スキル:真実変換
——白い。
視界のすべてが、雪のように白かった。
風も音も、痛みすらもない。
ただ、自分という存在だけが、虚空の中に取り残されているようだった。
「……俺は、死んだのか?」
呟いた声は空間に吸い込まれ、返ってこない。
代わりに、低く響く声が、静寂を破った。
「そうだ。汝の魂はすでに人の理を離れた。
しかし、終わりではない。——これより、異なる世界に生まれ直す」
声の主は、一歩ごとに世界を揺るがすような存在感を放っていた。
衣は光そのもので形を持たず、瞳の奥には、幾千もの時代を映している。
神。
そう呼ぶ以外に、表す言葉はなかった。
「なぜ……俺なんかが?」
「理由を問うか。だが、答えは常に同じだ。
世界は、新しい真実を欲している。
そのために、ひとつの魂を選ぶ。それが汝だ」
青年は息を呑んだ。
神は、静かに右の手を掲げる。
「我は問う。
汝、次の生で——何を望む?」
白の中に立つ青年の肩が震える。
誰も守れなかった過去。
信じて裏切られた日々。
無力さが、胸の奥を締めつける。
「……強く、なりたい。
誰かを救えるように。
もう二度と、奪われたくない」
その言葉に、神の瞳が微かに揺れた。
それは慈悲か、それとも予感か。
「よかろう。——汝に授けるは《真実変換》。
汝が信じるものは、この世界の真実となる。
ただし、疑った瞬間、すべては崩壊する。
信ずるとは、他人ではなく己を欺かぬことだ」
神の掌から、淡い光が放たれる。
光は青年の胸に吸い込まれ、心臓の鼓動と重なった。
「行け。新しき世界へ。
その信念が、汝を導くであろう」
白が、音もなく弾けた。
青年の姿は光に溶け、神だけが残された。
やがて、その威厳のある顔に、ひと筋の笑みが浮かぶ。
「……さて。今度の子は、どこまで“信じ抜ける”かな」
眩しい陽光が、まぶたを突き抜けた。
草の匂い、土の温もり、遠くで鳴く鳥の声。
青年——リオンは、ゆっくりと身を起こした。
「……ここが、異世界」
見渡す限りの丘と森、そして青空。
まるで絵画のような光景に、現実感が追いつかない。
だが、胸の奥に確かな感触があった。
あの神の言葉と共に刻まれた光——《真実変換》
リオンは深呼吸し、拳を握る。
信じろ、と神は言った。
最初は小さな実験だった。
目の前に落ちていた、ひび割れた剣。
「……この剣は、戦士の魂を宿した名剣だ」
そう信じてみた。
瞬間、剣が青白く輝き、亀裂が消えた。
冷たい金属の感触が、まるで生き物のように脈打つ。
「……本当に、変わった」
驚きと共に、胸の奥にわずかな歓喜が灯る。
その日から、リオンの旅は始まった。
小さな村で助けを求められれば、
「自分にはできる」と信じ、怪我人を治した。
森で魔物に襲われれば、「負けない」と信じて立ち向かった。
信じたことが現実となる。
それは、理屈を超えた“確信”であり、同時に“祈り”のようでもあった。
やがて村人たちは、彼を“奇跡の勇者”と呼び始めた。
崩壊しかけた橋を信じて渡り切り、
絶望に沈む人々を信じて立ち上がらせ、
いつしか人々の笑顔が彼の周囲に戻っていた。
「リオン様がいれば、もう安心です!」
「本当に……神様のようなお方だ」
称賛の声に、リオンは微笑む。
だが、その奥底には、ふとした影が差していた。
(……俺は、信じることに慣れすぎていないか?)
信じるほど、現実は従う。
けれど——その信念が一度でも揺らげば、どうなるのか。
あの日、神が告げた言葉が脳裏をよぎる。
「疑った瞬間、すべては崩壊する」
リオンは頭を振った。
「大丈夫だ。俺は信じる。自分を、そしてこの力を」
その声は、かすかに震えていた。
リオンの旅が一年を超えたころ、国境の町ベルネアに、
黒い瘴気が立ち込めた。
古より封印されていた魔獣が、再び目を覚ましたのだ。
空は濁り、地は裂け、炎が町を包み込む。
人々が逃げ惑う中、リオンは剣を掲げて叫んだ。
「俺が……守る!」
彼の声が響いた瞬間、光が降り注ぎ、炎が退いた。
《真実変換》
彼が“守れる”と信じたその想いが、世界を押し返す。
だが、魔獣の咆哮は止まらない。
その巨体が跳ね上がり、建物を潰し、
リオンの目前で、一人の少女が倒れた。
「リオン様……!」
村で出会い、ずっと共に旅してきた仲間、リリア。
彼女の体に、赤が広がっていく。
「リリアッ!」
「だ、大丈夫です……リオン様なら、きっと……」
震える手が、彼の頬に触れる。
その手が、ゆっくりと力を失っていく。
「……やめろ、そんなこと言うな。俺が守るって——」
信じろ。信じるんだ。
そう思うほど、胸の奥で何かが軋んだ。
(本当に……守れたのか?)
ひとつの“疑い”が、心の底に染み込んだ。
その瞬間——世界が揺れた。
光が、砕けた。
地が裂け、町を覆っていた守護の輝きが霧散する。
信念が崩れる音が、耳の奥で響いた。
「ま、待て……違う! 俺は——!」
リオンは叫ぶ。
だが、手の中の剣がひび割れ、砕け落ちる。
それはあの日、最初に信じて蘇らせた剣。
“信じる”という行為そのものの象徴だった。
「俺は……信じてる……! 信じてるんだ……!」
そう叫んでも、瞳の奥にあるのは恐怖だった。
“信じる”ことに怯えた心。
その一滴の迷いが、彼の世界を食い潰していく。
やがて、炎の中に沈む町。
崩れ落ちる空の下で、リオンの声が途切れた。
——世界が、音もなく壊れていく。
天界の観測室。
静かな光が波紋のように広がる水鏡に、ひとつの世界の終焉が映っていた。
崩壊した町、焼け落ちる空、そして膝をつく青年の姿。
「……また、壊れたか」
玉座にもたれた神が、ため息混じりに呟く。
その隣で、同僚の神が興味なさげにコーヒーを啜った。
「《真実変換》の子だろ? ああいうのはいつも危ういね。」
「うむ。最初は見事だった。小さな村を救い、人々を笑顔にした。
信じる力、それは確かに奇跡を呼んだ。
だが……信じるというのは、同時に“怖れる”ことでもある。」
神は指先で水鏡を撫でた。
波紋の中で、リオンが最後に呟いた言葉がこだまする。
「俺は……信じてる……!」
その声は涙のように震えていた。
「信じ抜くこと、それは強さの証だが——」
神は目を閉じ、微笑を浮かべた。
「同時に、心を蝕む毒にもなりうる」
「……結局、彼は何を真実にしたんだい?」
同僚の神が問いかける。
主神は少し考え、ゆっくりと答えた。
「“自分が救えなかった”という現実だ。
彼は最後の瞬間まで、それを一番強く信じてしまった。
だから、その通りになった」
「皮肉なもんだねぇ。信じる者は救われる——なんて言葉、
あの世界にもあったんじゃなかったっけ?」
「あるとも。だが、信じる対象を誤れば、救いは地獄にもなる。」
ふたりの神はしばし沈黙し、同僚の神が肩を竦めた。
「で、次は?」
「次か……」
主神は小さく笑い、水鏡に新たな光を映した。
そこには、怯えた少女がひとり。
生前、他人のためにすべてを捧げ、何も報われなかった魂。
「この子には、《他人の願いを叶える力》を与えよう」
「また難儀な能力を選ぶねぇ」
「人というのは、他人の願いを叶えようとするほど、自分を見失う生き物だからな。
——そこにこそ、“真実”が生まれる」
神は小さく笑い、掌をかざす。
新しい命の光が、静かに降り注いだ。
「行くがよい。次の真実を、見せておくれ」
光が弾け、魂は新たな世界へと落ちていった。
観測室に再び静寂が戻る。
神はふと、独り言のように呟いた。
「信じることも、疑うことも。——どちらも人間らしいな」
水鏡の奥では、またひとつの物語が、そっと始まっていた。




