チャプター2 タイプの起源
「あー、つまり、人類の文明史はゼロで途絶えたといっても過言じゃあない。現にそれから五十余年、人類は衰退に衰退を重ね、いまじゃ先史以前の生活水準とさして変わらない。大規模な気候変動、十年続いた雨はやがて、十年降りしきる雪に変わった。文明はこの気候の変化に耐えきれなかったわけだが、ナズナ。衰退の原因はそれだけじゃないな。分かるか?」
ゴーキに問われ、私はちょっと考えてから答えた。
「タイプス・・・。奴らのせいで、大規模な集団生活を送れなくなったから。」
「そうだ。人間の強みは集団で社会生活を営む点にある。畑を耕す者、猟をする者、魚を穫る者から始まり、やがて、為政者として人々をまとめ上げる者、戦士として戦う者、治金技術を駆使して道具を作る者と、役割を細分化し、深化させながらお互いがお互いを補完した。それは一人きりで生活を営むよりもはるかに効率的で、大きな単位の人間活動を可能にした。文明もその産物の一つなわけだな。だが、タイプスはより多く集まる人間を目標に、襲撃するようプログラムされている。ゼロ以降、寄り添うように生きてきたコミュニティのほとんどが、奴らによって壊滅させられた。・・・おら、セリ! 聞いているのか!」
ゴーキが注意する先には、教科書を開きもせずに、ぼんやり天井を見つめているセリがいた。
「聞いてるよ、ゴーキじい。そんな怒鳴んなよ。耳でも遠くなったか。」
「ぬぅ。遠くなってなどおらんわ! 今、大事なところを話している。しっかり聞いて、理解しろ!」
「理解しろつったって、終わった過去の話をつらつら説明されても、何の役にも立たないじゃん。それより、狩りの仕方をまた教えてくれよ。」
「過去を知ることも役に立つ。何が起こったのかを知ることで、次にどうすべきかを考えられる。お前のこの先を考えるには、必要なことだ。」
「この先たって、猟で獲物が穫れなきゃ、先も何もない。生き残るか、飢えて死ぬか、ぎりぎりでやってんのは、ゴーキだって身にしみて分かってんだろ。」
「獲物を狩ってそれを食うだけが人間じゃないんだ。考えることをやめるな。」
「腹が減ったら考え事もできないさ。ちょっと行ってくる。」
そう言って立ち上がるセリに、スズシロが言った。
「行くって、どこに行くんだよ。」
「狩りに決まってんだろ、スズシロ。」
セリはそう言い残すと、部屋を出て行ってしまった。
相変わらす自分勝手な奴。食べる物がなきゃ生きていけないのは分かるけれど、ゴーキの言うこともまた分かる気がした。狩って食べる、だけじゃ決定的に足りない。それだけじゃ、いつかタイプスに襲われて命を落とす。今の状況を覆すには、過去に何があったかを知り、これからどうするか、どうすべきかを皆で考えないといけない。
それに。ゴーキがこうして私達に授業をするのは、かつて存在した文明への、忘れがたい郷愁がそうさせるからだと、私は思っている。ゴーキは必死に抗っているんだ。衰退する文明、次々と失われて行く技術を、傍から茫然と眺めるしかなかった悔しさを、私はゴーキから感じていた。
こうして自分の知っている知識を私達と共有することで、かつてあった人類の栄光と人の営みをつなげていきたい。ゴーキはそう考えているはずだ。そして、何より、寂しいと思っている。365日続く冬の檻に閉じ込められたまま、消え行くロウソクみたいに過ごしている自分を。
私は、
「ちょっと、呼び戻してくる。」
そう言って立ち上がった。
「いい。聞きたくないと言うなら、放っておけ。」
ゴーキは本に目を落としながら言った。
「でも・・・。」
「無理矢理引っ張って来たって、耳に入るもんじゃない。放っておけ。」
そう言うゴーキだけれど、それにしたって、そんな寂しげな顔されたら、放っておくことんなんてできない。
「やっぱり行ってくる。」
私はそれだけ言って、部屋を飛び出した。
ごぉ、と吹きすさぶ雪まじりの風が横から当たってくる。襟元を掻き合わせ、フードをかぶりなおすと私はセリの足跡を追った。
こんな吹雪じゃ、獲物を探すどころじゃないのに。ほんとに、セリは短絡的だ。
腹減る。
獲物。
狩る。
この三段階しか、思考のステップを踏んでないんじゃないか。
狩りは獲物との頭脳戦だ。対象の習性、行動を把握し、次にどこへ向かい、何をしようとするのかを洞察しなければならない。接近は風下から。闇雲に走って追いかけたところで、追いつくことはできない。常に先を読み、罠と人数でルートを断ちながら、追い詰める。
吹雪けば自分が見つかりにくくなるのと同時に、獲物も見つけにくくなる。巣穴や薮の中へ身をひそめ、移動しなくなるからだ。
結局セリは、うろうろ歩き回って、余計にお腹を空かせて家に帰るしかなくなる。
セリの足跡がくっきりと残るようになってきた。近い。
雪によって作られた白幕の向こう側に、ぽつんと黒い影が浮かんだ。セリだ。こんな雪の中、どこに向かうつもりなんだろう。
私は小走りにセリへ駆け寄った。
「セリ。どこに行くの。この吹雪で獲物を捉えるのは無理よ。」
「うるさい、ナズナ。お前はゴーキのとこに戻ってオベンキョーでもしてろよ。俺は腹が減ってるんだ。」
「まだ干し肉が残ってる。」
「あんなんじゃ足りないに決まってんだろ。今日はでかい獲物が狙えそうな気がするんだ。邪魔するなよ。」
「でかい獲物って、ゴーキが一緒じゃないと無理よ。それに、この視界じゃタイプスに出会う危険も高いわ。」
「出会う訳ないだろ。この吹雪で奴らも巣にこもってるさ。」
「セリ。ゴーキの授業聞いてないのね。タイプスの行動に吹雪は関係ないわ。」
「そーか? どうでもいいさ。奴らに怯えてびくびくするのはごめんだしな。」
どうでもいい。そう軽々と言い放つセリに、私は腹が立った。セリは奴らの恐ろしさが分かっていない。理性で感じる恐怖じゃない。本能で感じる恐怖を奴らはまとっている。
「そうやって適当にやってると、いつか取り返しのつかないことになる。」
「取り返しのつかないことって、何だよ。」
「命を落とすということよ。」
「落とすわけない。」
「落とすわ。」
「落とす。」
「落とさない。」
「・・・。」
どふ、とにぶい音が響いた。私の拳が、せりのみぞおちに突き刺さっている。
「ぐぇ! な、なにすんだよ、ナズナ!」
「痛いでしょ。命を落とすときの痛みは、そんなものじゃないわ。だいたい、私に手も足も出ないくせして、ナイフ一本で大きな獲物を狙えるわけない。」
「ぐ・・・、この野郎・・!」
「だから、野郎じゃないってば。」
「じゃあ、勝負しろ! 俺がお前に勝てないと言い張るのなら、それを証明して見せろ!」
「またそうやって・・・。何度やっても同じだし、その度に折れるだけよ。自尊心が。」
「うるせぇ!」
セリは叫ぶと、懐からサバイバルナイフを取り出した。父親の形見だとかで、他人には絶対に触らせないそれを右手に構えると、姿勢を低くした。
「やるつもり?」
「ああ。お前も得物を出せよ。」
「出すまでもないわ。」
「この・・・!」
「それに、セリを引き止めに来たのは、あなたのことが心配だから、というわけじゃないのよ。勘違いしないでほしいのだけれど。」
「じゃあ、何だっていうんだよ。」
「セリが吹雪の中で凍りつこうが、タイプスの餌食になろうが、どうだっていいわ。・・・ほんとにどうだっていいわ。」
「二回言うな。じゃあ、何しにきた。」
「私が来た理由はゴーキの方よ。」
「ゴーキじいがどうした。」
「分からないの? ゴーキがどんな思いで私達に自分の知識を伝えているか。」
「はぁ?」
「私達の生きる場所が狭まり続ける中で、可能性を残したいのよ。人間が、世界に怯えなくても生きていけるという可能性を。私達にそれを託すつもりなの。」
「・・・・。」
「話を聞こうとしないあなたの態度を見て、ゴーキがどんなに悲しそうな顔をしてるか、想像したことある? 親を失って、放っておかれたら死んでいたところをゴーキに拾われたのは、あなたも同じでしょ、セリ。あなたの自分勝手でゴーキが悲しむのを、私は見たくない。引き止めに来た理由はそれよ。」
「・・・・じゃあ、ただ座って、過去のしなびた栄光ってやつを掘り返したみたいな話を聞いて、それで満足しろってことか。」
「そうじゃない。ほんとに馬鹿ね、あなたは。」
「何を!」
つくづく、セリの外れた感覚に嫌気がさしたときだった。歩いてきた道から間延びした声が聞こえる。
「おーい。ナズナ、セリ。いるかー。」
雪の向こう側から姿を現したのは、スズシロだ。サイズの合わないぼろぼろの防寒着をまとったその姿は、ゴーキに習った前方後円墳にどこか似ていなくもない。
「ここにいたか。吹雪が強くなりそうだ。早く戻ろう・・・。お前達、また喧嘩してたのか?」
スズシロは、半身になって構えるセリと私の対峙を見て言った。
「ほんとに仲がいいな。」
「よくない。」
「よくねぇ。」
私とセリの声が重なったことにイラつきながら、スズシロの見当違いな言葉を否定した。
スズシロは、
「よくないったって、喧嘩するほど仲が良いというじゃないか。」
と、私達の針みたいにとがった空気をいさめようとしているのだけれど、それは徒労もいいところだ。
「仲が良ければそもそも喧嘩なんてしないわ。セリの分からず屋加減にうんざりしてたところよ。」
「誰が分からず屋だよ、誰が。ナズナ、お前が勝手についてきて、獲物も穫れてないのに帰ろうなんて言うことこそ、分かってねぇ証拠だよ。」
「勝手についてきた? 違うわ。あなたを連れ帰るために、わざわざ歩いてきたのよ。鎖が外れて迷子になった、あわれな子犬を探すみたいにね。」
「だ、誰が子犬だ、コラ。噛み付かれて後悔するのはお前の方だ、ナズナ!」
「噛み付くことを認めるあたり、犬だと自認するわけね。分かります。」
「この野郎!」
「野郎じゃない。」
「いい加減にしないか。」
顔を付き合わせるみたいに睨み合う私とセリの頭を抑え、スズシロが止めに入った。
「遅くなるとゴーキが心配する。それに、吹雪が強くなるって言っただろ。こんなところでお前達の喧嘩を眺めてる暇なんてない。帰るぞ。」
セリは、
「ちっ、スズシロのくせに、偉そーに。」
とつぶやくのだが、スズシロにはちゃんと聞こえていたようだ。
「何か言ったか、セリ。」
「何も言ってねーよ。分かったよ。帰ればいいんだろ、帰れば。まったく、よってたかって俺の邪魔しやがって。」
私はセリに言った。
「邪魔って言うけれど、構われてるだけありがたいと思った方がいいわ。放っておかれると路頭に迷うタイプだから、セリは。」
「迷うわけねぇだろ。一番邪魔してくる当人が、自分の行動を正当化するんじゃねぇよ。」
「正当化じゃ・・・。」
私はそこまで言いかけて、口をつぐんだ。
吹雪の先から不意に、かすかな匂いが漂ってくる。魚と獣脂を三日三晩こねまわしたような、生臭い匂いだ。
「? 何だよ、突然黙って。」
セリとスズシロはまだ匂いに気づいていない。
「しっ・・・!」
私は風上に向かって意識を集中した。
「・・・セリ、スズシロ。走るわよ。なるべく音立てないで。」
「走る? 何で?」
私は、突然何を言い出すんだといぶかしむセリの襟首をつかむと、引きずるようにして走り始めた。
スズシロは何が起こったのか察したみたいで、うなずくと、黙ったままついてくる。スズシロの顔は真っ青に青ざめていた。
襟をつかまれたセリが騒ぎ立てた。
「お、おい、ちょっ、何なんだよ! 放せって。」
「うるさい。」
「どこ行くんだよ。コミュと反対の方向だぞ、これ。」
「知ってる。一緒に連れ帰るわけにはいかない。いったん、撒くわ。」
「撒くって何を。獲物ならチャンスじゃねぇか。」
「獲物じゃないわよ。頭悪いわね。」
「な! 悪くねぇぞ、俺は。」
「否定しても無駄よ。悪いものは悪いのよ。」
「この・・! 言わせておけば。」
「タイプスよ。近くにいる。」
「なに?」
セリは私の手を振りほどいて一緒に隣を走りながら、周囲を見回した。
「いるって、どこにだよ。」
「風上から匂うでしょ。」
「あん? ・・・匂うか?」
「匂うのよ。まだ気づかれていないはず。なるべく離れるのよ。」
「・・・・いや。その必要はねぇよ。」
「え?」
「帰り討ちにしてやる。いつもいつも、逃げ回るだけじゃ癪だからな。」
ほんっとに、こいつは・・!
「・・はぁぁ。」
「んだよ?」
「勝てるわけないでしょ。軍用に改造された生体兵器だって、ゴーキが言ってたの、聞いてなかったの?」
セリはタイプスと間近に対峙したことがない。ゴーキ達と一緒に狩りに出ても、タイプスと遭遇しそうなときは遠巻きに距離を置いて、決して近づかなかったし、それはセリにとって、幸いに、とも、不幸にも、ともいえる。
本能で感じる恐怖というやつを一度でも体験しなければ、奴らの脅威は想像上のものでしかない。脅威をあやふやな想像のままにしている人間が真っ先にやられるのを、私は何度か目の当たりにしてきた。
セリは立ち止まると、挑むような目つきで私をにらむ。
「野生化した生体兵器だっつーんだろ。兵器だろーがなんだろーが、不意を突けばやれるさ。」
「やれない。やれるわけがない。」
「やってみなくちゃ分かんねーだろ。」
「結果が分かる頃まで、セリが生きていればいいけれど。」
「俺が負ける前提で言うなよ。」
「それ以外の結果を想像できないもの。あなたのそういう身勝手さで、周りの人間が危ない目に遭うってこと、分からないの?」
「分からないね。分からネェよ。誰が死のうが俺の知ったこっちゃない。勝手に死んでればいいんだよ。」
タイプスにやられる前に、私が殺ってやろうかと本気で思ったわけだけれど、ある変化に私は気づいて、息を吞んだ。
「ちょっと、黙って。」
「はぁ?」
私は再び、風上に向かって意識を集中する。
「・・・しない。」
「何のことだよ?」
「匂いがしなくなった・・・。」
「匂いが? どっかに行っちまったってことか?」
「そう・・かも知れないけれど・・・。あるいは・・。」
「あるいは・・・何だよ。」と、セリは首を傾げた。
スズシロの顔が真っ青を通り越して、雪原みたいに白く血の気を失っている。
「ま、回り込まれたかも知れない。来るぞ。」
足音が、近づいてくる。さっき匂いがしてきた方角とは真逆、風下の方からだ。雪を踏みしめる、かすかだが重々しい音が近づいてくる。
セリもその音に気づいたみたいだ。
「・・・! おい、近いぞ。」
「分かってる。風下に回られた。ここまで近づかれるなんて。」
まずい。向こうは私達の存在に気づいている。気づいた上で、わざわざ風下側に回り込んでから接近してきている。
辺りを見回すと、ぼろぼろの廃墟と化した小さな商店が雪に埋もれるようにして立っている。鈴木商店、と傾いた看板に消えかけの文字が見える。
「隠れるわよ。」
私はそう言って、中に入ろうとするのだけれど、セリがついてこない。セリとは対照的に、スズシロは真っ先に商店の中へ駆け込んでしまった。
私は、
「何してるの。早く。」
と、セリを促す。
「・・・ここでやってやる。」
セリはそう言って、ナイフを取り出した。
「すでに、私達は後手に回ってる。気づかれてるのよ。不意を突くどころじゃないわ。」
「不意打ちじゃなくてもやってやんよ。」
負けフラグが完璧に立ったようなセリフに、私はセリを説得するのを諦めた。諦めて、取られる手段はひとつしかない。
数歩踏み込んでセリの懐に入ると、その肩をつかみながら重心のかかっている側の足を払った。
「ぅお!」
呻きじみた声をセリがあげたときには、すでに雪面へ大の字に倒れている。その状態のままセリの服をつかむと、私は鈴木商店の中へ引きずり入れた。
「この・・! 何すんだよ、ナズナ!」
「しっ! 黙って。」
吐く息が白い。風に当たらないだけで、こんなにも静かになるのね。
薄暗い店内で、商品が何も置かれていない棚の間にスズシロは小さく丸まり収まっている。
私達もスズシロの側に身を潜めた。
ふぅ、ふぅ、という奴の吐息までもが外から聞こえてくる。このまま通り過ぎてくれれば、まだ逃げるチャンスはある。右の義足が小刻みに震えている。自分の呼吸が細く、浅くなってゆくのを感じる。
「足音が・・過ぎた・・・?」
じりじりと進まない時間の中、外の足音が徐々に遠ざかって行く。
「くそっ。行っちまったじゃねぇか。」
悪態をつくセリの声にも、どこか安堵の色が含まれていておかしかった。
「念のため、もうちょっと待ってからコミュに戻るわよ。」
私が立ち上がろうとしたときだ。
突然、鈴木商店の屋根が消えた。消えた、としか形容できないほどきれいに、跡形もなく、屋根が吹き飛んだ。一瞬で白くまぶしい雪空が頭上に現れた。
柱と壁と、窓枠のアルミサッシとガラスが一度にひしゃげて吹き飛ぶ凄まじい音がして、商店の屋根がはね除けられていた。
「うぁぁ!」スズシロの口から悲鳴が漏れた。
ゴぁっ! という短い咆哮を上げながら雪の中立つのは、タイプ9(ナイン)、サイクロプス型の生体兵器、隻眼の巨人だ。
間近に奴を目の当たりにした私は、全身から敵意が吹き出すのを感じた。タイプス。殺意の対象となる者達。私の両親と、片足を奪ったそれを、私はありったけの憎しみを込めて睨んだ。
全長六メートル近い巨躯から生臭い体臭を発しつつ、顔の中央にある一つ目をぎょろ、と私達に向ける。
「立って! スズシロ! 早く!」
「うぁ、ああ・・!」
こんな場所で詰められたら、一撃でやられる。
私は、尻餅をついたまま立ち上がれないスズシロを引きずるようにしながら、タイプ9から遠ざかる。
タイプ9が、手にした棒状のものを振り上げた。棒、としか見えなかったが、よく見ればそれは、どこかの廃墟から引き抜いてきたのであろう、H字断面の鉄骨だった。
あれで屋根を薙ぎ払ったのね・・。とぼんやり考えている時間はない。スズシロを力一杯押し退けながら、その反動で私は反対側に飛び退った。
振り下ろされた鉄骨が、ぶゅっ、という低いうなりをあげて落ちる。鉄骨は棚を粉砕しながらわずかに軌道が逸れて、私とスズシロの間を直撃した。ごん、という鈍い音が地面を伝って足に響く。
「はぁ、あぁ!」
スズシロが私とは反対の方向へずるずると後ずさって行く。タイプ9は、鉄骨が地面に突き刺さり、それを抜こうとわずかな間、硬直した。
逃げなければ。
そう思いながら、私は、はっと気づいた。
「セリ!」
セリがいない。屋根が吹き飛ばされたとき、がれきと一緒にはね飛ばされてしまった・・?
焦って周りを見回すと、崩れた棚の下からうめき声が漏れた。
「う・・。」
「セリ!」
棚の下敷きになって伏しているセリに私は駆け寄った。
「セリ! 生きてる? スズシロ、手伝って! スズシロ!」
スズシロがさっきまで尻餅をついていた方を見ると、彼はばったりと仰向けに倒れ、ぴくりとも動かない。
「気絶・・・。」
したのね。タイプ9にやられたわけじゃない。怖くて気絶したのだろう。
「肝心なところで、これ・・・。」
スズシロを引きずって逃げなければならない。果たして逃げ切れるのか、という疑念がよぎったけれど、今はとにかく、セリを引っ張り出さなければ。
そのとき、タイプ9が力任せに持ち上げた鉄骨が勢いよく床から抜け、反動でセリの上に倒れていた棚を跳ね上げた。
「くっ・・・!」
チャンスだ。私はセリに腕下に肩を回し、助け起こした。
「セリ、死んでないなら立って!」
「・・耳元でうるせぇな・・。あの程度で死んでたまるか。」
よかった。悪態をつけるくらいの元気はあるみたいだ。
セリを連れて、ほとんど土台しか残っていない商店を離れようとしたのだけれど、私達の前へ立ちふさがるようにして、タイプ9が仁王立ちになった。
ふっ、ふっ、という太い呼吸のたび、その口から焚き火をしたみたいな湯気が漏れ出ている。
「くそっ・・・。ここまでかよ。」
セリがつぶやくように言うのだけれど、私にはその言葉も、ほとんど耳に入っていなかった。
私達を頭上から睥睨するその眼には、獰猛な敵意が満ち溢れている。対人兵器として設定してある以上、それは「敵意」と呼ぶより、本能に近いのかも知れない。人間を憎むという本能が、この巨人の根幹にある。
けれど、敵意というならば、私の中にある感情もまた、それに等しい。まるで、黒い闇の塊が心の中を染め上げるかのごとく、私は、こいつが憎い。
明確な殺意が膨れ上がる。フラッシュバックで蘇る記憶の断片が、写真みたいに次々と現れては消えた。血塗れた私の手。私の足の傷を必死に縛るお母さん。奴らの前に立ち塞がるお父さん。泣きじゃくる私の視界は涙でぼやけ、声もなく弾き飛ばされる父と・・・母。
それでも、私は静かに呼吸を整えて殺意が遠のくのを待った。自分がセリに言ったことを、今度は自分自身に言い聞かせる。ここで正面きって戦っても、勝てる相手じゃない。ここは、逃げることを考えなければ。
そのとき、隣にいるセリが震える声で言った。
「お、おい。あいつの手の中・・・。子供・・か?」
ぎくりと、セリの目線を追う。タイプ9の巨大な指の間から、子供の足のようなものが見えている。
私は全身から血の気が引き、次の瞬間、怒りに似た高揚がお腹の底からわき上がってきた。
どん、とセリを傍らに押し退けると、私は防寒着の下からゆっくりと刀を抜いた。
「お、おい、ナズナ。何やってるんだよ。」
「・・・敵討ち。」
「敵討ちって、一人じゃ絶対にできないって言ったのは誰だ。ここは退くしか・・・。」
私はタイプ9に向かって突進していた。セリが何か言っているようだけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
タイプ9の足の間を抜け様、太ももの辺りを一閃し切り裂いた。雄叫びを上げる奴は、振り向きざま打ち下ろすかのように鉄骨を振る。
私はとっさに刀の刃を口に咥え、両手を地面について後方にバク転する。
私が体勢を整えるのと、奴の二撃目がくるのはほとんど同時だった。
「・・速い!」
私は身体を屈め、横薙ぎの鉄骨を避けながら刀を流すように斬った。
奴の腕に一筋の亀裂が生まれ、たた、と血がしたたる。切り傷を二つも作られた奴は怒り狂って、無茶苦茶に鉄骨を振り回し始めた。
地面が雪ごとえぐれ、スィングのたびに空中の雪幕へ裂け目ができるかのようだった。
「ナズナ!」
セリはナイフを構え、タイプ9の背後から飛びかかる隙をうかがっているみたいだけれど、猛烈な嵐のように鉄骨を振るう奴に近づけないでいる。
私は後ろに身をかわしながら、かろうじて残る商店の柱の間へと身を滑り込ませた。広い場所で鉄骨を振るわれるのは不利だ。少しでも、足場の悪い狭所へ誘い込まなくては・・!
奴の動きを目で追いながら、私はがれきの上を少しずつ後退する。
奴が一瞬、床に落ちた椅子を踏み砕いて、足を取られた。
「この・・!」
その隙をついたセリが、奴の背後から一気に背中を駆け上ると、首筋へナイフを突き入れようとする。
けれど、奴は身をねじるようにしながら素早く動き、セリの脇腹へ丸太のような肘を入れた。
「・・ぐっ!」
悶絶する間もなく、セリが孤を描きながら吹き飛ばされる。
「セリ!」
私は刃を上に向け、目線の高さまでもってきて地面と水平に構えた。口の中に血の味が広がる。さっき刃を咥えたとき、少し切ったみたいだ。
刃の側面に映る自分の顔を視界の端で見て、私は突然、嫌悪感に襲われた。自分はいったい、なんて目をしているのだろう、と。
禍々しく殺意に満ちたその目は、およそ人からかけ離れたものだ。憎しみに燃えながら、それでいて冷たい。まるで機械人形のような死んだ瞳が、氷のように澄んだ刀側に映り込んでいた。
タイプ9の鉄骨を持たない手へ、ゆっくりと視線を移した。子供の足、のように見えるそれはぴくりとも動かない。気を失っているか、あるいは、もう・・・。
私は、自分の冷たい瞳が見つめるその足を見て、自分が何を憎んでいるのか、よく分からなくなった。父と母の仇をか、それとも、名も知らないその子への憐憫にもとづく憎しみなのか。そもそも、タイプス(こいつら)を憎むのは、本当に仇だから、なのだろうか。結局、何もできずに両親を見殺しにした、自分の無力をこそ、私は憎んでいないか。
しょせん、無理だったのだ。タイプスに敵うはずなんてないと、自分がセリに言ったその言葉が今さら浮かんでくる。こうして対峙し、憎しみで埋め尽くされたはずの心の片隅に、うごめく小さな欠片があった。それは恐怖という名の欠片で、小石のような大きさだったものが、みるみる大きくなって、鉛のように胸を引き落とそうとする。
怖い。
次の瞬間、鷲掴みにされた子供と同じ運命をたどるのは、私なのだ。刀の切っ先が震えてしょうがない。
「ここまでか・・・。」
そうつぶやいて、私はセリと同じことをつぶやいたのに気づいた。
構えた刀の先がゆっくりと下がるのを、私はまるで他人事にように見つめていた。タイプ9が一歩前に踏み出し、手にした鉄骨を振り上げたその姿は、まるで百年生きた巨木のように見えた。
私が人生を諦め、目の前にそびえる私の死から目をそむけようとしたときだ。
ひゅっ、という鋭い音を立て、一本の矢がタイプ9の腕に突き刺さった。
「あれは・・・!」
うなり声を上げ、タイプ9が矢の飛んで来た方へ一つ目を向けた途端、次の矢が肩の辺りへ刺さる。
「ナズナ! 無事か!」
ゴーキだ。小指の先ほどにしか見えない長距離から、ゴーキが弓を射ったのだ。吹雪で視界の悪い中、あの距離で届くゴーキの弓は、むしろ彼が歳を取るたびに洗練されているような気すらする。
「ゴーキ!」
タイプ9はゴーキに狙いを定めると、一直線に走り始めた。一歩の歩幅が広い分、タイプ9は凄まじい速度を出す。
「この・・!」
私は手にした刀を思いっきり投げつけた。飛んだ刀はタイプ9の右足、アキレス腱の辺りに突き立つ。
刺さった刀に気を取られ、タイプ9は唸りながら動きを止めた。
今だ。
私がそう思うのと、ゴーキの矢が巨人の目玉のど真ん中に命中するのは、ほとんど同時だった。大地が震えるような叫びを上げ、鉄骨を取り落とした巨人は目を押さえるようにしながら片膝をつく。
とどめを刺さなければ。
私は全力でタイプ9の背後へ駆け寄ると、足に刺さったままの刀を引き抜きざま、背中を駆け上がる。
「はぁあ!」
気合いを込めた一撃が、タイプ9の急所を貫いた。
「ァァアアアア!」
鼓膜が破れそうなほどの大声で巨人は断末魔の叫びを上げる。乗った背中がぐらりと揺れ、糸の切れた人形みたいに、タイプ9は地面に崩れ落ちた。
「ナズナ!」
ゴーキが駆け寄って来る。
「ゴーキ・・。助かったわ・・・。」
安堵して近寄る私を、けれどゴーキはいきなり怒鳴りつけた。
「この、バカタレ! 勝手にしろとは言ったが、タイプスに見つかるようなドジを踏むんじゃない! あれほど注意したろうが! 吹雪の中だろうが、こいつらはうろつくんだ。」
「で、でも、これはセリが勝手に飛び出して行ったから・・。」
「でもも何もない! わしが来なかったら、お前は今頃こいつにひねり潰されていたんだぞ。」
「・・・ごめん。」
「ごめんで命が助かるなら、苦労はないわ。セリとスズシロはどうした。」
「スズシロは伸びてる。セリは・・・。」
そうだ。セリは無事だろうか。セリの吹き飛ばされた方へ慌てて目をやると、ずるずると身体を引きづりながら、セリが雪の中を歩いて来る。
私はほっとしながら、同時に、こんな状況へ陥ったそもそもの元凶がセリであることを思い出して、急に腹が立ってきた。
「セリ! スズシロを連れて来て! あっちで伸びてる!」
「何で俺が行かなきゃなんねぇんだよ。・・! 痛ぇ・・・。」
肋骨でも痛めたのか、セリが脇腹を押さえた。
「元凶はあなたの自分勝手な行動だわ。言うこと聞きなさいよ。」
「くそ。けが人にはもっと優しくしろっつーの。」
セリはぶつぶつ言いながらも、スズシロの倒れているところへ向かって歩いて行った。
私は、倒れているタイプ9に向き直り、うつむいたまま立ちつくしていた。
「どうした、ナズナ。どこか痛めたか?」
ゴーキが私の顔をのぞきこみ、それから、視線の先を追った。
「・・・ああ。」
ゴーキがうめくように声をもらした。その「ああ」には、すべてを悟った者の響きがあった。若くして命を落とした者に対する、年長者が持ちうる憐憫と静かな怒り。この子の前で、自分はあまりに無力であり、無力であったという、過去形の悔恨。
ゴーキは静かに、横たわるコンクリート塊のような巨人に近づきつぶやいた。
「弔ってやらんとな・・・。」
そばに落ちていた長い鉄パイプを拾って、握り込まれた巨人の指の隙間へ突っ込む。
「お前はあっちに行ってろ。」
「なぜ? 私も手伝う。」
「いいから行ってろ。お前は見なくていい。見なくていいもんがこの世界にはあるんだよ。」
「嫌。私も手伝う。」
それが、私のこの子に対してできる、数少ないことのような気がした。いいえ、できうるたったひとつのことといってもいい。私は何もせずにその場を離れるということができなかった。
どうあっても向こうに行こうとしない私を、遠ざけるのを諦めたのだろう。ゴーキは黙ったままテコの原理で巨人の指を押し開いて行く。
私はゴーキと一緒に、パイプの端へ肩を当てて、体重をかけた。
硬い指の筋肉が、めりめりと音を立てて開く。
「こりゃ・・! 子供じゃないぞ。」
巨人の掌中をのぞきこんだゴーキが驚いた声をあげた。
私も慌てて手の中を見ると、そこには長さが三十センチくらいの小さなぬいぐるみが、横たわっていた。
「人形・・・?」
猫のような鼻と兎の耳が生えた、毛むくじゃらの変な人形だ。あちこち黒ずんで、灰色がかった毛並みをしている。北欧の子供が着る民族衣装みたいな服をつけ、ブーツをはいたその姿はさながら、昔ゴーキのところで見た絵本、長靴をはいた猫だ。猫、というより、長靴をはいた猫兎・・・? 背中には、ゴテゴテとコップやら手斧やら、いろんな物がぶら下がったリュックを背負っている。
ゴーキは人形の両耳をつかむと、無造作に持ち上げた。
「ふーん・・? ずいぶん懐かしいもんが出てきたな。」
「懐かしい? その人形、知ってるの?」
「ああ。俺が若い頃、ずいぶん流行ってな。三人に一人は持っていた。」
「へぇ・・。」
人の子供じゃなかった。私は、緊張の糸が一気に切れたような気がして、どっと疲れを感じた。それでも、嬉しかった。
「よかった。人間の子供じゃなかったんだ。」
つん、と人形のお腹辺りをつついてみると、ぴく、とその身を振るわせる。私は驚いてつついた手を引っ込めた。
「動いた・・・!」
「んー? そりゃ、動くだろうな。」
「動くだろうなって・・・?」
「ナズナ。さっきから人形、人形言ってるが、こいつは人形じゃないぞ。」
「人形じゃないって、だったら何なの?」
「トーキングゲノム。遺伝子改造された家庭用愛玩動物─。」
ゴーキがそこまで言いかけたとき、吊られた猫兎の目が、ぱち、と見開かれた。
「こ、ここは・・? あ! な、何をするのです! み、みみ耳を放しなさい! 痛い目にあいますよ。後で後悔せぬよう、私を自由にするのです!」
「しゃ、喋った・・!」
猫の口から、流暢な言葉が流れ出てくるものだから驚いた。ゴーキは猫兎をぶらぶらとゆらしながら言った。
「喋るなぁ。そこがウリだったからな。喋るペット。主人が帰ればお帰りと出迎えてくれる、忠実なペットを一家に一体、ってな。トーキングゲノム社はこいつのおかげで、世界有数の大企業にのし上がったもんだ。もう大昔の話になっちまったが。」
口では虚勢を張る猫兎なのだけれど、両耳をつかまれたまま手足をばたつかせるその姿は、何というか、こう表現するしかない。
「かわいい・・・。」
「か、かわいいですと? 無礼な。訴えますよ。」
「訴えるって、どこに?」
この世界に、裁判所なんてものはもう存在しない。
「そ、それは、いろいろとあるのです。と、とにかく、私を食べても美味しくないというのは確かなのです。まずいですよ。ええ、まずいですとも。きっとお腹を壊すでしょう。食べてもお腹を壊すなら、初めから食べない方が懸命だと思うのです。別のものをお食べになればよろしいのです。」
「別にあなたを食べたりしないわ。」
「え? ほ、ほんとに・・?」
「本当よ。」
見るからに安堵したようで、猫兎はほっとした表情を浮かべた。ぴん、と逆立っていたひげが、へにょ、と下がる。
そこへ、セリがスズシロに肩を貸しながら歩いてきた。
「あん? 何だ、その兎。いつの間に穫ったんだよ。なんか変な布切れがついてるけど、うまそうじゃないか。今夜は兎鍋だな。」
「ひぃ! なな、鍋ですと? 釜茹でだけは勘弁してください!」
猫兎のひげが、再び恐怖でぴんと張った。
「しゃ、喋った・・?」
スズシロが、ずり落ちそうになっていたメガネの位置をなおしながら言った。
セリが駆け寄って来て、まじまじと猫兎を見る。
「何なんだよ、これ。兎、というか、猫か? どっちかはっきりしない動物だな。」
「猫でも兎でもありません! と、とにかく、私を食べるつもりでないのなら、まずは下ろしてください。」
猫兎は訴えるような目で私を見つめた。
やっぱりかわいい・・・。
ゴーキは、
「おっと、悪かったな。」
そう言って、猫兎を雪の上に下ろした。
猫兎は、ぱふ、ぱふと服を払い、毛並みを揃えてから私達をぐるりと見渡す。食べる派たるセリと、食べない派の私を見比べながら、どんな態度を取ったらいいのか考えているみたいだった。
それから、少なくとも何か話している限り、いきなり食べられることはないと踏んだのだろう。
こほん、と咳払いをしてから、
「わ、私の名はウェブサニウス・アグリッパと申します。」
そう、自己紹介をした。
セリは、
「アグリッパって、ずいぶんご大層な名前だぜ。」
と、笑いをこらえている。
少しむっとしながら、アグリッパは続けた。
「タイプスに捕まって、もはや今生の別れと思いましたが、気がつけばあなた方に取り囲まれてしまった。いったい何がどうなったのでしょう。」
ゴーキは顎の無精髭を触りながら、私の方をちらっと見て言った。
「それなら、まずはナズナに感謝するこったな。ナズナがこいつ(タイプ9)とやりあったおかげで、お前が助かったようなもんだからな。」
「あなたが助けてくださったのですか!」
「うん・・。まぁ、助けたというか、そもそも君が生きているとは思っていなかったけれど・・、そういうことになるのかも。」
「ありがとうございます! あなたのおかげで助かったのであります、ナズナ様!」
ぴょこ、と頭を下げるアグリッパを抱きしめて、もふもふしたい衝動を押さえるのが一苦労だった。
横からセリが口をはさんできた。
「それを言ったら、タイプスをやってやろうって言い出したのは、むしろ俺の方なんだぜ。」
「・・・だから?」
と私は冷たく言った。
「だから、あれだ。・・俺も感謝されるべきだってことだ。」
「セリは結局、後先考えずに突っ走ろうとしただけじゃない。それで感謝しろとか、神経太すぎ。」
「なんだとぉ!」
声を荒げるセリから隠れるように、アグリッパは私の足の後ろへ、ととと、と隠れると、顔だけ出して言った。
「セリ、とおっしゃいましたか。一応、タイプスを倒すのに一役買っていただいたようですので、お礼は申し上げておきます。お礼、といっても、この身を兎鍋として捧ぐ、という意味ではありませんよ。」
セリにおいしそうだと言われたことが、よほど怖かったのだろう。私の足にしがみつく手が、ぷるぷる震えているのを感じる。
「・・・ふぅん。」
セリは何を思ったか、にやりと笑って続けた。
「お礼、ねぇ。ま、兎鍋というのは勘弁してやってもいいが、そうだな、その片耳で一夜干しってのはどうだ? たいして腹の足しにもならねぇだろうが。」
「一夜干し!」
アグリッパは、ぺた、と両耳を押さえた。
私は、
「セリ、アグリッパを怖がらせるの、やめなさいよ。」
と、非難するのだけれど、さっぱり聞いている様子がない。
「耳なら二本あるんだから、一本くらいどうってことないだろ。」
「本数の問題ではありません! なんと恐ろしいものを要求されるのでしょう。鬼ですか、あなたは。」
「人だよ。鬼じゃない。まぁ、腹が空けば、人も鬼もたいして変わりなくなるのかも知れねぇけど。」
私達のやりとりに付き合ってられないという風に、ゴーキはコミュの方へ歩き出しながら言った。
「おら、セリ。立場の弱いもんをいじめるな。お前も怪我してんだろ。日も暮れる。今日は帰るぞ。」
「分かったよ。」
さすがにセリも、これ以上反抗する元気もないようだった。ゴーキ達が歩き出す。
アグリッパはというと、私の足下で、何だか居心地悪そうにもじもじしている。
「君はどうする?」
「はい、あの・・・。」
「一緒に来る?」
アグリッパの顔が、ぱっ、と輝いた。
「よろしいのですか?」
「こんなところで放っておかれても、凍えちゃうでしょ。結果的には君を助けたことになるわけだし、ここでさよなら、というわけにもいかないわ。」
「あ、ありがとうございます、ナズナ様! 不肖、アグリッパ、このご恩は終生忘れません!」
「大げさよ。」
私は言いながら、アグリッパの襟をつかむと、肩に乗せた。アグリッパは器用にバランスを取って、乗っていることを感じさせないほど上手に、私の肩へ座った。
風が強くなってきた。厚い雲で覆われているものだから、太陽を見ることはできないけれど、周囲の暗さが日没の近いことを告げている。私は足早にゴーキ達へ追いついた。
アグリッパが、ぽふ、とフードをかぶる。そのフードというのが、長い耳だけ外に出せるよう、頭のところに穴が二つ開いている仕様だから、これもまたかわいい。
かわいい、と喉元まで出そうになるけれど、そう言われるのがあまり好きではないようだから、私は別の話題を振ってみた。
「君はなぜタイプスに捕まったの?」
「それが・・・。長い旅の疲れが出たのでしょう。普段はきちんと安全な場所を確保するのですが、昨日うっかり、木立の根本でうたた寝をしてしまって。いつの間にかタイプ9の手のひらの中というわけです。あとで私をおやつにでも食べるつもりだったのでしょうね。息苦しいやら恐ろしいやらで、気を失ってしまったようです。気づいたら、ナズナ様に助けていただいた、と。」
「長い旅・・・?」
「はい。長い長い旅路です。」
「どこに行くための?」
「どこに、という目的地あってのものではありません。どこを求めるか、ではなく、何を求めるか、に目的を定めておりますゆえ。」
「目的?」
「はい。私という存在の、根源を求める、とでも言いましょうか。私の祖先はどのようにして生まれたのか。私はいったいどこから来たのか。私はどこへ向かうのか。迂遠な哲学的彷徨と言われてしまえば、さもありなんですが、私は自身のことをもっと知りたいと思うのです。こうしてこの世に生を受け、自我というものを持つ以上、私の抱いた疑問は必然だとも思っております。私は明かしたいのです。自分という存在の秘密を。」
「・・・君、見た目によらず難しいことを考えるのね。」
「何を考えるかは見た目によらないものですよ、ナズナ様。倒してくださったあのタイプ9ですら、何事かを考えていたかも知れないのですから・・。あ、失礼しました! 決して、ナズナ様達の行為を批難するつもりで言ったわけでは・・!」
「分かってるわ。批難だとは思わない。タイプス(奴ら)は倒されるべき存在なのよ。私達とは決して相容れない。どちらかが絶滅しない限り、この闘争はこの先もずっと続くのよ。」
さっきから、無言で私とアグリッパの会話を聞いていたスズシロが唐突に口を開いた。
「どちらかが絶滅、か。俺達の滅ぶ方が先のような気もするがな・・・。セリ、ナズナ。ちょっと、いいか・・。」
「何だよ、スズシロ。」
と、セリも隣にやってきた。
「俺は・・、二人に謝らなきゃならない。タイプ9に襲われたとき、俺は何もできなかった。それどころか、二人を置いて逃げ出そうとまでした。・・・すまない。」
沈痛な面持ちで謝るスズシロを前に、私とセリは顔を見合わせた。
セリは、ぽりぽりと頬をかきながら、
「別に謝られてもな。ああいう土壇場で、スズシロには期待してねぇし・・。」
なんという物言いだろう。私は小声でセリに、
「ちょっと、セリ。そういう言い方、ないんじゃない。」
と刺すように言った。
「ふん。事実だろ。」
「もう少し他の言い方があるんじゃないかって言ってるのよ。」
「他の言い方ってなんだよ。」
「そ、それは・・・。」
迂闊にも、私はそこで言葉に詰まってしまった。スズシロが肝心なときに気絶してしまうのは、しょっちゅうなのだ。この前なんて、枝にかかった大きな布切れを幽霊か何かと勘違いして伸びてしまった。危うく凍死しそうになっているところを、私とセリが見つけたのだ。
「・・・すまん。」
ますます落ち込みながら謝るスズシロへ、私は言った。
「謝らないで、スズシロ。それで謝るスズシロなんて、見たくないわ。どうしようもなく怖くなるときって、必ずあるもの。」
言いながら、セリの言い方には一理あるのかも知れない、と私はふと思った。
スズシロに土壇場で期待はしていない、という、あれ。スズシロは私とセリより年上なものだから、兄みたいな自覚を持とうとするわけで、けれどそれが重荷になっているときもあるようだった。自覚があるからこそこうやって謝るのだから、期待しないという言葉は、ある意味、スズシロにとってひとつの救いかも知れないのだ。
「苦手なものは苦手だって、認めてもいいと思うの。それで私は、スズシロのこと嫌いになったりは─。」
「違うんだ!」
スズシロが強い口調で私を遮った。
「違うんだよ、ナズナ。セリやナズナに嫌われるからじゃない。俺は臆病な自分がどうしようもなく嫌いなんだよ!」
「スズシロ・・・。」
私はそこで、かける言葉を失ってしまった。
セリは面白くもなさそうな顔で聞きながら、突き放すように言った。
「嫌いなら、嫌っておくしかねぇだろ。それは俺達がどうこうできる問題じゃねーしな。けどな、スズシロ。俺は自分のことが嫌いなスズシロを、好きにはなれねーよ。」
「ああ・・・。」
うなだれるスズシロに何か言うべきかと思ったけれど、今はもう、何を言ってもスズシロを傷つけてしまいそうで、私はただ、黙って雪の道を歩くしかなかった。無意識の内に手をそえたアグリッパの身体があたたかかった。
コミュに帰ると、ゴーキは私達を手伝わせて食事の準備を始めた。鍋に雪の上澄みを盛って火に掛け、溶けて水になると今度は、雪に埋めておいた鶏の骨をたっぷりと入れる。鶏ガラスープができ上がると、猪の干し肉、葱を入れ、よく煮えれば猪鍋の完成だ。
こんな豪勢な食事をゴーキが用意するのは珍しい。アグリッパがお客としてやってきたから、という理由もあるのだろうけれど、スズシロを元気づけるというゴーキの気遣いを、私は何となく感じた。ゴーキも背中で、さっきの会話を聞いていたのだ。
「食う前に、お前達には言っておくことがある。」
コトコトと音を立てる鍋を前に、ゴーキは腕を組みながら言った。
「セリ、タイプスの気配を感じたら、すぐに離れろと言ってあったはずだ。なぜあそこまで接近した。」
「いや、俺が倒してやろうと・・・。」
「単独で挑んでやれる人間なんて、そうはいない。ユーシャでもなければな。お前じゃ無理だ、セリ。」
「・・・・・。」
セリは口をへの字に結びながら、ふい、とそっぽを向いてしまった。
「ユーシャ、とは?」
アグリッパが私とゴーキの顔を交互に見比べた。
「タイプスを一人で狩る人間のことよ。昔、たった一人で竜に挑んだ青年の物語があるらしいの。それに例えて、「一人で狩る者」をつまり、ユーシャと呼ぶんだって。私は実際に見たことがないし、本当にいるのかどうかすら分からない。おとぎ話みたいなものだけれどね。」
「ははぁ。ユーシャ、ですか。しかし、一人で狩りに出るとは、何とも孤独な道行きですね。」
「ええ、そうね。孤独よ。一人きりなんて・・・。」
私は、孤独、という言葉を聞いたとたん、苦い寂しさが胸の内に広がるのを感じた。ゴーキに拾われるまで、雪の砂漠みたいな大地をさまよい歩いた時期がある。あの時の押しつぶされそうな寂しさが、私の意志とは関係なく再生される感覚だ。
そっぽを向いていたセリが、口をとがらせながら言った。
「けどな、ゴーキ。単独でやるなと咎めるなら、それはナズナに対しても言わなきゃならねぇことだぞ。タイプ9に突っかかっていった当人は、俺じゃなくこいつなんだからな。」
「何・・?」
ゴーキの驚いたような視線が私に向けられた。
思わず私はうつむいてしまう。
「本当なのか、ナズナ。」
私はこくりとうなずいた。
「・・・むぅ。お前は冷静だと思っていたが・・。」
「だって、アグリッパの足がちょっと見えて、それで・・・。」
「熱くなって、タイプ9に挑んだ、と。お前の気持ち、分からんでもないが、無駄死にだけはするな。俺の気持ちも分かってくれ。」
ゴーキの沈痛な面持ちを見ていると、胸がちくちく痛むのを感じる。
アグリッパが横から言った。
「無駄ではありません。そのおかげで私は助かったのですから。ゴーキ様、どうか無駄とおっしゃらずに。」
「・・・ああ、そうだな。結果的にだが、アグリッパは助かった。無駄じゃなかった。だが、自重はしてくれ。この歳で、お前達が死ぬのを見るのはつらい。」
そうやってつぶやくように言うゴーキの言葉の裏には、知り合いや友人の多くが亡くなって行くのを、その目で見てきた者の重みが含まれていた。つらい光景が繰り返されて行くにつれ、悲しみが麻痺するという話を本で読んだことがあるけれど、ゴーキにとってそれは当てはまらないみたいだ。むしろ、悲しみに押しつぶされてしまうのではないか。年齢の割に体格のよいゴーキの身体が、このときばかりはとても小さく見えた。
「よし、説教は終わりだ。さぁ、食え。」
ゴーキはそう言って、アグリッパ、スズシロ、セリ、私の順によそったお椀を渡す。
「いただきます。」
そう言ってうやうやしくお椀を受け取るアグリッパを、不思議そうな顔で見ながらセリが言った。
「いただきますって、お前、肉とか食えんの? 草食じゃなく?」
「肉も食べられますよ。私は兎ではありませんから。」
「兎じゃないって、その長耳生やして言われてもなぁ。」
「耳が長ければ兎ですか? 鼻が長いからといってすべて象と呼ぶわけではないでしょう。」
つん、とセリから顔をそらし、アグリッパは食べ始める。
「理屈の多い兎だぜ。」
「兎じゃありません。」
「ふん。」
と、セリもアグリッパを兎と認めさせる無駄を悟ったのだろう。あとは何も言わず、お椀ごと食べてしまうのでは、という勢いで猪肉を頬張り始めた。
スズシロは・・・。メガネが曇って表情がよく見えないけれど、久々のご馳走にいくらか元気を取り戻したようだった。
煮込んだ干し肉は味がしみてとても美味しかった。
ゴーキはとっておきのお酒を取り出してくると、さっきから大事そうに飲んでいる。自生する稲の一種はごくわずかにしか穫れないものだから、一升にも満たない濁酒を作るだけで、一年がかりの貴重品だ。
「なぁ、ゴーキ。それ、俺にも少し飲ませてくれよ。」
セリがいつものごとく、興味深そうに濁酒の瓶を見つめている。
「駄目だ。てめぇにゃまだ早い。」
「早いって、じゃあ、いつになったら飲めるんだ。」
「人生の酸いも甘いも噛み分けられるようになったらだよ。」
「はぁ? なんだそりゃ? 飲ませる気がないってことだろ、要するに。」
「当たり、前だぁ。お前のような若造が飲むなんて六十年早いわ。」
珍しくゴーキは酔っぱらってるみたいで、若干ろれつが回っていない。
「早い、早い。早すぎるんだよ。俺より歳上になったら飲ませてやる。」
セリは一瞬顔を輝かせて、
「ほんとか? ・・・ん? 無理だろ、ゴーキより歳上になるなんて。俺が年取るのと同じペースでゴーキも歳を取るんだからな。」
と、すぐ不満顔に戻る。
「気づいたか? 勘のいい奴だ。」
「・・・なんか、馬鹿にしてるな?」
「馬鹿になどしとりゃあ、せん。・・・お前が、俺より歳上か・・・。」
ゴーキは視線を落とすと、何か思い詰めたような表情をして、誰に言うでもなく独り言みたいに続けた。
「ここのところ多少暖かくなったとはいえ、冬が続くな。いつまでも、いつまでも。いったいいつになったら明けるんだ、この冬は。」
頭を左右に揺らしながら、ゴーキはそんなことを言い出す。
スズシロがメガネのくもりを指でぬぐいながら、困ったような顔で言った。
「そんなこと俺らに聞かれても、知らないよ。太陽フレアの影響で、地球の昼側が焼かれたんだろ。海流も大気の対流も、すべてが滅茶苦茶さ。水と空気の循環で保たれていた環境は完全に崩壊したんだよ。って、自分でそう言ってたじゃないか、ゴーキ。」
「ああん? そうだっけか? いや、そうだな。言った。確かに俺はそう言ったが、冬が明けないなんて言ってない。俺はな。言ってないんだ。・・・来ない春なんてないと思っていたんだがな、若い頃は。」
そこまで言って、ゴーキはごろん、と床に敷いた毛皮の上に寝転んでしまった。
「俺は少し横になる。お前ら、あとは適当にやってろ。」
言うなり、ぐーぐーといびきをかき始める。
スズシロはゴーキの寝顔を見ながら、
「今日はだいぶ酔ったみたいだな。」
と、言って黙った。
セリがゴーキより歳上になる・・・。
その状況が生まれる条件は、ふたつ。つまり、ゴーキが死んでしまって、永遠に歳を取らなくこと。もちろん、セリが長生きもしなければいけないけれど。
来ない春なんてない、とつぶやくゴーキの横顔は寂し気で、諦めなければならない現実を前にしてもなお諦めきれない、そんな感情が伝わってくるようだった。私達に自分の知識を伝え、タイプスが出たといっては得意の矢を持って駆けつけるゴーキはやっぱり、遠い春を待ちわびている。人が人として、何かにおびえることなく生きられる世界を。
いくら鈍いとはいえ、セリもそのことは何となく分かっているようだったし、それはスズシロも同じだった。
そもそも、両親を失ったショックで名前すら言うことのできなかった私を、ナズナ、という名前で呼び始めたのはゴーキだ。私が本当の名前を言い出す前に、ナズナという呼ばれ方へ馴染んでしまったものだから、もうそのままにしているわけだけれど、セリとスズシロ、という名をつけたのもゴーキだったらしい。
七草。春の七草にちなんだ名前を私達につけている時点で、不器用で切実な、ゴーキの思いを感じる。見果てぬ春を将来に託すというか。
そんな重いものを託されたからといって、実現しなければ、なんてごたいそうな使命感に燃えることもないわけだけれど、それでも、ゴーキのために何かをしてあげたいという気持ちは、日増しに強くなる一方だった。
揺らめく囲炉裏の炎を見つめる中、突然、スズシロが口を開いた。
「気候は、以前に比べて安定してきている。少なくとも、数年に渡って雨や雪が降り続くということはなくなった。あとは、タイプスさえどうにかできれば・・・。」
セリがやれやれ、という風に首を振った。
「どうにかって、どうすんだよ。今日みたいに、タイプ9一体倒すのにあの騒ぎだ。俺達は狩る側にいない。狩られる側の存在なんだよ。」
私は、
「一人でやってやる、なんて言ってたくせに。」
と、冷たく言ってやった。
「おま・・! 勝手に突っ走ったのは自分だってこと、棚に上げてよく言うぜ。」
「棚に上げる以前の事実を言ったまでよ。」
再び始まりそうになる私とセリの口喧嘩を察して、スズシロはすぐ止めに入った。
「やめろよ。どっちが先に突っかかったとかじゃなくさ、タイプスの弱点みたいなものを突ければいいって話だよ。」
私はため息混じりにスズシロへ言った。
「弱点なんてあるわけないじゃない。そんな都合良く。そもそも、生存上致命的な弱点を抱えていたら、野性化して繁殖、なんてできるわけないわ。でも、現に奴らの数は増えている。この世界に適応してしまったのよ。」
「それでも、自然界に存在しない要素に弱いってことは、あるんじゃないか。だって、タイプスはもともと軍用に創られた兵器なわけだろ。緊急時の措置として、自滅させる遺伝子上のプログラムがあるとかさ。」
「そんなプログラムがもし仮にあるとして、いったいそれは何? どうやって彼らに作用させるの? そもそも、どこで手に入れて、どうやって作るの?」
「それは・・・・。」
「人間同士のつながりを分断するように動く奴らの基本行動は、完全に成功してるわ。そのせいで、私達は小集団単位の原始的生活を余儀なくされてるんじゃない。電話一つ作ることのできない私達に、そんなプログラムを扱える余裕なんてないわ。」
「・・・・・。」
スズシロは黙ってしまった。私は自分で言いながら、言いすぎてしまったと悔やんだ。スズシロは、明日へとつながる希望がないものかと、一生懸命考えて言っただけなのだ。それを私は全力で否定するような言い方をしてしまった。
沈黙に耐えかねて、私はアグリッパの方を見る。さっきから静かだと思っていたら、いつの間にか、私の方に身体を預けてすやすやと眠りこんでいる。
「お風呂、入ってくる。」
そう言って、アグリッパを脇に抱えるようにしてつかむと私は立ち上がった。
セリは、
「風呂って、それも一緒にか?」
と、ちょっと驚いた顔をした。
「そうよ。」
「だってそれ、オスだろ。」
「・・・だから?」
「だからって、あのなぁ。一緒に風呂ってさぁ。」
セリとスズシロが目を白黒させているのが何だかおかしかった。
「私が誰と一緒に入ろうが、私の勝手でしょ。セリと一緒というのは、死んでもごめんだけれど。」
「だ、誰がお前なんかと一緒に入るか。」
顔を赤くするセリを放っておいて、私はゴーキの小屋を出た。
少し風は弱くなったけれど、外はまだ雪交じりの横風が吹きつけている。アグリッパが目を覚ました。
「んあ? ナズナ様、いずこへ・・?」
「お風呂。」
「お風呂ですと!」
眠たげだったアグリッパの目が、ぱち、と見開かれた。
「そうよ。お風呂は嫌い?」
「いえいえいえ。とんでもない。機会があれば、毎日でも入りたいくらいですが・・。その、お湯を作る燃料も貴重なのでは?」
「貴重なのは確かだけれど、それでも週に一度はお湯を沸かしているのよ。今日はその日だから。一緒に入るでしょ。君、ちょっと汚れてるわ。」
「はい! ぜひ!」
アグリッパはよほどお風呂が好きなようで、鼻歌まで歌い出すうかれようだ。
半地下の小屋を改造した一室に、ドラム缶が据え付けられている。ご飯を食べる前から火を起こしていたので、ちょうどいい湯加減になっているはずだ。
立ちこめる湯気の中、アグリッパはいそいそと服を脱いで、きれいにたたむと部屋の隅に置いた。
いきなりドラム缶の中へ飛び込もうとするアグリッパを私は呼び止めた。
「ちょっと待って。君には深すぎるわよ。まず私の頭に乗っかった方がいいわ。」
「おっと。それではお言葉に甘えまして。」
アグリッパはぴょん、とジャンプすると、私の頭の上へ腹ばいになって乗っかる。
ドラム缶の縁と内側は、熱くないように木で覆われている。私は、雪の湿気を含んで重くなった服を脱いでしまうと、左足で温度を確かめながら、ゆっくりとお湯の中に身を浸した。それから、頭の上のアグリッパをだっこしてお湯につけてあげる。
「はふー。」
アグリッパは、のたん、とひげや耳をしなびさせながら、声をもらした。
「いいお湯ですね、ナズナ様。まさか、ここにきて湯につかれるとは、思いもよりませんでした。旅路にあっては、風呂など滅多に入れませんから。」
「ええ・・・。」
うわの空で返事をしながら、私はドラム缶の縁に頭を乗せて、天井を見つめた。
身体の芯からあったまるこの感触に、私は身を任せていたかった。つらいことも、苦しいことも、お湯に溶け出してくれるからだ。
「ナズナ様?」
「何?」
「失礼とは存じますが、そのおみ足は・・?」
「右足のこと?」
「はい。」
右の義足は防水性があるものだから、お風呂の時もそのまま入ってしまう。アグリッパはその義足のことを聞いている。
「昔、タイプスにね・・。私が幼い頃の話よ。」
「そうでしたか。つらいことを思い出させてしまい、申し訳ありませんでした。」
「いいのよ。ずっと昔のことだから、つらいなんて・・・。」
アグリッパに言ったのは本当のことだ。つらい、という感覚はもう失われて、あとに残った感覚は、とても純粋な憎しみ、それだけだ。両親と、自分の身体の一部を奪ったタイプスへの憎しみは、純化し、精練され、いっさいの混じり気を含まない氷のような鋭さと攻撃性を備えるようになった。
それは美しい刃物に似ている、と感じることがある。触れただけで血の流れそうな、相手だけじゃない、自分自身が触ることでも傷つきそうな、両刃の剣。その刃によって倒れるのは、タイプスなんかじゃなく、自分の方じゃないかと、そんな疑念が頭をよぎることもあるのだけれど、それは結局あやふやな疑念にすぎず、私はずっと黙認しながら生きてきた。いいえ、黙認しなければ生きてこれなかった、というべきなのかも知れない。
「・・・ナズナ様。ナズナ様。」
「・・あ、何?」
「ああ、よかった。突然、心ここにあらずというお顔のまま、ぼんやりされていたものですから。」
「そうだった? ごめんね。」
「いいえ、謝らずとも・・。私の勝手な心配であっただけですから。タイプスのことをお考えですか?」
「ええ。それもあるし、思い出さないようにはしているけれど、昔のことも。」
「そうでしたか・・・。」
「ねぇ、アグリッパ。」
「何でしょう?」
「タイプスって何なのかしらね。兵器として造られた人工生命ではあるけれど、今は野生化し、繁殖までしている。兵器としてなら、繁殖能力なんてもたせるべきではなかったはずなのに。」
「研究者が何を思って開発したのかまでは、私も分かりません。分かりませんが、生命としての可能性を保たせたかったのではないでしょうか。生命の本質は個体から個体へ伝達される遺伝情報そのものにあります。死と再生のサイクルの中、環境への適応を模索し、適応に失敗すれば淘汰される。大地に殺される、ときつい言葉で例えることもできましょう。タイプスを開発した人間は、適応の可能性をもたせたかったのかも知れませんね。新たな種の創造を夢見た、と。」
「種の創造・・・。そんなのエゴよ。」
「その通りです、ナズナ様。その通りですよ。彼らのエゴによって、我々が苦しめられる道理に、納得などできません。」
「納得、なんて私もするつもりはないわ。はい、そうですか、と言って死ぬつもりはないもの。でも、どうしようもできない現実があるのよ。食物連鎖の上位に彼らが君臨する限り、セリの言うとおり、私達は狩られる側にあり続ける。」
「・・・ナズナ様。もしも、私達が狩る側にまわる方法があるとしたら、いかがいたしますか?」
アグリッパが、湯気で湿ったヒゲをぴんと張りながら言った。
「狩る側に・・? そんな方法があるのなら、もちろんその方法を選ぶわ。」
「それが仮に、イバラの道となろうとも?」
「ねぇ、アグリッパ。もしタイプスに対して優位に立てる方法があるのなら、それを選ばないという選択肢は端からないのよ。何か知っているの?」
「はい・・。長い旅路にあって、断片的な、情報の切れ端みたいなものをかろうじて得ただけではありますが。タイプスの遺伝子上、細胞の自己崩壊を促進する要素が存在するらしいのです。」
「細胞の自己崩壊・・・。スズシロの言っていたものが、本当にあるの・・?」
「奴らも野生化したとはいえ、元は兵器です。高度の生体軍事技術の塊である奴らを、敵に鹵獲されるわけにはいかなかったのでしょう。」
「で、でも、その自己崩壊を促進する要素って、何なの? どうすれば、それを手に入れられるの?」
「私もここから先の話は定かではありませんが、培養したミトコンドリアがそのトリガーになるらしいのです。」
「みとこん・・・?」
「細胞内構造物の一種です。」
「それがあれば、タイプスに対抗できる・・?」
「ええ。古の天空神、ゼウスの雷霆ケラウノスのごとき威力を発揮することでしょう。つまり、一撃です。」
「一撃・・。それがあれば、タイプスに勝てる・・・。」
「勝てましょう。ですが・・・。」
「?」
アグリッパがうつむいて、お湯の中に顎をひたした。
「ひとつ問題があるのです。」
「問題?」
「はい。ミトコンドリアはどのタイプスも持っているわけですが、細胞の自己崩壊作用を促すそれは、ある特定個体の部位にしか存在しないということです。」
「特定個体の部位って?」
「・・・タイプ0の心臓です。」
「ゼロ・・。」
ゴーキからその存在についての話だけは聞いたことがある。すべてのタイプスに先駆けて造られた、タイプスの祖。その個体だけは、繁殖しないらしいとゴーキは言っていた。タイプ0を見たのは、後にも先にも一度きりだとゴーキは話していたけれど、青ざめた彼の顔がその恐怖を物語っていた。つまり、格が違う、と。
それでも、私はいちまつの光を、アグリッパの話の中に見出したような気がした。厚く垂れこめた雪雲の隙間から、ほんの一瞬さした太陽の光に似ていた。
アグリッパは私の方を振り向いて言った。
「ナズナ様。悪いことは申しません。タイプ0はやめておくがよろしいと思います。いくらなんでも、ゼロに挑むのは無茶です。私も直接見たことはありませんが、既に生ける恐怖、レジェンドとして、人々の口に上るのです。我々や人の力の及ぶ存在ではないのです。」
「無茶なのは分かっているわ、アグリッパ。でも、これで可能性は零じゃなくなった。零の百倍は零だけれど、一の百倍は百なのよ。」
心配そうに見つめるアグリッパを私も見つめ返すけれど、私はアグリッパを見てはいなかった。さらにその先を、まだ見ぬタイプ0を見据えていた。アグリッパから見た私の目は、氷みたいに冷たく硬い意思を宿していたに違いなかった。




