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転生悪役令嬢はこの世界がわからない

作者: 鈴川真白

 悪役令嬢は学園の卒業パーティーで断罪される展開がお決まりだ。


「何、ですって……?」


 突然、自分の頭に浮かんだことに思わずこぼれた言葉。目の前にいるクロード殿下がわずかに眉をひそめた。


 そこから、次々浮かび上がって来た記憶は間違いなくこの世界でこれまで歩んできた人生のものではなかった。


 今のわたくしのものではない人生の記憶──前の人生の自分であるとすぐにわかった。家族もいて友達も彼氏もいて、幸せな高校生活を送っていたが闘病の末に亡くなった。彼氏と結婚することはできず、冗談交じりに来世ではなんて約束をした。


 正に今がその来世になるわけで。来世があるとも、まさかこんなにファンタジーな世界に生まれ変わるとも思っていなかった。


 この記憶が自分のものだとわかったのか、自分でも表現し難い。頭に浮かんだこれはわたくしの記憶だ、と空いていたパズルがそこにはまったという感覚だ。


 目の前で起きている現実に意識を戻すと、きらびやかで眩しい空間に頭がくらくらした。


 タイミングとしてはもう少し早く思い出してほしかったのだけど、それは贅沢だろうか。本来であれば殿下のエスコートがあるはずのところを1人で入場し、周りからひそひそと囁かれ、注がれる視線が痛かった。未来がわかっていれば欠席したのに。


 通りでパーティーの前にも会いに来てくださらなかったわけだ。振り返ってみれば、ここ最近の殿下はよそよそしかったような気もする。


 殿下との関係は至って良好だと思っていたものだから、まさかここで罪人にされる展開が待っていようとは予想できなかった。前世の記憶を思い出したおかげで、わかるだけだ。


「クリス、君が表立って行っていたことから、人目につかずアイリス嬢に行っていたことまですべて報告を受けている」


 殿下の言葉にはて、と首を傾げて見せる。本当に全く心当たりがない。


 アイリス様とはそれなりに親しくしていて、今日もこの場で出される有名パティスリーのタルトを一緒に楽しもうと話していたくらいだ。そんな彼女に対して何を行っていたと?


「殿下が存じていても、わたくしは存じませんわ」


 適当に流しつつ考える。ここはどの世界なんだろう。ちらりと周りを見やれば、ドレス姿に見を包む身分の高そうな人たち。


 目ぼしいキャラクターは今のところわたくしと、クロード殿下。それから、アイリス様くらいかしら。全くピンとこない。


 前世のわたくしは悪役令嬢が出てくる小説を読むのが好きだった。たいてい、卒業パーティーで断罪され、婚約破棄の流れだ。ヒロインはめでたく王子様と結ばれ、めでたしめでたし。


 ということは断罪される側にいるらしいわたくしが悪役令嬢のはず。


 ブロンドの髪が多い中、浮いたように赤茶の髪をしているのも悪役令嬢っぽい。


 殿下からの贈り物であるこのドレスはキツく見えることを気にするわたくしを気遣ってか、シンプルな装いのドレスにしてくれた。そのおかげもあって、総合的に見ると悪役令嬢からやや性格がキツそうな令嬢くらいにはなれたかもしれない。


 見た目がそうなったところで、悪役令嬢は悪役令嬢に変わりはなくてヒロインにはなれないけど。断罪されるほど悪いことをしたつもりはないのに、何ということなのだ。


「クリスティーヌ様、快くない噂が流れてしまったことはこの場でお詫びいたします。けれども、(わたくし)にしてくださったことは事実ですもの。どうか、すべて仰ってください」

「そうは言われましても何のことかしら。わたくし、身に覚えのないことは話せませんわ」


 さっぱりわからない。濡れ衣を着せられる以前に、アイリス様と一緒にいて、それらしいことがあった記憶もない。どういうことなのだろう、これは。


 悪役令嬢が出てくる小説を読んでいたわりに、そこまで読み込んでおらず今いる世界が何なのかはわからない。名前が似たり寄ったりで覚えられないなあと思って、ストーリーを何となく流し読みだった。


 真面目に読んでほしかった、と思ったところで後の祭り。


 よく見た特別な力があるとか記憶力が並外れているとか料理が得意とか、そういったチートみたいなものは持っていなさそうだ。前世、これといって得意なことがなかったのが関係しているのかもしれない。あるとすれば、令嬢でなくなっても暮らしていけそうなことくらいか。


 とにかく、卒業パーティーで断罪される展開になりそうな雰囲気。何としても、この場は乗り切らなくては。


 追放くらいだったら、甘んじて受け入れよう。さすがに死罪だとか幽閉されるといった危ない展開はなさそうだもの。

 今のわたくしなら庶民になっても、きっと楽しく生きていける。前世の彼氏を探してみることだってできるかもしれない。


 前向きに考えようとしつつ、殿下を大切に想う気持ちは持っていたので寂しさはある。いくら前世があっても、今のわたくしが好きなのは殿下なのに。


 彼は、わたくしとは結ばれることのない相手なのだ。


「何て方なのですか……」


 目に涙を浮かべる彼女がきっとヒロインのアイリス様。さすがはヒロイン、かわいいが全身からにじみ出ている。


「クリスティーヌ・リア、君は勉学のみならず、素晴らしい奉仕の心もある。その立派な行いを称えて……メルヴェイユの称号を与える!」

「……え?」


 え? もう一度声に出しても、現実はそのまま変わらなかった。


 婚約破棄じゃなくて? メルヴェイユとは何の話だ。称号って何かそんな展開のお話を読んだことがあっただろうか。頭の中をさらってみても思い浮かばない。


 周囲がざわつく。「噂でしか聞いたことがない称号だ」「クリスティーヌ様が授与されたのよ」「さすがですわ」「素晴らしいな」と、概ね反発している人がいないようで、それは喜ばしい限りではあるが。


「称号、とは何のことでしょうか?」

「おめでとうございます。クリスティーヌ様! 今まで行ってきた数々の善行、私はお近くで拝見できて大変光栄です。教養のない私に教えてくださった知識も、いただいた流行のドレスも大切にいたします」

「……わたくしのことを何て方、と仰らなかった?」


 身に覚えはなくとも、あれは影に日向にいじめ抜かれた相手に憎しみを込めた言葉だと解釈した。


「何て素晴らしい方という意味の他にございませんわ! クリスティーヌ様について、殿下に報告するのが私の役目でしたの。噂で胸を痛めてらっしゃるのは存じておりましたが、称号の授与は内密にとの命でして事情を打ち明けることも出来なかったのです。お許しください」


 アイリス様が深々と頭を下げて、真っ直ぐな黒髪が床に着きそうなほどだった。そんなこと言われても、どう受け止めて良いのやら。この日のために磨き抜かれた床に視線を落とす。断罪されるほどの悪事を働いたことはないが、頭を下げられるほど良い事もしてはいないのだ。


 思い当たるとすれば、奉仕活動くらいか。孤児院に行く際や、バザーに参加したときはアイリス様と一緒だった。今思えば、あれはわたくしの行いを見られていたというわけね。


 噂のことは知らなかったから胸は痛めていない。むしろ、アイリス様と殿下に関する噂があることを今知ったくらい。大方、殿下はアイリス様と婚約するつもりだとかわたくしが捨てられるとかその程度のものだろう。


 周囲がわたくしを慮って言わずにいてくださったのかもしれない。噂話に興味もなかった。


「アイリス様のおかげでわたくしはこのような称号をいただけるのですから、感謝しかありませんわ」


 早口になってしまったのは動揺しているせい。だって、こんな展開のお話は知らない。読んだことがない。わたくしの思う世界に転生したというわけではないのかもしれない。


 なまじ前の人生での記憶が蘇ってしまっただけに、余計な知識もある。パニックを表に出さないようにするだけで精いっぱいだった。


「おめでとう、クリス。わたしからも詳しく話せずにすまなかった。発表の大役を仰せつかったときから、嬉しくて仕方なかったよ」


 殿下のよそよそしかったわけはこういうことだったのか。納得できるような、できないような。


 殿下が慈しみの眼差しを向ける相手。庶民から成りあがった幸運なヒロイン、ではなくわたくしに向けられている。こちらへ歩み寄った殿下が、わたくしの手を取ってその甲にキスをした。


 拍手が巻き起こり、歓声まで聞こえる。シャンデリアの明かりが眩しく感じられた。


「ありがとうございます、アイリス様、殿下も。大変嬉しく存じます。ただ……ちょっと、わたくし、体調が悪いので失礼させていただいてもよろしいでしょうか」


 言いつつ、足元がふらつく。ああ、こんなことなら、コルセットをもっと緩めておけば良かった。


 どこなのかよくわからない世界で断罪されるであろう状況にも関わらず、全く別の流れになりそうな展開。


 一刻も早くこの場を離れて落ち着きたかった。一歩下がると同時に意識がふっと遠のいて、「クリス!」とわたくしを呼ぶ殿下の声を最後にぷつりと途絶えた。


* * *


 うっすら目を開けると、天井が見えた。ぼんやりとした頭で、いや天井ではないなと思った。天蓋付きのベッドだもの。


 ……って、そうだ。卒業パーティーで倒れたんだ。前世では一度もなかったけど、今世はちょこちょこ倒れていたような気がする。貴族というのは大変だ。体調不良の原因の1つは絶対、コルセットをキツめに締めるせい。


 ちらりと目線を動かすと、お医者様ではなく侍女のサラがいるらしかった。背を向けているおかげで、こちらには気づいていない。眠っている間はサラが看病をしてくれたのだろう。


 申し訳なさはあるものの、このままもう少し寝かせてもらうことにする。現実逃避させてほしい。まだ、さっきの場に戻る気になれない。


 コンコンとノックする音がしたが、わたくしは目も開けず返事をしなかった。サラが出てくれて、すぐに訪ねてきたのがクロード殿下だとわかった。耳を澄ませて聞いていると、どうやらアイリス様もいるらしい。


「お嬢様はまだ目を覚ましておりません。殿下お1人ならまだしも、お嬢様が心を痛める原因となった方を歓迎できる状況でもございませんので、どうかお引き取りください」


 アイリス様に対してトゲのある言い方。わたくしは知らなかったというのに、サラは噂を知っていたようだ。わたくしの耳には入れないでいてくれたのか。

 今すぐ起き上がってそれは違うと言いたいけど、体が重たく感じられて動くのが億劫だった。ごめんなさい、アイリス様。


「それは誤解だ、サラ。彼女はメルヴェイユのために動いてくれていただけで何もしていない」

「クリスティーヌ様と約束していたタルトを運ばせました。せめてこちらだけでも、中に入れていただけないでしょうか。とっても楽しみにされていたんですよ」

「誤解なのだから、アイリス嬢を追い返す必要もないだろう。他の人は来ないよう、リドと見ていてくれるか」


 リド様は殿下の側近だが、側近も部屋の外に置くつもりらしい。殿下はサラへ言い方は違えど、出ていけと言っていた。わたくしが寝ているこの部屋でアイリス様と何をするつもりなんだろうか。


 どうなるかとハラハラしてきた頃、サラは渋々部屋から出て行ったみたいだった。


「あの侍女さん、あたしのことまだ疑ってるでしょ!? あんたが一緒に来るからじゃない」


 えっ、これってアイリス様の声!?


 先ほどとは打って変わって砕けた口調のアイリス様にうっかり目を開けそうだった。こんな話し方、本来なら不敬と捉えられてもおかしくない。一同級生が殿下をあんた呼ばわりなんて命知らずにもほどがある。


「静かに。クリスが起きるかもしれない」とアイリス様を制した後「俺は彼女が心配なんだから来るに決まってるだろう。そっちこそ、何で一緒に来たんだ」とふてくされたように言うものだから、驚いた。


 アイリス様の態度に対して、いつも通りといった感じだ。それどころか、殿下まで何だか話し方が違う。


 まさか、2人はほんとに噂の通り……?

 それは誤解だと殿下は言っていたし、アイリス様の雰囲気を見ても違うようだけど、友人にしてはいささか距離感が近く思える。


「タルトを一緒に食べましょうって約束したんだもの、来るでしょう。クリスティーヌ様、すっごく喜んでくれて……ほんとバッドエンド展開は避けられて良かった」

「それはそうだな。どうにか卒業パーティーも無事に終わりそうだし、ひとまずはクリアって感じで俺もホッとした」

「逆にヒロインが断罪される展開にもならなくて、だいぶ平和的だよね」

「この先どこかで補正がかからないことを願うよ」

「そこは殿下の腕の見せどころでしょう。さて、あたしは先に帰るんで」


 目を閉じているのがつらくなってきた。何でそんなに気になる会話をここでするの!?


 聞かれても意味がわからないと思われているのか、寝ていると思われているのか。聞かれても意味がわからないほうなのかな。どちらにしても会話の内容がものすごく気になる。


 バッドエンド展開だとかクリアとか補正とか!

 今この状況で出てくる言葉として、思い当たることがひとつしかない。


 もしかして2人とも転生していて、この世界のことを知っていた?


 わたくしよりも前に前世の記憶が蘇って、クリスティーヌ・リアのバッドエンドを防いでくれたのかもしれない。なんて都合良く考え過ぎかしら。


 アイリス様が部屋を出てしまわないうちに、2人に探りを入れてみよう。同じだとしたら、こんなに心強いことはないもの。


「あら? いらしていたのですね」


 何食わぬ顔で起き上がってみると、ちょっとめまいがしたものの何とか立て直した。ぎょっとした2人がこちらを見ても、小首を傾げて微笑んで見せた。


 どうだろう、転生したのか訊いて答えてもらえるだろうか。わたくしの思い違いだった場合、発言する内容によっては確実にお医者様を呼ばれてしまう。何としてもそれは避けたいし、はぐらかされてもこちらが恥ずかしくなるから嫌だ。


 ひとまずベッドから下りようと動けば、支えるために殿下が来てくれた。


「手を。もう具合は良くなった?」

「はい、大分良くなりました。お心遣い、痛み入ります」


 その手を取って、ソファーまで移動する。テーブルには、タルトと紅茶が並んでいた。アイリス様が運ばせたと言っていたタルトだろう。苺の甘い香りがする。


 わたくしのためにわざわざ運ばせてくれたアイリス様。そんな彼女がわたくしを陥れるために大勢の前で告発するようなこと、するはずもなかった。


 前世の記憶が戻ったからとはいえ、今まで見てきたアイリス様を疑ってしまった。


「クリスティーヌ様、あ、殿下と一緒ではありますけど、誤解なさらないでくださいね。こちらのタルトをお持ちしただけなので、私は失礼させていただきます」

「いえ、お待ちになって。ひとつ、教えていただきたいのです。……その、小説のタイトルがわからなくて」


 焦った様子で立ち上がった目の前のアイリス様を引き止める。本当はタルトをご一緒したいと申し出たいのだけど、先に訊ねておきたいことがある。


 タルトは二の次だ。意を決して、手のひらを握りしめる。


「小説、とは? 何の小説でしょうか」

「今いる、この世界を表す小説です」


 上手い言い方が浮かばないまま発言してしまい、だんだん声が小さくなってしまった。背中を冷や汗が流れた。このくらいなら、違っても逃げられる。目をそらしたいのを耐えて、どうにかアイリス様を見つめたままいるとアイリス様の方から目をそらされた。そうして、彼女が目を合わせた相手はわたくしの隣にいる殿下だった。


「殿下もご存知あるんでしょうか。そこには、悪役令嬢も出てきて断罪される運命にあるのでしょう?」


 心臓の鼓動が速くなるのを感じつつ、もう少し核心を突いた質問を投げてみる。わたくしの考えが合っている可能性が見えてきたような気がした。


「あ、ああ。近頃、城下で流行っているみたいだね。何だったか……」


 と、ティーカップを手に取る殿下。カップの中身は空なのが見えていたのに一口。飲んでいるふりだった。どうやら動揺しているらしい。アイリス様へ目で合図しているのも丸わかりだった。


 質問の意味を訊かれなかった。それは2人が理解できていると見て良いだろうか。


「あー……そうですね」


 コホンと咳ばらいをして、アイリス様が続ける。


「『氷の心をほどいて』ですわ。クリスティーヌ様はご存知あるでしょうか」


 聞いたことのあるタイトルにハッとする。


 それならば知っている。買ったことも覚えている。前世で彼氏がたまには読んでみたいと言っていたため、先に貸した本だ。。

 わたくしは、読むのを楽しみにしたまま人生を終えてしまった。知っているのはあらすじだけ。この世界のことが詳しくわかるはずもなかった。何だ、仕方のないことだった。


「読んだことはないけれど、知っています。そこに出てくるヒロインが……アイリス様ですよね。本来であれば、今日のパーティーが終わって殿下と結ばれるはずだったのではないでしょうか?」

「……なーんだ、クリスティーヌ様も“知ってる人”だったんですか。あたしのこといじめてこないし、すっごい優しいから、変だなとは思ってたんですよ。もっと早く言ってくれたら良かったのに」


 アイリス様は気が抜けたように、息を吐いて背中を丸めた。


「わたくしが思い出したのはつい先程だったので、性格が元と違うのはお2人が良い方へ導いてくれたのかもしれません。何事もなく今こうしていられるのも、お2人のおかげですね。感謝申し上げます」


 あらすじでは氷のように冷たい王子様の心をヒロインの優しさや真っ直ぐさが溶かして、恋に落ちていく話。途中でヒロインを邪魔する王子様の婚約者もいた。


 殿下は氷の王子様のイメージがなさすぎて、到底結びつかなかった。わたくしの知る殿下はずっと前から、温かで優しい心を持った人だもの。だからこそ、わたくしはアイリス様をいじめるクリスティーヌにはならなかったのだろう。


「こんなに素敵なクリスから心変わりするなんて、元のクロードはどうかしてると思っただけだよ」


 まあ、と口元が緩んでしまう。涼しい顔の殿下だったが、頬の赤さはバレバレだった。


 転生しているとは言っても、わたくしにとって殿下は殿下に変わりはない。アイリス様と同様に一瞬でもこの優しい方がわたくしを大勢の前で断罪すると疑うなんて、どうかしていた。この方がそのようなことをするわけがない。もし断罪するとしても、きちんと手続きを踏んで個別に呼び出されたに決まっている。


「殿下とクリスティーヌ様にはそのまま、幸せでいてほしかったんです。まさか、殿下も読んだことあるとは思ってなかったけど。何でも人に勧められて前世で繰り返し読んでたらしくて、あたしよりもこの世界に詳しいくらいだったんですよ」


 アイリス様はわたくしの分も紅茶をティーカップに注いで、差し出してくれた。少し温くなったそれは飲みやすく、はしたなくても構わないと一気にごくごく飲み干す。


 探り合いのような状態からようやく抜け出せて、ようやく息が吐けたような気持だった。すぐにまた注いでくれたアイリス様にお礼を言う。


「今度はわたくしから、お2人に何かお返しをしなくてはいけませんね」

「そんなものはいい。俺はこうしてクリスとお茶をしていられるだけで、十分だよ」


 即答した殿下に対して「えーっ、もっとデートしたいって言ってたくせにぃ」と、アイリス様が唇を尖らせる。暴露されると思っていなかったのか、慌てた様子で「ちがっ」だとか「それはっ」だとか、言葉が出てこない殿下。


 こんなところ、初めて見たかもしれない。いつも優しくて大人びていて、たまに照れることはあっても、ここまではない。何だか得をしたような気分だ。


「本当のところは、どうなんですか?」

「その、いつも遠慮して手短に済ませてくれているようだから、もっとゆっくり会えたら嬉しい、と思っている。クリスが嫌でなければ……どうかな?」

「喜んで。殿下の前世についてのお話も聞きたいですわ」


 あまり殿下の時間を拘束するのは良くないと思っていた。一緒にいたいなんて、そんなものはわたくし個人のわがままだもの。でも、それをちゃんとわかってくださっていた。何より、殿下もわたくしと同じ考えでいてくださった。嬉しくないはずがない。


「面白くはないと思うけど……ゆっくり、色んな話をしよう」

「はい。楽しみにしています」


 優しい微笑みにはにかんで紅茶に口をつけると、ティーカップ越しに視線を感じた。見れば、アイリス様がじっとこちらを見つめている。


 我に返って、じわじわと体温が上がる。2人の世界に入りそうだったかもしれない。


「念のため、あたしがいることは忘れないでください」

「わ、忘れてなどおりませんわ!」

「お2人が安泰なのは何よりですけどね」


 満面の笑み、というよりもからかうような笑みを浮かべるアイリス様はテーブルのタルトを指差して「食べましょう」と話を違う方へ運んでくれた。


 顔は違うことを物語っていたが、ここは触れずにいさせてもらおう。ありがたく、タルトをいただいた。


「今度はぜひ、あたしにも協力してくださいねっ」


 以前より打ち解けた様子のアイリス様を嬉しく思いながら「もちろんです」とうなずく。


「どなたか、想い人がいらっしゃるのですか?」


 ちら、となぜか扉に目をやるアイリス様。その向こうに立っているのは2人しかいないはずだ。


「リド様です。本来はアイリスが殿下と結ばれるエンドですけど、そこはもう変えられたので、あたしが本当に好きな人に対して頑張るつもりです」

「わたくしにできることがあれば、何なりと仰ってください」

「あ、じゃあまず、手始めに殿下を消してくれます?」

「へ?」


 間の抜けた声が出てしまった。そんな物騒なことを笑顔で言わないでほしい。


「リド様、全然笑わないのに殿下の前ではよく笑うじゃありませんか。ずるいので、しばらく消えてもらいたいです」


 ああ、なんだ。それは確かにアイリス様がそう思うのもうなずける。わたくしもリド様が殿下と話して笑っているところを見たことがある。わたくしと話しているときも笑ってくれたことがあるけれど、これは黙っていたほうが身のためだろう。


「せっかくなので、消えてもらうことにしてしまいましょうか」

「え?」


 今度はアイリス様が驚く番だった。目を丸くしたアイリス様に微笑みかける。食べかけのタルトは大口を開けて片付けてしまう。お行儀が悪いのはここだけのこと。もごもごと口を動かして、急いで、けれども味わって美味しく完食した。


「殿下、わたくしと一緒に参りましょう。パーティーはまだ終わっていないでしょうから、一曲踊ってくださいませ」

「あ、ああ。でも、せっかくだ、俺はクリスとまだ2人でいたい」

「……では、そうしましょう」


 殿下もさっそくわたくしとの2人の時間を作ってくれたのだ。自然と口の端が上がった。


 差し伸べられた殿下の手を取って席を立つ。状況がいまいち飲み込めていなさそうなアイリス様に「この場はしばらく、アイリス様とリド様でお使いください」と伝えた。


「本当はわたくしがいたベッドがある場所で申し訳ないので部屋を移動できたら良いのですが……」

「そんな急なお気遣いなく! っていうか、急すぎて心臓に悪いです。冗談で言ったことなのに」

「メルヴェイユをいただけるよう取り計らってくださった感謝の気持ちです。また、後日きちんとお礼をさせてください」

「こちらこそ感謝します。でも、リド様が2人きりになるのを嫌がったときはクリスティーヌ様がお相手くださいねっ!?」

「そのときは、2人で次の作戦会議といたしましょう?」


 ぐっと両手を握りしめて頑張れの合図を送り、アイリス様とうなずきあった。


 殿下と一緒に部屋を出ると、サラがきょとんとした顔をした。


「サラ。殿下と別室で一緒にわたくしの好きな紅茶を飲もうという話になったの。用意できるかしら」

「え、でも……」


 何か言われる前にスッとサラに近づいて「協力してほしいの」と耳打ちする。ドアに目線をやってから、サラにだけわかるようにリド様を指差す。一度では気づいてくれなかったサラのためにもう一度、同じ動きをする。絶対に怪しい動きではあるが、他にやりようもない。


「……えっ、あ、はい。かしこまりました。ご用意させていただきます」


 ポンと手を打ったサラは早足でその場を後にした。わたくしのわかりにくい動きで素早く動いてくれたサラに感謝だ。これで殿下とアイリス様に何かあるという誤解もなくなっただろうし、良かった。後でちゃんとサラを労おう。


「リド、お前は中でしばらくアイリス嬢の話し相手になってやってくれるか」

「はっ?」

「その、何だ。俺とクリスを2人にと計らってくれたが、アイリス嬢が1人になっては心細いだろう」

「俺がご令嬢と2人になるのもおかしな話だろう。ホールまで付き添うならまだしも、何を企んでるんだ」


 リド様は気にする必要のある場と判断したのか、殿下と側近の立場としてではなく友人としての答え方になっていた。

 

「クリスと2人になるための口実としてお前をどこかへやる必要があるだろう。それにアイリス嬢も付き合ってくれるそうなんだ。もちろん彼女の許可も得ている。頼まれてくれるか? 学園の敷地から出たりはしないから安心してくれ」

「……そうであれば、承知した」


 半ば強引な頼みではあったものの、リド様はわたくしをちらりと一瞥してから了承してくれた。わがままを言ったと思われたかしら。それでもいい。もしくは、側近であると共に友人である殿下の真剣な頼みが響いたのかもしれない。


 ノックをして部屋に入るリド様の表情は相も変わらず読み取りにくく、笑顔もなかった。あの顔が笑顔になることを願う。そうして、アイリス様が嬉しそうに話をしてくれるのを楽しみにしていたい。


「やりましたね。あの2人、うまくいくかしら」

「リド本人の意向で婚約者はまだいないし、想う人もいないのは聞いている。アイリス嬢なら相手として申し分ないだろう。あとは今日の展開次第かな」

「お2人のことですが、少しくらいはお節介を焼かせていただかないと。殿下、最後までお付き合いくださいね」

「もちろん。一度乗った船は降りるつもりはないよ」

「では、急いで参りましょう。サポート役としてどうすればいいか、作戦会議をしなくては!」


 ドレスの裾を上げて駆け出すと「危ないよ」とクスクス笑う殿下。普段なら絶対にしないし、したこともないけれど。今見ているのは殿下だけだもの。


「慣れてますもの。そういえば、先ほどは伺いそびれましたが、わたくしが倒れたときに運んでくれたのは殿下でしょうか?」

「そうだね。他の誰かに頼むのは考えられなかったから」

「ありがとうございます。おかげさまで、ばっちり回復しました」


 立ち止まって振り返る。両腕を上げて少し離れた殿下に元気アピールをして見せると、彼はハッとしたように目を見張った。


「マリエ……」

「え、マリエ?」


 って、どなた?

 当然、わたくしの名前ではない。瞬時に頭を巡らせてもクラスメイトにはいないし、先生にもいない。クロードの家庭教師にもそんな方はいないと思う。聞いたことがない。


 けれども、前世まで遡ればよく知る名前でドキリとした。


「すまない、見間違えたようだ。そのドレスを選んで良かった。よく似合っているよ」


 その程度で今の発言をごまかせると思っているなら、大間違いだ。


「マリエという方が知り合いにいらっしゃるの?」


 動揺している様子の殿下は何か変だった。胸のざわつきが収まらない。


「いや、いないよ。見間違えだけじゃなくて、言い間違い。マリー先生がいたかなと思っただけなんだ」


 紛らわしくてすまなかった、と殿下が頬をかいて苦笑する。絶対に嘘だとわかったけれど、殿下の瞳を見て答えてくれないことは理解した。ヴェルメイユを隠していた、よそよそしい殿下と同じ。きっと、これ以上は訊ねても無駄だ。


 だって、まさか!


 わたくしが短絡すぎる考えな可能性も大いにある。人に勧められて氷の心をほどいてを読んだと言っていたし、あり得ないことではない。


 前世で大好きだった彼なのだろうか。そういえば、何となく面影が──なんて、さっぱりわからない。


 ここで想像を膨らませたところで答えは出ないので、ここまでにしておこう。今この場で確かめるつもりはない。浮かんだことを振り払うように笑みを浮かべて、殿下を手招きする。


「マリー先生がいたら、大目玉ですわね。ほら、殿下。早くしないと、サラが迎えに来ます」


 殿下から前世を詳しく話してもらえるときが来たら正直に答えることに決めた。真偽がわかるとすれば、そのときだ。前世でどれだけ彼を泣かせていたかは、わたくしがよく知っている。もしわたくしの考えが合っていたとしても、自分から訊ねて辛いときを思い出させるようなことはしたくない。


 大切なのは今であって、未来だもの。


「……クリス、2人のときは名前で呼んでくれないか。それと、話し方も2人のときは前みたいに話せたら嬉しい」



 わずかにうつむいた殿下が、自身を落ち着けるように胸元で拳を握りしめる。隠そうにも口の端が上がって、笑みがこぼれてしまう。


「今日はいい日ね。クロード、行きましょう」


 うなずいて微笑む殿下はもう、元通りのクロードだった。控室までのわずかな距離を2人手を繋いで駆けていく。


 たどり着いたところで、ちょうど部屋から出てきたサラに走っているところを見られて呆れた顔をされた。いつもなら小言を言われそうな場面だが「守衛には見つかりませんでしたか?」と訊ねられただけだった。


 卒業パーティーということで、浮かれた雰囲気のわたくしたちを大目に見てくれているのかもしれない。


「もちろん、見つからなかったわ。ありがとう、サラ」

「準備が整っております。どうぞ楽しい時間をお過ごしください」

「ああ、ありがとう。助かったよ」


 では失礼しますとお辞儀をしたサラと入れ替えに中へ入る。


 用意されていた紅茶の他にティーカップもお気に入りの柄だった。さすがはサラ。わたくしのことをよくわかってくれている。


「こうしてると、今日が卒業パーティーってことを忘れそう。このままお茶会にする?」

「そうしたいのは山々だけど、パーティーの終わりに挨拶がある。それをサボったら、あちこちからのお叱りがあるだろうな」

「挨拶をさっさと終えたほうが得策ね。頃合いを見て、置いてきた2人を迎えに行きましょう。距離が縮まってたら良いのだけど」

「リドの性格を考えれば、今頃はアイリス嬢のペースかな。俺から見て相性は悪くないと思う」


 紅茶を注いでクロードへ差し出すと「ありがとう。いい香りだね」とクロードが笑って「最近のお気に入りなの」と答えた。


 紅茶を飲んで、息を吐くと肩の力が抜けた気がした。色んなことがあって、落ち着けていなかったかもしれない。


 不安を抱えて参加した卒業パーティーだったが、今はもう不安はなくなった。戻ったら、さっきよりも楽しめそうだ。


「次は4人で出かけてみるのはどうかしら。それで、いい感じであれば2人になってもらうっていうのは?」

「いいね。俺もクリスと出かけられるなら一石二鳥だ」

「2人になれたら、クロードは何かしたいことある?」

「俺はクリスに似合いそうな髪飾りを見たい。高級品を扱うようなお店ではないんだけど、腕のいい職人がいてね。前に街に出たときに見つけたんだ」

「まあ、楽しみ。そういうところには全然行ったことがなかったから、これからは色々とクロードについて行きたいわ」


 それはあまりおすすめできないな、と苦笑された。クロードのことだ、お忍びで身分を隠して行くのだろう。リド様の苦労がうかがえる。


「頻繁にクリスを連れて行ったらサラに本気で怒られそうだからやめておこう。4人で行くとしたら観劇をするか、食事はどうかな」

「クロード、そういうのは興味がないでしょう。食事だとしても、食べたいものは?」

「え、あー……ガレットとか、そういう何か」


 濁している時点で、それが食べたいものではないと言っている。


「正直に言っていいから。どうぞ」と伝えた。この際だもの、街の行ったことのないところも歩くつもりだ。何度もは許してもらえなさそうでも、サラだって一度や二度くらいなら許してくれるだろう。


「んー、そうだな。ラーメンが食べたい」

「ラーメンって、麺とスープがあってチャーシューとかが乗っている、あのラーメンで合ってる?」

「そう、あのラーメン。大体の食事だと、フレンチだとかイタリアンとかそういった感じのものだけど、たまに無性に食べたくなるときがあるんだ」


 この世界では聞き慣れない単語に瞬きを繰り返す。食事の席で出てきたことはないはずだし、学園内の食堂にもなかった。前世とは違ってそう簡単には食べられないだろう。


「シェフにイメージで伝えて作らせる?」

「ううん。街から少し外れたところにラーメン屋があるんだよ」

「え、この世界にラーメンがあるの!?」


 たまに無性に食べたくなるって、てっきり前世で食べた味が恋しくなることがあるんだと思った。


「うん。あっさりした塩と、醤油しかなかったらから、味噌ラーメンはイメージを伝えて作ってもらったことがある。ちなみに中華料理とか和食とかのお店もあるみたい。結構、何でもありな世界みだいだね」

「そういえば、本で和食に関する内容があったかもしれない。今まで何とも思ってなかったけど、不思議な世界観なのね」


 前世を思い出すことがなければ、全部当たり前として受け取っていただろう。


「リア家は大衆食堂みたいなところとか行かないだろうからね。知らなくて当然だよ」

「この世界で生きてきたのに、まだまだ知らないことがたくさんあるのね」


 皇太子妃たるもの、もっと街のことを知っておくべきだったわ。


「これから一緒に、たくさん知っていこう。健康だしお金はあるし、多少の不自由はあるけどやりたいことだってできるよ」

「そうね。夢みたい」

「……うん。ほんとに、夢みたいだね」


 言いつつ、鼻を啜るクロード。瞬きがゆっくりになって、その目が潤んでいるのがわかった。

 クロードの涙のわけは、わからない。まだ、この世界はわからないことだらけなのだ。


「泣き虫なのは、ここでも変わらないのね」

「──え?」


 どうか今世は、愛しいこの人と末永く一緒にいられることを切に願った。


読んでいただき、ありがとうございます!

一度書いてみたいと思っていた転生悪役令嬢ものでした。

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