第一話 自我の覚醒
軽い設定メモ
黒川 凌(31):東京都の警視庁捜査一課巡査部長
言葉に独特の訛りがある
真面目に不真面目という言葉がよく似合っていて
気が抜けているがやるときはしっかりやる。バツイチ。
小泉 拓海(28):東京都の警視庁捜査一課巡査長
真面目だがほんの少し気弱な性格。
黒川とは一課内でだれよりも仲がいい。
真田 悠真(30):本作の主人公
黒川の大学の後輩
黒川のことをを『凌』と呼ぶ。
黒川に事件についてよく助言している。
総合病院の外科医だった。
口調は冷徹だが実は優しい。
時々早口になる。
南原 東(24):駆け出しの記者
毎朝の朝刊の記事を書いている。
周りから驚かれるほどの行動力を持っていて
よく勝手に単独で取材に行ってしまう。
しかし、結果をちゃんと出すので上司からは
信頼されている。かなり粘着質。
北西 学(48):南原の上司で小さな新聞社の編集長
南原にジャーナリストとして何か輝くものを見出している。
自分の仕事と地元の埼玉に誇りを持っている。
かなりの愛煙家で休日は一日中吸っている。
静まり返った街の隅、誰もいないその路地裏はまるで表の通りに光を奪われたかのように暗く寂しく、
幽霊が出ても何らおかしく無いような場所だった。
小林春は仕事を終え職場からの帰路を歩いていた。その日は夏の暑さも落ち着いてきたからか夜風がやけに生ぬるく不快であった。
誰もいない路地裏、
いつも彼女が駅から遠い家までの近道として使っている路地裏、
誰もいない路地裏、
表の繁華街の光さえ照らせない暗闇が漂う路地裏、
誰もいない路地裏、
彼女のわずかばかりの呼吸の音とハイヒールの乾いた音だけがこだまする路地裏、
誰もいない路地裏、
のはずだった。
彼女の正面から誰かがこちらに歩いてくることに気付いた。
その影はロングコートを羽織り、中折れ帽を深々と被り、マスクと手袋をつけていることが確認できた。
季節外れの格好と音もなく歩く姿に不気味さを覚えた小林春は足早にその場を後にしようとして、その影とすれ違った。
その瞬間、彼女は不意に姿勢を保てなくなりアスファルトに全身を預けるように倒れた。
そうして彼女はゆっくり目を閉じた。
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午前8時15分、近所の住民からの通報でその場所は普段ではありえないほどの人口密度をなしていた。
野次馬の話し声とカメラのシャッター音が絶えず響き、その様子はまるで生ごみに集る蠅の群れのようだった。
青い制服を着た警察は蠅が死体に近づかないように規制テープを張り捜査をしていた。
「うえっ、こいつぁまたひっでぇ仏さんだぁ。」
『捜一』の腕章を付けた黒川凌は死体に覆いかぶさったシートをめくり死体を眺め気の抜けた声でつぶやく。
「僕、ここまで非道いご遺体は初めてです…、うっ!!」
「おいっ!現場汚すなよ!」
「すみません。」
同じ腕章の小泉拓海は襲い来る吐き気を胃袋に収め改めて死体に向き直る。
死体の腹部には若干斜めに『Ƶ』の字の裂傷が残り、へそあたりの傷が十字になっている箇所からは
腸や膀胱、その他女性の腹部に存在するであろう臓器が引きずり出されて散乱しており筆舌に尽くしがたい凄惨さであった。
かくいう黒川も10年間の仕事の中でここまでの死体に出会ったことがないほどの残酷さだった。それでも黒川と小泉は冷静に近くの警官に問いかける。
「死亡推定時刻はいつごろぉ?」
「はい、およそ5~6時間前だそうです。」
「てことぁ、午前2時3時ごろか…。」
「近くの防犯カメラの映像はどうでした?」
「それが...。」
警官は言いづらそうに目線を落とし
「この辺りは防犯カメラの設置箇所が少なくて事件に関係性のある映像は確認できていません。」
「そうかぁ…。その他の証拠になりそうな遺留品ぁある?」
「犯人と思われる者の指紋や足跡、DNAなども遺体や付近には確認できませんでした。」
「そう...ですか…。」
「それじゃあ、聞き込みへと洒落込みまっかぁ。」
黒川たちと所轄の警察は死体に合唱してその場を後にした。
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「だぁみだ!ぜぇんぜんいい情報が見つかんねぇ。」
「黒川さんのとこもですか…。」
「あぁ…、そっちもぉ?」
「えぇ、皆さん捜査には協力的なんですが...。」
「俺なんてオバハンの長話30分位聞かされたりもしたよぉ。」
二人は公園のベンチでそれぞれの昼食のコンビニ弁当を掻き込みながら愚痴を零し合っていた。
「明日の本部の集まりでなんて報告しましょう...。」
「本部長にドヤされンだろぉなぁ...。」
「ここまで足取りがつかめない犯人なんていました?」
「いや、俺もお初にお目にかかるヤツだ。」
「部長と検察の顔、想像するだけで胃が痛くなってきます。」
しばらくの沈黙の後、黒川は瞑目し―――決断する。
「ここまでとなると…最終手段サンに頼るしかねぇか。」
「えっ?最終手段?」
「あー...、俺ぁちょっち用事が出来ちったから...—――」
残りの弁当をすべて貪り、缶コーヒーで流し込むと小泉の両肩をポンと叩き
「後ぁまかせた!」
そう言うと韋駄天の如き速さで走りさっていった。
彼は呆気にとられ、絶望するしかなかった。
午後からの彼の仕事中の顔は――――言うまでもないだろう。
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翌日、捜査本部の人員は大会議室の中に集まり情報を共有し整理していた
―――が、あまりにも集まった情報が少なく室内には重苦しい空気が漂っていた。
そして、あろうことか黒川は何故かその場におらず、小泉のスマホのメッセージアプリには
【ワリv(´∀`*v)ピース 遅れるから先やっててくれ。】
とだけ送られてきていた。
殺意が沸いた。
しばらくの間、その少ない情報をなんとか活用できないかとその場の人間が脳を最大限活用していた時、
「いやぁっハハハッ、遅れてすんませんねぇ。捜査一課巡査部長の黒川凌、只今到着いたしましたー!」
軽いノリと明るい表情でその場の厳かな雰囲気をぶち壊して彼が入室するとこの場の本部長である熊谷剛刑事部長がいかつい顔にしわを寄せ彼を叱責する。
「おい!黒川!お前今まで何してた!警察としての意識が欠如しているんじゃないか!?」
「サーセンサーセン、身勝手な行動でした。」
「組織の和を乱さないでくれたまえ!」
「アィ、申し訳ございませんした。あ、それと昨日の話、連絡取れてですね―――」
黒川が無遠慮に本部長に近づき耳打ちをし始めた。
熊谷がため息をつき黒川の話に耳を傾ける。
「―――…なるほど、協力的なのか。」
「はい、まぁ協力してくれそうです。」
「わかった。後ほど連絡を取り本部に来てもらおう。」
「あっいえ、もう来てます。」
「なにっ!!」
熊谷が今日一番の大声を上げた。
それに続けて黒川が会議室の入り口に向け声を響かせる
「おーい、もう入ってきていいぞー。」
すると、コンコンと扉を叩いたのち、「失礼します。」と言い入室してきたのは、手入れの行き届いた革靴にグレーのスーツパンツ、紺色のネクタイ、ワイシャツの上に白衣を着た青年であった。
重いため息をつき、全員の視線が集まる青年の紹介を始める熊谷。
「えー…、本日より本事件の捜査に協力していただく真田悠真氏だ。」
室内がざわつき始める。真田は咳払いをして改めて自己紹介する。
「ご紹介に預かりました、真田悠真です。東京都文京区でクリニックを経営しております。今回の事件、『世田谷区代沢二丁目二十代女性路地裏殺人事件』の捜査に微力ながら協力させていただきます。よろしくお願いいたします。」
落ち着いてしっとりとした声が響く。室内が未だ困惑に包まれているなか、黒川も追加で情報を添える。
「こいつぁ俺の大学の頃の後輩。頭が切れるからちょくちょく捜査のアドバイスもらってたの。俺が成果出した過去の事件はだいたいこいつに助言貰ったから捕まえられたんだよ。んで、今回から正式に協力してもらおうと俺が本部長に話付けたってわけ。」
「はぁ…、あまり外部に捜査情報を話すのもどうかと思うが…、凌はそうゆうとこテキトーだな、昔から。」
「つーことだ。みんなぁ、気難しいヤツだが仲良くしてやってくれ。」
「黒川さん、まさかその人迎えに行ってて遅れたんですか?」
「そゆこと。」
真田は一同に丁寧にお辞儀をした。
「挨拶も十分にできていませんが、事件の概要の共有をお願いします。」
黒川と真田は小泉の隣の連続した二つの空席に座る。
困惑が未だ室内に立ち込める中、隅に座っていた気弱そうな一人がゆっくり立ち上がり説明を始める。
「え…えと、被害者は都内の男性用風俗で働いている23歳女性の小林春さん、事件発生日時は死亡推定時刻から9月23日午前2~3時の間と思われます。事件発生場所は世田谷区代沢2丁目○○番地近くの道路上で、被害者は右鳩尾から腹部全体を跨り左股関節にかけて衣服の上から『Ƶ』の字に切り裂かれており腸や膀胱などの腹部にある各種臓器が外側に散乱させられる形で放置されていました。死因は腹部を大きく切り裂かれたことによる失血死。近くに防犯カメラが少なく、目撃証言もゼロ。加害者の足取りは未だつかめていません。」
「被害者の生前の生活状況は?」
「えっ!?あっ、えと、被害者は一人暮らしだったそうで、家族は某ウイルスで全員亡くなっていて、それが原因で大学を中退、学生時代の友人も少なく最近は連絡も取っていなかったそうで…。」
「ねぇ、ご覧の通りもぉお手上げなわけ、悠ちゃんのその天っ才的な頭脳で犯人逮捕に繋げたいってぇワケ。」
「凌、私はその呼び方を了承した覚えはないぞ。それに私は天才というわけでは―――」
「どうだ?なんかわかりそうか?」
黒川の表情が真剣になる。それを見た真田は言いかけた言葉を飲み込み、配られた資料を手に取りパラパラと捲る。ざっくりと目を通し、資料を読み終えると、前のめりになり瞑目し始める。
「この事件、お前が頼りだ。犯人、ビシィッと当てちゃってくれよぉ。」
黒川の顔が締まりのない気の抜けた顔に戻り、真田の背中を乱暴にバシバシ叩き笑顔を向ける。
「はぁ…、私はエスパーや占い師じゃないんだ。今の情報だけでは個人を特定するのは不可能だよ。」
「……………ハハッ、そっかぁ…………。」
苦笑いののち天井を仰ぎ、フゥと深いため息を零す黒川。すると
「ただ―――」
真田がのそりと立ち上がり言葉を紡ぐ。
「多少は絞れる。…かもな。」
黒川が起き上がり子供のように目を輝かせる。
「おぉ!マジかよ!」
「マジだ。」
「流っ石ぁ、天才は違うぜぇ!」
「前から言ってるが、俺は天才じゃない。」
真田は軽く咳払いして話を続ける。
「根拠から話す。まず一つ目、資料の聞き込みで手に入れた情報の中の『被害者は駅までの近道としてその道を毎日使っていた』という点から犯人は世田谷区に住んでいる、もしくは被害者のストーカーである蓋然性が高い。」
「な?なに?がいぜんせー?」
「あぁ!確かに、最初から人が少なくカメラが少ないことを知らなきゃこんな大胆な犯行しませんもんね!」
「ねぇ?がいぜんせーってなぁに?おしえて?」
「そして二つ目、資料に添付されている傷口の写真から被害者は何らかの外傷の残らない手法で失神させられてから犯行に及んだことがわかる。」
「あぁ、そこは最初あたりから言われてました。しかし方法がわからなくて。」
「憶測に過ぎないが、刺激の強い匂いの薬品を直に嗅がせたんだろう。司法解剖はしたのか?」
「えっ!?あっ!え、ええと、確かしてないはずです。」
「ご遺体は?」
「えとえと、区役所に引き渡されて既に火葬されてしまってるはずです。」
「そうか。」
「ねぇ?無視しないで?がいぜ――」
「なぜ、薬品を使ったと思われたんですか」
「それが三つ目に繋がる。」
「俺ぁ置いてけぼり子ちゃんなのねぇ…。」
真田は一呼吸置き、先ほど自販機で買ったお茶で乾いた舌を湿らせる。
「最後に三つ目、臓器の散乱の仕方だ。」
「相当な恨みでも持っていたんでしょうか。」
「そうかもしれないが、私がおかしく思ったのは臓器が『綺麗すぎる』点だ。」
「綺麗すぎる点?」
「あぁ。通常刃物などで腹を深く刺したら腹部の臓器はどうなると思う?」
「ズタズタになりますね。」
「そうだ。普通は内臓が傷つき内容物が飛び出してきてもおかしくない。しかし今回の事件では臓器自体に傷がなく散乱した臓器は綺麗に摘出されたような状態になっている。小腸に至っては腸間膜が切除されてソーセージのようになっている。」
「あぁ、なぁるほど。大体言いたいこたぁわかってきたぜぇ。」
「つまりは、犯人は高度な外科の医療技術を用いて臓器を取り出したということになる。」
しばらくの沈黙のあと、真田は結論としての要約をする。
「犯人はおそらく、世田谷区やその近郊に住む医療従事者、または元医療従事者である。と、いうのが私の見解だ。」
小泉がふと疑問に思い、手を挙げ質問する。
「住んでいる場所をこの段階で絞っちゃっていいんでしょうか?」
「いやぁ。だいたい絞れンだろ。」
真田の代わりに黒川が答える。
「事件が起こった時刻はだいたい深夜2~3時あたり。となるとぉ、近くの電車はぜーんぶ終電過ぎちゃってンだよ。付近のカメラにゃ車も全然映ってない。つまり、犯人は徒歩で現場から逃げた可能性が高いってこと。いち早く現場から逃げたい犯人サンは呑気に始発も待てねぇだろ。」
室内の者はしばらく固まっていたが、しばらくすると真田の推理に納得したかのように頷きはじめる。
熊谷は数秒の逡巡の後、全員に指示を出す。
「よし、これより真田くんの推理を中心に捜査を進める方向に舵を切る。各自持ち場に戻り引き続き捜査してくれたまえ。」
「「「「「「 はい!! 」」」」」」
「では、解散!」
「じゃぁ、二人とも、捜査行くよ!」
「黒川!お前はちょっと来い!」
黒川は度々の問題行動により一か月の減給処分となり反省文を書く羽目になった。
部屋を出た真田は黒川と仲の良さそうだった小泉と共に捜査に行こうとした。
しかし、真田は不意に正体不明の違和感に足を掴まれ歩みをとめた。
真田は少し不安になり再び資料に目を落とし、文章を細部までじっくり読み始めた。
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捜査会議を終えた彼らはその後、休む時間を惜しみ一日中捜査をしたが有益な情報は得られなかった。
そして黒川の誘いで近くの居酒屋まで飲みに来ていた。
「…黒川さん、遅いですね。」
「…そうだな。」
午後8時50分、黒川という共通の知り合いのいない中、店の外で黒川を待つ小泉と真田。
小泉は気まずい空気の中なんとか話そうとと試みたが会話が続かず段々と逃げたくなってきた。
最終的に小泉は黒川のことを話題にすることにした。
「…あの、黒川さんって大学の頃からこんな感じだったんですか?遅刻とか。」
「…あぁ。凌は大学の講義にしょっちゅう遅刻してきてたな。」
「前からなんですか!?」
「サークルの飲み会にも必ず遅刻する奴だった。」
「あ、同じサークルだったんですね。」
「同じ文芸サークルだった。文芸サークルと言っても前に落語・漫才サークルと合併して、凌が落語、私が執筆活動をしながら落語の台本も書いていた具合だ。」
「あの人落語やってたんですか!?」
「あぁ、凌の独特のしゃべり方はその名残だ。」
「そうだったんですね。」
「君は?凌とはいつも一緒に仕事を?」
「はい。とは言っても、あの人自由すぎるんである種の監視役として面倒ごと押し付けられてる感じですけどね…。」
「心中お察しするよ。」
「あはは、なんかすみません。愚痴みたいになっちゃって。」
「いや、大丈夫だ。」
話が弾みしばらく黒川の話題で盛り上がった。
午後9時ちょうど、遠くから黒川が二名を連れてやって来た。
「おーい!待ったぁ?」
「お前が誘っておいて遅刻するとは、どうゆう了見だ?」
「わりぃわりぃ。」
「そちらのお二人は?」
「あぁ!所轄の子!一緒に仕事すんだから仲良くなっとこうかなぁって思って。」
三人の視線が二人に向かうと所轄の二人は軽く自己紹介を始める。
「こんばんは!自分は中村佑です。よろしくっす。」
「お疲れ様です。二宮麗華です。」
「二人とも今年入ってきた新人なんだと。ほら、君らも挨拶挨拶。」
「初めまして。小泉拓海です。」
「こんばんは。私は―――」
「真田悠真さんですよね。今日の推理めちゃすごかったっす。」
「どうも。」
「おし、自己紹介も済んだことだし早速飲んじゃいますかぁ!」
店に入り店員の案内したテーブル席に座る。
「皆は何食う?まとめて注文するけど?」
「僕はビールと枝豆で。」
「自分は生ひとつと唐揚げお願いします。」
「じゃあ、あたしもビールで。」
「ウーロン茶、あとは焼き鳥。」
「りょーかい。すみませーん!注文いいですかー?」
その後順番に運ばれてきた料理に舌鼓を打ち、会話に花を咲かせる一行。
「へぇ。真田さんって前は総合病院につとめてたんスね!」
「そーなんだょこいつすげーんだょ。」
「あまり人の過去のことを大声で話さないで頂きたい。そしてなぜ凌が得意げなんだ。」
「でも、個人で経営するクリニックだと大きな病院よりいろいろ大変なんじゃあないスか?ほら、おかねとか?」
「いや、私の場合本を出したり医療監修を引き受けたりしているからあまり困ってはいないな。」
「どんな本出してるんですか?あたし読んでみたいです。」
「推理小説を軸に、それとは別名義で医学書を何冊か。」
「推理小説をかいてるんですね。お医者さんで推理小説を書くのって、なんだか『コナン・ドイル』みたいですね!タイトルはなんていうんですか?」
真田からの返事はない。
気づけば真田はウーロン茶を傾けながら上の空になっている。
(…コナン・ドイル、……小説、………殺し方―――)
彼の思考の中を連想できうる限りの情報が突き抜ける。会議室を出た時点から魚の小骨のように引っかかっている違和感は、患者の体内にガーゼを置き忘れたかもしれないという不安に近しい感情は消えることなく真田の背中に張り付いたままだった。真田は思考の迷宮の入り口に足を踏み入れそうになる。
「真田さん?」
二宮の呼びかけではっと我に返る真田。深いため息とともに眉間を指圧で刺激する。勘違いだろう、きっと疲れているだけだと自分に言い聞かせた。そして、気持ちをしっかりと切り替え楽しい飲み会に意識を向けた。
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午後10時30分、宴会が終わり真田は家に帰って来ていた。誰かと食事をするのも悪くないなと無意識につぶやき、鍵を差し込み扉を開ける。真田の家はクリニックの上の階にあり普段は仕事が終わればすぐに家に帰れる贅沢な環境があった。
「風呂と歯磨き、…洗濯は朝にすればいいか。」
服を乱暴に洗濯カゴのなかに突っ込むと浴室に入りシャワーを浴び始めた。するとまた、抑えていた疑念が蘇ってきた。
「――『Ƶ』の字、か…。」
そう。彼を今日一日苦しめた違和感、それは
’’なぜ犯人はわざわざ『Ƶ』の字に切り裂いたのか’’
という単純なものであった。
真田の推理がもし正しいとして、わざわざ『Ƶ』の字に裂く必要性があったのか。内臓を取り出し易いコの字やただの十字でもよかったのではないか。しっかりとした外科の人間であれば『Ƶ』の字に切り裂くなんて面倒なことはしない。
―――嫌な予感が背筋を伝う。
「…凄まじい恨みを持った何者か、もしくは―――、」
シャワーの水を止め、髪から滴る水滴の音が浴室に響く。
うつむいたまま髪を掻き上げ、小さく低い声でつぶやく。
「頭のおかしい愉快犯か。」
正面の鏡に映る真田の表情はひどく険しく恐ろしいものになっていた。
シャワーを終え寝巻に着替えた真田は寝室のベットの上に投身する。アラームの設定を確認し、枕元にあるアイマスクをつける。リモコンを手探りで探し電気を消す。そうして、底なしの沼に堕ちるように眠りについた。
時計は午後10時50分を指していた。
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午後11時5分、真田はゆっくりベットから上体を起こし、背伸びをして、指や首をポキポキと鳴らし、鼻から深く息を吸い、ゆっくりと声を出して吐き出した。
ベットから勢いよく飛び降りると、鼻歌交じりに家を徘徊する。
「♪~」
明らかにどこか様子がおかしかった。
真田と思われる人物はタンスの奥から隠されているように仕舞われた服を引っ張りだす。
鼻歌に続き、歌も歌いだす。
「ハッピバースデートゥーミ~♪」
電気も付けぬまま取り出した服に着替え始める。
「ハッピバースデートゥーミ~♪」
黒い靴下、黒のスラックスに革のベルト、ワイシャツを覆うブラックのテーラードジャケット、膝まで届く漆黒の革製ロングコートのボタンを腰あたりから開放し、黒光りする牛革の手袋を装着し――
「ハッピバァスディディ~ア―――、」
スタンドミラーに不敵な笑みを向ける。
「―――俺~♪」
不気味なほど黒を基調としたその見た目は革の仕業でねっとりとした光沢があった。
玄関に隠してある鈍色の中折れ帽を深々と被り、墨色のマスクを顔を隠すようにつけて、昼とは違うノワールの革靴を履き、その影は夜の世界に飛び出した。鍵をかける音を残し、怪物は音もなく階段を下りて行った。
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深夜0時すぎ、南原東は朝刊に掲載する文章を書き終え、上司の北西学と共に編集作業の仕上げをしていた。
「おい南原、締め切り間に合いそうか?」
「ハイ!もうすぐ終わりそうです!」
「よーし。終電には間に合いそうだな!」
「はい…、この前は僕のせいで遅れちゃってすいませんでした。」
「ガハハッ!いいんだよあれくらい!部下は上司に迷惑かけてナンボだ!」
「編集長…!」
「それに幸か不幸か、あの日火災?かなんかのトラブルで帰りの電車が超大幅に遅延してたからな!」
「あー!それ明日…もう今日か、の朝刊に載せてありますよ!鉄道会社曰く『誰もいない車両の座席の上でモバイルバッテリーが発火してた』らしいですよ。対応し始めた時にはかなり燃えてたそうです。」
「まー死者はいないんだろ?なら不幸中の幸いだな!」
「…そう―――ですかね?」
「それよりも、だ!」
北西はパソコンの編集中の画面を指さした。
その見出しには大きな文字で『世田谷に捨てられた惨殺死体』と書かれてあった。
「おまえは記事の内容はいいんだが、見出しがな…。」
「え?これじゃダメですか?」
「ダメじゃないが…、インパクトが無い。新聞は内容も大切だが手に取ってもらうには見出しのインパクトが無いとな。」
「アハハ…、苦手なんですよね。そーゆーの…。」
「まあ、センスは育てるモンだ!俺が何とかしてやる!」
「ありがとうございます!」
南原は深々と頭を下げた。
「いいか?こうゆうのはだいたい、有名な何かに例えるとわかりやすくて人の目にも止まるようになる。例えば―――」
北西はカタカタとリズミカルに文字を打ち出す。
画面にはでかでかと『切り裂きジャック、世田谷に現る』と書かれていた。
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「切り裂きジャック、…ねぇ。」
翌日の黒川は不機嫌そうな顔で柿を食べながら朝刊とにらめっこしていた。
「黒川さん、何してんです?今、仕事中ですよ?」
「んぁ?これ?二日酔いには柿がいいんだとよ。悠ちゃんが言ってた。」
小泉の殺意はすでに呆れと諦めの域に達していた。
「いやぁ、華木だからって飲みすぎたなぁハハッ。」
「いつの時代の言葉使ってるんですか?ホントに31ですか?」
「うっせぇ、親父が使ってたンだよぉ。」
「小泉くん、おはよう。」
二人の元に真田が合流した。
「あぁ、おはようございます。真田さん。」
「おっ!戻ってきた。」
「真田さんからも言ってやって下さい。仕事中はもうちょっと真面目に―――」
「小泉君も昨日はかなり飲んでいたね。二日酔いは大丈夫かい?柿ならまだあるが?」
そう言うと真田は懐から柿を取り出す。
「あんたの仕業か!?」
小泉の声が街中にこだまする。
そんな三人は世田谷にある総合病院近くの公園に集合していた。
「アポは取ってる。早速行こう。」
病院に入り受付で事情を説明する。
「真田様ですね。鈴木先生がお待ちです。」
奥の会議室のような部屋に案内された。
真田は本部のときと同様に扉を叩く。
「失礼します。」
「どうぞ。」
扉を開けると所々に白髪を生やし、度の強い眼鏡をかけた初老の男が椅子に座っていた。
「おひさしぶりです、鈴木さん。副部長になったんですね。」
「ああ、なんとかね。真田君の方はどうだい?大変じゃないかい?」
「はい。おかげさまで。」
鈴木は柔らかな笑顔で真田と握手をする。
「本日はお忙しい中、お時間を下さりありがとうございます。僕は東京都の警視庁の小泉と申します。」
「黒川です。本日はよろしくお願いします。」
互いに軽くお辞儀をしたのを確認して、真田は早速本題に入った。
「早速で申し訳ありませんが、この写真の女性に見覚えはありませんか?」
「んー?いやっ、見たことないねー。」
「そうですか。」
「なんでもいいんです!本当に見覚えはありませんか?」
小泉は食い下がる。
「悪いけど、少なくとも私は見たことがないねー。」
「そうでしたか、すみません。」
「しかし、どうしてわたしに聞きに来たんだい?」
黒川と小泉は言いづらそうに黙ってしまった。があっさりと真田が白状する。
「実は先日の事件で、犯行に高度な外科の医療技術が使用されたことが判明しまして。」
「ちょっ!?捜査情報!」
「この人は信用できる。大丈夫だ。それで近くの病院に片っ端から聞き込みをしておりまして。」
「それって、もしかして犯人は医者かもしれないってことかい!?」
「はい。」
鈴木はしばらく思い悩むようにうつむき、ため息を零す。
「そうか…、命を救う医者が殺人を…。」
「残念ながら。」
「でも…、やっぱり見覚えがないよ。」
「それでは、職員の間で何か女性関係のトラブルなどの噂などは聞いていませんか?」
「うーん…、あ!そういえば、トラブルかはわかんないだけど。」
真田達三人はようやく現れた有益そうな情報に、前のめりになって話に神経を集中させる。
「いや、医員の一人がね、よく歌舞伎町に遊びに行ってるって話とか、あと他に…、ほら、あれだ。あのー、援助交際?だったかをしてるって噂があるっちゃあるんだよ。」
「…なるほど。」
「援助交際って、ほぼ犯罪じゃないですか。」
「だれがやってるかはわかんないんだけどさ、こっちでもそんな噂があると病院の沽券に関わるから、犯人探しがこっそり始まってるんだよ。」
「ほぉん。」
「女性関係のトラブルはこれくらいしか聞かないかな。」
そこまで言い終えると急に扉がノックされ、案内してくれた職員が慌てて入ってきた。
「先生!急患です!」
「えっ!?他の職員は?」
「全員手が離せないらしくて、今は先生しか。」
「わ、わかった!すぐ行く!」
鈴木は三人に向き直り、頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。今日はこれまでにさせていただきます。」
「いえ。こちらこそ貴重なお時間を、ありがとうございます。」
「もしよろしければ私も手術に協力させてください。」
「えっ!?ありがたいけど、君は別の仕事が…―――」
「それ以前に私は医者です。目の前の患者を放っておけません。私も先生のサポートなら問題なくできます。」
真田は力強く言い放つ。
「…分かった。すぐに準備をしてくれ。」
「はい!」
「んじゃぁ、俺たちゃ引き続き捜査してっから終わったら連絡ちょーだいね」
「すまないな。」
「いいんだよぉ。変わってないなぁ、悠ちゃんは。」
そして真田は駆け出して行った。
「すごいですね。真田さん。信頼されてる。」
「あぁ、あの人は真田がここで働いてた時からあいつのこと気にかけて、よく話しかけてくれてたんだってよ。」
「真田さんが働いてた病院ってここだったんですね!」
「そ。外科やってたみたい。」
「そうなんですか。なんで辞めちゃったんでしょう。」
「聞きたいか?」
小泉が零した言葉に黒川が神妙な顔で問いかける。
小泉は唾を飲み、ゆっくりと頷く。
黒川は小泉の耳に小さな声で囁く。
「―――院内政治。」
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物語には事実には即さない状況、少々強引な展開の運び方があります。
また、私の力不足によりわかりずらい点も所々あるかもしれません。
悪しからずご容赦ください。
人肉