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俺は扉を開けたまましばらく無言で立ち尽くしていた。
ヒカリは何も言わない。ただ少し見上げるようにしてジッと俺の目を見ている。俺の答えを待っているのかもしれない。
「そう…なんだ」
と、何度も頭を上下させて頷いていた。
血が二人を別つ時が来たのかもしれない。ただ、思っていたよりもずっと早かった。頷いていた頭が次第に上がらなくなっていく。
しばらく玄関の床を眺めて、ひとまず立ち話でするような話でもなさそうなので家に入る。
俺は「昨日のお客さんが来なよって?」と水の入ったコップをヒカリに渡してベッドに腰掛けた。
「うん。親戚の叔母様に後取りがいなくて私を養子にしたいって言われて」
「後取りがいなくてヒカリを養子に?」
基本的に家は長男が受け継ぐものだ。ヒカリを養子にするにはそれなりの理由が必要だった。
「貴族の旦那さんは結婚後すぐ戦場で亡くなったそうで。受け継いだ土地の管理は元々叔母様が行っていたからか、跡取りはどうしても女の人が良いらしくてそれで私に話が回ってきたんだって」
凄い人だな、と頷きながら少し笑う。
「うん。凄くカッコいい方だった」
「…そっかぁ」
呟いてベッドに手をつき天井を見上げる。女性の侯爵…そういうのもあるのだろう。
しばらくの間、どちらも何も話さなかった。チラリと横を見るとヒカリが俯いたままベッドを握っている。ヒカリの表情は暗い。この先、不安なのかもしれない。当たり前か。俺だって不安だし、この都市にいる人々、皆この先の不安を抱えているはずだ。
「ヒカリなら大丈夫だよ」
と、言ってヒカリの肩に頭を載せる。
「それにヒカリはやりたいんでしょ?その叔母様の後継者」
「分からない。でも、そうだと思う」
と、小さく首を横に振っているのが頭に当たる髪の感触と揺れる肩で分かる。
ヒカリはやりたい事を自分から言える人だ。チェスをしたいだとか、川に行きたいだとか。
今回の件を受けようと思ったという事は昔から嫌がっていた良い所の娘さん、という立場になってしまう事以上にやりたかったのではないだろうか。
「私さ、騎士になりたかったのって自分の身を守れるからだったんだよね」
「それは…」
「物理的にって事じゃなくて精神的に。どこだって剣一本でやっていけそうじゃない?」
「まぁ確かに、転職先は多そうだね」
少し笑って頷く。
世界中にはまだ魔物も野盗も溢れている。
「騎士団団長の娘としてクルクル踊ってお金と権力のある殿方の家で首輪をつけられるより、剣一本でどこまでもいける騎士に憧れてた」
「あぁ…だから」
と、呟いて俺は頷く。
「うん。叔母様の元で剣じゃなくて筆を持つ事にしたんだ」
それがヒカリのやりたい事。
カッコいいと思う、とヒカリの肩から顔を離し笑って頷いた。
これまで中途半端だったから、とヒカリは小さな声で呟いていた。中途半端、とヒカリの事を思った事は無かったけれど、慰めるのも何か違うような気がして手を握るに留める。
また少し無言の間があった後「カゲルは…やっぱり残る?」とヒカリが口を開いた。
「そうだね」
「…それはみんなを守るため?」
俯いていたヒカリが笑いながら顔を上げて俺の方を見る。
笑っているのにその笑顔があまりにも痛々しく見えて俺は顔を顰めた。
「…違う」
と、首を横に振る。
元々、ゴブリンを見ただけで逃げ出してたし、戦いに慣れても人を救う事なんてあんまり考えてない。そうありたい、とは思っているけれど、それもどこまで思っているのか分からない。多分、俺の中にある真実はこれだ。
「ヒカリ…お願いがあるんだ」
「なに?」
濡れた目で俺の方を見ながらヒカリは首を傾げた。
「ちょっと待っててほしい」
「ずっとは待てないよ」
「分かってる」
俺が頷くと同時にヒカリの顔がクシャリと歪んだ。
「嘘、ずっと待ってる」
と、言いながらヒカリの目からは涙が溢れ出していた。
俺はヒカリを胸に抱き寄せる。ヒカリはしがみつくようにしながら泣いていた。
揺れる背中を撫でながら、これからどうなるんだろうな、と希望の見えない未来に落ち込んだ。西の国へ行って貴族の後継になるということはきっと今以上に血に縛られる。今だって何もしてあげられない俺との差はより一層深まるだろう。指を咥えてヒカリの行く末を見守るだけになってしまう。それじゃあダメだ。
「カゲル…生きてね」
ヒカリが服を掴んだまま水色の目に涙を溜めて見上げてくる。
頷いて、ベッドの横に飾ってあったいつか買ったチェスの駒を取った。白のキングと黒のクイーン、クイーンと呼ばれているが昔は大臣や宰相の意味がある。白のキングは次期女貴族になるヒカリにちょうどいい。
ふと駒を見ながら嫌な妄想が頭をよぎった。ゴブリンの巣に頭蓋骨と共に置かれる黒い駒の姿。
ゴブリンは食べられないものをゴブリンキングの元へと集める。多分、拳ほどの大きさをしたチェスの駒は食べられずに巣に持って帰られるだろう。縁起でもない、と苦笑いを浮かべた。
「ヒカリ持ってて」
と白のキングを渡す。
ヒカリは白のキングを指で撫でながら「懐かしいね、これ」と言う。
「ガラス工房のやつだね」
「もう職人の方はいないかな」
「あの人ならずっと火の前でいそうだけどな」
ヒカリは目と鼻の辺りを赤くしながらフッと吹き出すように笑って「そんな雰囲気はあるね」と頷いた。俺は微笑みながらソッとヒカリの目元に指を伸ばして涙を拭う。
出会った時、あれほど無表情だった君がこんなにも沢山の感情を見せてくれるようになって、その一つ一つが凄く愛おしく思えた。
「今だから言えるけどさ、カゲルとちゃんと話し出してから、この人チェス好きすぎじゃないって思ってた。会ったら絶対まずチェスなんだもん」
衝撃的な発言に思わず顎が落ちていた。えぇ!?と素っ頓狂な声が出る。
「ヒカリの方こそチェスにしか興味ありませんみたいな態度だったじゃん」
「チェスはそりゃあ好きだけどー…えぇ!?分かってなかったの?まぁ確かにずっと敬語だったもんね」
「え、いつから?」
「いつ?いつだろ?カゲルが敬語やめたあたり?」
ヒカリは首を何度も左右に傾けている。
あー、と天井を見上げた。
敬語を止めたのはいつだろう。結構前だ。
「あれから魔法見せたり、遊びに行ったり楽しかった」
「西の国でもまた遊ぼうよ」
そう口に出した途端、どこか薄っぺらく感じる。それでも何かに急かされるように「お店回って、また魔法も見たいし」と続けた。
「約束」
「約束」
お互い顔を見合わせたまま頷く。それから沢山の約束をした。
死なない事、怪我しない事、無茶しない事、ドレェスダンスから抜け出せそうならすぐに抜け出す事。
そしてずっと好きな事。
この互いに握った手を忘れないように。
その後、ヒカリとの別れの日はすぐに来た。
その日はあいにくの大雨で雷が激しく鳴っていた。城壁に手をついてヒカリの乗る馬車を遠くから眺めていた。時折緩い風が俺の被ったフードを揺らす。
多くの護衛に囲まれながらヒカリの乗った馬車が出発を始める。ヒカリの乗っているであろう馬車は一際装飾されていて、その権威を見せつけていた。多分、ヒカリのお母様も乗っているのだろう。
気分は頭上に広がる雲のように重く暗い。友達もカイちゃんもヒカリもいないこの街はどこか澱んで見えた。
もうドレェスダンスの周りではゴブリンどもが彷徨き始め、今日でほとんどの住民が避難を終わらせる。後に残るのは騎士達だけになった。
俺がちょうどため息を吐き出した時だ。
「娘は良いのか?」
背後から低い声が聞こえてきて慌てて背筋を伸ばして振り返る。一瞬で全身に冷や汗が出ていた。
そこにいたのは騎士団団長で黒い立派なコートを纏い胸を張り腕を組んで俺を見下ろしていた。団長の横では従者が傘を掲げている。
質問に対して答えに詰まった。娘は良いのか、という質問がいつだって淡々としていて行く末には何の不安も無さそうな団長の口から出てくるような言葉に思えなかった。一瞬、聞き間違いかと耳を疑う。
それから去っていく馬車の方を見ていた団長の悲しそうな表情を見てハッとした。当たり前か、団長だって人間だ。
俺は横に小さく首を振りながら
「よくありません。心が引き裂かれそうです」
と、心のあるがままに伝える事にした。
「そうか」
団長は淡々と頷く。
俺は一度しっかりと息を吐き切ってから大きく息を吸って顔を上げた。手には汗が滲んでいる。
空が青く輝き雷鳴を轟かす。雷が近くに落ちたようだ。
「お願いがあります」
「なんだ」
「ゴブリンキングの討伐隊に参加させていただきたい!」
騎士団団長の鋭い目が俺の心の芯まで凍り付かせた。
それでも俺は引かずに見つめ返す。
この未曾有の災害を終わらせる一手、キングを追い詰めるチェスでいう所のチェックの一端を担いたい。それが俺の考え着く限り最短でヒカリの元へ戻る方法だった。




