名前はない
人の体とはほんに不便なものである。
飯を食わねば生きられない。体を冷やすだけで弱る。
タリスと会わないために山籠りをしたはいいが、食料が問題だ。冬山だと食べられるものが限られてくる。
挙句に魔の者が住み着いたせいで動物が逃げてしまった。
魔力で少しは命を繋げるため、そこまで緊迫した状態ではないが、木の根や草の芽だけで生を繋ぐのは限界がある。
しかたがない、しかたがない。そう呟くことで自身を正当化する。
「この山の向こうはどこに繋がっているんだ?」
『村ですが? それがなにか』
ここ数日の間に私の周りはエナ以外にも、少しずつだが魔物が戻ってきていた。
私の質問に答えているのも女型の魔物である。
「王都からの距離は、私がいた村と比べてどれくらいだ。遠いのか近いのか。それと、集落の規模は? 家畜や田畑はあるのか?」
食べ物がないのなら奪えばいい。だが、タリスのいる王都とはなるべく遠いところ、できれば連絡が行くまでに時間がかかるところが望ましい。
連続して同じところを襲わなければ、移動したと思われるだろうから。
『この山は主に魔王様が住んでいた村にあるのですが、西の一部が異なる村の土地に入っております。王都からの距離は存じ上げません。この辺り一帯が王都からかなり離れていますので、誤差の範囲でしょう』
「そうか」
なら、そこを潰しても特に問題ないな。
『何をなさるのですか?』
「食料補給。夜までには戻ってくる」
必要な物は何だろう。食べられるもの、できれば保存食と飲み水だろうか。
あとできれば着るもの。
『私も共に行ってもよろしいでか?』
「流石に目立つから、控えてくれ」
『魔王様ともあろう方が、隠れていかれるのですか? やはり貴女は腑抜けてしまったのでしょうか』
それで何度、勇者に倒されていると思っているのだろうか。
真正面から向き合うなど馬鹿馬鹿しい。
魔物の中には血の気が盛んで殊更に勇者と争わせようとする者もいるが、私から勇者パーティーを探し出し、潰そうとした事はほとんどない。私が赴いた先にたまたまいて、邪魔だったから争う事になっていただけだ。
苦戦するとわかっているのに、自分から行くほど脳筋になった覚えはない。
「腑抜けと思いたければ思え。だが、私は今も昔も変わったつもりなどない。納得しかねるというなら、私に仕えずともいい、許そう」
私は自分のことを魔王だとは思っているが、それを決めるのは私自身ではない。
彼女にとっての魔王像と私はかなり乖離しているようだ。
突き放すと、憤ったように吠えられた。
『貴女は王であると仰った。そうエナは言っていました。その言に偽りがあったのですか!』
「お前が王に何を求めているのかは知らない。知りたくもない。私はお前たち魔物の信がなければ、魔王となれないが、魔王だからと自らの願望を押し付けるのはやめろ。王を思い通りにしたいのなら、自身が王になるしかない。お前は私を倒し、王になりたいのか? それより、私を倒せるのか?」
人の体だから防御力には欠けるが、それでも負ける気がしない。
少し威圧すると彼女は膝を折った。
『取り乱してしまったようです。私が貴女様に敵うとは夢にも思っておりません』
「では、私の決定に口出しするな。私は今から村に下りる。お前はそこで待っていろ。嫌なら私の前から去れ」
『御意』
白い雪山を下りる。余計な時間を使わされたせいで、西日を顔に浴びる羽目になった。
配下とは周囲にいなければ腹立たしいものだが、いたらいたで煩わしいものであるらしい。
だが、同時にやつらが笑えるくらい馬鹿で面白い。
手足のようにやつらを使っているにもかかわらず、やつらの思い描くような魔王を演じてやる気もない。
そんな私に仕えるやつらが道化のようで笑いを誘う。
ただ、自分より強いからと言うだけで仕えるとは、動物と変わらない。
ああ、そういえば。
強いやつに従う。それは何も魔物だけではなかった。
何度、人里を襲い命乞いをされたか。
仄暗い感情が甦る。
だが、今世は大人しくしておこう。
記憶の中で、私をコレーと呼ぶ声が狂気に耽るのを押し留めた。
日が完全に落ちる頃、村に着いた。こっそりと中に入り込み、民家の付近を避け、田畑に行く。
だが、やはりと言うか冬場の畑には大根やかぶ、あとは一部の葉物くらいしかない。
仕方がない。民家の裏手にある小屋に行った。予想通り、家畜が飼われていた。
豚が二匹に馬が一頭。鄙びた村だと言うのに、馬がいることに驚きつつ、小屋から出た。
動物は荷物になるから、最後に頂けばいい。
それよりも干物だ。今の時期なら、きっとどの家も蓄えている。
民家の扉に手をかけたが、鍵がかかっていて開かない。
魔力で扉ごと粉砕すると、視界が開けて真っ先に目に飛び込んで来たのは、竃だった。
しばらくすると足音がして、奥から人間の男が出てきた。きっと、扉を粉砕した音を聞き、駆けつけてきたのだろう。
「……もっ、物取り!」
部屋を物色し、保存食の類を探していると物取り扱いされてしまった。
私の容姿が魔物には見えないためか、逃げるのではなく襲いかかってきた。
男は壁に立てかけていた鍬を持ち、こちらに向け振り下ろしてくる。だが、それが私の頭に刺さる寸前に男は崩れ落ちた。
男の周りの重力を魔法で少し増やしてみた。ただそれだけ。
それでも効果覿面だったらしい。鼻や目、口から血を流し、体全体が潰れたようにひしゃげている。また、内出血でもしているのか、皮膚の一部が赤らんでいた。
少し圧をかけただけで血を吹き出してしまうほど人間の体は弱い。地に伏し、だくだくと血を垂れ流す男の死体を横目に見ながらそんなことを思った。
物色を続けていると乾パンとチーズ、干し肉を見つけた。それを手近にあった布で包む。
あと衣服が欲しい。冬山はやはり寒い。
エナは薄衣一枚でうろついているが、体の作りが人間寄りの私は分厚めの上着を着ているだけでは体が凍える。
奥に進むと寝台と籠が置かれた部屋があり、寝台の上で女が赤子を抱き、怯えたように震えているのが見えた。
逃して兵でも呼ばれたらことだ。隣村まで捜査範囲がおよべば、私の存在にたどり着きかねない。
あの日、タリスの父親と目があった。きっと、やつは魔物が跋扈する冬山で人間が生き残れるはずがなく、私が一日と経たず死んだと思っているだろう。それが生きているとわかったらどう思う。魔物の仲間だと思われ、王都に使いを出すのではないか。
それらのことを瞬時に考え、女に近づく。恐怖のあまり悲鳴をあげることもできないのか、小刻みに震えるばかりの女の首を刎ねた。
血が壁を斑らに汚し、朱色の鮮やかな花を描いた。
残された赤子と目があった。赤子の頬には先ほどの女の血がべっとりとくっついている。死した女の腕に抱かれ、ただぼんやりとこちらを見ていた。
憎い仇の顔を覚えようとでもしているのか。
だが、こんなに幼ければ言葉を話すこともできないし、すぐに忘れるだろう。いや、それよりも親が殺されたことさえ理解していないかもしれない。
赤子を放置して籠の中を漁る。すると、数は少ないが衣服があった。その中から先ほど殺した女のものだと思われる革のコートと手袋を取り出し着込んだ。
その他に使えそうなものが部屋になく、しばらくすると赤子が弱々しい声で鳴き出したため、面倒臭くなり部屋から出た。
部屋から出るとき、ふと窓から外を見ると空が薄く紫がかっているのが見えた。夜明けが近い。もうそろそろ帰らないと夜の間に帰れなくなるな。
急いで家を出て小屋に向かう。一匹だけ豚を絞め血抜きすると、その頃は空が白くなってきていた。
夜の間に戻れなかったな。
血抜きが終わった豚の臓物を引きずり出し、解体を後回しに担いだ。
早く戻らなければ。
暁の空を見上げながら、急いで山道を登った。
奪った食料は二月ほどで底をついた。だが、雪も溶け春の息吹を感じるこの時期、わざわざ家に押し入らなくとも田畑には収穫物がたくさんあり、易々と奪うことができる。
ただ問題があるとすれば、野菜類が多く保存がきかないことだ。よくて一週間で腐る。
そのせいで頻繁に人里に降りなければならないのが不便だった。
先日もわずかばかりの食料を奪ってきた。
その食料を食べながら、近くにいたエナを呼びつけ、疑問に思っていたことを訪ねた。
「なあ、お前は私に勇者と戦えと言わないな。なぜだ?」
魔物の中にも他に無頓着な者はいる。人間だった頃の環境が悪かったのか、はたまた別の理由からか、なぜか魔物になってしまったやつらだ。
だが、エナは違ったはずだ。彼の人間だった頃は知らないが、過去一緒にいた時はかなり血生臭い性格をしていた。
『貴女が勇者を助けた時に思ったのです。私は彼が憎くて堪りませんが、貴女は違ったらしい。そう考えるとなぜでしょう? 今世で貴女を見かけたのは幻だとした方が貴女にとって幸福なのかと思いました』
そこで少し言い澱み、意を決したように言葉を繋げた。
『貴女はご存知ないかも知れませんが、普通の魔物は死したら甦らないのです。数十年数百年の時を生き、勇者に倒されるか、自然消滅するかで死ぬのです。それでおしまいです。ずっとそう思ってきました』
「お前はそれが怖いのか?」
『ええ、恐ろしいですね。ですが貴女を見て考えを変えました。もしかしたら死んでもおしまいなどではないかも知れない。私は可能性を見つけましたから』
「意味がわからっ……!!」
『どうかされましたか?』
言葉を詰まらせた私にエナは不思議そうに首を傾げた。そんな彼に、なんでもないと言い残しその場を離れた。
早くエナの近くから離れないと、彼に動揺した理由が悟られてしまうかも知れない。
いや、普通ならありえないことだ。彼も夢にも思わないだろうこと。
なぜか彼の魂が一瞬僅かに光ったような気がした。それは魔物が持っているはずのない輝き。
本当に一瞬で、弱々しいものだったから見間違いかもしれない。
それでも、もしかしてと思うだけで、胸が激しく波打った。
もしアレが見間違いでないのなら、私達魔物は人間になることが可能かも知れない。輪廻に戻ることができるのかも知れない。
不可能だと思っていたが、もしかして。
そこまで思った後、はたと気が付いた。私とエナは違う。普通の魔物は記憶を持って甦ったりしない。それに私はずっと人間の体だ。彼等のように魔物の見た目をしているわけでもないのに、魔王だと言われる。
何もかもが違うのだ。
それに気がついた瞬間、途方もない孤独感を感じた。
物を奪う生活を一年近く続けたころ、稲刈りの時期に入った。天日干しされた穂から籾を分けている農民の姿が田に見られるようになった。
最近では西側にある農村の村人に警戒されて物を奪いに行きづらい。
今までは避けていたが、元いた村から違う村や町に出て奪うしかないだろう。
そう思い山を降りたのはいいが、なぜか村の住人に囲まれた。その中にはタリスの両親など見知った顔の者もいる。
「今年の夏あたりに連絡が来てな。人を襲う魔物が出るとか」
「それで何で私を囲むの?」
姿を見られた時は殺したつもりだったが、それでも見落としがあったのだろうか。それとも、ほかの理由から突き止められた?
ちらりとタリスの父親を見る。
――ああ、お前だな。許さない。
「冬山で人間が生きられるわけがないだろうが! それにお前が家を出て行ってから、ことが起き始めた。それが何よりの証拠だ」
「それで、いつここを通るか張っていたと? ご苦労なことだね」
本当にご苦労様。殺さないために隠れて生きてきたが、こうなっては生かしておけない。
先頭にいる見知らぬ男が振り上げた鋤を奪い取り、顔面に蹴りを入れる。その間に他のやつらが持っていた鉈や鍬の持ち手を魔法で腐らせると悲鳴をあげられた。化け物と叫ぶ声がする。
顔を蹴り上げたついでに鍬を振り下ろして殺すと、血飛沫が飛んだ。やはり、物に頼るのではなく、魔法にすべきだったか。顔にかかった血のぬめりが気持ち悪い。
顔を袖で拭くと鍬を手放した。
そして、撫でるように手前の方にいた男の肩に触れると悲鳴をあげる間もなく、腐って崩れ落ちた。それを見た瞬間、集まっていた他のやつらが蜘蛛の子を散らしたように方々に駆け出していった。
「逃すわけがないだろう」
魔法で重力を数倍にして潰す。盛大に血飛沫を上げて肉塊になったが、少し離れていたから今度は血が顔にかかることはなかった。
しばらくすると、辺りに息のある者はいなくなった。だが、それだけでは足りない。
家に戻ってこない家族がいたら、村の住人も訝しがるだろう。
大丈夫。私がすぐ後を追わせてあげる。
それから数刻もせず、村に生存者はいなくなった。