3段目 地を這う虫は空を望む
前回のあらすじ
トンチキ異世界を代表するかのようなダンジョントラップの魔の手が幸子に延び、隠していた秘密がひとつ暴かれた。
怯える彼女を新たな不運が襲う……!
覚悟した衝撃は、いつまで待っても訪れない。
恐る恐る目を開けても、薄暗くて周りが良く見えない。
軽く腕を動かしてみると、下にトランポリンのような弾力のある感触があった。なぜこんなところにトランポリンが。疑問に思いつつも、幸子は体勢を立て直そうとした。直せなかった。なぜなら腕がトランポリンから離れないからだ。
目も暗さにゆっくりと慣れてきた。
状況を理解しようと顔だけでも動かす。
大きな八つの瞳と目が合った。
「っぎゃーーーーー!!」
目の前に居たのは幸子を頭から齧れそうなほど巨大な蜘蛛である。
薄闇の中、大きな瞳がほのかに赤く光っている。
凶悪な上顎がカシャカシャと忙しなく鳴り、その大蜘蛛が捕食者であることを主張していた。
幸子たちは蜘蛛の巣にかかったのだ。
のそりのそりと迫る蜘蛛から逃げようともがいても、幸子を捕らえた糸はびくともしない。
衝撃を吸収するほど柔らかかった巣は、気付けばガラスのような光沢を帯びて固まっていた。
何その無駄な性能!
怖い! 怖い! 怖い!
落ち着け、と理性が叫んでいるのに、ガンガンとがなり立てる恐怖に感情が言うことを聞かない。
震えた歯がガチガチとうるさい。
涙で視界が歪み、世界が曖昧になっていく。
糸から伝わる振動が嫌でも蜘蛛の動きを教えてくる。
せめてもの抵抗として、動ける範囲で身を捩った。
ダメだ。終わった。
割と頑張って生きてたのに。
死期を悟り目を瞑る寸前に、緑色の粘液が噴き出した。
「っぎゃーーーーー!?」
緑色の奔流の中、ギラリと輝く銀の刃。
蜘蛛の顔面に刃物が刺さっているのだ。
その向こう側には四肢を自由にしたノボルがいた。
さらに少年は白銀の剣を片手に携え、固まり粘性を失った糸を足場に軽快な足取りで蜘蛛に迫る。
蜘蛛も負けじと前肢を持ち上げて、ノボル目掛けて振り下ろしていく。
床が抉れるような連撃を最小限の動きで交わしていくノボルの顔に、やはり焦りの色はない。
先ほど幸子と話していたときと同じ。
険も悦もない、無表情。
軽い跳躍。
けれど少年の小柄な体は大蜘蛛の巨体を飛び越えるほど高く飛ぶ。
器用に宙で姿勢を変え、天井を一蹴り。
加速度のついた体は上から一直線に蜘蛛に迫り、多肢の波を掻い潜る。
交差する一瞬に白刃が閃いた。
一拍遅れてズシン、と大きな振動が床を揺らす。
蜘蛛の頭部は切り飛ばされ、腹も真ん中で二つに切り落とされていた。
しかし腹に繋がる足はわしゃわしゃと動き、前進しようともがいている。
再度ノボルは腕を振り今度は脚を切り落とした。
それでもまだ、蜘蛛の尻はひくついた。
「!」
「うぎゃーーーーーー!?」
蜘蛛の尻から放たれた苦し紛れの糸は、何故か幸子の元へ飛んでくる。
体に巻きついた糸はどんどん膨れ上がり、やがて視界を埋め始める。
恐怖に顔をひきつらせたところで、糸の進行を五本の指が止めた。
糸の向こうで、ドン、と大きな衝撃。
指にへばりついた糸を引き剥がし、ノボルが顔を覗かせた。
「えっと、ゴメン。大丈夫?」
少年の声はどこまでも平坦だ。場違いなほどなんでもない表情で、気まずさを示すように指で頬を掻いている。
棒読みでヘンテコな、変わらない態度。
けれど幸子はその様子に、確かに安堵した。
「ゴメン碓井さん、油断した。まさか流れ弾に当たるとは」
「……な」
「な?」
「なにいまのなに怖いんだけど!! けほっ、ゴホゴホ」
「うん、落ち着いて」
混乱してくれてちょっと安心した。と、ほのぼのとした台詞を吐きながら、ノボルは剣を鞘に収める。
勝手にまったりされているが、幸子はまだ蜘蛛の巣の上で簀巻きにされた状態である。
「さすがの私もこれは許容範囲外だよ! 信用してくれるのはうれしいけどそこまで強メンタルじゃないからね私!」
「碓井さん虫とかダメな人?」
「虫が嫌いとか苦手とかそういうレベルの話じゃないよねこれ!」
叫びすぎて喉が疲れてきた。ノボルの言う通り、落ち着かねばならない。
クールダウン、クールダウン。
人生、切り替えが肝心である。
「これが魔物? こんなのがわんさかいるの? この世界」
「ああ、うん。人を見かけたら襲ってくる。だから建物から出たくなかったんだけど、まさか不活性のダンジョンでも出るとは思わなかった。ガラス蜘蛛は暑さに弱いはずなのに、なんでこんなとこにいるんだろう」
ノボルは切り崩した蜘蛛の巨体を平然と眺めるが、幸子はそちらを向くことができない。
だってグロい。キモい。エグい。
バラバラになった大きな蜘蛛の死骸というものは、それだけでも迫力があり、恐怖を呼び起こした。
「そ、その剣とかはどこから出したの? ずっと聞きたかったけどその鞄容量おかしくない?」
この短時間だけでも、ノボルが出してきたものはタオル、地図、方位磁針、香炉、ヘルメット、直剣と多岐に渡る。にもかかわらず、ノボルが身に付けている鞄は肩からかけたウエストバッグのみ。剣などは明らかに鞄より大きい。
「武器は、いつうっかりこの世界に来るかわからないから、持ち歩いてる。だから通報しないでくださいお願いします」
「通報しないからすぐ土下座するのやめない? すごく困るよ」
「ゴメン、つい癖で。それで、うん。この鞄は──」
土下座姿勢から立ち上がったノボルは桜色のウエストバッグを幸子に見せる。紺色の蝶の模様が入った可愛らしい作りの女物だ。正直言ってノボルにはあまり似合っていない。
「これはこの世界の魔法のバッグで、見た目以上に容量があるんだ。四次元ポケットだと思ってくれたらいい」
「どこにでも通じるドアは入ってないの?」
「残念だけど無いんだ。作れないか聞いてみたけど、断られた」
一応提案はしてみたらしい。
さて、とノボルが幸子を見下ろす。
「その状態をなんとかしなくちゃな。あまり動かないでくれ。ガラスで切ると痛い」
ノボルは片腕で四次元バッグから水筒を取り出した。もう片方の腕に目をやると、なんとガラスの塊がくっついている。
幸子が見ていたうちは、蜘蛛の攻撃は掠りもしていないように見えた。目を離したのは、一回だけ。
「ノボルくん、その腕」
「大丈夫。ガラス蜘蛛の糸は冷えたらすぐ固まって鉄より固くなるけど、その分熱に弱いんだ。だからこうやってお湯をかければ」
ノボルは口で水筒の蓋を開け、湯気のたつ液体を腕にかけた。すると、糸は固まっていたことが嘘のようにドロリと溶けた。
「ちょっと水飴っぽい」
「水で薄めたら食べれるぞ。味はしないけど。食べる?」
「あ、結構でーす」
得体の知れない蜘蛛の糸を食べる度胸はなかった。
次にノボルは、安っぽいライターを取り出して幸子につながる糸を炙りはじめる。そうして火にかけると、強靭だったガラスの糸はあっという間に溶けてしまった。簀巻きになった幸子はでろんと床に横たわる。もがいてみるが、ウゾウゾと芋虫のようにしか動けない。
その光景を眺め、ノボルは困惑気味に呟いた。
「うーん、シュール画」
「好き好んでシュールしてるわけじゃないんだけど」
「お湯が大量に要るな。沸かそう。ついでにカップ麺食べたい」
「そんな時間ぬわあっ」
ズン、と建物が一際大きく揺れ、幸子は床をコロコロ転がった。蜘蛛の開けた穴にすっとんと落ちかけたところでノボルが止めてくれる。
「ありがと。……ノボルくん、崩れるよこれ」
「うん、とんでもないな不運体質。お湯を沸かしてる時間も無さそうだ」
「どうしよう。私、こんなんじゃ……」
ノボルは階段を降りられず、幸子は録に動けないような有り様だ。ノボルだけなら階段を降りて地球に逃げることもできるが、それは幸子の死を意味する。
悪くなる一方の状況に、頭も抱えられない。
「大丈夫、オレに考えがある」
「ヘイ、ノボルくん。女子として不名誉な運ばれ方はまあ置いといて、この微振動は何かな。この遺跡そこまでやばいの?」
「ああ、そうだな」
す巻きになった幸子を小脇に抱え、ノボルは穴の空いた壁際に立つ。
声音と表情は落ち着いたままのノボルだが、膝や腕は何故か小刻みに震えて続けていた。
先ほどもこんなことがあった。下り階段の前に立ったときのことだ。
そのときと現在の共通項に思い当たり、幸子は首を傾げた。
「もしかして、高所恐怖症とか?」
「……………………はは、そんなまさか」
「今の間が気になるんだけど」
「結構高いよな、ここ」
「その情報は今知りたくなかったかなあ」
ポーカーフェイスができるなら、最後まで貫いて欲しかった。
非常に不安になってきた幸子である。
バイブしながらノボルは言う。
「というわけで、ここから跳びます」
「この震えで? 正気?」
「その遠慮ない発言は混乱極まってるせいだとして。安心してくれ。無事に着地できる魔法道具があるんだ」
「空飛ぶ竹とんぼ?」
「猫型ロボットから離れて」
ノボルが震える手でバッグから取り出したのは、空色の傘であった。白いフリルがふんだんに使われた、婦人用の日傘である。
「これを開けば、重力が軽減されて無事に地面までたどり着ける」
まさかのポピンズ。驚くほどファンシー。
「いや、なにひとつ安心できないよ。危険要素が多すぎるでしょ。飛べるの? この震えで。落ちたら二人まとめて死んじゃうよ?」
「今から階段探してたらその間に倒壊するだろ? これが一番簡単だ」
「安全第一が信条なんだけどなあ」
「あとオレはここから落ちても死にはしない」
「私の安全も考慮してほしいなあ!!」
背に腹は代えられない。結局了承を出した幸子を抱え直し、ノボルは片手で傘を持ち壁際から一旦遠ざかる。
「落とすつもりはないけど、落ちたらゴメン」
「落として死んだら不運になるよう呪うよ! 本腰入れてめいっぱい呪うよ! 靴の中で偶然虫が死んでたりとかする」
「地味に嫌」
幸子の声援に答えながら、ノボルは助走を始める。
しかし、床が揺れる衝撃のあと、その行く先を塞ぐように横から白い塊が飛んできた。
「!?」
ノボルが振り返る。其処には別の部屋から壁を食い破り現れた、二匹の大蜘蛛が二人を睨んでいた。
「まだいるの!?」
「口閉じてて」
右へ左へ、蜘蛛から吐き出されるガラスの糸を避けながら、ノボルは走り続ける。
蜘蛛が動くたびに建物は揺れ、天井から瓦礫が落ちる。地響きのような揺れは大きくなり、崩落の音が聞こえてきた。
「悪いな、急いでるんだ」
ノボルは足元の瓦礫を蜘蛛に向かって蹴り飛ばした。
人の頭ほどの瓦礫は精度よく蜘蛛の目に当たり、蜘蛛をわずかに怯ませる。その一瞬の隙に瓦礫の間を駆け抜けた。
そして、陽の当たる空間に向けて、崩れる床を蹴りだす。
胃が浮くような感覚。
ぱさり、と軽い音を立てて開いた傘は重さなど無いかのように二人を支え、ふわりと宙へ浮かび上がった。
背後では遺跡が崩れ、蜘蛛たちは瓦礫に飲まれて見えなくなった。
「ホントに崩れた……」
「危なかった……」
二人して肩を下ろして息を吐く。
砂を含んだ風が傘をあおぎ、タンポポの綿毛のようにふわふわと浮かぶ。
広大な砂漠を見下ろすと、巨大な蠍や見たこともない生物の影がある。
遠くには緑の生い茂る森が、さらに奥には剣山の如く連なる山脈が見えた。その上空には何匹もの色とりどりのドラゴンが飛んでいる。
砂で霞んだ青空には大小ふたつの太陽が存在を主張している。その間を飛ぶのは赤い羽根を持つ鳥だ。鳥は空を横断して、キラキラと光る雲を吹き出す山の向こうに消えていった。
「本当に、違う世界なんだ」
心に染みるように実感が湧いた。
それほどに見渡す景色は非現実的で、けれど痛みも風の感触も砂漠の眩しさも現実のもので。
焦がれるほどに幻想的で。
ため息が出るほど美しかった。
砂漠に強く風が吹く。
煽られる二人は風に揉まれ、ガタガタと震え──違う。
「……ノボルくん?」
震えているのはノボルだけだった。
動かせる首を捻って確認すると、ノボルは無表情のまま顔色だけ真っ青にして震えている。
あ、これヤバいやつだ。
「ノボルくん! 高すぎるの!? 高すぎるんだね!? すぐ降りよう! 今すぐ降りよう!! 一旦傘を閉じて、地上近くでもう一回開くの! 出来る!?」
こくん、と小さく頷くノボルの動作はまるで子供のようだ。手足が自由にならない現状を歯がゆく思いながら、ノボルに対して合図を送る。
エレベーターか絶叫マシンでしか味わったことのない底冷えする浮遊感に耐えながら、どうにかノボルが減速するのを見届けた。
二人して砂の上に転がるように着地し、幸子はノボルに対して悲鳴を上げる。
「吐くなら離れて! 私動けないから! ふあらうぇーい!」
結局、崩れた遺跡からあまり遠くへ行くことは出来なかった。目と鼻の先にある瓦礫の山を遠い目で見て、ケロケロと吐くノボルから意識を逸らす。
蜘蛛から助けてもらったときは頼もしいと思ったのだ。思ったのになあ。
今は手のかかる弟分を見ている気分である。
遺跡は無残に崩れ、美麗な彫刻が施された柱が何本も頭を突き出している。風に流れてきた粉塵を吸い込まないよう、幸子は息を潜める。
そのとき、一際大きな瓦礫がひとつ、僅かに動いたような気がした。
「ん? んー?」
よくよく目を凝らして見る。瓦礫の隙間から、ポコポコと何かが湧いて出る。
それは、すでに見慣れた八本脚の生き物であった。
「ノボルくん! ノボルくん! カムばーっく!!」
人間は助け合いなのである。
ノボルVS.大蜘蛛軍団。繊細な細工にも似たガラスの罠。迎え打つのは燃える剣。圧倒的スケールで放たれるアクション長編が、一人の観客を放置して今、始まる──!
■ガラス蜘蛛
腹で融点の低いガラス状液体を分泌する蜘蛛型魔物。
蜘蛛っぽい見た目をしているが恒温性だったり痛覚があったりと中身は別物。
本来は暑さが苦手で住処が急速に砂漠化したため不活性になったダンジョンに避難していたところ、突如現れた侵入者に折角の巣を壊されたので怒り心頭。
この蜘蛛のガラス糸は軽くて丈夫、そのうえ加工がしやすいと有用性が高く、職人に人気。
水と砂糖を混ぜれば柔らかくなりオブラートの代わりにもなるが、ガラス蜘蛛の個体数が少なく高価なため庶民には出回らない。金持ちの子供は大体これのお世話になっている。




