チャプター5 戦陣のユーシャ
耳の先の毛が、ちりちりに縮れてしまいました。倒壊したビルの基盤でわずかに残る、コンクリート壁の残骸に身を潜めながら、耳だけを出して周囲の様子を探ります。
すぐそばに呼吸が二つ。浅く、緊張している呼吸はナズナ様の。深い古木のような呼吸がナインのものです。
「アグリッパ、無事?」
ナズナ様が私をのぞき込みながら心配をしてくれます。
「はい、怪我はしておりません。耳の先が少し焦げてしまいましたが、それ以外は大丈夫です。」
「良かった。」
「ナズナ様こそお怪我はありませんか。」
「私は平気よ。それより、スズシロ達と分断されてしまった。」
ナズナ様も壁越しに向こう側を気にします。
はっきりと申しまして、私達は今、窮地に陥っています。絶体絶命といっても過言ではないでしょう。タイプ11に襲われてから数日。廃墟と化したビルが目に見えて高くなるかつての都心にて、ついにタイプ0と遭遇したのです。どうやら、奴の巣に足を踏み入れたらしく、問答無用で空から急襲されて、とっさにここへ隠れたのがこれまでの簡単な経緯と申しましょう。
噂には聞いておりましたが、タイプ0、四つ足、羽つきの爬虫類たるその姿は、まさしくドラゴン。他のタイプスを凌駕する、凄まじい存在感を放っておりました。
もう一歩遅ければ、あの炎の餌食となっておりましたでしょう。
ナズナ様は周囲の気配に集中しながらおっしゃられます。
「あれが、タイプ0・・。炎を吐いたわ。あんな生物がいるなんて、信じられない。」
まだ小さな残り火がそこかしこにあり、ゆらゆらと炎の名残を留めています。線状に連なるそこだけ雪が溶け、さながら、黒い帯が地面に敷かれたかのようです。
「毒液を吹きかける蛇もおります。タイプ0の炎は恐らく、可燃性の液体を口腔の内側から吐き出しているのでしょう。吐き出すと同時に前歯か何かを接触させ、発火する。火炎放射器と原理的には同じ気がします。」
「詳しいのね、アグリッパ。」
「いやぁ、それほどでも。」
ナズナ様に褒められた気がしましたので、私はくすぐったさに身をよじらせました。
「ついでに、弱点も知ってればいいけど。」
痛い所を突かれ、両の耳がしゅんと垂れ下がるのを感じます。
「面目もありません。弱点と呼べるような特徴を、私は知らないのです。」
「仕方ないわよ。少なくとも、空から落とさなければならないのは確かね。」
「ええ。今のところ奴は、ビルの屋上あたりから、私達の様子を探っているようです。気配を殺しているのでしょう。どこにいるのか、はっきりとは分かりませんが、そこが不気味ですね。」
「セリとスズシロは?」
「あちらのトラックの陰に。」
ナズナ様と共に視線をやると、赤錆びたトラックの残骸が横転していて、その陰で二人が息を殺す気配を感じます。私達と同じように、タイプ0の炎を避けて隠れたのでしょう。
ナズナ様は空を見つめたまま言います。
「ナイン。弾はどれくらい残ってる?」
「十七発でス、サージェント。」
「十七・・・。足りない。」
私はナズナ様の背中にのぼりながら、
「ナインのファットネックだけで落とすのは難しいでしょう。何か、こちらに意識を向けさせる方法でもあればいいのでしょうが・・・。」
と、作戦とも言えないような提案をしてみました。
「意識を向けさせて、どうするの?」
「動きの止まったタイプ0の両目を撃ち抜く、ですとか。」
「けれど、相手は炎を吐くのよ。飛び道具みたいに。それにあの巨体よ。そう簡単に動きを止めるかしら。」
「止めない、でしょうね。せめて、動きを拘束できるような罠を張れればよかったのですが。」
「ないものねだりをしても始まらないわ。」
私とナズナ様が頭をひねられせていると、珍しく、ナインが自分から口を開きました。
「サージェント。提案がありまス。」
ナズナ様は無言でナインを見ると、ちょっとうなずきました。言ってみろ、という合図です。
「地上戦に持ち込めれば、私が相手をできまス。その間にサージェントが狙い撃ちヲ。」
「相手ができるって、無意味よ、その体格差で。」
ナズナ様は「無理」ではなく「無意味」と言います。まるで、ナインの行動に意味を持たせたくないかのように。
「まともに相手をするわけではありませン。注意を私に向けさせることが主目的となりまス。その程度であれば、可能でス。」
ナインは主張を引っ込めません。
ナズナ様は渋い顔をしています。ナインのことが心配、というわけではないのでしょう。ナインに頼らなければ、この状況を打破できないことへイラついている。恐らくそちらの感情の方が大きい気がします。タイプスとの、容易には溶けることのない確執をナズナ様は抱えているのでしょう。その重さに、ナズナ様御自身がつぶされなければよいのですが。
ナズナ様はちょっと考えた後、固い表情のままうなずきました。
「いいわ。それでやってみて。ただし。」
ナズナ様は続けます。
「タイミングを外せばあなたは助からないし、そもそも、助けるつもりはないから。」
「・・・それで結構でス。」
ナインの返事までに、わずかな間がありました。
ナインは、一見無機質で機械的に見えるのですが、ときおり、感情の揺らぎのようなものを見せることがあります。兵器と銘打たれても、機械ではない、と、まるでそう囁いているかのようです。
ナズナ様はナインと共にファットネックを焼け焦げた自動車の内部へ設置しました。ここからなら、タイプ0に悟られることなく狙撃できます。
不意に、塊のような影が、地表を舐めるようにして過ぎ去りました。
「来たわ。」
ナズナ様が上空を睨みます。タイプ0はビルとビルの間までときおり下降してはすぐ上昇し、ゆったりと旋回を続けています。
「では、行きまス。」
ナインが素早く物陰から飛び出しました。まるで矢のようなスピードで通りの真ん中にまで躍り出ると、タイプ0に背中を向けるようにして走り出します。
「ナイン! 何やってる! 戻れ!」
セリがナインに気付き叫びますが、ナインは止まりません。
ナズナ様が短くつぶやきました。
「離れ過ぎじゃないかしら。これじゃ狙えなくなる。」
「いえ、いったん離れて、それからここまで戻ってくるつもりなのでしょう。肉食の生物は動くモノに対して敏感です。タイプ0に背を向けて走る、というのは正解かも知れません。」
「・・・・。」
ナズナ様は眉をひそめながら、ファットネックの先端についている十字照準機の先を見据えました。
タイプ0がナインの姿に気付きました。十メートル近い巨体を音もなく滑空させながら、巨大な流星のようにビルの谷間を飛んで来ます。
このとき私は、不謹慎にも、ある感情を押さえることができませんでした。つまり、美しいと思ったのです。
大地を睥睨するように飛ぶタイプ0は、もはやこの世界に自分より強い生物が存在しないという自信に、満ち溢れているかのようです。頭部は黒っぽい鱗に覆われ、太い幹のような二本の角が生えています。首筋はサファイアのように鮮烈な青さの甲皮です。胸元は燃えるように赤く、ボディは再び黒色。一瞬垣間見たその目には、獰猛さや野蛮さといったぎらつきが微塵も含まれず、ただ、静かに獲物を狙う森の狩人のごとく、熱く澄んだ光を宿しているのです。誇り高い生き物であることが一目で分かりました。
「・・・グリッパ。アグリッパ。」
「え? あ、はい! 失礼しました、ナズナ様。」
「どうしたの、ぼんやりした顔で。しっかりして。」
「す、すいません。」
タイプ0に見蕩れていた、とは言えません。特にナズナ様に対しては。
「悪いけれど、屋根の上に登って見ててくれる。ここじゃ視界が悪くて、射撃のタイミングを外しそう。」
確かにその通りです。焼け焦げてぼろぼろになった後部座席のシートにファットネックを据えて、窓枠から狙うわけですが、上(空)から来る奴の動きがとても見えにくいのです。
「了解ですっ。」
「気をつけて。危なかったら、すぐに身を隠して。」
「分かっておりますよ、ナズナ様。ご心配には及びません。」
私は車の窓枠から身を乗り出すと、そのまま屋根の上に這い上がります。
今日は雲が少なく、蒼い空がときおり顔をのぞかせるわけですが、廃墟と化した街並の静けさが不気味に澄んで、空の色まで凍りつくようです。
両耳を立て、周囲の気配に意識を集中していると、来ました。
動かなくなった車両の間を縫うようにしながら、ナインがこちらに駆け戻って来ます。しかし、一人です。タイプ0は・・・?
一瞬間を置いて、奴が角から姿を表しました。角から飛び出した勢い余って、正面のビル外壁に激しく足を突きます。破られた静寂にセリとスズシロを顔を出してそちらを見みています。
「ナズナ様、来ました!」
「うん。」
ナインは風のように自動車を越え、バスの脇をすり抜け、私達から見える射撃にちょうどよい位置で急ブレーキをかけました。ざざっ、と舞い上がる雪の欠片が陽光を反射して光ります。
足をビルの壁面から引っこ抜いたタイプ0は、風を捲くようにして一度羽ばたくと、獲物を狩る梟のように滑空してナインに向かって来ました。
「奴が来ますよ! 二百メートルもありません。後、数秒・・・!」
「もういいわ、アグリッパ。身を隠して。」
「もう少し・・! い、いや・・?」
タイプ0はナインを狙っているものとばかり思っていました。だって、ナインを追って来たのですから。でも、奴が近づくにつれ、その軌道がナインから微妙にずれていることに気がつきます。気のせい・・ではありません。
一直線に向かう先は。
「ナ、ナズナ様! 奴がこっちを狙ってます!」
私がそう言いかけたときにはもう遅いのです。
奴は巨大な後ろ爪をクレーンのフックのように車へ引っ掛け、ナズナ様の乗せたまま三回転ほど回って吹き飛ばされます。私は衝撃で放物線状に宙を舞っています。
「うわぁぁ!」
ぐるぐると回転する世界の中で、ナズナ様がまだ中にいる廃車がどすん、と元の上下で停止するのがかろうじて見えました。
「ぎゃふっ!」
うめきが肺から漏れ出すみたいな声を上げて、私はうっすらと雪の積もった地面に叩き付けられました。息ができません。
タイプ0は地響きを立てながら着地すると、ぐぅ、とその首を持ち上げてから、口を大きく開きました。
「ナ、ナズナ様・・!」
まずいです。明らかにまずいです。あの体勢。ナズナ様のいる車ごと、炎で焼き尽くす気です。
タイプ0が口から液状の何かを勢いよく吐き出しました。次いで、ガチっ、と前歯を噛み合わせたかと思うと、すべるように炎が液体を追います。やはり、炎を直接吐いているのではなく、吐き出した体液に着火しているのです。
と、感心している場合ではありません。
「ナズナ様!」
炎が廃車に迫り、あわや車ごと大炎上しかけたときです。
走り寄ったナインの体当たりで車ははじき出され、炎の直撃を免れました。その替わりにです。ナインが炎に飲み込まれます。
私が、かける言葉も失って息を飲むその先で、熱風の狭間からナインが飛び出しました。タイプ0の顎の下へもぐり込むと、顎先に向かって大きく飛び上がります。
アッパー気味にナインの拳が当たって、タイプ0の堅い、岩のような頭が揺さぶられました。
「ナイン! 無茶するな!」
セリが大声で言うのも聞こえていないのでしょう。ナインは着地すると、次の攻撃のために身構えます。
タイプ0は唸り声を上げながら、間髪を入れずに尻尾を旋回させました。まるで回転する大木です。不気味な風切り音をたてる尻尾がナインに向けて振られます。私は思わず、両目を手で覆います。とても、直視できる瞬間ではなかったからです。
どん、という鈍い、嫌な音が響きました。
両手の毛並みの間から、そっとさぐるようにタイプ0の方を見やると、尻尾がナインを通過して振り切られています。外れたのでしょうか。
いいえ。ナインが尻尾の軌道を逸らしたのです。証拠に、ナインの両足はその衝撃で、くるぶしあたりまで地面にめり込んでいます。
ナインは自分の足を引っこ抜くと、尻尾に飛び乗りそこを伝ってタイプ0の背中に乗り移ります。
背中のちょうど、羽根と羽根の間につかまったナインを振り落とさんと、タイプ0は大きく身体を揺すりますが、ナインは離れません。
「す、すごい・・! ナイン、頑張ってください!」
私にできるのは、もはや応援することだけです。
人形が音頭を取って踊っているようにしか見えない、ですって?
ええ、ええ。そのように揶揄されようとも、私は構わず応援し続けるのですよ。私があの二者の戦闘に介入することは、不可能なのですから。
ナインは少しずつ背中を上に移動し、タイプ0の頭部へと近づきます。タイプ0のどこが弱点か、なんて私には分かりませんが、少なくとも、視力を使ってモノを認識する生物である以上、目玉を狙う、というのはひとつのセオリーです。このままナインが頭部への移動に成功すれば、タイプ0を大きく弱体化させることができます。
ナインが這い上がります。もしかして、このまま行けるのでは。そう思ったときです。
タイプ0はナインを振り落とせないと見るや、ぐわわっ、といきなり後ろ足で立ち上がりました。空をも遮るその大きさは、アレクサンドリアの大灯台に匹敵しましょう。その姿勢のまま勢いよく後ろへ下がった奴は、背中をビルの壁面に叩き付けました。
要となる柱が腐食し、倒壊寸前のビル全体が大きく傾ぎます。壁面を覆っていた断熱材や窓ガラスの残骸が、バラバラと落下してきました。
ナインは・・?
「ナイン!」
先にその姿へ気づいたセリが叫びます。尻尾撃をしのいだナインでしたが、さすがにタイプ0の体重が乗ったボディプレスです。へこんだ壁のくぼみへ捕らわれ、動きません。
背中からはがれたナインを確かめるかのように、タイプ0はゆっくりと身体を壁から離し、ナインを見定めます。まるで、自分の行いにゆったりと満足しているかのようです。
ナインが今にもとどめを刺されそうな様子を前に、私は我に返りました。
「ナズナ様・・・!」
タイプ0に蹴り飛ばされ、ナインに吹き飛ばされた車内にナズナ様が取り残されているのです。ナズナ様なら、ナインを助けられるかも知れない。
奴の隙をつくように、セリとスズシロも駆け寄って来ました。
スズシロの顔は青ざめています。
「アグリッパ! ナズナは無事か?」
「分かりません。まだその車内に・・!」
私はひしゃげた車体の窓から中へ飛び込みました。見ると、ナズナ様が頭から血を流して倒れています。
「ナズナ様!」
両手でナズナ様の頬をはたくと、ナズナ様はゆっくりと目を開けました。
「う・・。」
「ナズナ様! 大丈夫ですか?」
「あ・・アグリッパ・・・?」
「お怪我が・・!」
最初はゆっくりと、徐々に早く、ナズナ様の意識が覚醒して行きます。
セリとスズシロ、二人がナズナ様を車外へ運び出しました。外へ出されるなり、は、と目を見開いて起き上がろうとするナズナ様を私は慌てて押し止めました。
「まだ動かずに。頭を打たれているようです。」
「頭・・?」
ナズナ様はご自分の頭に手をやり、そこで初めて、血を流していることに気づかれたようです。
「私、どうして・・、助かったの?」
「タイプ0の炎でやられそうになったところを、ナインが助けてくれたのですよ。」
「ナインが・・・。」
ナインに助けられた、と聞いた途端、ナズナ様の顔が雪の降る直前の空みたいに曇りました。
手の平についた血を見ても、ナズナ様はたいして動じる様子もなく私に言いました。
「ゼロは?」
「ナインが食い止めていますが、逆にやられて・・。」
そうだ。ナインです。壁にめりこんだままのナインがやられてしまう。
振り向けば、セリがゼロを凝視して両拳を握りしめていました。今にも飛び出しそうな勢いです。
視線の先のゼロはまだ動いていません。ゼロはナインの存在を吟味するかのように、その姿を見つめていました。タイプス同士、何か通づるものがあるとでもいうのでしょうか。
セリは私とナズナ様へ言います。
「ナズナ。そっから動くなよ。スズシロ、ファットネックを引きずり出すの手伝えよ。」
「どうするつもりだ、セリ。」
「分かりきったこと言うんじゃねぇ。こっからゼロを撃つ。」
「あ、ああ。よし。」
セリとスズシロは二人してファットネックを外に出そうと力を込めるのですが、ひしゃげた車体フレームに銃身が引っ掛かって、容易に動きそうもありません。
「もっと力入れろ、スズシロ!」
「やってる! ・・・っく。これじゃだめだ。銃身が完全にはまってる。フレームを曲げでもしないと。」
二人がファットネックを運び出すために格闘している間、ゼロは数歩、壁から距離を置いたかと思うと、か、と口を開きました。
「二人とも! ゼロが!」
あわあわと私が叫ぶのに驚き、二人はゼロの方を同時に見ました。
「ナイン!」
セリが必死の形相で叫びます。ファットネックはもう間に合いません。
弾丸みたいに飛び出そうとしたセリを、スズシロが体当たりをするみたいに止めました。
「何する! 離せ、スズシロ!」
「いくらなんでも無茶だ! ゼロに踏みつぶされるぞ!」
「けど、ナインが・・!」
セリはほとんど、泣き出しそうな顔をして叫びました。ナズナ様は・・。ナズナ様はもはや形容しがたい渋面をゼロとナインへ、交互に向けています。
このままナインがやられてしまえばいい。そう冷たく見放す心と、しかし、それで本当によいのか、という疑問が呵責となって渦巻き、それが顔に現れてしまったかのようです。ナズナ様にとってゼロもナインも仇です。ですが、ナインはまた味方であり、だけでなく、ナズナ様を救ってもいます。心の落としどころというやつを、ナズナ様はとっさに見つけられない様子でした。
私はこの場面に対し、あまりに無力な自分を呪いました。私にできることは、もはや何一つとしてないのです。ただ、凝視することを除いて。
そのときでした。
倒壊しかけたビルの屋上から、一条の黒い影がゼロに向かって落ちてきました。いいえ。落ちてくるというほどのんびりしたものではありません。重力加速度をはるかに上回るスピードで、何かがゼロに向かって飛んできたのです。
ゼロは瞬間、頭を角ごとぴくりと動かしてから、身をよじるようにしてその影をよけました。しかし、身体を逸れた影は、ゼロの足ごと、大地を射抜きます。
ゼロが痛みに巨体を振るわせ、恐ろしい咆哮を轟かせました。
「いきなり、どうしたってんだ?」
セリが驚くのに対し、スズシロはゼロの足を冷静に見つめています。
「何かが刺さった。」
「刺さったって、何がだよ、スズシロ!」
セリの位置からは、ゼロの足下がよく見えないようです。
「よく分からないが、あれは、矢・・・?」
私はスズシロと別意見です。
「いいえ、スズシロ殿。あれは、矢にしてはあまりに太く、長すぎます。銛、と呼んだ方が適切でしょう。」
しかし、いったい誰が?
不思議に思っている間もなく、銛の第二射が撃ち込まれました。銛はゼロの胴体に深々と突き刺さり、恐ろしい怒声が響き渡りました。
ゼロの動きが鈍くなったのを見計らったように、今度は、網のようなものが美しく回転しながら、ふわ、と空から降りてきます。
「投網・・?」
口を開けたまま見る間に、網がゼロにかかりました。角に、翼に、からみつくようにして網がゼロを捉えます。恐ろしい咆哮が廃墟の街にこだましました。
ロープを後ろに引いた砲弾のようなものがすぐ目の前の壁に撃ち込まれると、それを伝って人が滑り降りてきます。
「おい、人間だぞ。」
セリが幽霊でも見るような目で、その人影を見つめます。そうです。この世界で生きた人間は絶滅危惧種であり、見ることがまれな稀少動物でもあるのです。
その人間が、目の前に降り立ちました。
フードとゴーグルに顔が隠れ、雪原用迷彩ポンチョを着込んだ姿からは、何者なのか判断がつきません。
銛と網で捉えられたゼロは、閉じた口から大地が鳴動するかのようなうなりをあげ、ゴーグルの人間を正面から見据えました。
ゴーグルは、ふ、と笑ったかに見えます。獲物を狩った者の、圧倒的な征服欲に満たされた笑み。この巨大な野獣が、彼の者の掌中にあるのです。
しかし、ゼロは深傷を負っているにも関わらず、なんだか、落ち着きを取り戻しつつあるようです。勝利の余韻にひたろうとしているゴーグルをまっすぐに見据えると、全身の筋肉に力をみなぎらせ、足と地面を縫い止めていた銛を引き抜いてしまいました。
後はあっと言う間です。
ゼロは両足をかがめ、巨体にはよほど似つかわしくない敏捷さでジャンプしたかと思えば、翼を下に、仰向けにひっくり返ってしまいました。
きれいに裏返ったものですから、上からかぶさっていた網が外れてしまいます。翼が自由を取り戻したのを見定めて、ゼロは勢いよく飛び立ちました。翼の作る風圧に飛ばされまいと踏ん張る私達の目の前で、ゼロは空へと吸い込まれるように去って行きました。
「ちっ。逃がしたか。」
ゴーグルは口惜しそうにつぶやいて、私達の方へ向き直ります。
スズシロが声を掛けます。
「あんた、何者だ・・? い、いや、それより、助けてくれてありがとう。」
「助けた?」
ん? 声が。
ゼロを銛で撃ったその人物は、フードとゴーグルを外しながら言います。
「助けたわけじゃない。奴を狩る好機だっただけだ。」
切れ長の目に後ろで束ねた髪。雪のような白肌にうっすらと朱がさした唇は、女の人のそれでした。美しい人です。ただ、目が。目だけが冷たく差し込むように私達を見据えています。まるで、心の中に吹雪がうずまいているような、凍てつく狩人とも呼ぶべき人間です。
セリは狩人に言いました。
「助けるつもりがあろうがなかろうが、結果としては同じことだ。礼を言うぜ。」
しかし、ナズナ様はセリの言葉をさえぎるように言います。
「礼なんて言っちゃだめよ、セリ。」
「あ? 何でだよ。この人のおかげで助かったんだぜ、ナインも、俺達も。」
「その人、言ったわ。ゼロを狩る好機だっただけだって。餌にされたのよ。私達全員。」
「何・・?」
セリが、何の話だ、と言わんばかりの顔をします。私はうなずきました。
「餌・・・。言われてみれば、その通りかも知れません。都合良くこの戦闘に出くわして、あんな高いビルの上からゼロを狙い撃てるものでしょうか。あの銛。何かから撃ち出したのでしょうけれど、撃ち出す装置をあらかじめ設置しておかなければならなかったとしたら・・。」
「じゃあ、何か。俺達が襲われて、ナズナやナインがやられそうになるまで、こいつはずっと高みの見物をきめこんでたってことか。」
私達の視線を一身に集めながら、狩人は動じることもなく言いました。
「そう解釈したければ、それでいい。正直、君達のうち何人かは、やられると思っていた。全員助かったのはたまたまだ。」
冷たい。狩人の言葉にはおよそ人らしい温情や憐憫といった要素が一切含まれず、雪と氷で閉ざされたこの世界そのものであるかのような、他者の死におよそ鈍感な、世界の残酷を象徴する人でした。
どさ、という何かが落ちたような音に目を向けると、ナインが壁のくぼみから離れて、地面に落ちたようです。
「ナイン!」
セリが駆け出すのにつられて、私やスズシロ、ナズナ様までが、ナインに駆け寄ります。
セリに抱き起こされるナインは、完全に気を失っているようでした。ゼロのボディプレスの威力は相当なものだったのでしょう。
「おい、ナイン! しっかりしろ。」
大きな声で呼びかけるセリを、スズシロが制止します。
「セリ。あまり揺り動かすな。どこか、怪我をしてるかも知れない。怪我の箇所を確認しよう。」
「あ、ああ。」
セリは袈裟懸けに下げていた防寒用の毛皮を枕代わりに、ナインの頭の下へ敷き、そっとその身を横たえました。
心配そうに彼女を見守る私達の後ろから、狩人は静かに言います。
「君達の友人。怪我はひどそうか?」
スズシロが応えました。
「意識が戻らなければ、何とも・・。骨は折れていないようです。」
手当てを手伝ってくれるのでしょうか。スズシロが不思議そうに見つめる前で、狩人は懐から手斧を取り出すと、おもむろにナインの側へ歩み寄ります。
「・・・?」
何をするつもりでしょうか。手斧と手当てが私の頭の中でうまく結びつきません。
「タイプスだな?」
「・・え?」
スズシロは間の抜けた声を出すので、精一杯というところです。私はとっさに、振り上げられた狩人の腕へつかみかかりました。
「何をするのです!」
私は狩人の腕にぶら下がる形となりました。私程度の体重ではたいしたこともないのでしょうが、それにしても、細い腕の割に鋼のような力強さを感じさせます。
「気を失っている間に殺す。」
衝撃の宣言に、空気が凍りつきます。
セリがナインと狩人の間に割って入って言いました。
「殺すって、あんた、どういうことだよ!」
「タイプスなのだろう、その娘。」
「・・・・・。」
私達の沈黙は、そのまま肯定を意味しました。
「だから、殺す。間違ったことは言っていないはずだ。」
スズシロは狩人の放つ冷たい殺気に気押されまいと、必死に勇気を振り絞りながら言います。
「正しいか、間違っているか、あなただけが判断することじゃない。このタイプスは、ナインは俺達の味方です。敵じゃない。」
「いいや、敵だ。存在そのものが、敵だ。タイプスを根絶やしにしない限り、人類の明日はない。そこをどけ。」
なんということでしょう。狩人の言うことは皮肉にも人間にとっての光、人類の守護者と呼んで過言ではない者のそれです。タイプスを根絶することは、つまり、人々を救うことに他ならないのですから。ナズナ様達のやろうとしていることも、結局は同じことです。けれど、それをここで宣言されては苦しい。
ナズナ様がナインの側から立ち上がって、狩人の目の前に立ちました。狩人は手斧を持った手をおろしながら、真っ正面からナズナ様を見据えます。
私の脳裏に嫌な予感がよぎります。ナズナ様は、狩人に賛同するんじゃないでしょうか。ナインの死を常々願っていたナズナ様です。狩人の言うことはそのまま、ナズナ様の考えていたことでもあるのです。タイプスは、存在そのものが敵である、と。
ナズナ様の表情が歪みました。眉がぎゅっ、と寄せられ、唇は固く閉ざされます。
それから、ゆっくりと口を開いて言いました。
「・・今はだめです。私もタイプスに親を殺されました。奴らが憎い・・・。けれど、今、ナインは私達の、私の管理下にあります。私の命令なら聞くんです。ゼロを仕留めるまで、ナインを失うわけにはいきません。」
身長の高い狩人を下から突き上げるように見るナズナ様の視線と、狩人の視線が空中でぶつかります。
「生きているモノを殺すのに、大義が必要だと、そんな顔をしているな。だったら、親殺しは十分な大義だ。」
「大義とか、そういうのじゃありません・・・。」
ナインを失うわけにはいかない。
ナズナ様御自身が、自分から言ったその言葉に対し、完全に納得しているわけではないのでしょう。それでも、ナズナ様の大きな変化を私は感じるのです。ナインを敵として見られなくなったという変化を。
ゆっくりと、ですが冷たい確信をもって言いました。
「・・・ならば、好きにしろ。だが、私のやり方とは相容れない。いつか、そのタイプスも始末しなくてはならないときがくるだろう。余計な情を移さないようにすることだ。」
あとはもう、氷のような沈黙の向こう側へ立ち去ってしまいました。狩人は無言のまま歩いて、いずこかへと消えて行きました。
「・・・は。」
ぱち、とナインが目を開けました。セリやスズシロが止める間もなく、ナインは勢いよく立ち上がって周囲を見回します。
「タイプ0は・・?」
「ナイン!」
セリとスズシロがそろって嬉しそうな声を上げました。
セリは、
「お前、平気なのか? どこか痛い所は? ゼロなら飛んでどこかに行っちまったぜ。」
と、心底安堵した顔で言います。
「・・痛みはありませン。気を失っていただけのようでス。・・・サージェント。目標を撃破できず、申し訳ありませんでしタ。」
ナズナ様に向かって、しょんぼりと頭を下げるナインの姿は、先ほどまでゼロと対峙していた者とは思えず、まるで別人です。ただの、大人に怒られた少女か、あるいは、ご主人に叱られた子犬みたいです。
ナズナ様は苦そうな顔をしてナインを一瞥すると、あとはそっぽを向いてしまいます。
「いいわ、別に。次は相打ち覚悟でやってもらうから。」
「承知しましタ、サージェント・ナズナ。」
素直にそう言ってしまうナインに、ナズナ様の顔はますます険しくなりました。
私は何となく落ち着かないその雰囲気を変えるように言います。
「しかし、先ほどの狩人。あれはもしかして、ユーシャだったんじゃないでしょうか。」
スズシロが目を丸くします。
「ユーシャ? 戦陣のユーシャと呼ばれる、あの伝説の? けど、あれはほとんとおとぎ話に近いレジェンドだろ。人々の願望が生み出した幻影みたいなもので、実在するなんて・・。」
「スズシロ殿も見たでしょう。逃しこそしましたが、あのタイプ0をたった一人で追い詰めたのですよ。私達が結果的に餌の役目を果たしてしまったわけですが、しかしあれなら、タイプスを一人で狩っていると考えても不自然じゃありません。」
「確かに、そうではあるけど・・。でも、何だかイメージと違ったな。」
「イメージ?」
「もっとこう、人々の味方というか、ヒーロー的な存在を思い描いていたんだけど、ずいぶん・・・。」
セリがスズシロの言葉を継いで言いました。
「冷たい奴だったな。孤独が刃物みたいにとがって、誰も寄せ付けねーって感じの。」
私はセリにうなずきます。
「ええ。何があったのか存じませんが、一人でタイプスを狩り続ける内に彼女自身もまた、人の形をした獣のごとく感情を研ぎすませていったのでしょう。いいえ。研ぎすませて、ではなく、忘れて、と言った方が正確かも知れません。」
私はそう言葉にしてから、ふと、不安を感じてナズナ様を見ました。タイプスを憎んで、奴らを狩り続けて。もしかしたら、いつかナズナ様もあの狩人のような存在になってしまうのではないかと。
狩人を見てから、ずっと思うことがあります。彼女とナズナ様は、とても似ているのです。押し殺しすぎた感情はいつの間にか、心の内でその所在までも失って、空っぽの空間に真っ白な雪を詰め込んだような、見ていて苦しくなる儚さと鋭さを二人に見るのです。
スズシロが不安気に言いました。
「・・・俺達のやってること、間違ってないよな。」
セリは、
「何を今さら言いやがる。間違ってるわけねーだろ。奴らを殺らなきゃ、俺達が苦しむんだ。」
と乱暴に言いました。
私はつま先で、狩人の残した網をもてあそびながら言います。
「奴らの中に、ナインは入るのでしょうか。スズシロ殿はそういう意味で言ったのでしょう。ナインはだめで、ゼロなら殺しても良しとする私達が・・・。」
ちょっと言葉に詰まりましたが、私は続けました。
「身勝手だと。いたずらに生命を奪う権利を、私達が持っていると考えるのは、世界のバランスを崩す傲慢なのではないかと。」
スズシロもセリもナズナ様も、黙ったまま何も言いません。ナインは少し寂しそうにうつむくだけです。
廃都と化したビル群の間を風が吹き抜け、いつまでも満たされないこの世界の空隙を、ひたむきに押し広げているかのようです。