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誰も座らない椅子

タイトル思いついて書いた作品です。


――その椅子には、誰も座らない。

――ずっと昔からそうだった。

――そこに座るのは、私ひとりだけ






 朝の洗面台。

 鏡の中の顔に、濡れた髪の下から赤い皮膚がのぞく。

 頬の凹凸は光を受け、口元を結んでも歪む。

 私はすぐタオルをかぶせ、鏡から目を逸らした。


 


 教室の窓際、最後列。

 そこにある机と椅子は、他のどれより古びていた。


 


 背もたれの板は色が抜けて白く、誰も手をかけたことがない。

 座面の布は擦り切れ、縫い目から綿がのぞく。


 


 その椅子には、私以外の誰も座らない。


 


 それは最初から決められていたように思えた。


 


 座ると、衣の糸がほつれていく。

 その感覚だけが、私の居場所を確かめてくれる。


 


 私の机のまわりには、いつも隙間があった。

 寄せ合った机の列の中で、ここだけ空気の層が厚い。


 


 隣の席の子が、消しゴムを落とした。

 それは机の脚に当たり、私の足元に転がってきた。

 けれど、彼女は拾いに来なかった。

 床に転がった白い角を見つめながら、私は足を動かせなかった。


 


 笑い声はいつも手前で止まる。

 視線が合えば逸らされ、隣の机からは汚れを見るような眼差しが落ちてくる。

 出席簿で名前が呼ばれたとき、先生の声は一瞬詰まる。

 その短い沈黙が、胸を押し潰した。


 


 昼休み。

 箸の先から米粒がこぼれ、机に落ちる。

 それを拾う指先が震え、爪に白い筋が残る。

 机の横から、冷たい視線が突き刺さる。


 


 床の隅。

 誰も気にしない黒い皺が一つある。

 焦げ跡のように縮れて、そこに自分の皮膚が焼け残っている気がした。

 見続けていると、胸の奥に小さな痛みが走る。


 


 チャイムが鳴り、声が重なり合う。

 私は動けなかった。

 背中を板に押し付け、骨が椅子の形に沿って曲がっていく。

 冷たさだけが私を示し、私はただここに閉じ込められていた。


 


 ――消えたい。

 ここから、私という形ごと。


 


 この顔のままでは、生きている意味がない。

 私の血ごと、皮膚ごと、消えてしまいたい。



*******


 

 ある日を境に、私は学校へ行かなくなった。

 カーテンを閉め切った部屋で、昼も夜もなく時間が過ぎた。

 壁に映る影だけが、日を告げていた。


 


 母が部屋に洗濯物を持ってきた。

 積まれた衣が沈黙の中で小さな山を作る。

 その背中は、長く迷っているように動かなかった。


 


 「……ごめんね」


 


 声は布に吸い込まれ、床に落ちて消えた。

 私は布団の中で息を止め、まぶたの裏を暗く染めた。


 


 夜、父は洗面台の前に立っていた。

 鏡に映る自分の顔を、長いあいだ見つめている。

 頬に手を当て、ゆっくりと撫でた。


 


 そこに映るのは、私と同じ輪郭だった。

 けれど、父は何も言わなかった。


 


 沈黙だけが、家の中に落ちていた。


 *


 白い部屋。

 診察台の横に並んで、父と母は深く頭を下げた。


 


 母の声が震えた。

 「どうか、この子を……」


 


 言葉は続かなかった。

 父は隣で、無言のまま背を折っていた。


 


 二人の影が床に重なり合い、動かずに沈んでいた。


 


 白い布に顔を包まれ、日々が過ぎた。

 腫れは少しずつ引き、鏡の中で形が変わっていく。

 まぶたが軽くなり、頬が平らになっていった。


 


 母は多くを語らなかった。

 父はただ仕事を増やし、夜遅く帰ってきた。

 食卓には、私の顔を正面から見る人はいなかった。


 


 やがて包帯は外され、新しい輪郭が残った。

 目を合わせるたび、母は短く笑った。

 父は静かに頷いた。


 


 手続きの書類にハンコが押され、転校が決まった。

 制服も鞄も新しく揃えられ、名札の苗字はそのままだった。


 


 新しい校門をくぐると、誰も私のことを知らなかった。

 誰も、過去を持たない顔に声をかけた。


 


 本当の顔を知らない人たちが、私の席のまわりに集まった。



  大学に入る頃には、私は「美しい」と呼ばれることに慣れていた。

 講義室で声をかけられ、街を歩けば振り返られた。

 過去を知る人間はいなかった。

 私を囲む人たちは、皆「今の顔」を前提に笑っていた。


 


 推薦を受けて、ミスジャパンの選考会に出場した。

 舞台の上で歩くたび、ライトが肌を照らした。

 ドレスの布が脚にまとわりつき、足音は反響して消えた。

 笑顔を作ることは、もう難しくなかった。


 


 やがて最終選考。

 名前が呼ばれた瞬間、拍手の渦に包まれた。

 私は立ち上がり、舞台の中央へと導かれた。


 


 王冠が頭に置かれた。

 拍手の音が波のように広がる。

 その一つ一つは遠く、皮膚の上を滑っていった。


 


 玉座に座らされた。

 金色の縁取りは眩しかった。

 背もたれに触れた瞬間、冷たい木の感触が背骨を突いた。


 


 前に並ぶ顔は、皆が笑っていた。

 その笑みは、私の知らない顔に向けられていた。


 


 けれど、胸の奥は熱くなっていた。

 拍手の音に包まれる心地よさが、身体の奥を震わせた。

 女としては、確かに嬉しかった。


 


 ただその嬉しさの輪郭は、誰のものでもなかった。




  表彰式が終わり、舞台を降りた。

 光と拍手の残響がまだ肌にまとわりついている。

 背後では祝福の声が飛び交い、前方には出口に向かう観客の波が広がっていた。


 


 そのざわめきの中で、不自然に鮮明な声が耳を打った。


 


「――なあ、覚えてるか?」


 


 立ち止まった足が、床に貼りついたように動かない。

 人垣の隙間に、ひとりの男が立っていた。

 スーツの襟はよれ、髪も整えられていない。

 けれど、その目の形を私は知っていた。


 


 中学の教室で机を蹴り飛ばした顔。

 笑いながら私を指差した声。

 変わらない残響が、十数年を飛び越えて押し寄せてきた。


 


 「変わったな」

 

 男はにやつき、前に出てきた。

 

 「でも俺は知ってる。お前の、本当の顔を」


 


 胸の奥で、何かがきしんだ。

 拍手の残り火が一瞬で冷え、代わりに汗が背を伝った。


 


 控室へ逃げ込むように戻った。

 スタッフが花束を抱えて駆け寄ってきても、視線は泳ぐばかりだった。

 鏡に映る自分の笑顔は固く、唇の色はわずかに青ざめていた。


 


 数日後、連絡が来た。

 番号を知られるはずはなかった。

 それでも、電話の向こうからあの声がした。


 


 「なあ、久しぶりに会おうや」


 

 抑えた低さが、逆に逃げ道を塞いだ。

 断る言葉を探す前に、彼は続けた。


 

 「大丈夫、誰にも知られることはない……俺が黙ってれば、な」


 


 言葉は刃だった。

 電話を握る手が、震えで汗ばんだ。

 目を閉じても、過去の顔が浮かんで消えなかった。


 


 その夜、約束の場所に足を運んだ。

 ホテルのロビーは無機質に明るく、笑顔のフロントが目に入らなかった。

 ただ一つ、背後で自動ドアが閉まる音だけが耳に残った。


 


 部屋に入ると、彼は待っていた。

 カーテンは閉じられ、空調の音がやけに大きく響いていた。


 


「やっぱり綺麗になったな」

 

 ベッドの端に腰掛けた彼が、笑った。

 

 「でも俺は、あの頃のお前も知ってる。忘れられんよ」


 


 背筋に冷たいものが走った。

 逃げ場はどこにもなかった。

 目を伏せたまま、私は靴を脱いだ。


 


 衣擦れの音と、重く沈むマットレスの揺れ。

 それ以外の記憶は曖昧だった。

 ただ、朝になってシーツの皺が無言で事実を告げていた。

 


 化粧台の前に座る。

 鏡に映る顔は、もう誰もが「美しい」と言う顔だ。

 けれど、私はまだ信じきれない。


 


 ファンデーションを塗り込む。

 粉の下に、あの日の赤黒い頬が潜んでいる気がする。

 隠したはずなのに、皮膚の奥でうずく。

 ――消えろ、消えろ。

 そう呟くように手が動く。


 


 眉を描く。

 線が一本伸びるたび、過去の私の眉が浮かぶ。

 「気持ち悪い」と笑われた形。

 私は上からなぞり潰すように線を重ねる。

 もう二度と、誰にも笑わせない。


 


 口紅を引く。

 色が乗るたび、唇が他人のものになる。

 でも笑う瞬間、歪んだあの感覚を身体はまだ覚えている。

 私は笑うためじゃなく、笑わせるために色を足していく。


 


 舞台に立つ。

 フラッシュの光が一斉に浴びせられる。

 眩しさの奥で、私は微笑む。

 歓声が波のように押し寄せてくる。

 私の名を呼ぶ声が、知らない誰かの熱を帯びて響く。


 


 それでも胸の奥は冷たい。

 あの夜の皺が、成功のたびに鮮やかになる。

 シーツの冷たさが、肌の奥から這い上がってくる。

 拍手が重なるたびに、彼の声が蘇る。

「俺は知ってる。お前の本当の顔を」


 


 私は座っている。

 玉座に、舞台の中央に、インタビューの椅子に。

 けれどどこにも、私のための椅子はなかった。

 そこに座っているのは、醜かったあの頃の私。

 美しくなった今もなお、誰も隣には座らない。





  重い体温が覆いかぶさってくる。

 知らない天井を見ながら、必死に私を求めている男の顔を、私は覚えようともしなかった。

 名前も、声も、どうでもいい。

 ただ、美しくなった私の身体が欲しいのだろう。

 与えてしまえばいい。与えられる私は、確かに「価値がある女」だから。


 


 そうやって自分に言い聞かせるたび、胸の奥で声がした。

 粉を塗り重ねて消したはずの、昔の私。

 頬の跡を隠し、眉を塗り潰し、唇を偽ってきたあの頃の私。

 消したつもりなのに、今も隣に座っている。


 


 ……なぜ消えないの?

 綺麗になったのに。選ばれたのに。

 舞台に立ち、拍手を浴び、男に抱かれてもなお、

 あの子は椅子に座ったまま私を睨んでいる。


 


 気づいた。

 私の未来図は最初から間違っていた。

 私は“欲しいもの”を描いたんじゃない。

 “要らないもの”を消して、白い紙を未来と呼んでいただけだった。

 だから、どれだけ消しても、風の音しかしなかったんだ。


 


 そしてもう一つ。

 私が見ていた未来は、私のものじゃなかった。

「綺麗だと言われる私」「羨ましがられる私」「選ばれる私」。

 全部、他人の視線が主語だった。

 母の涙も、父の決意も、医者の手も、観客の拍手も。

 私は自分の手で座らず、他人の椅子に座らされていただけだった。

 冷たくて当然だ。


 


 さらにわかった。

 過去は死なない。

 いくら殺そうとしても、隣に座ってついてくる。

 粉で隠し、光で覆い、肉体で塗り潰しても、椅子から立ち上がらない。

 だから、私は遺体置き場に座っていたのだ。


 


 順番を間違えた。

 主語を間違えた。

 方法を間違えた。


 


 じゃあ、どうすれば。


 


 男の熱い吐息の下で、私は静かに答えを見つけた。

 ――消すんじゃない。持ち運ぶんだ。

 過去を隣に置いたまま、前を向くしかない。

 その椅子を片付けるんじゃない。

 私が私の椅子に座り直すんだ。


 


 そのためには。

 私が私を許すこと。

 私が私を愛すること。


 


 それだけが、未来を描き直す方法だと気づいた。

 愛してもいない男に抱かれながら、必死に喘ぎながら。

 私はようやく、その真理を理解した。


 


 ……でも。

 私はまだ、自分を愛せない。




 

 ――私が、私を許すこと。

 私が、私を愛すること。


 


 その言葉に辿り着いた瞬間、世界が一度だけ止まった。

 男の体温も、部屋の空気も、拍手の残響も、すべてが静止していた。


 


 だが次の瞬間、ひびが走った。

 天井の白が音を立てて割れ、光が粉のように降り注ぐ。

 男の吐息が冷たくなり、胸を押さえる手が砂に崩れて消えていく。


 


 拍手はノイズになり、観客の歓声はざらついた雑音に変わった。

 まぶしいライトはひとつずつ弾け、水面のように歪みながら落ちていく。


 


「待って……まだ……」


 


 手を伸ばす。

 けれど掴もうとした顔は、もう空洞で。

 残っていた温もりさえ、私の指先から零れ落ちていった。


 


 闇が押し寄せる。

 その奥から、別の音が聞こえた。


 


 ――シュー、シュー。

 規則正しい、機械の呼吸音。


 


 ◇


 


 「婦長さん、今日も反応ありませんね」

 若い看護師がモニターを覗き込みながら、静かに言った。


 


 「そうね。意識が戻るかどうかも、まだわからないわ」

 婦長はシーツを整えながら、淡々と答える。


 


 「この子、十八ですよね……あのニュース、見ました」

 看護師の声に、わずかな震えが混じる。


 


 「両親と一緒に住んでいた家に、自分で火をつけて……三人とも炎に巻き込まれたって」


 


 婦長の手が一瞬だけ止まる。

 だが声は変わらない。

 「警察は無理心中の線で調べてるわね。でも、私たちは目の前の患者を看るだけよ」


 


 看護師はしばらく黙り、酸素吸入器の音だけが部屋に残った。


 


 「……この椅子、どうしますか?」

 ベッドの横の空いた椅子を指差す。

 ずっと誰も座っていない。

 家族も来ない。誰も来ない。


 


 婦長は視線を落とし、すぐに立ち上がった。


 


 「その椅子、誰も座らないから片付けておいて」


 


 シュー、シュー。

 規則正しい機械の音が、また一段と大きく聞こえた。

 

 

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