私は人間
いつかはこんな日が来るとわかっていた。
隠れて過ごしていたつもりだったが、それでも邪魔な人間は殺した。彼に知られないために。
そんな努力も今日で終わる。
タリスと共に過ごした村を滅ぼしてから一年と少し経った頃、勇者パーティーはその村に立ち寄った。
恐らくだが行商などから異変を聞き、訪ねて来たのだろう。
「エナ、私はやはり魔王だよ。そうでなければ彼等が私を探すはずないからな。私はもう行くよ」
『勇者の前に立たれるのですか? 今なら貴女ではなく私のやったことにできますよ』
それはとても魅力的な申し出だが、無理だ。
見間違いだと思いたかったエナの魂は輝きを増し、普通の人間より少し濁っている程度になっている。これでは魔物とは言えない。
勇者が人間を手にかけたことはない。それが犯罪者であろうともだ。
だからエナが彼と対峙してしまったら、タリスは抵抗しない可能性がある。それではダメだ。
私はタリスが嬲り殺しになるのを望んでいるわけではない。
私の目の届かないとこで死なれるのは嫌だ。
「それはダメだ。確かに私は彼に情がある。だからこそ、ここでこの馬鹿げた悲劇に終止符を打つ必要がある。大丈夫だ、私はどうせまた甦る」
『それでは今世ではもう』
「覚悟している」
こいつ以外の魔物はすでに私の元を去った。自分の理想と今の私の姿が違うと言って。エナだけが残ったが、流石に愛想が尽きただろう。
そう思ったのだが、悲壮な表情を浮かべ膝をつき、私の手を取った。その姿に、わずかに瞠目する。
『では、今世こそ最期までお供させてください』
「勝手にしろ」
拒否したところで無駄だろう。心を決めている。
それにきっと、こいつと居られるのももう最後だ。
来世では会えないだろう。
エナと話している場所は、タリスと住んでいた家の中の私に割り当てられていた部屋だ。
ここには嵌め込み式の窓があり、そこから眺める景色が好きだった。
あの日のように指を鳴らすことで窓についた霜を落とすと、住民の姿が全く見えない街の様子に、訝しげな表情を浮かべ、慎重な足取りで歩くタリス率いる勇者パーティーの姿が見えた。
もうそろそろ動かないと。
部屋から出て家の玄関口に立ち、タリスが家の前を通りがった時を狙って扉を開けた。
いきなり生身の人間が出て来たことに驚いたのか、勇者パーティーのメンバーが武器を構えた。それを無視して、タリスに話しかける。
「お帰り。お兄ちゃん」
「久しぶりだなコレー。それより街の様子がおかしいんだけど、何でだ?」
私がタリスと共に過ごした家から出て来たから、まだ彼の両親と一緒に住んでいて、街の異変の理由を知っていると思ったのだろう。
まあ、私がその原因とは夢にも思っていない様子だが。
タリスを除き、勇者パーティーのメンバーは三人いた。前方で槍を掲げた女と後方で守られている女、それと弓を持った男だ。
普通に考えて後方にいる女が巫女だろう。彼女なら私の魂の色が見えるだろうに、なぜタリスに告げないのだろうか。何か理由があるのか?
「多分、皆んな死んだからかな。お兄ちゃん。私ね、とっても寂しかった。でもお兄ちゃんに帰ってきて欲しくなかった」
「どういう」
「だってそうでしょう?」
タリスの声を遮り、先程出てきた扉の方に視線を向ける。私の視線を追ってタリスや勇者パーティーのメンバーもそちらを見た。
扉の向こうから、全身真っ黒で見るからに魔物であるエナが出てきた。
その姿にタリスとその他の三人が驚愕の表情を浮かべている。巫女と思われる後方の女が特に驚いていた。
やはり、彼女が巫女で間違いないようだ。そうでなければ瞳が溢れんばかりに目を見開くことはないだろう。それほど驚くのはエナの魂の色が見えている証拠だ。
「コレー。早くそいつから離れろ!!」
いち早く正気に戻り、声を発したのはタリスだった。焦ったような声音でそう言いながら、剣を構えた。
「まだ、わからないんだね。私だよ、この村を滅ぼしたのは。貴方の探している魔王は、私なの」
タリスにそう告げると酷く動揺した様子で、巫女の方を振り向いた。
「嘘だ。うそだうそだ。そうじゃなきゃコレーは操られているんだ。リースそうだよな」
「ごめんタリス。わたしにはわからないわ。だって、その魔物、普通じゃないもの。彼は魂が人間と同じなの」
リースと呼ばれた巫女は困惑したように答えた。
やはり、エナの魂が人間と同じに見えるのは私だけでなかったようだ。
だが、こんな事を言われるとは想定してなかったのだろう。エナは驚いたように自身の胸元を凝視した。
「タリスだめーーーー!!」
『私が人間? ……っうっ」
そんな時、目を離した隙にタリスがエナに向かい剣を振り上げていた。さすが勇者というべきか、剣筋を読むのがやっとだ。
気がついたときには振り下ろされるところだった。
勇者パーティーの巫女が制止していたが、タリスが動きを止めることはなく、剣は振り下ろされた。
エナは咄嗟に急所に当たらないように剣を避けていたが、それでも十分な痛手だったのだろう、その場に崩れ落ちた。
忌々しそうに顔を歪めながら、タリスは息のあるエナの首を狙って剣を振るう。
流石に首を刎ねられたら、別れの言葉を聞くことも出来ない。そう思ったら、攻撃する気はなかったが、咄嗟にタリスを魔法で吹き飛ばしてしまった。
突然の攻撃に驚いたのだろう。数メートル飛んだ先で、タリスが呆然とした表情で私を見ていた。
「コレーが俺を? なんで」
「ごめん、ごめんね」
それだけ言うと、私はエナの方に向かって駆けて行った。やはり、勇者というのは伊達ではないらしい。
一緒にいた頃は常人並の力しかなかったのに、知らない2年ほどの間に随分と人間離れした力を得ていたようだ。
一撃を、しかも急所ではないところに受けただけなのに、エナが消えかかっていた。
『魔王様よろしかったのですか?』
「何のことだ?」
エナの体から光が抜けていく。魔物とは汚い物の塊で出来ていると思っていたが、存外綺麗な物でできているのかもしれない。
ただ、その光が体から抜けるたびエナの体が淡く、軽くなっていくのが堪える。
『私を庇ってよろしかったのですか? 勇者はきっと貴女が私の王だと、私にとっての魔王だと気が付いていなかったと思いますよ』
「何を馬鹿な事を……、私はお前とは違う。私は何度甦っても、魂が真っ暗なままだ。誤魔化したところで運命は変わらない。どうせ対立する定めになっている」
『貴女は結局、気がつきませんでしたね』
何が言いたい。
そう聞こうとしたが、その前にエナの体が空気に溶けて消えてしまった。
そういえばエナは魔物は死したら甦らない、それが怖いと言っていた。だが、彼の魂は魔物とは思えないほど人間に近いものになっていた。
エナは輪廻に戻れたのだろうか。
「コレー、正気に戻ったか?」
「私はずっと正気だよ。お兄ちゃんこそ、ちゃんと現実を見て」
エナは今回、何も悪いことをしていない。村を襲ったのも人を殺したのも私ひとり。
ねえ、お兄ちゃん。
ううん、勇者。お前は今まで一度だって人を殺したりしなかった。それなのになぜ、エナを殺した?
そこにいる巫女もエナのことを人として認識していた。それなのになぜ?
消えてしまったエナを探すように地に向けていた視線を、勇者に向ける。
「勇者の両親を殺したのも、村を滅ぼしたのもエナじゃない。ねぇ勇者、人を殺したら貴方の魂の色はどんな色になるの?」
勇者がエナに剣を振るった時、巫女は止めようとしていた。勇者パーティーの目的が魔物を葬るためで、人を殺すことは自分たちの役目ではないから? それは違う。
魔物が現れた恐怖で凶行に及ぶ人間を、勇者パーディーの者達が斬り伏せているのを、過去何度か見たことがある。その時、勇者は戦闘に参加せず、一歩引いたところから見ていた。
勇者がやらなかったとしても、パーティーの誰かがエナを殺すために動いただろう。ただ人の心を持っただけの異形のものを殺すために。
一般人に恐怖を与えるだろう人間を殺すことに、彼らは何の躊躇いもない。
勇者だけが人を殺さない。殺してはいけないはずだった。
その掟を破った勇者は果たしてどんな魂の色になるのだろうか。
――ああ、やっぱり。
「お前はもう勇者じゃないんだね」
わずかばかりの翳り。死霊術をかけられても輝かしいばかりだったタリスの魂が、少しだけだが濁っていた。
「コレーが父さんや母さんを殺した?」
「ああ、そうだよ」
呆然とした様子で呟いたタリスの言葉に答える。
いつも輝いていた瞳が、今は伽藍堂のように生気がない。
「いつから、いつからコレーは俺の知っているコレーじゃなくなった?」
「多分タリスが思っている通りの時からだ」
私が甦ったあの日から、周囲の人間からコレーに関する記憶が消えた。
タリスだけが持ち続けた少女の残骸。そんな物に縋ったところで彼女はもういない。
タリスから目を離し巫女を見た。
「ねえ、今代の巫女。なぜ、お前は私を見つけた時、魔王だとタリスに告げなかった?」
そうすればエナが消えることはなかったかもしれない。操られているのではなく、私自身が悪なのだと勇者が知ればそこで決着がついたはずだ。
「貴女が魔王ではないからよ。ただの罪人を見抜く目など、私は持っていないわ」
それが答えか。
似たようなことを湖にいた魔物にもエナに言われたな。その時はわからなかったが、ようやくその言葉の意味がわかった。
私は随分、思い違いをしていたらしい。
もっと早くその事に気が付いていれば、違う未来が描けたのに、本当に馬鹿馬鹿しい。
神とやらがこの世にあるとすれば、そいつは何と残酷で悪魔のようなやつであることか。
巫女と話している間に正気を取り戻したのか、タリスが駆け出し、剣を振り上げた。今度は巫女が止めることはなかった。もう、勇者としての資格を失った後だからだろう。止めたところで、勇者に戻ることはない。
人間を殺した勇者は只人に落ちた。人間は記憶を失い、輪廻を巡る。穢れた魂が完全に綺麗になることはない。
今代で勇者はいなくなったのだ。
これでおしまい。
「許さない。許せるはずがない」
タリスはそう言った。
そうだろう。そうだろうとも。
彼の瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「勇者、もうさよならだ」
振り下ろされた切っ先が、肩から胸にかけて切り裂く。しばらくすると口から血が溢れ出した。やはり元とは言え、勇者の一撃は重かった。だが、それでも先に膝をつくわけにはいかない。
今、地面に転がったら、彼の最期を見届けられなくなる。
「タリス、お前その体!!」
「勇者様! どいうこと!?」
視界の端で、男と巫女ではないもう一人の女が驚いて駆けつけてくるのが見えた。
巫女は驚いていないようだ。もしかしたら途中から想定していたのかも知れない。
死霊術は術者が死ぬ時、掛けられた術が解ける。
私の体が朽ちる前に、タリスの体が風に攫われるように足の方から砂となって、風に運ばれていった。
それを看取るのと同時に体に力が入らなくなった。
切られたところが、熱せられた鉄を流し込まれたかのように熱い、それなのに手先は凍えるように冷たかった。
だんだんと周囲の音が遠くなっていき、潮騒に似た血の音だけが耳に残った。どこか遠くで声が聞こえるが、何を言っているのかわからない。
もう疲れた。一度休ませてくれ。
どうせ次も甦る。でも、その時はきっと……。