚きもない。


 ただ、受け入れている。


「……そういうもの、ですか」


「然り。機会は一度。選ぶがよい」


 女はしばし沈黙した。


 長い。


 これまでの転生者たちの中でも、最も長い部類の沈黙。


 同僚神が小さく呟く。


「考えるなぁ」


 壮年の神は何も言わず、ただ待つ。


 ◆


 やがて女は口を開いた。


「……もう一度、医者として生きたい」


 それは願いというより、確認だった。


 神は頷く。


「可能だ」


「ただし」


 女は続ける。


「今度は——救えない理由を、知りたい」


 空気が、わずかに変わった。


「現世では、多くを学びました。技術も、知識も、それなりに積みました」


 その声は静かだが、奥に確かな熱がある。


「それでも、救えない命があった」


 脳裏に浮かぶのは、患者たちの顔。


 間に合わなかった手術。


 効かなかった薬。


 選べなかった選択肢。


「なぜ救えなかったのか。何が足りなかったのか。それが——最後まで、わからなかった」


 女はまっすぐ神を見る。


「見えるようにしてください」


 迷いはなかった。


「すべて」


 ◆


 同僚神が小さく眉を上げる。


「おや」


 壮年の神は、わずかに目を細めた。


「……“すべて”とは」


「原因も、結果も、過程も」


 女は言い切る。


「病の進行も、寿命も、選択の分岐も。救えるかどうかも」


 空間が静まる。


 その願いの重さを、誰もが理解していた。


 ◆


「——よかろう」


 壮年の神が告げる。


「汝に与えよう」


 声が低く、深く響く。


「《因果透視》」


 その言葉と共に、光が満ちる。


「万象の因果を視る眼。起こりうる未来と、避けえぬ結末を捉える力」


 女の瞳に、わずかに揺らぎが走る。


 だが、恐れではない。


「……制約は?」


 即座に問う。


 同僚神が苦笑する。


「さすが医者、先にリスク確認」


 壮年の神は淡々と答える。


「視ることはできる。だが、変えられるとは限らぬ」


「限らぬ、とは?」


「変えられぬものもある」


 明確な言葉。


「寿命。収束する因果。世界の均衡に属する事象」


 女は、目を伏せた。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ。


 それは理解の時間だった。


「……つまり」


 再び顔を上げる。


「見えても、救えない命がある」


「然り」


 沈黙。


 ◆


「それでもよいか?」


 神が問う。


 それは珍しい問いだった。


 通常、願いはそのまま通される。


 だが今回は違う。


 この力は、祝福であると同時に、明確な負荷だ。


 ◆


 女は、微笑んだ。


「それでも、いいです」


 静かな笑み。


「見えないよりは、ずっといい」


 その言葉に、同僚神が小さく呟く。


「……覚悟、決まってるな」


 壮年の神は頷いた。


「よかろう」


 ◆


「汝の新たな名は——ラヘナ」


 光が、女を包む。


 魂がほどけ、再構成される。


「医の道を望む者よ」


 神の声が最後に響く。


「その眼で、何を見る」


 女——ラヘナの姿が、光の中へ消えていく。


 ◆


 次に目を開けたとき。


 彼女は泣いていた。


 赤子として。


 だが意識は明瞭。


 視界の端に、淡い文字が浮かぶ。


 《スキル:因果透視》


 ゆっくりと、焦点が合う。


 最初に見えたのは、母の顔。


 優しい笑み。


 その背後に——赤い線。


 細い糸のようなものが、母の身体に絡みついている。


 そして、文字。


 《余命:48年》


 ラヘナは、瞬きをした。


 次に、父を見る。


 《余命:52年》


 医療知識と照らし合わせる。


 健康状態は問題ない。


 だが、未来は既に“表示されている”。


 ◆


 数年後。


 幼いラヘナは、異様な子供だった。


 診るだけで、わかる。


 風邪か、肺炎か、回復するか。


 怪我の深さ、治癒の過程、後遺症の有無。


 すべてが、見える。


 村の医師が驚愕する。


「どうしてわかる?」


 ラヘナは答えない。


 答えられない。


 説明できない。


 ただ、確信だけがある。


 ◆


 十歳。


 初めて“無力”を知る。


 重い病の子供。


 症状は明確。


 治療法も、理論上はある。


 だが——《死亡:確定》


 その文字は、消えなかった。


 薬を変えても、手当てを変えても。


 未来は変わらない。


 ラヘナは手を握る。


 祈るように。


 それでも、結果は同じ。


 子供は、静かに息を引き取った。


 ◆


 夜。


 彼女は一人で座り込む。


「……見えているのに」


 呟く。


「どうして、変えられないの」


 その問いに、答えはない。


 ◆


 それでも彼女は学ぶ。


 薬草。

 解剖。

 治療法。


 見えるからこそ、無駄がない。


 効かない治療は、最初から選ばない。


 助かる命だけを、確実に救う。


 やがて彼女は呼ばれるようになる。


 “神医”。


 ◆


 その称号の裏で。


 彼女は、誰よりも多くの“死”を見ていた。


 回避不能の結末。


 どうやっても変わらない未来。


 そして、それを知っている自分。


 ラヘナは今日も診る。


 救える命と、救えない命を。


 見分けながら。


 ◆


 水鏡の前。


 同僚神が腕を組む。


「重いの、来たな」


「うむ」


 壮年の神は静かに答える。


「最も残酷な力の一つだ」


「見えるだけって、えげつないな」


「だが、それを望んだのは彼女だ」


 鏡の中で、ラヘナが患者に微笑む。


 その背後には、無数の“終わり”が揺れている。


「さて」


 壮年の神が呟く。


「この眼は、彼女を救うか」


「それとも」


 同僚神が続ける。


「壊すか」


 静かな観測が、続いていく。


 ラヘナは、迷わなくなった。


 それは成長ではなく、選別だった。


 ◆


 診る。


 触れる前に、わかる。


 視るだけで、結果が浮かぶ。


 《治癒:可能》

 《後遺症:軽微》

 《死亡:回避可能》


 その患者には、迷わない。


 最短で、最適な処置を選ぶ。


 薬草の配合も、投与量も、処置の順序も。


 すべてが無駄なく繋がる。


 結果、助かる。


 確実に。


 ◆


 一方で——


 《死亡:確定》

 《回避不能》

 《余命:三日》


 そう表示される者もいる。


 どれほど症状が軽く見えても。


 どれほど家族が祈っても。


 結果は変わらない。


 ラヘナは知っている。


 最初から。


 ◆


 ある日、母親が縋りついた。


「お願いです、この子を……!」


 幼い娘。


 熱はあるが、致命的には見えない。


 だが、ラヘナの視界にははっきりと浮かんでいた。


 《死亡:確定》

 《余命:五日》


 喉が、詰まる。


 だが、彼女は医者だ。


「……できる限りのことはします」


 それしか言えない。


 嘘はつかない。


 だが、真実も言わない。


 薬を与える。

 看病する。

 手を握る。


 五日後。


 娘は静かに息を引き取った。


 母親の泣き声が響く。


 ラヘナは、その場に立ち尽くす。


 ——知っていた。


 最初から。


 助からないと。


 ◆


 夜。


 彼女は手を洗い続ける。


 血はついていない。


 だが、何度も、何度も。


「……意味があるの?」


 小さく呟く。


 救えないと知りながら、処置をする意味。


 希望を持たせる意味。


 医者としての行為。


 ◆


 それでも、彼女はやめない。


 やめられない。


 救える命があるから。


 《治癒:確定》


 その表示が出たとき。


 彼女は、誰よりも確実に命を繋ぐ。


 奇跡ではない。


 ただの結果。


 だが、人々はそれを奇跡と呼ぶ。


 ◆


「神医様……!」


 街へ呼ばれるようになったのは、十五の頃。


 遠方からも患者が来る。


 貴族も、平民も、関係ない。


 ラヘナは診る。


 全員を。


 そして、振り分ける。


 救える者と、救えない者を。


 ◆


 ある貴族の屋敷。


 豪奢な寝台に横たわる老人。


 周囲には医者が何人もいる。


 だが結果は同じ。


 ラヘナの視界に浮かぶ。


 《死亡:確定》

 《余命:一日》


「どうだ、治せるか!」


 家族が叫ぶ。


 期待と、焦りと、恐怖。


 ラヘナは静かに答える。


「……難しいです」


 嘘ではない。


 だが真実でもない。


 彼女は知っている。


 絶対に、治らない。


 どれほどの金を積んでも。


 どれほどの医者を集めても。


 ◆


 翌日。


 老人は死んだ。


 家族は泣き崩れる。


 ラヘナは頭を下げる。


 責められはしない。


 むしろ称えられる。


「最善を尽くしてくれた」と。


 ◆


 帰り道。


 彼女は空を見上げる。


「……最善って、何」


 結果が決まっているのに。


 過程に意味はあるのか。


 ◆


 だが同時に。


 彼女は多くの命を救っていた。


 疫病の初期段階。


 普通なら見逃される症状。


 だがラヘナには見える。


 《感染拡大:危険》

 《隔離:推奨》


 彼女は即座に動く。


 村を閉じ、感染を止める。


 数百人が救われた。


 ◆


 事故現場。


 崩れた建物。


 負傷者が多数。


 ラヘナは迷わない。


 《救命可能》の者から処置する。


 冷酷に見える判断。


 だが、最も多くを救う。


 ◆


 人々は彼女を崇める。


「神のような目を持つ医者」


「未来を視る者」


「神医ラヘナ」


 ◆


 彼女自身は、知っている。


 これは神ではない。


 ただの観測だ。


 結果を、なぞっているだけ。


 ◆


 ある日。


 彼女は“自分”を見た。


 鏡の中。


 疲れた顔。


 その背後に、浮かぶ文字。


 《余命:23年》


 息が止まる。


 医者としての計算が走る。


 年齢、体調、環境。


 あり得る。


 だが——。


「……変えられる?」


 問いは虚空に消える。


 試す。


 生活を整える。

 無理をしない。

 薬も試す。


 だが、表示は変わらない。


 ーー


 さらに数年後。


 別の表示が増える。


 《寿命短縮:進行中》


 理由は、わかる。


 過労。

 無理な治療。

 限界を超えた判断の連続。


 彼女は、命を削っていた。


 他人を救うために。


 ◆


「……ああ」


 ラヘナは、小さく笑う。


 ようやく、理解する。


 見えても。


 知っても。


 結局は、同じだ。


 救えない命は救えない。


 そして、自分の命も、同じ。


 ◆


 水鏡の前。


 同僚神がため息をつく。


「きついな」


「うむ」


 壮年の神は静かに言う。


「最も残酷なのは、“理解していること”だ」


「知らなければ、まだ救われたのにな」


「それでも彼女は望んだ」


 鏡の中で、ラヘナが患者に微笑む。


 救える者を救いながら。


 救えない者を見送りながら。


 自分の終わりを知りながら。


 ◆


 同僚神がぽつりと呟く。


「これ……折れるな」


 壮年の神は、何も答えなかった。


 ただ、水鏡を見つめ続ける。


 静かに。


 確実に。


 ラヘナの心は、摩耗していた。


 その日、ラヘナは“見てしまった”。


 正しくは、“見続けてきたものの答え”に辿り着いた。


 ◆


 王都の診療院。


 彼女はすでに一人の医師ではなかった。


 国家に招かれ、専用の施設を与えられ、

 “神医”として扱われている。


 廊下には人が並び、

 命を預けるように彼女の名を呼ぶ。


「ラヘナ様……!」


「どうか、この子を……!」


 声は絶えない。


 だが、彼女の視界は静かだった。


 いつものように、表示が浮かぶ。


 《治癒:可能》

 《死亡:確定》


 白と黒。


 曖昧さはない。


 ◆


 ある日。


 運び込まれたのは、一人の若い母親だった。


 出血。


 難産。


 顔色は悪いが、まだ息はある。


 周囲は叫ぶ。


「助けてくれ!」


「この人がいなきゃ、子どもが……!」


 ラヘナは、診る。


 その瞬間。


 視界に浮かんだのは——。


 《母:死亡確定》

 《子:生存可能》

 《両立:不可能》


 時間が止まった。


 ◆


「……」


 手が止まる。


 周囲は気づかない。


 彼女の中でだけ、世界が止まっている。


 ——選べ。


 そう言われている。


 誰にも言われていないのに。


 因果が、突きつけてくる。


 ◆


 母を優先すれば、子が死ぬ。

 子を優先すれば、母が死ぬ。


 どちらも助ける未来は、存在しない。


 どれほど技術を尽くしても。


 どれほど祈っても。


 ない。


 ◆


「……子を、取り上げます」


 ラヘナは静かに言った。


 声は震えていない。


 震えないようにしている。


 処置は正確だった。


 最短で、最適。


 子は、泣いた。


 小さな命が、この世に出る。


 ◆


 その背後で。


 母の表示が、消えた。


 ◆


 静寂。


 歓声と、絶望が同時に起こる。


「助かった……!」


「なんで……どうして……!」


 誰も彼女を責めない。


 むしろ称える。


 命を一つ救ったと。


 ◆


 ラヘナは、その場に立っていた。


 動けなかった。


 見えていた。


 最初から。


 結果も。


 選択も。


 結末も。


 ◆


 夜。


 彼女は一人、机に向かう。


 紙が広げられている。


 無数の記録。


 症例。


 判断。


 結果。


 すべて、完璧に積み重ねられている。


「……意味がない」


 ぽつりと、零れた。


 ◆


 彼女は書き出す。


 もしあの時、別の選択をしていたら。


 もし技術がもっとあれば。


 もし時間があれば。


 だが、どれも《結果:同一》


 変わらない。


 最初から、決まっている。


 ◆


「……何も変えてない」


 彼女は呟く。


 自分は、何も変えていない。


 ただ。


 最初から決まっている未来を、

 効率よくなぞっているだけ。


 ◆


 数日後。


 彼女は街を歩く。


 人々が頭を下げる。


「神医様」


「命の恩人」


 その言葉が、遠い。


 視界には、別のものが浮かぶ。


 《余命:12年》

 《余命:3年》

 《余命:67日》


 人が、歩いている。


 その背後に、終わりを背負って。


 笑っている者も。


 泣いている者も。


 すべて。


 ◆


 子どもが走る。


 転びそうになる。


 ラヘナは手を伸ばす。


 だが、止まる。


 視える。


 《軽傷:問題なし》


 助ける必要はない。


 助けても、助けなくても同じ。


 彼女は手を引っ込める。


 子どもは転び、すぐに起き上がる。


 泣いて、笑う。


 変わらない。


 ◆


「……私は、何をしているの」


 ◆


 ある夜。


 彼女は自分の手を見る。


 細くなった指。


 震えはない。


 だが、重い。


 そこに浮かぶ表示。


 《余命:17年》

 《寿命短縮:進行》


 知っている。


 このままいけば、さらに減る。


 働けば働くほど。


 救えば救うほど。


 ◆


「……同じだ」


 救えない命がある。


 そして、自分も同じ。


 例外ではない。


 ◆


 机の上に、短剣がある。


 護身用。


 王都では珍しくもない。


 彼女はそれを見つめる。


 そして——視える。


 《使用:即死》

 《苦痛:軽微》


 結果が、提示される。


 ◆


 呼吸が、浅くなる。


 胸が痛い。


 だが、涙は出ない。


 もう、流し尽くした。


 ◆


「……終わる」


 呟きは、静かだった。


 絶望ではない。


 諦めでもない。


 ただ、理解。


 ◆


 彼女は立ち上がる。


 窓の外には、夜の街。


 灯りが揺れている。


 人々が生きている。


 そのすべてに、終わりがある。


 それは変わらない。


 ◆


 ——ならば。


 自分もまた、例外である必要はない。


 ◆


 水鏡の前。


 同僚神が、顔をしかめる。


「……来たな」


「うむ」


 壮年の神は静かに答える。


「理解は、時に救いではない」


「止めないのか?」


「止めぬ」


 即答。


 ◆


 鏡の中で、ラヘナが短剣を手に取る。


 その動きに迷いはない。


 見えているからだ。


 結果が。


 終わりが。


 ◆


「……これでいい」


 彼女は呟く。


 誰に向けるでもなく。


 ただ、自分に。


 ◆


 刃が、静かに持ち上がる。


 物語は、終わりへ向かう。


 夜は、静かだった。


 王都の灯りは遠く、

 診療院の一室だけが、淡く光っている。


 ラヘナは椅子に座っていた。


 背筋は伸びている。

 いつもと同じ姿勢。


 ただ違うのは、手に握られた短剣だけ。


 ◆


 視える。


 変わらず、すべて。


 刃の軌道。

 血の流れ。

 意識の消失。


 《使用:即死》

 《苦痛:軽微》


 その文字は、揺るがない。


 未来は確定している。


 ◆


「……本当に、変わらないのね」


 小さく呟く。


 何度も、何度も確かめた。


 救えない命。

 変えられない寿命。


 そして、自分自身。


 ◆


 窓の外を見る。


 街は眠っている。


 昼間、あれほど多くの命を見た。


 笑う者。

 泣く者。

 祈る者。


 すべてに、終わりがあった。


 ◆


「……無意味だったのかしら」


 その問いは、静かに空気に溶ける。


 救った命は多い。


 確かに、誰かは生き延びた。


 だが——


 いずれ、終わる。


 それを知っている。


 ◆


 ラヘナは、目を閉じる。


 思い出すのは、顔だった。


 救えた患者。

 救えなかった患者。

 泣いていた家族。

 笑っていた子ども。


 どれも、鮮明に浮かぶ。


 因果透視は、未来だけでなく、過去も刻み込む。


 ◆


 ゆっくりと、息を吐く。


「……それでも」


 小さな声。


「知らなかった頃よりは、ましだったわ」


 それは本音だった。


 見えなかった頃。


 迷い、選び、間違えた。


 今は違う。


 すべて知った上で、選んだ。


 ◆


 短剣を持つ手が、わずかに動く。


 躊躇はない。


 恐怖もない。


 ただ——


 静かな納得。


 ◆


「……もう、いいわ」


 その言葉と共に。


 刃は、迷いなく振り下ろされた。


 ◆


 音は、小さい。


 椅子が軋む音。


 そして、静寂。


 ◆


 朝。


 診療院は騒ぎになった。


 神医ラヘナの死。


 誰も理解できない。


 なぜ、自ら命を絶ったのか。


 救われた人々が、泣き崩れる。


 彼女に救われた命が、そこにある。


 それでも——


 彼女はいない。


 ◆


 水鏡の前。


 同僚神が、深く息を吐いた。


「……終わったな」


「うむ」


 壮年の神は、静かに答える。


 鏡の中には、もうラヘナはいない。


 ただ、残された世界がある。


 ◆


「……で?」


 同僚神が問う。


「これは、失敗か?」


 少しだけ、間があった。


 ◆


「いいや」


 壮年の神は、ゆっくりと首を振る。


「失敗ではない」


「じゃあ成功か?」


「それも違う」


 曖昧な答え。


 同僚神が眉をひそめる。


「どっちだよ」


 ◆


 壮年の神は、水鏡を見つめる。


 ラヘナが救った人々。


 生きている。


 笑っている。


 今日も、明日へ向かっている。


「彼女は、多くを救った」


「でも、自分は救えなかった」


「そうだ」


 ◆


 同僚神が腕を組む。


「じゃあ、やっぱり無意味だったんじゃないか?」


 その言葉に。


 壮年の神は、静かに否定する。


 ◆


「意味は、結果にのみ宿るものではない」


「……難しいこと言うな」


「彼女は“知った”」


 神は続ける。


「救えぬ命があること。変えられぬ運命があること。そして——それでも、人は救おうとすることを」


 ◆


 同僚神は少し考え、肩をすくめる。


「まあ……あれだけ救ってりゃ、無意味ではないか」


 ◆


 壮年の神は最後に言う。


「ただし」


 その声は、わずかに低くなる。


「この力は、やはり過ぎた」


「だろうな」


 ◆


 しばし沈黙。


 そして同僚神が、ぽつり。


「……次はもうちょい優しいスキルにしようぜ」


「善処しよう」


 即答ではない。


 ◆


 水鏡が、静かに閉じる。


 ラヘナの物語は終わった。


 だが、彼女が救った命は続く。


 それは確かに、残っている。


 ◆


 壮年の神は、新たな光へと手をかざす。


 次の魂。


 次の願い。


 次の物語。


 ◆


「——我は問う」


 荘厳な声が、再び響く。


「汝、次の生で——何を望む?」


 神は今日も、転生者を眺めている。


 救いと、絶望と、その狭間を。


 静かに。


 ただ、静かに。

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