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門が閉まりきってから、俺は前を見る。
ゴブリン共が以前と変わらない様子で街の外を彷徨っていた。団長は器用に馬を操りながら一匹、また一匹と突撃してくるゴブリンを切り裂いていく。
「話を聞いてくれるか」
団長が突然そんな事を言った。俺は咄嗟に「え、はい。もちろんです」と口にする。
「騎士にしかなれない私にとって妻と子供達はいつだって希望の光だった。家に帰ると灯りが灯っている。それだけで生きて帰れたのだと深く実感したものだ」
そんな言葉を恥ずかしげもなく言える大人を俺は初めて見た。
団長の顔は見えないけれど、いつか見た馬車を見送る優しげな表情では無いか、と思った。
「ヒカリは妻に似てどんな時でも気丈に振る舞おうとする。それはヒカリ自身が苦しいであろう時でも一切変わらなかった。特に私や妻には苦しい姿を見られたくないようだ。それが心配でね。ヒカリも大きくなったから、きっと私の大きなお世話なのだろうけれど」
「…」
「だから、カゲルくん」
俺はその時、団長から初めて自分の名前を呼ばれた事に気がついた。
「はい」
「君の、ドレェスダンスの騎士としての勤めは私が継ぐ。だから私の娘を見守る勤めを君に継いでほしい。それと…ヒカリが許したならになるけれど、娘が苦しんでいる時に側にいてあげて欲しい。それは君にしか出来ない事だろうから」
「え」
俺はしばらくポカンと口を開けたままでいた。
その背中は何も答えてくれない。
俺は口を開けたまま、動かない馬の背中の上で周りを見た。いつの間にか西の方へと進んでいたようだ。マイム川まで丘を越えればすぐの所にいる。
周辺にはちらほらとゴブリンが見えるけれど、こちらに向かって来ているゴブリンは見当たらない。
「ここでしばらくのお別れだ。カゲルくん」
俺は「えっと」と呟きながら馬から降りた。
「あと個人的なお願いなのだが、これを私の妻に渡してほしい」
馬に乗ったまま団長が差し出したのは手紙だった。これを書いていたのか。
「てっきり遺書かと」
と、俺は受け取りながら呟いた。
「まさか、私は息子を守って生き残ると妻に誓っている。それにドレェスダンス侯爵がこうなった時のために南の傭兵団と交渉を進めてくれていた。明後日ほどには傭兵団が来る。それまでの辛抱だ」
「そうだったのですか」
俺は眉を顰めながら頷く。
少しドレェスダンス侯爵の言った言葉が気に掛かった。
「娘は私達にとって生きる光だった」
団長はそう言った後、丘の方を見た。沈んでいく太陽が赤く俺たちを照らしている。
「無事であってほしいが」
俺は団長の方を見る。その背中はどこか暗い。影になっている。でも、この暗さはそれだけじゃ無いように思えた。
「最後に…少ないけれど」
袋を渡される。中には小型のランタンなどの野営に使えそうな物と大量の金貨が見えた。
「大事に使わさせていただきます」
俺は深々と頭を下げる。
団長は頷いてから、ドレェスダンスの方へと馬を走らせていった。
俺はそれを見送った後、丘を登り始めた。登ると言っても丘は緩やかなものだ。
緩やかなものなのに…途中から足が震えだし止まる。
「なんだ」
俺は奥歯を噛み締めながら震える膝を強く手で抑える。そうしないと揺れが勝ってしまうからだ。
理由を考えて思い出したのは数日前の記憶。
「この雨だろ?川が突然氾濫して流されたり橋が沈んで立ち往生とか。昔も雨の日に子供が川で流された事があったじゃん」
それでも、と俺は一歩ずつ踏み出していく。足元の砂利はまだ濡れている所が見える。草を踏めば雨の残りがブーツを黒く濡らす。空気は湿っていて、雨と川の匂いが混じっている。前に進まなければ、川がどうなっているのかすら分からない。
丘を登っていく途中で、ふと後ろを振り返って立ち止まった。
ゴブリンはここから見えただけでもまだまだ残っている。ただ倒さなくては、という気持ちはもう起きない。
結局、俺は英雄なんかじゃなくて、あいつらと並んで居たかっただけだったんだろう。
あいつらが貴族になった時、俺も隣で笑っていたかった。それだけだ。
「楽しかったな」
朝起きて絵を描いて、あいつらと仕事をして、夜はみんなで酒を飲む生活を思い出す。
それから小さく息を吐き出してまた、丘を登り始めた。
「今はさ。大事な人がいるんだ」
地面に向かって呟く。
本当は全て丸く収まって欲しかったけれど、俺は弱くてそこまで出来なかったよ。
みんながいれば何か変わったのかも、なんて無茶か。
「あっ」
土を見ながら歩いていると俺は丘の上に来ていた。ここから先は下り坂だ。
息をすると肺が川の生臭い泥の匂いで満たされる。
ふと、頭を過ったのはいつだったか雨の日に見た茶色の川。いつもより流れが早かった事を覚えている。泥の匂いに頭が反応したからだろうか。
ーー昨日まで雨が降っていたんだ。
そうなっていてもおかしくは無い、そう思った途端に手が震え出す。
俺は思い切って勢いよく顔を上げた。
見えた川は白く光り輝きながら穏やかに揺れている。ヒカリと見た時の川のようだ。
俺はその光景にクシャリと顔を歪ませる。湧き上がってくる強い感情の波に流され、目頭から熱い涙が溢れ落ちる。
俺は思わずその光に泣いてしまう。
その後、しばらく濡れた地面に膝をついて震える両肩を抑えながら涙が流れるままにしておいた。
「大丈夫」
と、自分に言い聞かせるように言った声が震えている。鼻を強くすすり上げて顔を上げた。
悔しさや恐怖のような感情が体の中で湧き上がり、すぐに涙が外へと流す。
「ヒカリに会える」
それだけは流されないようにはっきりと口にした。途端に頬が熱くなった。
何をやっているのだろう、と俺は小さく笑う。
立ち上がり川に沿って西の国へと強く走り出した。
その翌日のことだった。
「よお、そんなに焦って親友の為にでも走ってんのか?メロスみてぇだな?」
飄々とそんな意味不明な事を言う不思議な格好の男と出会った。髪と顎髭は黒く、体はがっしりとしている。ただ筋肉のつき方から労働で鍛えた感じではない。服装はズボンにシャツなのに見た事もない素材をしている。異国の素材だろうか。どこか上等そうな素材だ。
肌も綺麗にしているようで相当な身分のように思えたけれど、態度がそう感じさせない。
「あんた何者なんだ」
俺は聴きながらソッと剣に手をかける。狂人や人間に化けた化け物だって存在するかもしれない。彼の態度は充分にその可能性を秘めているように見える。
「俺?俺は異世界テンイシャってやつだ。知ってる?知らないか。国家機密だもんな…いや国家、でもないのか?」
「テンイシャ?わけのわからない事を」
「そんな事を言われたって俺もよくわかってないんだ。そういうお前はどうなんだよ。どこ急いでんだ?」
「身元不明の人間に答える義務がないな」
「そりゃまぁ仕方ないな」
と、意外と簡単に引き下がった。俺はさっさと男を置いて先に進むべきかを考える。男の言った国家機密というのが少しばかり気になるものの置いていく、という結論に達する。
ふむ、と男は顎髭を撫でた。
「じゃあこれで」
と、先に行こうとする俺に男が背後から「お前、西の国に行くんだろ?今は通行禁止だぜ。この紙がない限り」と言った。眉を顰めながら振り返る。確かにそんな事を書いた紙が男の手にある。けれど西の国と戦争中でもあるまい、突然の通行禁止より詐欺師の手段と考える方が妥当だった。
「俺と一緒に来れば西の国に入れるけれどな」
男は俺にそう持ちかけてきたのだった。




