女騎士から魔王のメイドに転職いたしまして
手にしていた紙の束を机に置いて男は息をついた。腰掛けている椅子の背に体重を傾けると漆黒の艷やかな髪がサラリと流れる。鬱陶しげに頭を振ると前髪が無造作に分かれる。そこに現れた面立ちはまさに吸い込まれそうな美貌そのものといったところ―――高い鼻筋から骨格に沿って眉が生え揃い、切れ長の双眸には長くしなやかな睫毛、瞳は黄水晶を浮かべたようなしっとりとした金色が輝く。しかしながらその美貌の顔にも今は薄らと翳りが見えていた。
やりたいことであるならまだしもやるべきことというのはどのような超人であろうと時間を幾らか疲労感を感じるものである。そう、それはこの―――魔王も例外ではなく。
「陛下、お茶をご用意いたしました」
そこへ灯火のように男の脳内へと流れ込んだ声。続き執務机の隣に置かれていたティーテーブルの横にぽうっと淡い光が灯り、すぐにそれは人の形を成した。それは人の世の月を彷彿とさせる透き通るような銀色の髪を1本に編み結わえた女であった。男に仕えているのであろう、給仕らしく清潔感のあるエプロンを身につけた女はスカートを摘み一礼する。それから、ともに現れたティーポットを手に取り、カップへ注ぐとティーテーブルへと流れるように男に茶を差し出し促すように微笑みかけた。
「特に頼んでいないはずだが」
「ええ。ですがそろそろそのような作業は嫌気が差してくるお時間かと思いまして、ほら上司が命ずる前に必要な仕事をするのがデキる部下というものでしょう?不要であれば私が頂きますので問題ございませんが」
「…いや、頂こう」
図星を突かれている男はひとつ咳払いをしてカップに口をつけ―――「熱い」と苦い顔をし、テーブルにすぐ置いてしまった。男は茶の温度や何やかんやに五月蝿いというわけではないのだが、この給仕はこの頃慣れてきて大抵はすぐ味わえるような適温で注ぐものだから。不思議に思い、ついと見上げた。その先に映った女は「なるほど」と呟きながら何かを紙切れに書きつけている。ああこの様子では恐らく、と思い当たることがあるこの男は長い長い溜息をついたあと、
「何か、盛ったな?」
と一言。
「ええ」
女のあっけらかんとした様子に、男はがくりと項垂れた。
「常人には痺れる効果のある薬草を。良いスパイスになるかと思ったのですが」
紙切れをポケットに仕舞い込んだ女は愉しげに、歌うように続ける。
「陛下には毒や薬の類は効かないと思っていましたが…なるほどこの薬草を使うと多少なりとも効果が出るものなのですね。煎じて煮詰めて濃度を増したらどのように作用するのでしょう」
「主で実験をするんじゃない…」
「あら、日常に少々のスパイスをとメイドなりの気遣いでございます。それに」
―――私、まだ貴方を倒すことを諦めておりませんので。
刹那アンバーの瞳にぎらりと光を走らせたが―――すぐ普段の調子に戻って、では普通のお茶を用意してまいりますと一礼し、光とともに姿を消した。
ちなみに、この男こそがこの魔界を統べる魔王その人であり、そして先程のメイドはいつぞや力試しに魔王を倒しに来た元・女騎士である。
またも溜息をついた魔王はメイドを待ちながら窓の外に目を遣る。
空は紅く晴れ渡り、向こうには子連れのドラゴンが翔んでいた。
今日も魔界は平和だ。
おわり