序章
雨が降っていた。
冬の雨空はどんよりと重苦しく、空に押しつぶされそうな錯覚を覚える。電車の揺れは心地よいのに、車窓を打つ雨音は耳障りだ。バタバタと不規則で忙しない音に、美鈴は顔をしかめた。
平日の昼間、特急電車に乗っているのはほとんどがスーツ姿のサラリーマンだ。あとは町内会の団体旅行客か、初老の男女が目につく。彼らの話し声や笑い声はちっとも気にはならない。むしろ、人との接点を失いかけている自分にとって、社会との繋がりを思わせる細い糸のようなものだった。
美鈴の結婚生活は短いものだった。二年の交際を経ての結婚、すぐに第一子を授かり、妻として、母として、家族としてもこれからだった。
夫を愛していた。だから、全て受け入れられると思っていた。
少々神経質で、強情なところもあったが、それもこの人なのだと受け入れた。最初はそれでよかったのに、一体、どこで、何を間違ってしまったのだろうか。
美鈴は鞄から封筒を取り出し、役所でかき集めた書類を読みふけった。が、それも億劫になったのか、手元の書類から視線を外し、窓の外を見やった。
流れる山間の風景。ビルの立ち並んだ街を離れ、生まれた場所へ帰っていく実感が湧く。高校を卒業してから、すぐに上京し、それからほとんど実家に帰ることもなかった。
娘が生まれた後も、里帰りはしなかった。一ヶ月ほど、母親に泊まり込んでもらったが、赤ん坊の世話でゆっくりくつろげたという記憶もない。母親と何を話したのかさえも覚えていないのだ。それからすぐに、実家のある町に帰ることになろうとは、露程も思っていなかった。
駅ではきっと、両親と娘が迎えに来てくれているだろう。
役所で諸手続を済ませ、引っ越しの荷造りをする一週間ほど、美鈴は娘を実家の両親に預けていたのだ。目が回るような一週間だったが、一人で行動できたこともあってか、あの街でしなければならないことはすべて片付けられた。昨日の朝、引っ越し業者に荷物を引き取りにきてもらい、その日中に実家の方に荷物を運び入れるという予定になっていた。
一週間ぶりに会う娘はどんな顔をしているだろうか。拗ねて口をとがらせているだろうか、それとも、案外、祖父母に懐いて平気な顔をしているかもしれない。
不意に、前方の窓がガタガタと大きく震えた。それは次第に美鈴の座席にまで伝播し、窓の外が暗転する。トンネルに入ったのだ。
のぞき込んだ窓に映っていたのは――ただの、みすぼらしい女だった。
若い頃、美鈴が三十代になったら、と想像していたものとはかけ離れていた。理想の家族に囲まれ、活き活きと笑う母親でもなければ、背筋を伸ばして颯爽と歩くキャリアウーマンでもなかった。何の取り柄もない、くたびれた女。
もう一人の美鈴が涙を流した。はっとして頬に手を添えたが、頬は濡れていない。なんてことはない、窓についた雨の雫が、映り込んだ影の頬を伝っただけだった。咄嗟に自分が流した涙だと勘違いしたが、そんなはずあるものか、と美鈴は自嘲した。
この数ヶ月で、きっと一生分の涙を流したに違いない。枯れてしまったものはもう、どうしても流せないのだ。
美鈴は座席テーブルのコーヒーを一口すすり、ふっと目を伏せた。紅茶派だったが、今はコーヒーが飲みたい。深くローストした、濃いコーヒーを、それもブラックで。
書類整理を続けようと、再び封筒を手に取った。電車の横揺れで手が滑り、バサリと中身が床に落ちる。落ちたのはカードが五枚、どれも病院の診察券だった。
雨で湿った床にへばりついたカードはなかなか取れなかった。美鈴は眉をひそめ、仕方なく席を立つ。通路にかがみ込み、カリカリと爪でカードを剥がし取った。印字面がはげ、通路にまだら模様を作る。美鈴はポケットティッシュを取り出し、床を丁寧に拭きとると、フックに掛けていたビニール袋に丸めて放った。
一連の作業のせいか、妙な疲れを感じ、美鈴はどっと座席に腰かけた。どうせもう二度と行くことのない病院なのだ。診察券が破れようが、皺になろうがどうでもいい。
深山美鈴。字が見えづらくなったカードには、そう書かれていた。
今さら、過去の名前に思い残すことはない。美鈴は拾ったばかりのカードを、見ないようにごみ袋にねじ込んだ。
終着駅に着くまで、あと二時間――。
この二時間が、自分にとって最後の自由な時間になるだろう。美鈴はそう思った。再び自由になれるのは二十年後か、いや、もっと先かも知れない。
ならば、せめて静かに眠らせて。
美鈴はゆっくりと目を閉じ、やがて安らかな寝息を立て始めた。




