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9/13

7.文明:皆で食べる

 だいぶ間が開いてしまいすみません。

 書いてる内にヒートアップしてしまい、この節はかなり長文化しています。ご注意ください。


 この第七節と続く第八節では、文明と文化をテーマとして取り上げていきます。


 前節までの「経済」と「技術」を舞台の小道具とするなら、「文明」と「文化」は大道具や衣装に相当します。

 自然と人間を仲立ちし、私たちを社会的存在へと格上げする存在。それが文明であり文化です。



 この第七節では主に文明について扱います。


 詳しくは設問に譲りますが、文明と文化は似ているようで異なっています。

 その違いについて、いくつか例を出しましょう。


 国家は文明に属し、民族は文化に属します。


 世界遺産は文明に属し、伝統芸能は文化に属します。


 スローフードは文明に属し、ティータイムは文化に属します。


 そして「経済」は文明に、「技術は」文化に属します。


 さてさて、謎かけはここまでです。

 さっそく質問にいってみましょうか。



 ***



Q61.

 で、結局のところ文明と文化の違いは何?


A:

 人間世界、つまり人間の生活環境を一枚の布として眺めた時に、横糸となるのが文明、縦糸となるのが文化、です。


 時間という切り口で見るとわかりやすいでしょうか。

 文明を語るとき切り口は年代別に、つまり時間を横に切ります。文明は時々の情勢や環境に合わせて流動し、百年もあれば移り変わります。

 対して文化を語る場合、時間を縦に切ります。文化はその経てきた歴史が重要であり、基本となる考え方は時が経ってもあまり変化するものではありません。


 つまり「文明」とは社会の構成や運動であり、「文化」とは概念や風習に当たります。そのどちらも、ある一時を切り取れば社会のルールに、言わば人間世界の織り模様となって浮き出てきます。

 

 さて、この文明と文化、どちらもルールという点では同じなのですが、決定的に異なる点が一つあります。それは影響を及ぼす、あるいは及ぼされる要素です。

 文明は主に環境に影響を与え、そして環境から影響を受けます。文化は歴史に影響を与え、そして歴史から影響を受けます。

 そして文明と文化は、相互に影響を与え合います。


 まとめるとこうです。


・文明とは

 その時々の環境や情勢を受けて作られる社会的ルール。

 

・文化とは

 長い時間をかけて醸成され、継承される社会的ルール。


 この節では文明と、その表出である国家や共同体、そして政治について扱っていきます。



 ***



Q62.

 文明設定は作品にどう影響しますか?


A:

 文明設定の影響を見ていく前に、そもそも文明を設定すること、そのものについて考えてみましょう。


 文明設定の花形はなんといっても国家です。

 現代とは異なる世界を想像する時、その舞台となる国家を考えない事は希でしょう。そして国家の設定が作品に影響しないはずがないことも、お分かりいただけると思います。

 もちろん文明は国家だけには収まりません。大きなウェイトを占めますけどね。


 文明設定をすることは、つまるところ、人の暮らし方のルールを作る事に他なりません。

 人の暮らしにはルールがつき物です。数の多寡も主義主張も関係なく、無人島に流れ着いた男であっても、銀河系を制覇した人類であっても同じです。核戦争後の無法地帯にだって、力こそ正義というルールがあるのです。

 ですから、ルールのない暮らしがないように、文明設定のない作品というのもありません。あなたが作品に取りかかった時に、文明設定もまた開始されています。


 では文明設定が作品に及ぼす影響とは何か。

 それは「生活感」と「現実感」の醸成です。いくつか例外はありますが文明設定が細かい、ルールが明確な作品では、キャラクターの生活に現実味があります。

 精密な設定は架空の世界をぐっと現実に引き寄せ、逆に設定を簡素にすれば、おとぎ話のような夢想の雰囲気が生まれます。


 もちろん設定の粗密は作品の善し悪しとは直接関係ありません。むしろ物語に合った密度かどうかの方が重要です。やたらリアルすぎるおとぎ話も、生活感のない現代劇も、作品としては同じ欠陥を抱えています。


 文明設定とは大道具にして衣装。物語が必要とするリアリティを提供するものなのです。



 ***



Q63.

 文明の設定は、どこから手を付けますか?


A:

 文明設定は広範に及びますから、どこから掘り下げていこうかと悩む方も多いかと思います。そこで文明を三つの段階に分け、工程ごとに取っかかりを作るやり方をお話ししましょう。


 文明とは時間を横に切るもの。ではその切り口に見える模様は何を表しているでしょうか?

 社会? 階級? 法律? いえ、もっと簡単に表せますよ。

 

 それは「いかにして皆が食事にありつくか」です。

 

 人間が文明を築くモチベーション、それは極論すれば「食欲」に他なりません。人類がわざわざ社会生活を発展させたのは、そこに属する全ての個体が食料を得るためであり、ひいては生存していくためです。


 食料を例に文明を単純化すると、供給、分配、消費という三段構造に落ちつきます。

 「どうやって得るか」「いかにして分配するか」「いつどこで使うか」

 これは食料だけでなく、ここでは資源リソースという表現を使いますが、生存に必要なあらゆるリソースについて共通の流れです。


 文明設定の取りかかりに悩んだときには、まず供給→分配→消費の流れを意識し、どこに特色を待たせるかによって順番を決めます。消費が特殊ならそれに見合った供給と分配を。供給が限られているなら、分配と消費はいずれも厳しいものになるだろう。といった具合ですね。


 先に第五節で触れた経済は、全ての段階を繋ぐ重要な要素です。取りかかりをスムーズにするためにも、先にある程度は設定しておく方がいいでしょう。



 ***



Q64.

 文明における供給、その組み立て方は?


A:

 供給とは資源を社会に提供する段階です。

 農業、牧畜、水産業などの食料供給だけでなく、鉱業や林業などのリソース生産もここに含まれます。


 文明はこの供給無しには成立しません。

 ラパ・ヌイ文明(モアイで有名なイースター島ですね)を例に取りましょう。ラパ・ヌイは人類入植以前、今よりもっと緑豊かな島だったと推測されています。入植したポリネシア人は巨石文明を発展させましたが、しかし後に衰退してしまいました。原因は諸説ありますが、人口爆発や外来種であるネズミの食害により、森林が失われた事は間違いないようです。

 森からの供給を失ったことで文明は縮小し、ついには崩壊へ至りました。


 この例には、供給を組み立てる際に気をつけるべき二つの要素が隠れています。

 すなわち、量と持続性です。

 ラパ・ヌイがもっと大きな島だったら? あるいは森林を保護していたら? もしかすると文明は存続していたかもしれません。

 供給に量と持続性が欠けていると、文明の発展や維持が難しくなります。架空の文明でもこれは変わらず、安定した、そして発展を続ける文明を作るなら、供給にはそれに見合った量と持続性が求められます。


 農業を文明の基盤とするなら、量は主に農地の面積や農業技術に左右されます。持続性に関しても、連作障害があるため永続的に同じ農地は使えません。

 鉱業における持続性の問題はもっと深刻で、どんな鉱山でも鉱石を掘り尽くせばそこでお終いです。新たに鉱脈を発見しなければ、それに依存した文明は終りを迎えます。銀を掘り尽くして衰退した古代ギリシャ文明がいい例です。


 一般に、多く長く採れる資源を持つ文明ほど、大きく永く栄えます。

 古代エジプトは四千年以上も栄えましたが、その源はナイルの氾濫を使った土壌回復型農業にありました。アフリカの天候が激変しない限り、エジプトには常に一定の(しかも大量の)供給が約束されていたわけです。


 無理のない供給を考えることが、文明設定では重要です。衣食住をまかなえるだけの地勢的条件を整え、物語に必要なリソースの出所をはっきりさせましょう。貿易も供給として組み込めます。一所で生産できない資源は、思い切って他所の文明から貿易で手に入れてしまいましょう。


 生活には先立つものが欠かせません。どんな暮らしにもしっかりした土台が、強固な供給が必要になります。



 ***



Q65.

 文明における消費とは? その組み方は?


A:

 順不同となりますが、分配を飛ばして先に消費を見ましょう。


 例が食料だったので消費とは食べることと思えますが、事はそれだけに収まりません。あらゆるリソース活用が、そして経済があるなら貯蓄も消費に含まれます。


 つまり消費とは、人の生活そのものです。


 供給が文明の規模や寿命を決定するなら、消費が決定するのは文明の外見です。

 何を食べ、何を着て、どんな家に住み、日々いかなる労働をし、どこまで足を運び、どんな夢を見るのか。

 透明な空想の世界にペンキを塗り、実感の花を開かせていきましょう。


 消費の姿を決めるためには、知識と想像力が必要です。

 知識については、高校の地理と歴史ぐらいで問題ありません。高緯度地方でサトウキビを栽培しなければ及第点です。

 想像力は、前提条件から暮らしの実体を引き出すために欠かせません。寒い地方には寒い地方の、暑い地方には暑い地方の暮らしがあります。

 これはどうかと思う設定を考えたなら、想像力を駆使してそこに住んでみましょう。想像の中で一週間滞在すれば、自ずと見るべき場所がわかってきます。


 また第六節でも言いましたが、安易に歴史や現実の代替物を作るのはおすすめしません。折角の架空の世界なのですから、あっと驚くような生活様式を思いつく方が楽しくありませんか?

 とはいえ、無理さえなければこだわるポイントでもありません。環境が似ていれば人の暮らしは自然と似てきます。問題なのは安易な模写であり、現実の生活は積極的に参考にすべきでしょう。


 消費は文明のショーウィンドウです。本文では供給や分配に触れないとしても、消費は物語の背景に常に見えています。全てを作る必要はありませんが、基本となる部分は先に考えておいても損はしません。



 ***



Q66.

 文明における分配とは?


A:

 この項目を後ろに持ってきたのには理由があります。というのも、分配こそ私たちが考える「ポケットの中の文明」であり、煩雑な要素だからです。


 Q62で述べたように、架空の世界に文明を興すとき、いちばん早く着目されるのが国家です。農地や鉱山、暮らしぶりや主食よりも先に国名を決めてしまうこともあるでしょう?

 これは作者がポケットを上から、つまりマクロの視点から覗く傾向があるからです。分配が供給や消費より目立つのは、それが他の二つより圧倒的に巨大で、かつまとまりのある要素だからですね。


 分配と同規模の要素に経済もありますが、これら二つは似て非なる存在です。

 経済はあくまでも供給と消費を繋ぐパイプラインであり、分配はそこに干渉する、もしくはそれに影響を受ける「ルールそのもの」です。物々交換を思い出してください。等価値のものを引き換えていただけで、そこに分配はありませんでしたよね?


 分配の話が複雑になってしまうのは、それが「政治」と切り離せないからです。

逆に政治と聞くと難しそうな印象がありますが、突き詰めれば「誰にどのくらい配るか」のルールでしかありません。もっともそのルールの難しさといったら、細かく設定しだしたら頭痛では済まされませんけどね。


 というわけで分配とその表出たる国家については、ここからさらに問いを重ねることで追及していきたいと思います。



 ***



Q67.

 王国(帝国でも可)を作りたいのだが?


A:

 いきなりですね、ちょっと待ってください。

 確かにその二つは架空世界の定番国名ですが、それを設定するなら、いくつか条件を知っておいた方がいいと思いますよ。

 

 王国と帝国といえば、架空世界における国名番付の終身横綱です。その人気の理由は、物語における使いやすさにあります。


 王国も帝国も、国家体系から見ると同じグループ「君主国」に属しています。

 君主国というのは、身も蓋もない言い方をすれば「君主がいる国」です。君主とは国家の最高責任者にして所有者のことで、国は君主の所有物、その運営責任もすべて君主個人にかかります。

 君主制のグループにはこの二強の他にも多数の国が属しています。ざっと挙げると、皇国、公国、領、騎士国と教国もそうでしょうか。もちろんこれが全てではありません。


 さて、君主国が架空世界の常連になった理由は、以下のメリットによるものが多いと思います。


・フットワークが軽い

 君主国はとにかく意思決定がスムーズです。国民みんなを説得しなくとも、君主一人を落とせば国を動かすことができます。

 余計な話し合いや政治的駆け引きとは(比較的に)疎遠なのです。


・成立が簡単

 君主制は、極論すれば「お山の大将の超強化版」です。人間ならば誰しも思いつく分配ルールであり、事実、歴史の初期から存在してきました。

 なので架空の世界がいかなる状態であろうとも、常に誰かが着想し、また実行に移そうとすることは想像に難くありません。

 つまりどんな背景でも成立する可能性があるのです。


・わかりやすい

 これは特にゲームがそうなのですが、わかりやすい目標というのが物語では重要になります。敵ならラスボス、味方なら護衛対象や主人公。国の全てを背負う君主は、その両方に好適なキャラクターです。

 特に作品のスケールが大きな場合、国を君主に擬人化し、コンパクトに運用できるのは最高のメリットと成り得ます。


 一方、現実的な視点から詰めていくと、君主制には以下のデメリットが存在します。


・ワンマン体質

 君主国は君主の持ち物なので、後述する制限(立憲制)にもよりますが君主一個人の権力が絶大になります。

 君主の過失や怠慢、独断などが国事に反映されやすく、その国家経営は常に安定とは限りません。凡人ならうっかりで済みますが、君主にうっかりは許されないのです。


・力関係で泥沼化する

 君主国という形で括ってきましたが、実際のところ一個人だけで国家を回すことは不可能です。封建制という大分類の話になりますが、ほとんどの君主国は君主とその家臣や部下による集団統治です。

 問題はその家臣の方で、これが君主の意向に絶対服従とは限りません。三銃士のリシュリュー枢機卿が最たる例でしょう。面従腹背とばかりに家臣が暗躍するようでは、国政はどんどん泥沼化していきます。


・腐りやすい

 これは私の偏見ですが、君主国というのはよほどルールを明文化しない限り(してもなお)政治的腐敗と縁が切れないように思います。

 お山の大将や取り巻きが私腹を肥やしたとして、それを罰するルールが彼ら自身では周りはお手上げです。文明における分配は公正とは限らず、人間は(その善悪は別として)得られる利益は得ようとする生き物です。

 君主制とその上位分類である封建制は、統治者のモラルに支えられるがゆえに、潔癖さを維持するのに向いていません。


 なお全ての君主が野放しの絶対者ではありません。

 国家の全員に共通のルールを定め、君主にすらそれを遵守させる「立憲君主制」や「制限君主制」を持つ国もあります。もっとも中には、そのルールすら骨抜きにしようとする腐りきった君主もいますし、そういった輩ほど立ち回りが上手だったりしますが。


 最後に君主国の国名について、大まかな分類を示して終わりましょうか。


・王国

 比較的に使用しやすい国名です。

 政治的には王と家臣(貴族や騎士、あるいは聖職者など)で構成され、所帯としてはこぢんまりした印象ですね。用途も幅広く、小国から大国まで使える他、領土次第で「連合王国」とか「連邦王国」といった変形も簡単です。

 もしこだわりが無いようなら、君主国には王国と付けるのをおすすめします。


・帝国

 某暗黒面(ダークサイド)の影響からか悪の代名詞として使われがちな帝国ですが、語義そのものに善悪はありません。

 王国と異なるのはそのスケールで、帝国は主に「複数の国を従えている国」に適用されます。皇帝とは「王の王」であり、所有権や権力が下を巻き込んだ複雑な入れ子構造を持つのがその特徴です。

 どこぞの第三なんちゃらのように自称のところも少なくはありませんが。


・公国

 これまたどこかの「いちばん小さな国連加盟国」や「月の裏側の独立国家」のせいで悪側に見られる国家です。

 公国というのは「大公」が治める国のことで、雰囲気としては「王と呼ぶにはちょっと……でも国の持ち主は俺」というやや控えめな主権の表現です。その語議上、完全な独立国家よりも寄り合い所帯の一員として使われることが多く、王国や帝国の下部にいることも珍しくありません。

 日本人になじみ深いところでは、幕藩体制の藩がこれに当てはまります。


・領

 これは公国のバージョン違い、劣化版と捉えても良いと思います。

 大公ではない諸侯の持つ国家で、扱いもそれに準じます。独立国として見られていない場合も多いようです。


・教国

 ファンタジーでは散見される国名ですが、現実に当てはまるカテゴリーの国はありません。ギリギリでバチカン市国が当てはまりそうなのですが、宗教と国政が完全一体ではないので(それ以前に国として完全成立してないですし)やはりファンタジーの教国とは違うと言った方がいいでしょう。

 教国は、おおむね宗教組織が政治組織を兼ねる国家なのだと理解していますが、そうなると君主国に入れて良いのかは迷うところです。まあ、見た限り教祖や大神官による君主制と見なせるため、一応ここに加えました。

 王国のちょっと変わった表現といったところでしょうか。



 ***



Q68.

 共和国や連邦、合衆国って何?


A:

 簡単に言うと寄り合い所帯のことです。


 詳しく見ていく前に、このうち連邦と合衆国について触れます。

 これらの国名は同じ事を、国が集まってできた国である事を説明していて、集まった国がどんな政治をしているかには一切触れていません。実際、連邦王国という王国の寄り合い所帯がありますし、連邦共和国という後述するジャンルの連邦もあります。

 したがって連邦や合衆国を国名に掲げても、政治体系はなんら明示されていないという点には注意が必要です。


 では共和国はどうかというと、これは明確に一つの政治形態を表します。その名も「共和制」といい「君主制」の向こうを張る存在です。

 共和制において、国家とは属する全ての人間の共有財産であり、その運営責任は国民全員にあります。


 経済のQ48の例からアパートを引き合いに出しましょう。

 国家を一棟のアパートと見立てた時、共和制アパートは住人全員の持ち物です。もめ事が生じたなら住人同士で話し合って解決し、維持費用もカンパで賄われます。要はなんでもみんなでやりましょう、というのが共和制なのです。


 ただし小国ならともかく、大国で国民全員にお伺いを立てるのは非現実的です。

なので意見や資金を集約する人を立てて、ある程度はその人たちにお任せすることになります。

 共和制の国家には、管理組合である「政府」、カンパの代わりに「税金」、話し合いの場となる「議会」、組合役員に相当する「議員」「公務員」、組合長である「議長」「首相」「総理大臣」「書記長」「大統領」などなどが存在します。

 このへんは今の日本でも馴染みがありますよね。


 さて、前の問いに倣って共和制のメリット・デメリットに触れていきましょう。まずはメリットから。


・安定的

 共和制の国政は短期的には安定します。これは政策や国策の立案、施行に長い時間がかかるためです。

 それらを変化させるためには、国民全員とはいかなくとも多くの国民の支持や賛同を得なくてはいけません。政権の交代も一緒で、国民の支持を得ている限り長続きしますし、機嫌を損ねれば簡単に首が飛びます。

 君主制のように一部の思惑で国政がひっくり返ったりしないのが共和制の強みです。


・中庸性がある

 共和制の国政とは万人の目を経た成文です。けして万人の理解は得られませんが、一方で極端に嫌われることもありません。いわば様々な意見の最大公約数なのです。

 したがって政治には目につくような革新性こそありませんが、一方でえこひいきも少なくなり、誰もが「まあ、それでいいよ」と言える水準に収まります。

 ほどほどのラインを常に維持するわけですね。


・想像しやすい

 日本国の政治体系は「立憲君主制」だと言われていますが、実際の政体は「共和制」と大差ありません。国は国民全ての財産であり、政府は国民の代理人です。

 つまり共和制の文明は、今の日本から容易に想像できるわけです。作った設定についての認識を現実を共有できるのは、作品を書く上で大きなメリットとなります。


 では引き続いてデメリットを見てみましょう。


・腰が重い

 政治が安定的という言葉を裏返しするとこうなります。

 君主制に比べてフットワークが重く、必要の有無にかかわらず手続きが一律で、かつ緩慢です。急を要する案件や国際問題で国民をやきもきさせたり、初動の遅れがミスを招くことも珍しくはありません。

 緊急時に臨時の責任者を任命したり、大統領という「君主もどき」を置くことでこれを緩和する方式もありますが、それらは後述する独裁を招きかねない諸刃の刃です。現にどこぞの大統領が早速やらかしてますし、彼のヒトラーもそういう手続きによって総統の座を得ました。


・誰もが満足しない

 これも中庸性の裏返しですね。政策が多数意見の最代公約数である以上、みんなが満足することはけしてありません。

 共和制における政治の立ち位置とは、八方美人ではなく器用貧乏です。誰もが一定の不満を許容することを、共和制は国民全員に要求してしまいます。


・独裁を招く

 君主制の「腐りやすい」と似ていますが、こちらはより深刻です。君主制の腐敗が患部を取り除けば正常化する初期のガンであるのに対し、共和制の独裁は構成員全体の熱狂や誤認、諦めによる自己免疫疾患です。

 病にかかっているのは個々の国民であり、簡単な治療方法などありません。共和制における独裁政権は多数(何も言わない多数サイレント・マジョリティを含む)を味方に付け、強固な支持基盤を形成します。一度成立してしまうと解体は(国民の大多数を敵に回すのですから)困難を極め、崩壊を待つほかにまず打つ手はありません。


 共和国というと、架空の世界では善玉か中立として描かれることが多いのですが、メリット・デメリットをふまえるとその理由が見えてきます。


・安定しているため、敵対する理由が見つからない。

 変化のスパンが長く、物語を通じて立ち位置があまり変化しない。


・敵対しても、個人でどうこうなる相手ではない。

 君主という明確な目標がなく、勝利条件が不明瞭。あるいはその説明に描写を割く必要があり、作品で扱うには要素が大きすぎる。


 つまりどちらの場合にしても、明確に登場させるには複雑すぎ、大きすぎる存在なのです。詳細に見るより、頼もしい味方や巨大なバックボーンとして使う方がよほど簡単です。共和制の政変を描く物語は、おそらくその描写だけで文章の大半を費やしてしまうでしょう。



 ***



Q69.

 ~主義という言葉はどう使うのか?


A:

 ここではより分配に迫る、国家の主義について見ていきましょう。


 主義というのは、国家や文明における「分配のポリシー」を指します。

 供給で得たリソースをどうやって消費にまわすか、その基本姿勢を分類、表示するのが主義です。これがまた多岐にわたり、しかも説明には小難しい言葉が多く必要な分野になります。


 そこで私は詳細な解説を控え、代わりにフィーリングを重視した説明をしようと思います。

 例として出すのはドラえもんの登場人物です。架空の国家設定で頻出する主義を、彼らになぞらえて見ていきましょう。


 なお主義名や詳細は、現実の政治的な分類とは合致しません。あくまでも世界設定についての私の考えだと思ってください。


・君主主義

 君主国でおなじみの主義です。

 ここで登場するのは、言わずもがなのジャイアンです。「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」という名台詞が全てを現していますね。

 ジャイアン君主制では全てがジャイアンの財産ですから、子分は何をするにもジャイアンの許しが必要です。誰がどのくらい分配してもらえるかはジャイアンの気分次第です。

 ここまで聞くとずいぶん酷い主義のように思えますが、反面いいこともあります。面倒なことは全てジャイアンに任せてしまえますから、全国民がのび太でも安心です。隣町の子にいじめられたらジャイアンに言いつければ、彼が電柱をも薙ぎ倒すバットにモノを言わせて、相手に落とし前を付けてくれるでしょう。

 一点集中の権力に所有物として国民が従い、庇護を受けるのが君主主義です。税は君主への「お礼」ですね。君主には自分の財産を守る義務が生まれます。守らなければ失いますし、時には国民のご機嫌取りも必要ですから必死になります。


・民主主義

 こちらは主に共和国の掲げる主義です。ジャイアンの対極なら出来杉くんの出番でしょうか。

 はて、出来杉くんの特徴は何でしたっけ。博学? 秀才? 弱点無し?

 いえいえ彼は影が薄いんです。

 共和国の問いで述べたように、民主主義とは国民全員が国の持ち主であるとする主義です。したがって本質的には国が国として出る幕はありません。あらゆる問題は全て国民が解決します。分配するのも、みんなで(しぶしぶでも)納得した割合に基づきますし、そこで何が勘案されるかは時々で違うでしょう。

 影が薄い出来杉くんですが、民主主義ではその影の薄さ、言いかえれば束縛の普遍性こそが重要となります。みんなで考え抜いたルールを遵守しつつ、誰のためでもなく皆がそれぞれの思惑で国を維持する。ダメなことはルールの権化たる出来杉くんがビシッと指摘しますが、命令することはありません。

 もし出来杉くんが間違ってると思ったら? そのときはみんなで彼を説得すればいいのです。

 全員が君主であるがゆえに、国というまとまりは影が薄くなる。

 権力も所有も薄く広く延びるのが民主主義です。内だろうが外だろうが、困難には全員でぶち当たります。

 もちろん逃げる自由もあります。それもまた個人の決断なのですから。


・資本主義

 ここからは民主主義の追加要素の説明です。

 トップバッター、お出ましいただくのはスネ夫くんです。

 彼の判断基準といえば? ずばりお金ですね。

 資本主義とは、分配に経済を強く絡める主義です。その肝となるのが「所有」の概念で、要は人の持ってるお金にケチを付けないことです。誰が何と言おうが、スネ夫くんのお金は彼自身のものです。誰かが不公平だと思っても、彼のお金を取り上げたりはできません。

 資本主義における分配のルールは、つまるところ「持ち金に応じて」となります。お金持ちでなにが悪い、溜め込んだって文句を言われる筋合いはないぞ、というわけです。だってそれは個人の所有物ですから。

 ごうつくばりの理論に聞こえますが、いい点はちゃんとあります。持たざる者が持てるように努力することで、文明の速やかな発展が期待できるのです。持ってる者だって追いつかれたくないから必死になります。全員で常に競争をしているなら、全体で見れば常に前進しているのと同じ事です。

 ただし経済の節で触れていますが、経済が極度に発展すると、資本主義は機能不調に陥ります。元手がなければお金が増えず、いつまで経っても大多数が持たざる状態から抜け出せなくなると、文明は成長どころではありません。前進意欲が失われ、遠からず文明そのものが倒れます。

 また資本主義はそれ以外と比べて「供給」への依存度が高いという特徴があります。新参者が金を得るには新しい鉱山を掘るのが手っ取り早い。では完全に掘り尽くしてしまったら? 文明を延命させる手段はもうありません。


・社会主義

 よく資本主義の対抗馬扱いされるのが、この社会主義です。

 二番手はマイルドに、しずかちゃんにお出ましいただきましょう。

 彼女は思いやりの権化です。不公平に対して「そんなことはよくないわ」と釘を刺します。

 社会主義は経済に対して、しずかちゃんと同じように作用します。基本的なポリシーは、持ちすぎの人から取って持ってない人に与えること。

 実際の社会主義国はさらに一歩踏み込んで、税という形で全ての供給をいったん吸い上げ、均等に分配しようとします。資本主義が経済を発展の起爆剤にするなら、その暴走を抑えてみんなで発展しようというのが、社会主義の考え方になります。

 一見すると結構な主義ですが、やはりそこは人の産物ですから落とし穴も完備してます。

 ひとつは社会主義では分配を均等にしようと腐心するあまり、消費が供給を上回ってしまう事が多々あります。文明は供給の限度を超えられませんから、帳尻を合わせるためにはどこかに歪みが生まれることは避けられません。星が金貨になって降ってくる事は滅多にないのですよ。

 もうひとつは停滞しがち。働けど楽にならず、とはどこぞの文豪の言葉ですが、どれだけ働いても評価されないならモチベーションも発展も維持できません。

 結局、みんなで発展するはずが、みんな仲良く共倒れです。


※(社会主義にも資本主義にも言えますが、主義を極端にすると文明は立ちゆかなくなります。

 これは良い悪いの話ではなく分配ルールの不完全さ、ひいては人間存在の不安定さから来るもので、未だ根本的な解決策は見いだされていません。

 極端は失敗する。作品に何らかの主義を持ち込む時には、この当たり前のことに留意する必要があります。)


・共産主義

 極端は失敗すると言った矢先に、非常に極端な主義の話を失礼します。

 共産主義は社会主義のさらに先鋭化した姿で、これに例えられるべき人物は、のび太です。

 ……はい、のび太です。

 なんで? とお思いの方もいると思いますが、実は彼ほど、この主義に共感できそうな人物もいません。

 共産主義は社会主義の「不平等は是正されるべき」という考えを推し進め「個人の所有を放棄する」という段階に至った主義です。共産主義下においては、リソースの個人所有は(究極的には)禁止されます。全てのものは、全ての国民の共有物であり、個人の貯蓄や占有は禁止されます。

 のび太くんはたびたび「みんなボクといっしょになればいいんだ」という発言をしましたが、共産主義が目指すのはまさにその境地、つまり完全な平等です。国民には不平等などなく、誰もが同じだけの分配を受けることが出来ます。それもリソースに限らず教育、医療、福祉などなど、ありとあらゆるものが一定水準に、というわけです。

 社会主義との違いはその着目点です。

 社会主義が「不平等」を是正する方向に働きかけるのに対し、共産主義は「平等」をもたらす方向に働きかけます。つまり、よりアクティブに権力が介入するわけですね。

 この違いが社会主義と同じ問題点をさらに悪化させるばかりか、さらに文明の硬化を引き起こします。アクティブに権力が介入することで、環境や情勢への柔軟な対応力が失われ、現実と政治とが噛み合わなくなります。

 この問題は共産主義で顕著ですが、君主制や他の民主主義でも起こり得る極端さの一例です。


 そろそろ主義についてまとめていきましょう。

 主義とは分配のポリシーであり、大きく分けると君主主義と民主主義に別れます。君主主義は君主の判断で、民主主義は国民全員の判断でリソースを分配します。民主主義における分配では、分配を経済に委ねる資本主義、不平等を是正しようとする社会主義、平等を押し進める共産主義などがあります。

 どのような主義であっても極端な政策は文明を硬化させ、遠からず終焉を招きます。ほどほどのところでブレーキがかかる仕組みがないと長続きしません。

 現実の政治では、複数の主義を競わせて均衡を保とうとする傾向があります。


 作品の中で~主義と使う時には、ここに挙げた以上の知識が必要になってくるでしょう。ざっと見の利点欠点に囚われず、真に自分の世界に合った政治体系を探すことを忘れてはいけません。



 ***



Q70.

 文明を興すには? 終わらせるには?


A:

 節の最後となるこの問いでは、長い時間を扱う作品には欠かせない文明の始まりと終焉について触れます。


 文明が一時期に共通となる「ルール」であり、時間を横に切る存在である以上、そこには始まりと終わりがあります。

 興りや終焉のない文明はありませんし、そういった変化の時期を切り取る作品も少なくありません。


 まずは始まりから。

 文明はおおむね「発見」「進化」「継承」のいずれかによって発生します。


・文明の発見

 原初の文明の多くが発見により始まりました。

 文明の三段階のどこかに目新しい要素が発見され、それを切っ掛けに他の部分が一気に花開く。これが文明の発見です。

 その切っ掛けは様々ですが、いくつか例を挙げてみます。


 農耕の発明 → 古代メソポタミヤ文明

 アメリカ大陸への移住 → ネイティブアメリカン、および南米文明

 (新たな供給の発見)


 川船交易の発展 → 古代エジプト文明

 都市社会の成立 → 古代ギリシア文明

 (新たな分配の発見)

 

 植民地進出の加速 → ヨーロッパ文明における帝国主義

 産業革命による消費の変化 → 今日に繋がる大量消費文明

 (新たな消費の発見)


 発見から始まる文明は、短期間かつ大規模に発展します。

 それ以前とはまるで異なる様式が、燎原の火のごとく地方(場合によっては全世界)を席巻するのが特徴ですね。なぜそれほどの勢いを得られるのか。それは新しい文明が食料や土地、資源、安全など、以前は不足していたものをたらしてくれるからです。

 逆に文明の発見が成される場合、それより前の世界には何かしらの不足があったと言えます。必要は発明の母という言葉がありますが、まさに文明も必要を母として生まれてきます。


・文明の進化

 発見ほど事情がせっぱ詰まっていない場合でも、文明は時間を経ると姿を変えていきます。ここでは進化という言葉で括りましたが、変化に善悪の意図はありません。(つまり退化と呼べそうなものも同じ括りになります)

 文明に進化を促すのは環境です。文明はその発生時点の環境に合わせて成立するため、その後の環境の変化に対応できない部分が出てきます。

 そんな「時代遅れ」の部分に対して修正が重なった結果、過去の文明とは同一視できなくなる。これが文明の進化です。

 言わばバージョンアップである進化は、その地続き性ゆえに明確な始まりを持ちません。未来から見れば切っ掛けとなる何かが見えるかもしれませんが、進化の途中に生きている人間にとっては過去も未来も同じ文明だと感じるでしょう。

 そして当事者にそれを感じられないように、進化はこっそり始まり、ゆっくりと進行していきます。

 進化は国号が変わったり、政治体系が変化したりといった目に見える変化よりも、文明構成員の意識や細かい生活様式の変化によって表されます。作品に文明の進化を持ち込む場合、目立った大イベントよりも身のまわりの雰囲気の変化で表す方が、よりリアリティを出せるでしょう。


・文明の継承

 継承は発見の先によく見られ、いわば外部からもたらされた発見とも言えます。

 ある地方で新たな文明が発見され普及したあと、それを知った人物によって他の地方へと輸出される。この輸出がごく近距離ならば発見の一プロセスに過ぎませんが、時に文明は大きなギャップを超え、全くの遠地で突然花を咲かせる事があります。

 このギャップには地理に限らず、時間的な距離も含まれます。過去にあった文明を再興しようとする動きもまた継承です。

 継承における注意点は二つ。

 ひとつは継承された文明は継承元と同じには成り得ない事です。進化で述べたように文明は環境に左右されます。距離や時間で隔てられ、その遠地に適応しようとした場合、文明は継承の過程で別のものに変化します。

 そしてもうひとつは、継承には対立があるということです。継承は進化と異なり、その地域に対して必ずしも必要ではありません。継承以前に環境に適応した文明があるなら、継承するということは以前の文明を駆逐することに他なりません。

 変化と対立が文明の継承における最も目立ったイベントであり、仮に作品に組み込むなら、大きなウェイトを占める要因となります。


 以上が文明の始まりについて。次は終わりについて見ていきましょう。


 文明の終わりは普通、ある日突然にはやってきません。

 文明がルールであり、それを構成し享受するのが多数の人間である以上、青天の霹靂と思われるような大変化にも、それに繋がる長い変化があります。


 文明の終わりを分類するなら、おおむね「衰退」「崩壊」「駆逐」となります。

 これは始まりの三要素を裏返した形であり、また文明の三段階それぞれが原因となる要素です。


・文明の衰退

 衰退は供給が破綻することによって起こります。

 消費が必要とするリソースを生産できなくなった文明は、まず最初に手持ち分をやり繰りして先延ばしを図り、それが無理なら今度は規模を縮小して存続しようとします。

 供給が絶たれているのでその末路は消滅なのですが、その過程で萎みながらも延命しようとするため、まさに衰退、衰えつつ消えていくという状態に陥ります。

 前に挙げたラパ・ヌイ文明は衰退のまさによい例です。

 森林資源の枯渇により規模も精緻さも失いましたが、西洋文明に発見された時にもまだ存続はしていました。もっとも、それは先祖の残した古文書を焚きつけに使うような状態でしたが。

 衰退は比較的緩やかに進行します。

 引き金になるのはリソースの枯渇ですが、そこに至るまでに生産した分がしばらくは文明を回します。それでも不足が出てくるとリソースの制限や水増しなどが始まり、この頃には構成員の離脱が始まります。さらに時が進むと、もはや全体の維持は不可能となり、末端から切り捨てられていきます。この段階までに何らかの新たな供給が見つかれば、そこから新しい発見のプロセスが始まりますが、そうならなかった場合は切り捨ての連続により文明が明確な形を失い、完全な消滅に至ります。

 衰退以外の分類でもそうですが、文明の消滅は構成員の死滅を必ずしも意味しません。

 文明が滅びても、構成していた人間は(少数ながらも)生き残るでしょう。文明の死とは人の死ではなく、ルールの死である点に注意が必要です。

 衰退を死に例えるなら、天寿を全うしての老衰だと言えますね。


・文明の崩壊

 穏やかな衰退と異なり、崩壊は分配の破綻が招く劇的な死です。分配が機能不全に陥ることで、比較的短時間で文明に終わりが宣告されます。

 機能不全となる要因は様々ありますが、大別すれば急性と慢性の二つに分けられます。

 急性の崩壊は、天災や戦争、あるいは疫病などによる大量死などで起こります。文明に分配従事者が多いと急性崩壊に至りにくくなり、逆に少数に拠った文明はこれであっさり滅びます。

 近年、文明の崩壊を扱った作品は「世紀末」や「ゾンビサバイバル」という形で人気を博していますが、核戦争やパンデミックといった強力な外力を用いなければ、むしろ用いたとしても、現代と同レベルの文明であれば急に崩壊はしません。

 いきなり無政府状態に戻るよりは、むしろ出来事以前に慢性の原因があった方が自然でしょう。

 慢性の崩壊は、分配が政治と結びついた時にしばしば発生する、言わば文明の業病のようなものです。

 分配が時を経て巨大化し、政治や商取引という形で独立した職業となったとき、それを支えるものは「信用」です。誰だって盗人に自分の食い扶持を預けたくはありませんから。

 しかし信用は築くに難く、失うには易いものです。いったん信用を失えば一挙手一投足に疑いの目が向けられますし、さらに下手な取り繕いをしようものなら、もう目も当てられません。

 文明の慢性崩壊は、分配を担う者が信用を失うことで始まります。いまどきの言葉で言うなら「政治不信」ですね。

 初期の時点では一方向の不信、分配される側がする側に不信の目を向ける程度で済むのですが、これが解決されないまま続くと、事態はやがて双方向の不信に変わります。分配する側も「ケチを付けるばかりで協力しない。あいつらはバカだ」と分配される側を軽視し、結果的に分配のルールを両者そろって無視するようになります。

 こうなればルールの実効性なんてもう望めません。小さなところから徐々に腐り始め、誰かが新たなルールを持ち出すか、どうしようもなくなって完全に崩れ落ちるかするまで止まらないでしょう。

 文明の崩壊の多くは慢性崩壊です。

 現代的な政治に限らず、王制でも共和制でも帝政でも、不信を原因としてあっさり崩れ去ります。崩壊の末に何が起こるかは時代によってまちまちですが、原初文明では人口流出による衰退が、中世では王位の簒奪や革命が、そして現代では無政府化や難民流出が目立ちます。

 崩壊を文明の死と考えるなら、それは病死です。

 本来なら天寿を全うすべき文明が、不摂生(内政の不備)や感染(過激な思想)、ストレス(外交の失敗)などを原因としてぽっくり亡くなってしまうのですから。


・文明の駆逐

 継承の裏返しにして消費が原因となる終わり。それが駆逐です。

 文明そのものには不備がない、あるいは比較的まっとうであったとしても、環境や生活を原因として文明が追いやられる、すなわち駆逐されることは充分にあり得ます。

 外部から新たな文明が継承によってもたらされた時に、対立があることはお話ししました。では対立に敗れた文明がどうなるのかというと、まさに駆逐されてしまうのです。

 二つの文明が対立する場面において、その戦端は生活の場にあります。

 新たな文明が生活に真新しさを与え、より利便性を高め、さらなる利益を生活にもたらすなら、消費がそちらになびくのを止める事はできません。古い文明は消費を寝取られ、一人寂しく泣き寝入りするしかないのです。

 もちろん相応の抵抗はするでしょう。古来の文化を持ち出したり、新たな文明のアラを探したり、強権を唱えたりと躍起になるはずです。が、結局のところ消費がすっかり新しい文明に鞍替えしてしまったなら、その時点で古い文明に勝ち目はありません。どこが悪かったといえば、年を取った、つまり時代や環境に適応できなかった事だけです。

 こうして駆逐された文明の末路はおおむね、完全に消滅するか、文化に姿を変えるかの二択となります。消滅する場合でも前出のように構成員は死滅しません。大多数は鞍替えして生き残ります。文化に姿を変える方向については、次の節に詳細を譲ります。

 駆逐は文明にとって事故死、あるいは他殺のようなものです。

 巡り合わせが悪かったとも言えますが、偶然などないとするなら、生き残るだけの力がその文明になかった証拠だとも言えるでしょう。


 文明は生まれる時も死ぬ時も、ある種の必然を背負っています。

 文明が生まれるべき環境の変化があり、死ぬべき理由や過失を持っているのです。いきなり興る文明も、一夜にして滅ぶ文明もありません。作品で文明、国家、共同体を扱うならば、その手の唐突さはいかにも滑稽で、いささか陳腐です。

 作者として、旅行に来た読者に胸を張ってガイドができる程度に理由付けが必要だと、私は考えます。もちろん、これらの事が物語から見えないほどの過去や未来に起こるなら、それは設定を省略する充分な理由となります。



 ***



まとめ:

 文明は端的に言って、どうやってみんなが食べていくかのルールです。


 それは一時期に人々の共通のものとなり、時代と共に変わったり消えていったりします。多くの文明は国家という形で作品に登場し、生活を通じて読者に紹介されます。


 作者にとってはポケットに並べるための大道具であり、それを作ることは透明な空想に確かな色のペンキを塗る作業です。さりげなく、しかし効果的に文明を使うためには、現実の知識と想像力ががあなたに味方するでしょう。


 困った時は食べることに戻りましょう。どう作って、どう配って、どう食べるのか。その集合体こそ文明です。


 極端な文明は短命になります。息の長い文明を作りたいなら何事もほどほどに。でも、終わりはどの文明にもあります。


 最後に、文明を作るなら微に入り細を穿ったものより、作品に合ったものを作る方が重要です。

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