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8.文化:人間を問う


 第八節、前節の文明に引き続き、今度は文化を取り上げていきます。


 文化は時間の流れから見えてくる、言わば人類の日記帳、あるいは文明の備忘録のようなものです。私たちは普段の生活における行動や判断を、無意識のうちに属する文化に頼って行っています。

 そう、かつて私たちの親や先祖が歩んできた歴史の先に、私たちの今の行動があるわけです。


 ですから文化を創造することは、すなわちその世界、その共同体に生きる人々の「今の姿」を作ることだとも言えるでしょう。


 では早速、十の質問にいってみましょう。



 ***



Q71.

 文化とはどういったものですか?


A:

 ごく簡単に言えば、教育によって伝えられていくものが文化です。


 教育と言っても学校教育のような「カリキュラム」ではなく、もっと広い意味での教育を指します。

 例えば子供に親が「悪いことをしてはいけません」と教えるのも教育ですし、はたまた死刑囚を広場で八つ裂きにして見せしめにするのも教育と言えるでしょう。


 肝心なのは、世代や個々の結びつきを超えて知恵と情報が受け渡されていくという、その構造なのです。


 前節で「技術」は文化の一部というお話をしましたが、技術は一世代ではたいてい完成しません。何世代にもわたって数多くの人に引き継がれ、洗練されなければなりませんから。

 その引き継ぎを教育が行うからこそ、技術も文化の一部なのです。


 さて、文明が「いかにして皆が食事にありつくか」というメインテーマを持っていたように、文化にも同じようなテーマが存在します。


 それは「いかにして皆がよりよく生きるか」です。


 文明がリソースの分配のために各部を自分で調節するように、文明は共同体を発展させ、円滑に動かすために時間をかけてひとりでに変化します。

 それはときに知恵の形で、あるいは風習で、価値観で、さらには宗教などにも姿を変えて、集積され体系化され、そして洗練されていきます。



 ***



Q72.

 作品を作る上で、文化の果たす役割は?


A:

 文明が「暮らし」を彩るように、文化は「思考」を形作る大事な要素です。


 劇に見立てた例で行くと、文明は大道具や衣装といった「物質」を司り、文化は演技指導や時代考証などの「精神」を司ります。


 精神のない役者は、例えどれだけ大道具や衣装が完璧でも大根役者に過ぎません。

 だから共同体に共通の「精神」を作る事こそ、文化を創ることなのです。


 物語を作品たらしめる要素のなかにリアリティ(説得力)がありますが、このうちストーリーの要求するリアリティは、文明設定だけでもかなりのところまで追求できます。

 しかし登場人物に要求される、人物としてのリアリティを一から創造する場合、文化設定を抜きにしてはおぼつきません。


 なぜなら、どんな人間でもかつては子供だったのですから。

 人間が生まれながらに身につけている技能や精神などありません。赤ん坊が子供になり、青年になって大人になる。その過程で教育を受けることにより、人間はある共同体における技能や精神を身につけます。

 これらが全て文化の受け持ちなのですから、それを抜かして人間を創ったと言えるでしょうか?


 文化とは言わば、登場人物全員の鋳型なのです。

 仕上げの彫刻は一つ一つ違っているでしょうが、その根源的な部分では、誰しもが生まれた共同体の文化を軸にしています。


 したがって文化の果たす役割とは、登場人物全ての原型を作る作業であると考えてください。



 ***



Q73.

 文化の設定はどこから、どうやって作るのか?


A:

 文化設定は、ある指針を絶対の道しるべとして作られます。

 それは環境です。


 ただし環境と言っても、物語の「今」の環境ではありません。

 文化は積み重ねられる時の申し子。文化を作る指針とは、その共同体が経てきた環境、つまりは歴史です。


 したがって文化設定を行う際には、ごく大まかで構わないので歴史を作る必要があります。詳しい「歴史」の作り方は次の節で説明しますが、文化を作るだけならその範囲は大きく絞ることができます。


 文化に関係する歴史は二つ、どこに住んだのか、誰と戦ったのか、です。


 どこに住んだ、というのは、その共同体が発生当初から今までどんな住環境に置かれてきたかということです。

 ずっと定住していたのか、それとも点々と移住してきたのか。領土はあったか、国境はあったか。寒かったか暑かったか。そういう共同体の「引っ越し記録」があると、文化はぐっと想像しやすくなります。

 移住を重ねた国家や島国では国境の概念はピンと来ないでしょう。寒い地方で暮らしてきた共同体に、風通しの良さを好む気風は生まれません。


 誰と戦ったのかとは、直接的な戦闘のみならず、概念的な衝突も含む「敵対の履歴書」です。

 直接的な例では他国をはじめとする他の共同体や、疫病や害獣、厳しい気候などが上げられます。ファンタジーなら悪魔や魔族、魔獣なんかもいいですね。

 概念的な例としては堕落や盗み、不義理、不道徳などの共同体を内側から蝕むものが挙げられるでしょう。

 これらは勝敗を別にして、対立するものがあるというだけで文化の横顔を整形します。飲酒を禁じたり、国家を総動員するような精神を重んじたりなど、パッと目につく要素はたいていここからもたらされます。


 ここで注意すべきなのは、この歴史と文化の関係は双方向だということです。


 歴史を作り、そこから計算して文化を作ることもできます。先に文化についての発想があり、それに歴史を付け足しても構いません。

 両者がしっかりとした説得力で結びついてさえいれば、どちらが先にあっても設定として成立します。


 逆にどちらかだけを思いついた後、それに全く結びつきのない要素を付け足すのは、文化設定ではタブーに近い行動です。


 ありがちな例としては「魔族の国」という例があります。

 ライトファンタジーに散見されますが、魔族であるという一要素だけで文化に邪悪さを備えさせようという向きです。

 邪悪さとは攻撃性であり、ある文化に攻撃性があるのなら、それは生来のものというだけでは成立しません。絶対なる外部侵略は共同体を長続きさせないからです。

 いずれ周囲の共同体に同様の(防御のための)攻撃性を備えさせてしまい、どこかで拮抗、あるいは逆襲されてしまうでしょう。


 文化設定でも、全ては繋がっているという世界設定の原則を忘れるべきではありません。



 ***



Q74.

 文化設定は、具体的に何を作ればいいのか?


A:

 細かく挙げていくと様々なものを作る必要がありますが、最初から全て作ろうとすると途方に暮れるだけなので、とりあえず文化の三本柱を紹介します。


 それは風習、価値観、そして宗教です。


 風習から見ていきましょう。

 風習とは文化のごく表層にあたり、行動の文化と言いかえることができます。

 例えば日本人ですと、玄関で靴を脱いだり、道路が左側通行だったり、米を炊いたりするのが風習です。


 生活に自然に表れる歴史の痕跡や精神の投影、それこそが風習の正体です。

 これらの日常的な風習には大なり小なり理由が付随しますが、それを意識している人は希です。ただなんとなく、とまでは言いませんが、一見不合理に見えても理由さえあれば根付くものだとも言えるでしょう。


 したがって風習は比較的に作りやすく、また発想を生かしやすい部分になります。多少突飛な風習であっても、歴史や地理、精神に裏付けがあれば問題ありません。


 次に価値観です。

 これは判断の文化で、ある対象に対しての反応をつくるのが価値観です。

 日本人なら、白は慶事で黒は厳粛といった色の判断や、大きなものより精緻なものを好むあたりが価値観にあたります。


 価値観を構成するのは総じて歴史です。風習と同じで、歴史的に何らかの由来があり、少なくとも成立した当時は合理的な判断だったからこそ、後生まで教育の中に生き残ってきたのですから。


 価値観もまた発想によって作り出しやすい分野です。

 価値観の違いというのはドラマツルギーでも特に目立つな部分ですから、多少のエキセントリックさは物語の良いスパイスになります。


 が、価値観は風習より数段厄介な存在である事は肝に銘じるべきです。

 価値観の問題は、ただなんとなくでは済まされません。下手すると共同体の運命すら握ってしまう非常にデリケートな存在なのです。


 詳しくは後の項目に譲りますが、間違っても価値観を「なんとなく」作ることだけは避けるべきです。


 そして最後に宗教。

 これは前者二つの行動に付随するもの、脊髄反射的な文化とは違い、精神そのものの文化、あるいは問いかけの文化とも呼べるものです。


 おそらく宗教ほど、発想を先に立てて作られる項目もないでしょう。

 様々なファンタジーで独自の、そして奇抜な宗教が花を咲かせています。ですが実は、宗教ほど合理性や説得力を要求される項目も他にないのです。


 これは私たち日本人が置かれている状況による部分もあるのですが、宗教には神を信じたり祈りを捧げたりするよりはるかに重要な役割があることに、多くの書き手が無頓着であるように思います。


 ではその役割とは?

 少し長い話になるので、詳しくは後の項目に譲ります。

 ここではとにかく、宗教は軽々に作るべきでも、みだりに語るべきでもないと言っておきましょう。


 以上の三本柱が、文化の基本です。

 文化設定とはこれらの要素を軸に、生活に関わる精神を組み立てることだと理解してもらえれば幸いです。



 ***



Q75.

 風習を作るなら?


A:

 架空の風習を作りたいなら、まず私たち自身の風習に注目する必要があります。


 普段意識することは滅多にありませんが、私たちは風習に首まで浸かって生活しています。


 例えば身近なところで靴を脱ぐ場所です。

 日本人ならおおむね玄関、住環境の入り口で靴を脱ぐでしょう。しかし海外の多くでは、ベッドに上がるまで靴を脱がない方が優位にあります。あるいは靴を履かないということもありますね。


 他にも車の走行車線や食事のタイミングと量、会話の進め方、身振りの意味など、私たちが普段当たり前と思っている様々な行動が、実際には日本という狭い文化圏でしか通用しない風習であることに気付くと思います。


 これは別に文化の優劣の話ではありません。


 例えば靴を玄関で脱ぐという風習は、高温多湿という日本の環境にその理由があります。

 木造建築は湿度が高いと傷みますので、床を地面から上げて作らねばなりません。そうまでして建物を守っているのに、泥だのなんだのがベッタリついた足で上がろうものなら大変です。日本人の天敵たる水虫は大喜びするかもしれませんが。

 高温多湿の環境から建築物を守り、その保守や人間の健康維持を簡単にするという目的で、玄関で靴を脱ぐのは「合理的」な風習です。


 一方、そういった風習のないヨーロッパ圏では、建物の床は古くは地面剥き出し、あるいは基礎を兼ねる石造りやタイル張りが主でした。床を保護する必要はなく、それどころか靴を脱ぐ理由すらありません。冬になると地獄のように冷えますから、なおさら脱ぎたくなかったでしょうね。

 これもまた住環境に照らして「合理的」な風習といえます。


 ここで注目すべきは、上に上げた二つの風習はいずれも「過去の環境」を元に合理的と判断されているところです。


 今や日本の家屋はコンクリート造の多層建築が主流ですし、西洋でもフローリングに木を張る建築が当たり前です。

 現代ではどこで靴を脱ごうとも「非合理的」である理由があります。


 架空の風習を作る時には、風習を成立させる要素は、それが成立した時期の環境にのみある、ということに注意しなくてはいけません。


 実際、風習だけを見れば、時代に取り残され非合理や奇異のジャンルとなったものが山ほどあります。

 安産や子宝を願って男根像にまたがるのは奇祭ですし、疫病を猫に託して塔から投げ落とすのに合理的な理由なんてありません。


 つまり風習を作るということについて、その風習そのもの(・・・・・・)にはなんの制限もないのです。


 新郎を雪に投げ出そうが、牛の角のように髪を結おうが、我が子と並んで家畜に乳をやろうが構いません。

 むしろ想像力に箍を嵌めるべきではないとすら言えます。


 ただ一つの制限は、その風習が成立した時点では「合理的」であったということだけです。

 その項目を達成するためには、思いついた風習について少し掘り下げ、過去のどこかで合理性を与えてあげれば事足ります。


 風習はなかなか消えないものです。私たちがアパートの玄関で靴を脱ぐように、残る時にはちゃんと残るでしょう。



 ***



Q76.

 価値観を作るには?


A:

 価値観とは判断の文化であり、その正体は端的にいえば「ものの見方」です。


 もちろん価値観はキャラクターによっても多少は異なります。

 ものの見方や感じ方が人によって違うのは当たり前のことです。しかし一つの共同体を考えると、そこにはある程度共通した価値観が存在するはずです。


 価値観の設定とは、共同体を組める、維持できる、その必要性がある「多数に共通の認識」を作ることだと理解してください。


 風習がそうであるように価値観もまた、私たちはそれと知らず共有しています。

 例には少しキワドイですが「エロティックな色」を挙げましょう。


 日本の場合、多くは「桃色ピンク」を見るとエロティックだと判断する傾向にあります。

 これが英語圏では「青」がその色にあたり、漢民族では「黄色」、ラテン圏では「緑」や「赤」がその役を担います。


 これらの色はただ徒にエロティックだとされたわけではありません。

 日本人にとって「桜色」は上気した肌の色を指します。

 英語圏で「青」が淫らなのは校閲に使われたとか、肌色多めのフィルムに色焼きして検閲を逃れたという逸話でその理由が付けられます。

 ラテン圏では「緑」は若さ、「赤」は唇を連想するそうなので、おそらく由来はそのあたりでしょう。


 どちらにせよ、何気ない判断に用いられる価値観すら文化圏ごとに隔たりがあり、それが歴史や風習によって意味づけられているというのは事実です。


 風習は想像力の羽ばたくままに作ることができますが、価値観は完全に野放しとは行きません。


 価値観は集団に判断をもたらし、集団で判断が一致するということは、ある場面における多数派を作るということなのです。

 価値観はそれと知らず、つまり自然と人に共有されており、ある集団らしさ、集団における正義を規定しています。

 うっかり設定した価値観を踏み倒せば空々しい展開となりますし、遵守したがために物語の展開を阻害すれば一大事です。


 価値観設定で「なんとなく」が許されないのは、言わばテーブルトークRPGにおけるロールプレイのように「作者が集団をロールプレイする」際の人格に相当するからです。


 もちろん発想は大事です。

 ユニークな価値観の描写は読者の目を確実に引きます。

 が、価値観はそれ単体で独立しません。ユニークなだけでは使える設定には成り得ないのです。



 ***



Q77.

 では価値観をどうやって作品に組み込めばいいのか?


A:

 価値観は集団の「人格」を成します。

 作品に有効に組み込みたいなら、注目すべきは価値観が産み出すドラマツルギーにあります。


 価値観がもたらす最も大きなドラマツルギーは「対立」と「共感」です。

 ここでは地球人と異星人という例で、それぞれを出してみましょう。


 価値観の「対立」については、アニメ「伝説巨人イデオン」から。


 イデオンのある回において、旗の色にまつわる価値観が深刻な対立を産みました。

 地球人と異星人バッフ・クランでは「白」の持つ価値観が事なり、地球人が振った白旗に異星人が逆上しました。彼らにとって白は停戦どころか、お前らをまっさらに駆逐してやる、という好戦的な挑発だったのです。

 片方の価値観がもう片方では非常識。両者の間に明瞭な意思疎通がなければ、これだけでも深刻な対立が引き起こされることがわかると思います。


 一方、共感についは映画「宇宙人ポール」を引き合いに出しましょう。

 物語の重要人物ポールは、アンドロメダ銀河からやってきたいわゆるリトルグレイです。彼は人前でタマを掻き、ハッパを吸い、小粋なジョークを飛ばす非常にアメリカンな人物で、彼と同郷の異星人も、乳房の三つある半裸のイラストを見て「ワオ! 最高だ!」と絶賛します。

 この映画において、異星人の価値観は人間とよく似ています。おかげで一見すると不気味な姿形でありながら、登場人物や観客と「共感」が成立するのです。


 これらの例が示すように、価値観とは物語にとって、集団に共感や対立を与える重要な道具となります。

 文化という括りではありますが、価値観の創造は半ば物語の領域に足を踏み入れなければできませんし、するべきではありません。


 それが必要ではなく、上手に使いこなす自信がなければ、作品に価値観設定を持ち込む必要は薄いでしょう。意図的に遠ざけておいて、現代から拝借してもいいかもしれません。

 逆に物語にそれがなんとしても必要なら、念入りに作られ組み入れられるべきです。


 価値観を作る手助けとなるのは、くどいようですが歴史です。

 その中でも前に挙げた「敵対の履歴書」はかなり助けになります。

 なぜなら敵対するということは、その対象を悪と捉えている証左となるからです。特に集団は、普通、自らを悪とは思いません。そして敵対した存在にはこれに悪という価値を付け、次代にその判断を継承させようとします。


 価値の対立と共感。

 そのどちらにおいても過去がかなりの比重を持つことを忘れないでください。



 ***



Q78.

 文化における宗教とはなんなのか?


A:

 この設問に答える前に一つお断りしておきますが、私はいわゆる「無宗教」の人間です。生活の上では「消極的仏教徒」に当たりますが、真剣に六道や輪廻を信じているわけではありません。


 そんな人間が宗教を語ること自体ちょっとおかしいのですが、設定を語る以上は解説しないわけに行かないので、ここはお付き合いいただけると幸いです。


 さて、とある小説にて、無人島で発明すべきものリストに宗教が入っていて主人公が驚くというシーンがあります。

 そう確かに、宗教とは発明品です。

 発明ならばその母には必要が付いてくるもの。では宗教を必要とした母とは一体どなたなのでしょうか?


 それは人間そのものです。


 人間には、知性や時の概念が生まれて以来、背負い続けている根源的哲学があります。

 かのゴーギャンが記した「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の問い。

 より簡単に直すと「なぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか」という問いかけがそうです。

 この問いかけに対する回答として発明されたのが宗教なのです。


 宗教の最も大きな役割は、全てのものに「意味」を持たせるという点にあります。

 何かの物質や現象が存在するというだけではなく、それに意味を求めて安心しようとする。そんな人間の性を満たすのが、宗教に科せられた最大の命題です。

 宗教の多くが聖典や聖書という「物語」を持つのは、物語が本来秘めている「説得力の創造」の力を必要としているからでしょう。


 いまや人間生活になくてはならなくなった宗教ではありますが、主に二つの段階に分かれて存在しています。


 最初に宗教を宗教たらしめる段階。

 それは最も古い形の学問としての宗教です。


 この世は人間にとってけして楽園とは言えませんでした。

 原初のサバンナには肉食獣が闊歩し、北へ移住すれば寒さに打ちのめされます。東へと進めば岩砂漠で乾きに苦しみ、海を渡ってすら安住の地は見つかりませんでした。

 つまり、人間は存在しながらに不自由であったのです。


 しかし人間はその不自由さを、知恵を総動員することで緩和しようとしました。

 肉食獣には武器、寒さには毛皮、渇くなら水を運び、海の果てでは魚を捕り。

 人間は自分の手で楽園を作ることを憶えたのです。


 そんな人間にとって大事なのは、楽園製造法をいかにして次代に引き継ぐかということです。

 自分の発見した技法や哲学を、どうやって子供にわかりやすく教えるのか。


 その必要に、最初の宗教が応えました。


 物語で知恵を伝承させる。

 口伝で伝えられる「知恵の集大成」こそが最初の宗教の形だったでしょう。


 物が意味を持つのはわかりやすさと共に、困難に仮の人格を与えて合理化するための手法でした。

 猛獣は気高い狩猟者に、寒さや渇きは人類の強さを試す審判に、獲物は生命を運ぶものへと、人が生きる事の理由付けに流用したのです。


 こうして誕生した原始宗教は、その後数万年にわたって存続し続け、今なお現代に息づいています。

 人間を取り巻く環境に人格を与え、その理解と対策とを編み綴った知恵の集合体としての宗教。

 アフリカン、ポリネシアン、南北アメリカの先住民や極地に住む人々などが信じる宗教では、精霊という形で環境の人格を表します。

 もうちょっと洗練が進むと、日本の神道や中国の道教、あるいはヒンドゥー教や古代ギリシャ神話のように、多数の神がその役を引き継ぎます。


 人間の不自由に明確な姿が与えられると、知恵にも新しいものが加わります。

 相手が人格を持っているのなら、礼儀や感情も有効だという考えが出てきて、それまで単なる予防策だったものに精神的な儀式が乗っかるわけです。


 これが「祈り」であり、精霊や神に精神で働きかける知恵です。


 この祈りこそが、原初の哲学と現実の生活を結びつけました。

 精神で障害に対抗できるなら、その精神を養うことも楽園製造の一端を担います。精霊や神を怒らせない生き方を身につけるのは大変ですが、その見返りは今の生活や子孫の繁栄に繋がります。

 生きることに意味が見いだされ、死すらも説明が付くようになりました。ついに人間は、精神でもって時と物質を認知しはじめたのです。


 今でこそ宗教は学問とは線引きされますが、この段階までの宗教はまさに学問でした。実際に役立つ知恵も祈りの知恵も一箇所に体系化されいるのですから。

 次代へ向けて伝えられつつも、ときに研究者の手によってよりよい形へ直される立派な学問です。


 学問としての宗教はその原初がわからないぐらいにバリエーションが増え、いまや人類全体へ普及しています。

 どんなに世界が変わろうとも、おそらく人間が人間でいる限りはなくならないでしょう。


 学問としての宗教に次の一段階が訪れたのは、今から三千年ほど前ぐらいからです。

 人間はすでに数千年単位で存続する文明を手にしていました。


 その時代になると、学問としての宗教には弱点が見え始めます。それまで人間の精神を縛っていた自然の力が退けられはじめたのです。

 

 古代メソポタミヤや古代エジプト、あるいはそれに準ずる地方では、自然の猛威ごときで人が絶滅する恐れはなくなりました。

 人間を縛る自然の枷は緩くなり、最も恐るべきはむしろ人間の精神そのものという時代に突入したのです。


 そのとき、宗教は次の一歩を踏み出しました。

 それは人間の不自由さをその精神に求める宗教。学問ではなく精神の宗教です。


 この段階に到達した宗教といえば、儒教、仏教にゾロアスター教、ユダヤ教とその子孫筋に当たるキリスト教とイスラム教です。


 いずれの宗教もかつての学問の段階を内包しつつ、より精神に寄った内容、祭礼と規律、そして問いかけに重点を置きます。

 答えを求めて闇雲に精霊や神を増やすのではなく、全ての根源にある真理と、それに対する人間のあり方にその焦点を移したのです。


 そのほぼ全てに言えることは、原初の哲学への回答が非常に洗練され、かつとても重視されている点です。

 自然から一歩引いて人間の内面を見据え、より人間存在の意味に迫ろうとするのが、この段階に到達した宗教の特徴です。


 生まれること、生きること、死ぬこと。

 人間が誰しも一度は考える問いに、彼の宗教は必ず何らかの答えを用意します。仏教なら生老病死の四苦八苦、ユダヤ教筋では楽園への転生、ゾロアスター教は光と闇の闘争。


 かつて怒れるものは精霊と自然でした。しかしこれらの宗教では、真理の化身たる「唯一神」がその役に就きます。

 もちろん唯一神といっても、その補佐役にはまだ複数の神性が並びますよ。ユダヤ教筋の天使や仏教の仏たちがそうですね。より人間に迫った彼らは、怒るだけでなく諭したり導いたりして人間に働きかけます。


 これら唯一神の宗教には、自然を持ち出さない人間生活の知恵として、戒律という新しい概念が加わりました。

 ルールを遵守させるのに、災害で恫喝するのではなく神の命令を用いたのです。反したものには神の使徒からの罰が訪れるという点で、恫喝の本質は変わっていませんが、その使徒は人間自身に変わりました。


 そうやって人間が人間を裁く以上、そのルールたる戒律には原初宗教以上の説得力と合理性が求められるのは当然です。

 ツァラトゥストラもアブラハムもキリストもムハンマドも釈迦も、ルール説明のために多数のショートストーリーを編まねばならず、彼らの短編集はいずれも分厚くなりました。

 後世、聖典や聖書、教典と呼ばれたものがそれですね。


 こうして人生Q&Aと集団生活ルールブックの性格を合わせもった、今日の我々がよく知る段階の宗教が誕生しました。


 存在する目的はただ一つ。

 それは文化の根源にすら迫る「いかにして皆がよりよく生きるか」です。

 

 宗教には神を信じたり祈りを捧げたりするよりはるかに重要な役割があると言いましたが、まさにこの目的、それに沿った回答こそがそうなのです。

 宗教が存在し、それが洗練されていく理由は神ありきではなく、人ありきということなのです。


 以上の二段階を踏まえた上で、架空の宗教を作る方法を考えてみましょう。

 まず宗教とは、大まかには知恵の集大成であり暮らしのルールブックである点に注目しましょう。この段階を満たさない時点でそれは宗教たり得ません。

 

 つまりこうです。


 〈知恵を内包せず、暮らしの役に立たない宗教を作るべからず〉


 どんな宗教であれ、信ずるものは浮かばれるべきです。

 信じただけ生活が苦しくなり、人と疎遠になるような宗教は繁栄してはいけません。架空の宗教でもそれが長く強く信仰される以上、絶対に信じるに足りるメリットを持っていなければなりません。

 イスラム教などはたいへん戒律が厳しいことで知られますが、かつて開かれた時期にはあの戒律にすら確かなメリットがあったのです。


 現実の宗教ではここが大変難しいところなのですが、架空の、ファンタジーの宗教だと少しはマシになります。信じたことで奇跡が訪れる仕組みがあるのなら、多少説明がフニャフニャでも信仰を集められるからです。

 もちろん限度はありますけどね。


 そして次に、宗教は人間の根源的な問いに答えるものであるという点です。


 人生に悩んだ人が、思わずその門を叩きたくなるようなステキなものでなければなりません。


 〈人の問いに答えず、徒に疑念を煽るような宗教を作るべからず。〉


 聞くだけで目の前が明るくなる、人と仲良くしようと思う、病に打ち克とうという気になる、臨終の場で心が穏やかになる、死者を想って強くなれる。そんな宗教が人間にとって必要となります。


 疑念を煽り猜疑をかき立て、人を死へ追いやるような宗教は、もはや宗教ではなく戯言です。

 例え建前だけでも構いません。結果的に宗教が違えば多少の衝突はあります。

 でもだからといって、物語の都合で最初から人の前途を閉ざすような宗教を作るのは間違いです。


 宗教は人の精神を補強するために生みだされた発明品なのですから、架空であってもその根本を無視するべきではありません。

 設定として有効な宗教とは、思わず作者自身が入信したくなるほどの魅力があるものだと言えるでしょう。逆に作ってみて「これはちょっと」と思うなら、作品に出すのはおすすめしません。



 ***



Q79.

 宗教を作品で活用するためには?


A:

 宗教を作品で上手く活用しようと思うなら、それが究極的には「ルールブック」である事に注目すべきです。


 宗教の最もベタな、そしてあまり感心しない使われ方に、物語における「勢力」としての運用があります。

 確かに一つのルールによって結びつけられた集団は勢力になり得ますが、最初からそう扱うのは明らかに短絡的であり、宗教を信じる個々の人間をないがしろにした用法だと言わざるを得ません。

 狂信者がカルト集団になりテロを働いたとしても、その構成員一人一人にはルールに従うだけの別々の背景があるのです。


 ですから宗教を怪しげな集団と捉えるような活用は、それが善玉であれ悪玉であれ、原則としてするべきではありません。


 ではいかなる活用が原則としてあるべきか。

 私が思う回答は、それは極めて強固な共同体の骨格になる、ということです。


 宗教とは価値観や風習以上に共同体の接着剤となります。

 無意識でも判断でもなく、精神で繋がった共同体はとても強くしなやかです。

 ユダヤ教徒や仏教徒を見ればよくわかりますが、多様な文化圏や人種に別れているにもかかわらず(誤解の無いように補足しておくと、本質的に多民族であるユダヤ教徒に”ユダヤ民族”は存在しません)彼らは哲学と精神で一つに結びついています。どんな動乱や弾圧にあっても、彼らの共同体は機能し続けました。


 文明、風習、価値観。これらはある程度の物質的な結びつきを要求します。

 経済や歴史、風土がなければ機能を維持できません。

 しかし宗教だけはそれらを必要としないのです。宗教に必要なのは、人間の問いかけ、人間自身に根ざす不自由でしかありません。


 したがって宗教が真に物語で力を発揮するのは、ごく当たり前の集団生活においてなのです。

 ごく当たり前の村、町、国、大帝国。それら全ての共同体が、ごく当たり前の、真っ当な宗教を必要とするのです。

 宗教のない共同体は脆く、ちょっとの刺激で分裂して道に迷いかねません。そうならなかった共同体には、大なり小なり宗教が存在しているのです。


 作品で宗教を活用すべき場所は、結局のところ集団を扱う場面なのですが、しかしそれは先に集団ありきなのであって、宗教ありきなのではありません。

 みんながいるからルールブックが必要なのであって、ルールブックがあるからみんながいるのではないのです。


 〈最初に人ありき〉


 この宗教の大原則を無視して物語に宗教を出した場合、多くの作者が陥りがちな罠として「排他的、殺人的な教義」というものがあります。

 多くの宗教が他の文化を弾圧した歴史があり、今もなお宗教を言い訳に戦争が続くために、そういった見方が生まれてくるのでしょう。


 しかし宗教に寄らず、人間の共同体は大なり小なり排他的な側面を持ちます。

 自分たちが生きるのに窮するような集団なら、よそ者を殺すことにさしたる抵抗はなく、むしろ殺して食料にした方がよい場合すらあります。


 そんな人間だからこそ、宗教という道具にすら排他性や殺人性を見いだすのであり、宗教に排他性や暴力が最初から内包されていたわけではありません。

 キリスト教は隣人愛、イスラム教は庇護民、その他数え切れない宗教が本質的には他者との融和を説くのに、なぜに宗教が人を殺せと教えると思えますか?


 宗教は人の不自由から生まれ、それを唯一の糧とするものです。

 そして隣人を殺めて孤立すれば解決するほど、人間の不自由とは生やさしいものではありません。

 宇宙の果てにすら精神の同胞を求めようとする人類が、絶対的な孤立に耐えられるはずがないからです。


 宗教は共同体に知恵をもたらし、そこに属する人間、キャラクター一人一人の精神を健やかに保ちます。

 そうして文化の花形として咲き誇る事こそ、宗教が果たすべき物語における重要な役割です。


 時には重い影を投げかけることもあるでしょう。

 しかしそれは宗教が背負うものではなく、常にキャラクター自身の「人たる不自由さ」が産み出したものだと理解するのが自然ではないでしょうか。


 宗教は文化の花です。世話をしただけ美しい色で文化設定を飾ります。

 しかしそれが架空である以上、それは花に過ぎず、それ以上の役割を求めるべきではないのです。



 ***



Q80.文明と文化の関わり方については?


A:

 文明の節で「競合に敗れて文化となる」と私は言いました。

 ここでは文化の締めくくりとして、文化の成因、その制作の道しるべについての話をしましょう。


 各問を通して繰り返していますが、文化の成因は環境と歴史です。

 そこには当然のように、人類共同体の台所事情たる文明も含まれています。


 文明は「リソース」を効率よく分配するための「ルール」を含んでいます。

 そしてルールというなら目的こそ少し違いますが文化もそうであり、このため文明と文化は双子の関係にあります。


 文明が今に根ざすように、文化は過去に根ざします。

 未来に根ざすものがないのは人間のちょっとした欠点の一つですが、それは置いておきましょう。ここで重要なのは、今はいずれ過去になるということです。


 文化は過去の文明すら、その要素として抱え込むのです。


 人間は失敗から学ぶ生き物ですが、同時に学んだことを容易に手放せない生き物でもあります。

 新参の文明がある文明を駆逐したとしましょう。

 しかし過去の文明も駆逐されるだけの古さと同時に、なおその風土に適した利便性も持っていたはずです。

 それらを根こそぎしてしまうのは非常に困難で、それこそ住んでいた人を根絶やしにでもしない限り、葉ばかり刈って根は残ります。そうして残った根は、もう文明として繁茂することはありません。


 代わりに、文化の花畑に一輪の花を残すのです。


 なじみ深いところで明治維新以降の日本を例に取りましょう。

 かつての日本文明は時代に対して未熟だったため、明治の始まりとともに西洋方式の文明にとって代わられるようになりました。

 それから百五十年。もはや私たちの文明は西洋文明の日本風アレンジメントであり、今の世にかつての日本文明はありません。

 しかし文化は違います。

 「江戸文化」や「伝統文化」といった名称で、今でもしぶとく生き残っているのです。


 もちろん、それらが再び息を吹き返すことはありません。

 もう環境が違います。古い草花は古い水でしか育ちません。

 しかし文化という形で保存される限り、ちょっとやそっとでは消え去ることもないのです。

 

 文化は人間集団の精神であると同時に、人類文明の日記帳なのです。

 

 今日の自分が過去の自分の積み重ねであるように、人類もまた文化の形で日記帳を携え、今日という文明を生きています。


 人類全体の化身たるこの双子は、現実でも架空でも人間が生きているかぎり、生き続ける限りどこまでもその姿を現し、彩り、ときに壊したり殺したりもしながら、ずっと私たちに付き添い続けるでしょう。



 ***



 まとめ:

 文化は皆がよりよく生きるためのルールであり、教育によって時の中で共同体に引き継がれます。


 それは風習や価値観、宗教となって人々の精神に根付き、思考や立ち振る舞いを通して読者にその作品の煌めきを見せます。


 作者にとっては集団をロールプレイするための大きな指針となって味方しますが、同時に個々のキャラクターを霞ませてしまう危険な存在でもあります。

 その用法には慎重なバランス取りが求められるでしょう。


 文化は過去を良く保存します。文化を形作るのはおおむね過去である事に注意しましょう。


 文化設定の大敵は「なんとなく」です。

 風習より先を作るなら、決してその組み立てに手を抜くべきではありません。

 そして手を入れれば入れるだけ、それが効果的に物語を彩ってくれます。


 最後に言えることは、文化を創るには見極めが重要ということです。

 これらの設定には精神的な体力が欠かせません。一朝一夕に出来るものでもありません。

 自身の物語に向き合い、要不要を見極めるまでは手を出すべきではありません。


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