チャプター6 渚のドラゴン
もう五日になる。
前回は、探し出す間もなくゼロの方から私達を襲ってきたものだから、次も簡単に見つかると。そんな希望を安易に抱いていたのだけれど、ユーシャの網から逃れたゼロの足取りは、吹雪に閉ざされた人影のように、すっかり見えなくなってしまった。
倒壊しかけた廃墟群をさまよい歩き、途中、野営を繰り返しながら、夜を明かす焚き火を囲むこと四回。セリやスズシロの足取りは重い。アグリッパですら、あまり口を開かなくなっていた。
物見を兼ねて少し前を歩かせているナインの後ろ姿だけは、疲れというものを感じさせなかった。ユーシャがナインを殺しかけたとき、私はとっさにそれを止めてしまった。戦闘中のどさくさに紛れて、やられてしまえばいいのにとすら思っていたナインを、私はかばったのだ。
私はあのとき、自分が何をしているのか、自分でも理解できなくなった。タイプスという存在が私達の、いいえ、私の敵である以上、私はナインの死を望んでいる。その好機が訪れていたにも関わらず、私はユーシャの殺意を遮った。
ナインが必要だと言った言葉は嘘じゃない。戦力としての、道具としてのナインが必要なのは確かなのだから。けれど、それ以外の、私の心の中で形も定かではないもやもやとした感情が、ユーシャにナインを殺されたくないと、そうつぶやいた気がした。私は、一方でナインの死を望み、他方でそれを拒もうとする、この相反した心のベクトルにいらだっていた。どちらかでしかない。生かすか、死をもたらすか。どちらか一つの結論しか存在しないはずなのに、私はその間で、どっちつかずの優柔にとらわれたままだった。
ナインが足を止めるのが見えた。自らの重みに耐えかねて崩れたビルの一塊が、小高い丘のようになっている。その頂に立って、ナインは私達を振り返っていた。
スズシロは、
「ナズナ。ナインが何か見つけたみたいだ。」
と、まるでそうすることが久々だとでもいうように顔を上げて、ナインから私に視線を移した。足枷をはめた囚人みたいに歩いていた私達は、重しから解放されたような小走りでナインに追いついた。
崩れたコンクリート塊の上まで登って、私は目の前に広がる光景に言葉を失った。
セリが茫然とした表情でつぶやく。
「海か・・・。」
建物で遮られ、潮騒すら聞こえなかったのに、突然、白い氷の向こう側、波頭が岸にぶつかっては崩れる海岸線が緩い孤を描いて続いていた。
スズシロは興奮気味に言った。
「海が・・凍ってない! ゴーキの話じゃ、かつて海だった場所を二日間歩いても海岸線に達しなかったというのに、こんなに近くなってる。日照時間が伸びて、気温が上がったせいか。」
私達の前に突然現れた海は、生臭さすら混じる潮風を吹かせ、波頭の砕ける音とあいまって、命の鼓動、そのものを感じさせた。雪と氷に閉ざされた沈黙を死の世界とするならば、ここには確かに、大洋が息づく生の世界が広がっている。
正面に見えるのはぼろぼろに朽ちかけた鉄骨の橋で、その先に島のような人工物がつながっていた。
スズシロは初めて見る海に圧倒されながら、
「たぶん、あの辺りは昔の埋め立て地だったんだろう。ゴミを埋めて、大地を広げていたらしい、その突端に当たるんじゃないかな。」
と、口早に言った。
私の肩に座っているアグリッパが、気難しい顔をして、といっても、かわいらしく首をひねっているだけなのだけれど、それを言うとへそを曲げるので言わない。その、何かをしきりと考えるような顔をしていたアグリッパが、突然、ぽん、と両手を打ち合わせた。
「思い出しましたよ、皆さん!」
セリがいぶかしげにアグリッパを見る。
「何を思い出したんだよ。」
「ゼロが好む場所ですよ。逃げられたとはいえ、ゼロはかなりの深傷を負っていました。そう遠くまで飛び回ることはできないはずです。どこかで、傷を癒すために身体を休めているはず。ゼロは水辺を好むんですよ。」
「水辺をって、お前、そんな大事なことを今さらかよ。もっと早く言えよ。」
「忘れていたんです。海がこんなに近いとは思いもよりませんでしたし、凍っていない、液体の水が大量にあること自体、とても珍しいんですから。」
「くそっ。最初からそれを知ってれば、海辺沿いを探すだけで済んだかも知れないのによ。」
「それくらいにしとけ、セリ。」
ぶつぶつと文句を言うセリに、スズシロが言った。
「今さらとはいえ、奴が水辺を好むと分かったのは大きい。海岸線を中心に、探してみよう。アグリッパ、気配を感じたらすぐに教えてくれ。」
「分かりました、スズシロ殿。」
「行こう。・・ナズナ?」
立ち尽くす私を、スズシロが首を傾げて見つめた。
私は黙ったまま、橋の先、建物のほとんどが崩れた島の先端を指差した。
スズシロやセリが、指先に誘われるまま視線を移して、驚きの声を上げる。
「あいつ・・! いやがった。」
黒っぽく見える身体を石でできた台状の遺構に横たえ、潮風がその傷を癒すとでもいうように、砕ける波のしぶきに身をさらしていた。狩人の放った銛が、その背へ斜めに刺さったままとなっている。
「か、隠れるんだ・・!」
スズシロが慌てて姿勢を低くするのだけれど、私は立ったまま彼に言った。
「もう遅いわ。私達が奴に気づいたということは、奴もとっくに、私達の存在に気づいてる。隠れたところで意味がないわよ。」
「そ、そうか・・。でも、どうする。奴に気づかれた以上、不意を突く作戦も取れないだろう。」
「このまま近づくしかないわ。」
「このままって・・!」
「奴は今、動かないんじゃなくて、動けない可能性が高いわ。」
「負った傷で、ってことか?」
「そう。致命傷は免れても、深傷なことに違いはないわ。今がチャンスなのかも知れない。」
「動けないフリをしているってことは? おびき出すために、わざと動かないのかも。」
「それは・・。」
言い淀む私へ、セリがいらついた声で言った。
「ここでぐだぐだ言ってても始まんねぇだろ。行こうぜ。近づいてみれば分かる。」
スズシロは、
「それじゃ、あいつの罠にみすみすハマりに行くようなものかも知れないだろ。俺は反対だ。」
と、セリに真っ向から反対した。スズシロの言うことももっともなのだけれど、それでは好機を逃しかねない。セリに同調していると思われるのも癪だけれど、私はスズシロに向かって言った。
「私は・・、行くべきだと思う。ここで大事を取って近づくのを躊躇していたら、何も得るものがないわ。」
「得るものがなくたって。失うものがなければそれをベターとすべきだ。」
私とスズシロ、セリの三人が見合っているわけだけれど、申し合わせたように三人の視線が同時にアグリッパへ注がれた。
「どう思う、アグリッパ?」
私が三人を代表するように言った。
「そうですね・・。セリやナズナ様のおっしゃる通り、これはゼロを仕留める絶好の機会なのかも知れません。ただ、スズシロ殿の懸念も分かります。ここは、威力偵察の体を取るのがよろしいかと。」
「威力偵察?」
「ひと揉みするのですよ。逃げるか、身を隠すことのできる距離を保って、圧力をかけるのです。ファトネックを数発撃ち込んでもよいでしょう。残り弾数はあまりないでしょうけれど。」
「そうね・・。それがいいかも。」
セリとスズシロもうなずく。それまで、黙って話を聞いていたナインは結論を受けて言った。
「では、私が先行しまス。みなさんは私の後方からついて来てくださイ。」
私はうなずいて、ナインへの許可とした。
「そうして。ナインが囮になってくれれば、ゼロの意図もはっきりする。」
セリは不服そうな顔をしている。
「また、ナインを先行させるのかよ。まるで、ナインが死んでも構わないって、そんな風にいっつも命じるよな、ナズナ。」
「そうよ。ナインを道具として扱うと、最初に言ったわ。それに従っているだけ。」
違う。ナインを道具だと口では言っているのに、そう思い切れない自分もいる。揺れ動く自分の感情が苛立たしい。
「自分勝手だと思わないのかよ。ナインを、復讐の象徴とみなしてるだけだろ、それじゃあ。ナインに罪はないんだぜ。」
「・・・・・。ナイン。行って。」
「了解しましタ、サージェント・ナズナ。」ナインが歩き始める。
「おい、ナズナ!」
セリは、私の肩を乱暴につかんで揺するのだけれど、私は黙ってそれを振りほどいた。セリはナインの背中に向かって言った。
「行きたくないと感じたらそう言っていいんだぞ、ナイン。お前は何を考えて行くんだよ。」
「・・・命令ですかラ。私の考えは、重要ではありませン。」
わずかにナインの唇が震えるのを見てしまった私は、それを視界にとらえたことを後悔した。考えは重要じゃない、とナインは言った。ナインは何も考えていないんじゃない。優先順位が違うだけであって、決して、何も恐れず、何も感じないまま命令に従ってるわけじゃない。恐れがあっても、命令を優先させてるだけなんだ。
けれど。だからといって、私には、ナインを行かせない、という選択肢がない。そんな選択、取りようがなかった。ナインには、タイプスで「ある」ことの罪を償わせなければならない。お父さんとお母さんのためにも。
私のやり方が間違っているとセリは言って、私にもセリの言葉を否定することが正しいのかどうか、そもそも何が正しいのかどうかすら分からない。けれど、こうすること以外に、私は自分の生きてきた道を肯定するやり方に思い当たらなかった。
ファットネックを構えたナインは、ゆっくりと、うずくまるゼロを目指して歩いた。慎重で、迷いのない歩き方だった。
ゼロの間合い、つまり、吐き出す火炎のちょうど届くか届かないか、ぎりぎりの距離まで来たところで、不意に、お腹の底へ響くみたいな、不思議な声が聞こえてきた。
「来い・・・。」
あまりに低く、大地が鳴動するかのような音だったものだから、最初にそれを聞いたとき、「声」であるのかもよく分からなかった。それが聞こえてくる方向もはっきりとしない。
「ここへ・・・。」
まただ。
「喋った・・。」私の肩でそうつぶやくアグリッパによって、私にもようやく、誰が声の主なのかが分かった。
ゼロが喋っている。私は思わずスズシロの方を見た。スズシロなら、この状況をどうとらえたらいいか、その答えを持っていそうだという勝手な思いがある。
「どういうこと?」
「俺に聞くなよ。タイプスが喋るなんて、信じられない。けど、単独行動も想定した機動兵器なら、思考能力があってもおかしくはない。」
セリは私達に向かって、何を今さら、と言わんばかりの顔をした。
「ナインだって喋ってんだろうが。ゼロが喋ってもおかしくねーだろ。」
「でも・・。」
いいえ。セリの言う通りだ。ゼロの野獣じみた外見に、言語を操る知能なんてないのだろうと、勝手にそう思い込んでいただけだ。ゼロが喋らないと決めつけることに、根拠なんてない。
私とスズシロ、ナインは立ち止まったのだけれど、セリは進み続けた。
「お、おい、セリ・・・。」
「何だよ、スズシロ。奴が来いって言ってんだ。行ってやろーじゃねーか。」
このときばかりは、セリの向こう見ずな判断が正しいような気がした。私は黙ったまま歩き出す。
「ナズナまで。ちょっと待てったら。」
そう言いながらスズシロも私達の後ろからついて来る。
竜と対話をするちょうどよい距離、なんてものが存在するのかよく分からないけれど、とにかく私達は、ゼロと視線を結べるところまで近づいた。
セリが声を張り上げた。
「来てやったぜ!」
「・・・・。」
ぐぅ、と首だけ持ち上げて、ゼロは私達を見下ろした。
呼吸が浅く、短い。やっぱり、弱ってる。私はそっと、スズシロを見た。スズシロも目でうなずく。ゼロは動かないんじゃない。動けないんだ。
私がスズシロと交わした目配せも、それが示す意味もすべて察しているという風に、ゼロは私達を見ながら言った。
「何を欲する。」
ストレートな問いだ。ごまかしや嘘を、一切受け付けないそのひとことに、私は応えた。
「あなたの心臓を。」
笑った。竜が笑う、という表現が正しいものか分からなかったけれど、確かに、そのときゼロは笑った気がした。口角の間隔がわずかに開いて、一瞬、笑ったような表情を作る。あるいは、嗤ったのかも知れない。
「タイプスを滅ぼすと?」
知ってる。ゼロは、自分の心臓が、タイプスという種を滅ぼしうると、知っている。
「そうよ。お前達は私達人間の敵だわ。お前達が存在する限り、私達に安住はない。」
再び、ゼロが嗤った。その顔を見ていると、ゼロに対して抱いた最初の印象が変わって行く気がする。絶対者としての、人間を圧倒的に睥睨し、上から見下ろす神掛った存在ではなく、もっと卑近で生々しい。外観こそ人間離れしているけれど、性質は人間そのもののような。
ゼロは一度大きく目を見開いてから、次にまぶたを半分くらい落として言った。
「安住・・。馬鹿げた話だ。我を生み出したのはそもそも、お前達だ。勝手に創り出し、利用するために手なずけていたところ、ひとたび檻から逃れれば敵扱いとは。すべてタイプスは、その持って生まれた本能に従って生きているにすぎない。人が敵だと思ったことはない。単なる補食対象、食物連鎖のヒエラルキーにおいて、下位に属する存在なだけだ。我らを敵と呼ぶのは、お前達が鶏から敵対視されるに等しい。」
ぐっ、と言葉に詰まったけれど、私はそれでも、声を振り絞るように言った。
「私達にだって、生きようとする、生き抜こうとする権利はある! 黙って死ぬほどおとなしくはないということよ。」
「ならば、我らにも同等の権利があろう。とどのつまり、どちらかが生き残り、どちらかが滅ぶ定めなのだ。弱者は強者に屠られる。この理にお前は逆らっている。」
「逆らって、抗って何がいけない。」
「いけなくはない。だが、無意味だと言っている。」
ゼロは喉を鳴らした。野犬のうなり声に似ているけれど、犬のものなど比較にならない、周囲を空気ごと振るわせるかのような。
足がすくんだ。全身が緊張で固まる。
それが悔しくて、必死におびえを悟られまいとする努力がむなしい。本能だった。勝ち目のない捕食者と対峙したときの、動物的な本能。このおびえを、この恐怖を爆発的に打ち破る手段は多くの場合、全能力、いいえ、全生命力をかけて逃げること。草食動物はそうやって生き延びてきたものだし、人は草食動物ではないけれど、勝ち目のない戦いから逃げることで、明日への生存につなげてきた。
今の私達も、それが生き残るための最善なのかも知れない。必死になって逃げれば、あるいは助かるかも知れない。
けれど、そうはしない。逃げない。今は逃げてはいけない。突き進んだ先に、活路を見出せるときもある。
「無意味じゃないわ。現に、お前は今弱っている。その傷、かなりの深傷だわ。回復力の高いタイプスが、いまだにうずくまって傷を癒そうとしているのが、何よりの証拠よ。」
「・・弱っている振りをしているだけだとしたら。お前達をおびき出すために。」
「え・・。」
思わず漏れてしまった声はもう、ごまかしようがなかった。スズシロが不安気に私を見る。だめよ。そんな顔で私を見たら、弱っている振りをしているんじゃないかと、その懸念におびえていることを、奴に教えるだけなのだから。
私はスズシロの視線に気づいていないような顔をして、ゼロに言った。虚勢でも、ここは張るしかない。
「それは嘘よ。お前の呼吸は浅く、短い。手負いであることに間違いはない。」
「・・・・・・。」
ゼロはまっすぐに私を見つめた。金色の目が、まるで私を喋る蟻とでもあるかのように見下ろしている。
「いいだろう。」
唐突に、ゼロは言った。あまり突然すぎて、私はゼロが、何に対して、いいだろうと言ったのか、分からなかった。手負いであると、認めた? 何が、いい、なのか。それとも、心臓を譲る、とでも言うつもりなのだろうか。
「この傷は深い。我の命は間もなく尽きる。死骸から心臓を抜き出すのはたやすいだろう。我が死ねば、お前達の勝ちだ。」
「ずいぶん・・、あっけなく負けを認めるのね。」
「事実だ。」
「・・・そう。」
「だが。」
ゼロは言葉をためて、それから続けた。
「我が、この瞬間、お前達の命を奪うこともたやすい。」
私は身を固くした。セリやスズシロも、じり、と姿勢を低くし身構える。
「そんな力はもう・・。」
「残っていないとでも? いくら傷を負ったとはいえ、鼠をつぶす程度の力は、残っている。瞬きする間も必要ない。その娘にだけ、注意していればいいのだからな。」
ゼロはナインを視線で指す。
やっぱり、失敗だったのか。スズシロの言う通り、遠巻きにしばらく様子を探っていれば、やがてゼロへ死が訪れたのに。
ゼロは続けた。
「とはいえ、お前達をこの顎のひと噛みで、尻尾の一撃で払ったところで、何の益になろう。ただ黙って敗北しないための、みずからの矜持をたもつあがきというのも狭小だ。選べ。」
「選べ、って何を?」
「お前達の中から、一人選べ。一人を犠牲にすれば、他の者は助けてやろう。群れて生きる者達の、それが定めだ。誰を切り捨てるか決めろ。少し、時間をやる。」
「何を・・! そんな戯れ言に、付き合ってられないわ。」
「ならば、全員死ね。」
か、と見開かれたゼロの目に、凄まじい殺気が宿った。手負いの竜がはらむ、闘争本能はまだ健在だった。
スズシロが叫んだ。
「わ、分かった! 選ぶ。選ぶから、ちょっと待ってくれ。」
「スズシロ! 何を言ってるの。」
「いいから。ここは奴の言いなりになるしかない、ナズナ。」
「でも・・。」
私達は、自然と輪になってお互いを見つめた。
この中から、一人を選べ、って・・・。ゼロは最後の最期に、残酷な決断をせまった。セリやスズシロを、アグリッパを選べるわけはない。彼らと目が合っても、お互いに目を逸らさなかった。逸らせなかった。そこで視線を逸らせば、何だか、後ろめたい判断を胸に抱いていると思われそうだったから。
やがて、私の心が急に温度を失って、冷えてゆく。青ざめた氷のような冷酷さが私の胸の内を覆った。
「ナイン・・・。」
彼女の名が私の口から出たとき、思わず私は感情のない自分の声に驚いた。
ナインを、ナインの死を「選ぶ」のが、もはや今、このときだけしかないと私の中の、まるで他人のもののような声が囁く。
セリとスズシロが、はっ、と顔を上げて私とナインへ交互に視線を送る。
ナインは一瞬、苦し気に眉を寄せ、それから、いつもの無表情に戻って言った。
「了解しましタ、サージェント・ナズナ。私がゼロへの贄となりまス。」
セリがあからさまに動揺して言った。
「ま、待てよ。ナインはそれでいいのかよ。ナズナに命令されたから、だから、自分を捧げるって。ナズナはお前の神様での何でもねぇんだぞ。お前が生きるか死ぬか、ナズナが決めることじゃない。」
「よいのデス、セリ。私の存在意義は、サージェントの命令に従うこと。命令を否定すれば、私に存在する価値はありません。」
「価値がないとか、そんなこと言うなよ!」
セリの出した大きな声へ驚いたように、ナインは目を丸くした。
「なぜ、セリはそのように必死な態度を取るのでス? 私には理解できませン。」
「お前が理解しようがしまいが、俺はナインに価値がないなんて思ったことは一度もない。」
「・・・・。」
風にあおられ、消えかけたロウソクみたいに揺らぐ自分の心を、私はたもつだけで精一杯だった。ナインを私が選べば、彼女は拒絶しない。それを分かって命じている私が、ひどく小さな存在に思えた。
重たい沈黙が、私達の間に降りた。
この沈黙が続けば、タイムアップ。時間切れでナインに決まったことだろう。これでいいんだと、私が私に言い聞かせ続けたその繰り返しを、遮る声があった。
「だめだ。」
あんまり唐突で、誰の口からその言葉が出たのか、一瞬分からなかった。
「ナインじゃだめだ。」
ふるえの混じるその声は、スズシロのものだった。
「お、俺が行く。」
「な、なぜ・・・?」詰まるような声を出しながら、ようやく私は聞き返す。
「この選択は、誰かから命じられたものじゃいけない。ナインにとっても、何よりナズナにとっても。」
「私にとって・・?」
「例え生き残ったとしても、ナズナ。お前はナインに命じたその選択によって、だめになる。お前は立ち直れない。」
「そんなことは・・・。」
「いいや、そんなことはある。お前はそういう人間だよ。何もかも自分で抱え込んで、自分が沈んで行くことに無関心だ。お前にナインは選ばせられない。」
セリが怒ったように言う。
「けど、じゃあ、なんでお前なんだよ、スズシロ。」
「俺が一番年上だから。」
「年上って、そんだけの理由で・・・。」
「未来への可能性を考えろ。残る者は、少しでも若い方がいいんだ。」
アグリッパが力なく、つぶやくように言った。
「年上というならば、恐らく私が一番、年長でしょう。私の選ばれない理由がありません。」
「いいや。アグリッパの知識はこれからも必要だ。俺が、最適なんだよ。」
「しかし・・。」
「いいんだ。」
スズシロはセリと私に向かって、強ばった顔を無理矢理微笑ませた。
「最期くらいカッコつけさせてくれよ。」
スズシロがそう言うのを見計らってでもいたかのように、ゼロが口を開いた。
「時間、切れだ。誰を選んだ。お前、達の中から・・・。前に出ろ・・。」
ゼロの言葉は途切れがちだった。さっきよりもさらに、呼吸は浅く、弱々しくなって、首を持ち上げすらしなかった。
スズシロが前に出る。彼の足がふるえているのが分かって、目をそむけたくなったけれど、見ていなくてはならない。それが私達の責任を果たす、唯一の方法だから。
スズシロはかすれた声でゼロに言った。
「ゼロ。他の奴らには手を出さないんだろうな。」
「そう、約した。約束を破るのは、人間だけだ・・・。」
「分かった。」
「お前は、自ら進んで、犠牲となることを、望んだのか。」
「そうだ。」
「・・・・・・・・。」
長い沈黙。スズシロが耐えかねたように、顔をくしゃくしゃにして言った。
「・・・は、早く、やるならやれ! もう限界・・だ・・。」
視界が涙でかすんだ。見ていなくてはならない。ならないと分かっているのに、私はもう、スズシロを見続けることができなかった。目をつむった。瞼に押し出された涙が、頬をこぼれ落ちた。
「・・・一人、切り捨てる者を、選べと言った。」
ゼロの声はやまびこのように遠く、かすかな響きでしかない。
「自ら、志願したのでは、選んだことにならない・・・・。自己犠牲に基づく勇気が、人を人たらしめる誇りの根源だと、かつてある者が言った。人間性の証を・・・。愚かな存在、だが・・。我の、心臓・・・。好きに、使うがいい・・・。」
ふぅぅ、と、ゼロは最期に大きく息を吐き、そして、息絶えた。
その後の話
2075年 9月1日 摂氏五度 曇り時々晴れ
世界がどのように「在る」のか、私にはときどき分からなくなる。いいえ。分からなくなるのは、「在る」のか、ではなく、「在るべき」なのか、の方かも知れない。
ゼロから得た心臓をゴーキのところへ持ち帰り、これまでにない獲物、褒められるとばかり思っていたのに、死ぬほど叱られた。お仕置きとして地獄の薪集めを三日間、ようやく口をきいてくれたからいいものの、このまま、一生会話もしてくれないんじゃないかと心配したくらいだ。ゼロの心臓よりも私達三人のことの方が大事だと、ひとり言みたいに言っていた。
2075年 9月2日 摂氏マイナス一度 雪やや風
ゼロの心臓から抽出、培養したミトコンドリアを収めた矢じりが完成した。これがタイプスに対する劇薬になりうるだろうと、そんな話だけれど効果を実際に確かめた訳ではない。まさか、これほど苦労して手に入れたものなのに、タイプスへ効かない、なんてことはなしにしてほしい。
けれど、コミュに帰って来るまでの間、帰って来てからもずっと、考えていることがある。この矢によって、今在る私達の世界から、在るべき世界に変えることができる。そう信じてきたけれど、在るべき世界が「正しい世界」なのか、そこが私にも分からなくなっていた。
在るべき世界。タイプスの恐怖にさらされない、私達が捕食者として逃げ回らなくてもいい世界。でも、例えタイプスがいなくなったとしても、雪や氷、寒さ、自然の脅威と対峙しなければならないことに、変わりはない。自分達の都合に合わせてタイプスを駆逐し、世界のありように自分達を合わせるのではない、世界そのものを変えてしまうやり方。その結果訪れるものが、果たして「正しい世界」なのだろうか。
2075年 9月3日 摂氏マイナス四度 吹雪
朝からひどい吹雪だ。スズシロ達とご飯を食べた後、今日は部屋に引きこもりっぱなしだ。
アグリッパが言うに、ミトコンドリア搭載の矢じりをゼウスの雷・・何とか、ケラ・・かんとかと称していたのだけれど、これを試す必要がある。効果のはっきりしない武器を携えたところで、いざというとき役に立たなければ、それほど危ないものはない。振った刀がたやすく折れてしまうようなものなのだから。
で、試し撃ちということだけれど、どうもセリやスズシロは、私がその矢をナインに射ると言い出さないか、心配しているふしがある。この日記を書いているその隣、今もナインはかしこまって座っているわけで、私が命じれば、矢の的となることをも拒まないだろう。
私はノートから顔を上げて、ナインを見た。
「どうかされましたカ、サージェント。」
「別に。」
「先ほどから、熱心に何を書かれているのデス?」
「日記。」
「日記とは?」
「出来事や思ったことを書き留めておくのよ。」
「私も書いてみたいデス。」
「好きにすれば。」
「参考に、サージェントの書いた日記を読んでもよろしいでしょうカ。」
「だめに決まってるじゃない。」
「なぜですカ?」
「恥ずかしいからよ。」
「恥ずかしいという感情が、よく理解できませン。」
「ああ、そうだったわね。そういう感情があるのよ。ナイン。頭は悪くないのに、そこら辺、抜けてるところがあるのよね。もうちょっと覚えた方がいいわ。セリやスズシロの前で、着替えようとするのもやめなさい。」
「どうしてですカ?」
「恥ずかしいことだからよ。」
「セリやスズシロの前で着替えるのは、恥ずかしいことなのですネ?」
「そう。」
「では、サージェントの前でも着替えません。」
「それは別にいいのよ。」
「なぜですカ?」
「女同士だから。」
「不思議ですネ。セリやスズシロはだめで、サージェントならよイ、と。私とサージェントはその点で、同類にカテゴライズされるのですネ。」
「同類、なんかじゃないわよ・・・。」
こんな調子だった。私は同類などと言われ、力なく否定する。ナインを試し撃ちの的にできるほど非情を貫けるものじゃなかった。
ナインは一緒にいると、色んなことを聞きたがる。ナインに対する私の感情は、彼女がタイプスであるがために複雑なわけだけれど、彼女を恨み続ける理由が、いつの間にか影を潜めてしまった。お父さんやお母さんのことを忘れたわけじゃないし、その復讐を果たさなければならないと、その思いに変わりはないのだけれど、ナインに対して抱くべき感情ではないと、セリの言うとおりなのも分かっていた。分かった上で認めたくはなかったけれど、認めざるをえないほど、ナインに近寄られすぎてしまったのだ。まるで妹みたいについて来るナインを、私はどうしても否定することができなくなっている。
2075年 9月4日 摂氏三度 雪に霙混じり
雪になりそびれたような、氷の粒が断続的に降る一日だった。
結局、ゼロの心臓から作り出した矢じりを使うのは、次にタイプスの襲撃にあったとき、ということになった。効果のほどはまだ分からないけれど、一撃必殺の武器と成らん、今のところはそう願うことしか、私達にはできなかった。
私が、スズシロの言い出したその案に同意したときの安堵した顔といったらなかった。セリとスズシロは、どうやら本気で、私がナインを標的にするつもりだと思っていたようだった。自分の冷酷さを、彼らが示した安堵の中に見た気がした。
2075年 9月7日 摂氏六度 久々の晴れ
アグリッパが再び旅に出た。まだ留まってもいいんじゃないかと引き止めたけれど、私の旅はまだ終わっていません、と言い張って聞かない。また、立ち寄ることもありましょう、お達者で。そう言い残し、アグリッパは後ろも振り向かずに行ってしまった。ちょっと心配ではあったけれど、旅慣れた彼のことだし、きっと大丈夫だろう。アグリッパは果たして、自らの出自の秘密を解くことができるのだろうか。彼の旅の前途に希望があらんことを。
2075年 9月10日 摂氏四度 曇り
タイプスが出た。獅子、山羊、蛇の三種混合型。キマイラだ。ゴーキの放ったゼロの矢じりがキマイラの首元に突き刺さる。全長五メートルを越える巨体、ただの矢であれば、致命傷になるとは思えない。十数秒の時間差で、キマイラの全身から力が抜けるようにして、大地に崩れ落ちた。絶命していた。ゼロの矢じりは、確かに効果があったのだ。あまりのあっけなさに、私達は茫然と、大岩のようなキマイラの死骸を見つめていた。
2075年 10月21日 摂氏五度 晴れ
タイプスはもはや、私達の脅威でなくなっている。培養したゼロのミトコンドリアから、矢はいくらでも作ることができた。噂を聞きつけた近隣のコミュの人達がやって来たので、渡せるだけ矢を渡した。これで、サイクロプスやウルフパックなんかのタイプスは恐るるに足らなかったし、それらと遭遇したところで、子供の猪に出会ったくらいの脅威でしかない。
雪の下で春を待っていた新芽が芽吹くみたいに、あちこちのコミュで人の往来ができるようになった。山の人々は、海辺の人々へ狩った肉を渡し、彼らは見返りに干した魚を持って帰った。屋外での活動が可能になったものだから、寒さに強い麦を育て始めた人もいる。手先の器用な人は武器や農具を作り始めたとも聞いた。
2075年11月2日 風
ゴーキが死んだ。私とセリとスズシロは、三人そろって静かに泣いた。ナインは悲しそうな表情を浮かべ、ただ、黙って部屋の入り口に立っていた。
「これくらいでいいだろ。」
スズシロがうっすらと額に浮いた汗をぬぐいながら言った。
雪ごと掘り起こしてあらわになった黒っぽい土に、ぽっかりとくぼみができている。私達は、ゴーキの棺をゆっくりとそのくぼみに置いて、上から土と雪をかぶせた。盛り上がった雪の上へ、台座に丸い球体が乗っかったみたいな石の彫刻をのせた。ゴーキが吹雪で外に出られない暇に飽かして、彫っていたものだ。本人は何のつもりで作っていたのか知らないけれど、墓石の代わりにした。
さっきまで吹き荒れていた風がやんで、しんとした静けさが辺りを押し包んだ。雲の切れ目から、明るい日差しがもれ落ちてくる。
「へっ。大往生かよ。逝くときまであっさりしてやがる。」
セリが無神経を必死に装ったみたいな声で言った。泣きはらした目でそんなこと言っても、ごまかしになっていないのだけれど。
ゴーキは眠るように亡くなっていた。病気や怪我はしていなかった。前の夜まで、本当に普通で。私達が旅からちゃんと帰ってきて、ゴーキは怒りながらもやっぱり嬉しそうだった。なんというか、ゼロの矢がタイプスに効くことも分かって、彼にとってはひとつの区切りとなったのかも知れない。
とても悲しかったけれど、ゴーキにとってそれなりに満足のゆく結果の中で訪れた死であるのが、私達にとってせめてものなぐさめとなった。
「あーあ。ゴーキも死んじまって。どうすっかな。」
セリは悲しさでふさぎがちになる気持ちを奮い立たせるみたいに言った。
「ああ・・。」
スズシロはどこか上の空で応える。私は、ゴーキの彫った石から目を逸らさないまま言った。
「私は・・・、各地のコミュに行ってみようと思う。」
「何ぃ?」
セリが興味を持ったみたいだった。
「まだ、ゼロの矢のことを知らないところもあるだろうし。すでに世界は、閉じられたものじゃないわ。開くべき扉の鍵が、あの矢としてあるわけだし、現に人々は動き始めてる。私は世界を見たい。」
「ふん。ナズナにしては、面白そうなこと思いつくな。おーし。俺も行く。」
「え?」
「そんな迷惑そうな顔すんなよ、ナズナ。俺だっていつまでも昔の俺じゃない。ちょっとくらいだったら、空気を読んでやってもいいんだぜ。」
「恩着せがましいわね。空気を読むというのなら、ついて来ないという選択をしてほしいものだわ。」
「何だとぉ?」
「やめないか、二人とも。」
スズシロが間に割って入った。
「そうやって喧嘩ばっかりするのなら、仲裁に入る人間が必要だろうな。」
にや、と笑ってスズシロが続けた。
「俺がその役を買って出ようじゃあないか。」
セリは鼻で笑った。
「へっ。一人で残るのが嫌なだけだろ。」
「まぁ、それもある。」
「それもあるも何も、理由はそれだけじゃねぇのか。で、ナインも来るだろ。」
セリが言うのに、ナインの視線が一瞬泳いで私を見つめる。
「・・・ナインには、荷物でも運んでもらうわ。ついてきなさい。」
「はい、サージェント・ナズナ。私はどこまでもついて行きまス。」
「いや、どこまでもじゃなくていいんだけど・・・。」
「よし! 決まりだ。じゃあ、すぐに出よう。今すぐ。」
照れを隠すような、嬉しそうな顔をしてナインの方をちらちらと見るセリが、勢い込んで言った。
スズシロは、
「いや、まずちゃんと準備をしてだな。」
と、渋い顔をしている。
行って来るね。
私はゴーキに向かって、そう心の中でつぶやいた。