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雪降る街の図書館の物語

 「ハイネさん!」

声が聞こえる。ウェーブのかかった灰色の長い髪の彼女はゆっくりと瞼を開く。すると、まったく知らない青年が心配そうな顔で彼女の顔を覗き込んでいた。大きな黒い瞳に困り眉の優しそうな顔。さらさらとした色素の薄い茶色の髪がストンと目にかかっている。彼女は床に倒れた状態でその青年に抱えられていた。

「ハイネさん⁉大丈夫ですか⁉」

その青年が自分のことを「ハイネ」と呼ぶことに違和感を覚えながら、彼女は起き上がり、小さく呟いた。

「あなたは誰ですか?」

「え?」

そして、彼女は片目を抑えて言った。

「私は誰ですか?」



 彼女の言葉を聞いて、青年は戸惑った。

「僕のこと分かりませんか?」

「はい……これはもしかして、記憶喪失なのでしょうか。だとしたら、これは……」

不安そうに両手を頬に添える彼女のことを青年は目を見開いて見つめる。

「とても心踊る展開です。」

「へ?」

青年は気の抜けた声が出てしまった。

「まるで、物語の主人公になったようではありませんか!ひょっとすると、記憶を無くす前の私は、智将と呼ばれた天才バッテリーの捕手だったのでは…….そしてあなたは、完全無欠の剛腕投手……」

彼女はキャッチャーの真似をして言った。

「違います。」

青年は言う。

「では、忘却探偵。あなたは犯人ではないのに毎回犯人だと疑われる史上最も運の悪い男。」

彼女は眼鏡をかけ、長い灰色の髪を持ち上げて、ショートヘアを模して言った。

「違います。」

青年はまたきっぱりと答える。

「僕の名前はジアン。」

ジアンは脱いでいた帽子を被り直した。

「ただのしがない郵便局員です。今日もこの図書館に郵便を届けに来ました。」

「図書館……。」

彼女はそう呟いて、周りを見渡した。壁には背の高い大きな本棚が聳え立っており、その中には無数の本がぎっしりと詰まっていた。

「あなたはハイネさん。ハイネさんは……」

「ええ、一つ思い出しました。」

ハイネは本棚にしまわれている本を手に取りながら言う。

「確かに私は天才バッテリーの智将でも、忘却探偵でもないようですね。」

ハイネはジアンの方に振り返り、こう言った。

「私はこの図書館のライブラリアンです。」



 「医者に診てもらったほうがいいのでは?とはいっても街には医者はいないので隣町まで行かないと……でも、ここは雪深い山奥なので、隣町行くのは大分時間がかかってしまいますが……。」

ジアンはハイネの身体を心配して、そう言った。

「いえ、大丈夫です。怪我をしたわけではありませんし、図書館の仕事は覚えています。仕事ができれば支障はありません。」

ハイネは床に散らばった本を拾いながらそう言う。

「で、でも!」

「仕事をしていれば、いずれ思い出すかもしれませんし、それに、ここを離れるわけにはいきませんから。」

ジアンは何も言い返せなかった。

「郵便物を届けに来たのですよね?受け取ります。」

ハイネはジアンに手のひらを向ける。

「ああ、そうでした!でも、これ差出人の名前がなくて送り主が誰なのかわからないんです。」

ハイネは封筒を受け取り、不思議そうに眺める。確かに差出人の名前は無かった。

「でも、この手紙のおかげで、ハイネさんに会う口実ができました。」

「え?」

「あ、いや、その……」

ハイネはジアンの言葉の意味がよく理解できなかったが、特に深くは考えなかった。

「私はもう大丈夫なので、お仕事に戻ってください。配達の途中なのでしょう?」

ジアンは葉書や封筒がいっぱいに入ったカバンに視線を移した。

「えっと、そうですね……あ、そうだ!本!本を借りていってもいいですか?」

ハイネはジアンのわざとらしい様子を不思議に思ったが、ライブラリアンとしてこう返した。

「ええ。もちろん。ここは図書館ですから。」



 「本、お好きなんですか?」

本を選んでいるジアンにハイネは話しかけた。

「……いえ、実を言うとちゃんと読み始めたのはハイネさんと出会ってからで。」

「……そうなんですか?」

「ハイネさんが好きなものを僕も好きになりたくて。」

ハイネは、そう言うジアンの横顔を盗み見た。ジアンの頬は赤くなっていた。

「まぁ、昔から辛いことがあるとよく図書館に行って、絵本や童話を呼んでいましたが……ハイネさん、言っていました。物語は、読むことで自分が選ばなかった、選べなかった人生を教えてくれると。」

ジアンは少し悲しそうに微笑みながら俯いて言った。

「もし僕の物語があったとしたら、きっと誰も読みたがらないだろうな。」

「え?」

ジアンはにっこりと笑って続けた。

「僕にとって物語は生きるための現実逃避の道具のようなものです。現実で起こった嫌な出来事や辛い出来事を忘れることができます。ずっと物語の中に居たいと思うくらい。」

そう言うジアンをハイネは見つめて言った。

「人生にフィクションは必要だが、現実とフィクションを混同してはいけないよ。Byにげみち先生。」

「誰ですか?」

ハイネは咳払いをして、何事もなかったかのように言い直した。

「ジアンさん。確かに物語は、私たちを別世界に誘ってくれます。辛くて、辛くてどうしようもない出来事は、この世界にありふれている。ずっと、物語の中に居たいという気持ち、痛いほど分かります。」

ジアンもハイネを見つめる。ハイネはジアンの心臓を指さして、こう続けた。

「けれど、物語を読んでいる間、そして読み終わった後に、心を震わせ感慨に浸るのは、現実に生きるあなたです。」

ハイネは優しく微笑む。

「物語は教えてくれます。この世界は素晴らしいと。」

ハイネの言葉を聞いて、ジアンは口に手を添えて笑う。

「何か、おかしいですか?」

「いえ、違うんです。ハイネさん、前にも同じこと言っていたから。」

「え?」

「ハイネさんはいつも僕に物語の話をしてくれました。本当にこの人は物語が大好きなんだって、そう思っていました。」

ジアンは口元を緩ませた。

「記憶を無くしても、僕の知ってるハイネさんだ。」

ハイネは、嬉しそうに言うジアンの顔に見惚れていた。



 「これをお願いします。」

ジアンはカウンターに座るハイネに本を渡して、自分の手首を見せる。

「返却期日は一週間後です。」

ハイネは左の手の平を本に記されているバーコードにかざし、中指につけた指輪でそれをスキャンする。そして、ジアンの手首に刻まれている翼の模様をしたバーコードに手を添え、情報を移した。

「はい!また一週間後会いに来ます。」

ジアンは言った後、少し恥ずかしくなっているようだった。頬が赤くなっている。

「もしかして、私は一週間で記憶がリセットされる女子高生……」

「そうだと困ります。」

ジアンはハイネの瞳を真っ直ぐ見つめて言う。

「僕のこと、覚えていてください。」

ハイネはジアンの瞳から目が離せなかった。

「……はい。」

ジアンが帰った後、ハイネは彼に対して抱いたこの感情は何なのかを考えていた。記憶を無くす前の自分も、彼に同じ感情を抱いていたのだろうか。ハイネは両手を頬に当てた。指先に熱が伝わってきた。

ベルが鳴るようなアラーム音がカウンターのパソコンから聞こえてきた。ハイネはパソコンのディスプレイに視線を移す。ディスプレイには一覧画面が表示されており、その中の一行が赤く染まって警告状態になっている。ハイネはディスプレイ上でそのレコードを指でタッチし、内容を確認した。ハイネは立ち上がり、本棚の前に立つと、本棚が自動で横や縦にスライドした。そして、目の前にやってきた本を手に取り、地下室に向かった。エレベーターに備え付けられている生体認証で虹彩をスキャンし、地下室に降りると、そこには両側の壁に面して、たくさんの凍りついたサーバーが立ち並び、ファンが回る音や電子音を発していた。そして部屋の中央には丸い網目状のエレベーターがあり、丁度、下から上に上がって来たところだった。中からは黒い髪の青年が降りてきた。

「お疲れ様です。ハイネさん。」

作業着を着た青年は、被った帽子を取りながらにこやかにそう言った。

「デリゲートをお届けに来ました。」

青年が降りてきたエレベーターには、ちょうどそのエレベーターに収まるくらいの筒状の透明なカプセルが積まれており、その中には、上と下からたくさんの管で繋がれた人の形をしたロボットの姿があった。

「ご苦労様です……えっと……お名前伺ってもよろしいでしょうか。」

「え?どうしたんですか?ハイネさんが冗談を言うなんて。頭でも打ちましたか?」

「はい、恐らく頭を打って記憶喪失になってしまったようです。」

「えー⁉記憶喪失!?そんなこと本当にあるんですか?まるで物語の出来事ですね。」

青年は大げさに声を上げる。

「ええ……。」

「仕事は?ライブラリアンの業務はできているんですか?登場人物の消失、外部からの攻撃、予期しないエラーの発生、これらの物語の整合性を脅かす事象を対処するのが、ライブラリアンのハイネさんと僕たちメンテナーの仕事。そうですよね、ハイネさん?」

ハイネは手に持っている本をメンテナーに見えるように持った。

「はい。タリナ001f45b0aa72のの消失通知が届いたので、ここに。」

「へー。ちゃんと覚えてるみたいですね。良かった良かった。ハイネさんがいないと世界中の物語に綻びが生まれてしまいますからね。」

「で、こちらがタリナ001f45b0aa72 アクターBのデリゲートです!」

メンテナーは後ろのロボットに視線を移す。ハイネはロボットの顔を見てから、手首のバーコードに視線を移した。雪の結晶の模様をしている。

「え?もしかして忘れちゃいました?デリゲート。物語の登場人物が消失したときの代役……代わりの模造品ですよ。デリゲートのバーコードは雪の結晶の模様をしています。あ、ちゃんと消失したアクターとタリナの紐付け切りましたか?これからデリゲートを設置しに行くのに、オリジナルが戻って来たら困りますからね。」

「わかっています。」

ハイネは左手の指輪で本のバーコードを読み取り、警告状態になっていたレコードと同一のものか確認する。間違えなければ、タリナとデリゲートの紐づけ処理を行う。ハイネが右手で指輪を撫でると、空中にディスプレイを表示された。ハイネはそのディスプレイ上で操作を行い、デリゲートのバーコードを読み取る。

「アクターBとの紐付け完了しました。これでこのデリゲートにオリジナルの記憶が引き継がれました。」

「はーい、了解でーす。じゃあ、持っていっちゃいますね!」

青年はそう言うとエレベーターに乗り込んだ。エレベーターのドアが閉まりきる前に、青年が思い出したように言った。

「あ、僕の名前、伝えてなかったですね。僕はトーカ。よろしくお願いしますね。」

ドアはガシャンと音を出して閉まり、トーカはデリゲートを連れて下の階へ降りていった。トーカを見送ったハイネは腕時計に目をやると閉館時間になっていた。急いで図書館の入り口に行き、扉にクローズの札をかけた。外には雪が降っていた。白い息を吐きながら、ハイネは呟く。

「また、一週間後。」

パタンと音を立てて、扉が閉まった。



 「はい。ご返却ですね?この物語はいかがでしたか?」

ハイネは本を返しにきたジアンに感想を聞く。

「はい!とっても面白かったです!」

「それはよかったです。ジアンさん毎週借りていってくださるので、ライブラリアンとしてとても嬉しいです。今日も借りていかれますよね?」

「いえ、今日はやめておきます。最近仕事が忙しくて読む時間がなかなか無くて。」

「そうですか……。」

ハイネは少し残念に思ったが、表情には出さなかった

「では、仕事が落ち着いたらまた来ます。」

ジアンがそう言ってから、一ヶ月が過ぎた。まだ仕事が忙しいのだろうか、もう本に飽きてしまったのか、そんなことを考えて、毎日、彼が扉を開けて、あの優しい顔で笑いかけてくれるのを待った。ジアンのことを考えれば、考えるほど、彼に会いたいという気持ちが募っていった。彼も私に会いたいと思ってくれているだろうか。ハイネは赤らむ彼の顔を思い出す。ふと、ハイネは前にジアンが届けてくれた封筒を開いていないことを思い出した。カウンターの引き出しから封筒を取り出し、中身を見る。しかし、中に入っていたのは、何も書かれていない真っ白の紙だった。差出人不明の手紙。住所はこの図書館で間違いない。ハイネはしばらくその白紙の紙を見つめると、思い立ったように、引き出しから新しい便箋を取り出し、その便箋に図書館の住所を書いた。差出人の名前を書かずに。これで彼は、ここに来てくれるだろうか。

手紙をポストに出しに行くため、外に出ようとしたとき、顔から何かが剥がれ落ちた。ハイネは咄嗟に何かが剥がれた部分を手で押さえた。

「え?」

急に身体に力が入らなくなり、ハイネはその場に座り込んだ。ハイネは何が何だかわからず、抑えた手を離し、恐る恐る近くに置いてあった鏡に目をやった。彼女は目を見開いた。鏡に映っていたのは、皮膚が剥がれ落ち、無数のネジや管が剝き出しになっている自分の顔だった。

「何、これ……?」

ハイネは手首に嵌めたバングルを取った。すると、雪の結晶の模様のバーコードが刻まれていた。

「あーあ。だめじゃないですか。ハイネさん?作者が作ったシナリオ通りに動いてもらわないと。」

混乱するハイネの目の前に、メンテナーのトーカが姿を現した。トーカは不敵な笑みでハイネを見下ろしていた。


『これは、私の人生ではなかった。

彼にあんな顔をさせるのは私ではなかった。

これは、私ではない、別の誰かの物語。

私はその代役だった。』

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