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今なら護衛を躱して抜けられるかもしれない。
一撃、首に剣を差し込むだけの力はまだ、ある!
不慣れな左手で剣を強く握りしめる。
一歩、体を倒しながら前へと踏み出す。
走りながら俺は顔を左右に振る。俺に気付いたオークがいない事を確認した。
周りでは上官達が激しい攻防を繰り広げている。近くの上官から血飛沫が空に向かって散る。遠くの方では刃と刃がぶつかっている。砕けた剣身が宙を煌めきながら舞っていた。
「頭ひとつ抜けるな」
俺は走りながらそんな言葉と共に懐かしい友達の声を思い出す。ニヤリと笑ったあいつの顔まで鮮明に、まるで横に立っているように。
…あれ、いつの会話だっけ。
さらに一歩踏み出す。
「英雄…か。確かに!」
鼻息を荒くしながら、そう言ったあいつの言葉を思い出す。
俺は小さく「英雄」と呟いた。あいつらは村人を守った英雄として生きたのか。
俺はオークの薙ぎ払いを屈んで躱し、さらにゴブリンキングに距離を詰めた。
このままいけば、俺はゴブリンキングを討伐した英雄。
脳裏に浮かんだのはあいつらの二つ並んだ墓石と添えられた二つの花。
前に飛び込むようにして躱した俺の背後で爆発のような音が響く。先程頭上から振り下ろされたハンマーにギリギリ気がついて躱したのでそれだろう。もう後ろを振り向く余裕は無い。
一気に周りが暗くなる。崖にできた洞窟の入り口に差し掛かっていた。大きく口を広げて出迎えている。もうゴブリンキングまであと数秒。オーク達が俺の背後から何匹も何十匹も追いかけているのだろう。地響きのような足音が背後から聞こえてくる。
俺の視界の先でゴブリンキングが積まれた布の上に座っていた。逃げる事もせずに落ち着いた様子で佇んでいる。王としての余裕なのだろうか。
息を大きく吸って飛び込めば…ゴブリンキングに剣が届く距離にいた。
ふと、世界に音が無くなる。
ーーカゲル…生きてね。
優しく、辛そうな声。俺を真っ直ぐ見上げてくる水色の潤んだ瞳。掴まれた服の重さ。
頭は足を止めるなと激しく警鐘を鳴らしていた。
心が「生きていたい」とそれを否定する。
「…ヒカリ」
俺は、呟く。
再び音が戻ってくる。と同時に俺は腹を抉られるような痛みと共に宙を高く舞っていた。
回る視界の端で見えた。ゴブリンキングが王笏を振り抜いた姿。
「そうやって使う物じゃねぇよ」
所詮は獣か、と鼻で笑う。すぐに体は地面に激突して何度か跳ねながら転がった。揺れる視界に血が滲んでいる。左目は開かない。
もはや痛みは慣れるというか、感覚の上限を超えたらしく、痛いのが当たり前になっている。
頭が上がらないので地面を見ながら震える手を前へと伸ばす。肘をつきながら片腕で這って進んだ。生きると決めたからには逃げなければ。
「情けねぇな」
地面を這って逃げる己の惨めさに笑いが出る。
ーー弱い。
大きく振り翳されたハンマーの影が地面に伸びていくのを見た。
俺はゆっくりと目を閉じ息を吸う。
「撤退だ」
そんな声が頭上からした。目を開けると俺は団長に服を掴まれ持ち上げられている。
団長の馬が追ってくるオークを躱し、俺と団長を乗せて戦場を駆け抜けていく。辺りを見渡すと、同じように後ろに仲間を乗せた騎士達が撤退している。逃げる馬の数は半数ほどになっていた。
「あれ以上の攻勢は無理だ」
続ければ全員が死ぬことになる、と団長が呟いている。
俺は馬に揺られながら雨に打たれた草のように頭を垂れて「はい」と小さく口に出す。戦っている時の浮かれていた気分はすっかり萎んでいた。
その後、ドレェスダンスに戻り俺は治療を受ける。動かなかった腕を戻してもらい、開かなかった瞼を水で冷やした。腸がズレているかも、と俺の真っ青な腹を触った医者に言われて内心、だろうな、と頷いた。あと肋骨も折れていたらしい。若いから安静にしとけばなんとかなる、と言われこの情勢の最中安静に出来る人間はいないと思う、と返した。
それから俺は医者に嫌な顔をされながら病院を出て詰所に向かう。もう俺はこのドレェスダンスでただ生き残る事だけに専念するつもりだ。
その時、ちょうど沢山の従者を連れたドレェスダンス侯爵が馬車に乗り込む所に出会した。俺はそっと身を隠し侯爵の様子を伺う。どうせ立ち止まらなければならないのなら、隠れていた方が身を正さなくていい分、楽だ。
ドレェスダンス侯爵は険しい表情をしながら親指の爪を噛んでボソリと「こうなれば悪魔でもなんでも魂を売ってやるね」と呟いた。
ーー不穏だな。
俺は侯爵をやり過ごした後、詰所に入った。入ってすぐに団長が腕を組んだまま険しい表情で上官と話をしていた。俺は「お疲れ様です」と頭を下げて横を通りすぎる。
「君か。かなりの重体に見えたがもう大丈夫なのか」
俺は背後から団長に声をかけられた。
振り返り背筋を伸ばしはっきりと「はっ!すぐに仕事に復帰できます」と答える。
「そうか。だったら先の作戦の失敗を私は償いたい。遊撃に出て少しでもゴブリンを減らす。君もそれについて来なさい」
「はっ!お供いたします」
内心、そうか、と呟いた。失敗の代償はどれほどだろうか。命、までは取らないでほしいけれど。だれがそれを決めるのだろう。神様だろうか。
まぁそれなら確かに悪魔にでも魂を売りたくなるな。一時だけでも生きながらえさせてくれ、と。
「私も行かせてください!」
先程まで話していた上官が声を上げた。
険しい表情は覚悟の表れだろうか。さすが騎士の中でも上の立場にまで登った人だ。
「君は良い。先の作戦の戦術自体は間違っていなかった。もっと積みの盤面になる前に私が動くべきだった。私の戦略ミスだ」
そう言って団長は上官の肩を叩いた。上官は涙を浮かべながら天井を見上げ「しかし」と尚も呟く。
「君にも家族がいる。私は騎士で団長だ」
上官の表情が歪む。上官は顔をクシャリと歪めたまま俺の方を見て「カゲル!生きろよ」と言い頭を下げてその場を去っていった。
「門の所で少し待っていてくれ。手紙を書いたらすぐにいく」
詰所を出てすぐにため息が出た。
「暑いなー」
声に出しながら手で太陽の光を遮り空を見上げる。太陽はだいぶ傾いていた。もうすぐ夕暮れ時になるだろう。
その時、垂れた汗が傷口に沁みて思わず頬が引き攣った。
また、ため息が出る。
それから俺は重い足取りで家に帰り飾ってあったキングの駒を懐に仕舞い、キャンバスを片付ける。当分描けそうにない。いずれ逃げるにしても持っていけないし。
「手紙…」
団長は手紙を書くと言っていた。俺も書いておくべきだろうか。
結局、迷った挙句、決めきれず時間を理由に家を出た。門までの道中、街では朝になかった異変が起きていた。
「火事だ!」
「馬屋が燃えてるぞ」
「魔法の火が移ったらしい」
慌てた様子で騎士達が走っている。
俺は騎士達の走っていく先を目で追う。こちらに向かって馬が燃えながら走って来ていた。痛々しいその姿に眉を顰める。馬は出鱈目に頭を振って暴走しているように見えた。火はかなり大きいようだ。出火元の馬屋は家に隠れているけれど、ここからでも分厚い灰色の煙が屋根を越えて空に登っているのが見える。言われてみれば流れてくる空気もどこか煙臭い。
「逃げろ!」
「水を持て!」
そんな怒号が聞こえてくる。
道の先で黒い人影が道の真ん中へと倒れ込んだ。焼けている、とここから見ただけで分かる。一瞬、村での悲惨な光景がフラッシュバックし頭を手で抑えた。視界の端で煙が大きく揺らいで炎の先が見えた。どうやら馬屋が崩れたらしい。
突如、けたたましい音が鳴る。音の方を見ると馬が扉にぶつかり倒れ込んでいた。またそこから新たな火事が始まる。
ふと、どこかで見た事のある光景だと思った。
「あぁビスカヤだ」
俺はストンと腑に落ちて思わず口に出していた。地獄のような光景がそこにはあった。
それから俺は門の所でしばらく待って団長と合流する。その後、団長の馬に乗ってドレェスダンスを出た。
俺は街へと振り返る。
もう二度と見れないかもしれない景色を頭に刻み込むために。
俺の視界の先でゆっくりと門が閉じていった。




