チャプター1 Hard Boiled Sun Day
西暦2023年、都内某所。
810kHzから聞こえるコマーシャルの末尾、超早口でまくしたてる免責事項のところで、俺はいっつも吹き出してしまう。尺の関係か知らないが、あのじっくり聞いてほしくない感丸出しの英語が俺は好きだった。ほとんど何言ってんのか聞き取れないわけだが、さらっと流してほしいんだけど、言っとかないと後から困るもんで、とりあえず三倍速で言っとくね、というあからさまな意図がいい。
ひとしきり一人で笑ったところ、アパートの扉を叩く音がした。コン、ココン、コココン、と節をつけながらノックする相手は奴しかいない。
「開いてる。」
そう言いながら、俺は時計を見た。午後9時23分。開け放した窓からは、隣家の冷房室外機の吐き出す排熱が、ごうごうと入ってきている。
「うぇ、アッチーな、おい。何でこんなに暑いんだよ。」
まるで自分の家に帰ったかのごとく部屋に入ってきたのは、大学の同じ研究室にいる同級、片倉だ。ティーシャツの裾をジーパンの中に入れている、どう見ても「もっさり」としか形容できないその男は、入って来るなり顔をしかめた。
「って、隣のうちの排熱が、もろに入ってきてんじゃん。窓、閉めろよ。」
「閉めると余計に暑苦しく感じるんだよ。窓を開けてれば、涼しい気持ちになるんだ。」
「形而上的な涼しさを求めてどうするんだよ。現に室温が上がったんじゃ、気持ちもへったくれもないだろーが。」
「俺の部屋だ。涼み方に文句は言わせない。」
「俺という客が来た時点で、お前には室温を正常域に維持する責任が発生するんだよ。閉めるぞ。」
「客ってほど上等なもんじゃないだろ。勝手にしろ。」
額に浮いた玉のような汗をティーシャツの袖で拭いながら、片倉は窓を閉めにかかる。たてつけが悪いものだから、二、三度、がたがたと揺すって、ようやく窓が閉まった。
「何しに来たんだよ、こんな時間に。」
俺はラジオのスイッチを切った。
「何しにって、友達んとこ来るのに、いちいち理由が必要か?」
「別に必要ってわけじゃないが、論文仕上げなきゃならないから、相手、できないぞ。」
「何だよ、まだ上げてなかったの?」
片倉が、俺の机の上に置かれたデバイスをのぞき込んだ。「人工多能性幹細胞の応用と生物学的形態変化の可能性」という、俺自身いまいちだと思っている長ったらしいタイトルを片倉は読み上げると、眉間にしわを寄せた。
「形態変化の可能性つったってさぁ、腕は腕の形に、足は足の形になるから役にたつんだろ。それ以上に変化させて、どうすんの。キマイラでも創るつもりか?」
「別にそんなもん創らないけどさ、生命は現在に至る進化の過程で、多くの形態を捨ててきたわけだろ。」
「環境に適応できなかったからな。」
「けれど、それは氷河期だとか、発生地だとか、環境に依存して、ある形態を取った個体群が長く生きられなかった、それだけかも知れないじゃないか。つまりさ、生きる場所と時代が違ってりゃ、立派に繁栄できたかも知れない種だって、いるはずなんだよ。」
「恐竜王国でも作って客を入れろよ。儲かるぜ。」
「俺は真面目な話をしてんだよ。」
「俺だって真面目だよ。」
片倉は、少しむっとした顔をしている。
「どこがだよ。」
「つまりだな、剛毅。お前の言うように、繁栄できた「かも知れない」種は、そら、あるだろうよ。でも、そいつらは滅んだんだ。あるのは結果だけだぜ。復古的、懐古的な感傷に流されて、滅び去った者達にとらわれても、誰の役にも立たないってこったよ。テーマパークでも作る以外にはな。」
「役に立たないってことはない。現生生物の原点が凝縮されてるんだ。温故知新っていうだろ。無駄だなんて言わせないね。」
「温故知新だか、温厚チキンだか知らないが、後ろばっかり向いても前には進めないぜ。」
「ふん。言ってろ。」
俺は団扇を取り出して、猛然と顔を扇いだ。風で得られる空冷効果より、扇ぐという動作で発生する熱量の方が上だと、つまり、扇げば扇ぐほど暑くなることに気づいた俺は、団扇を放り出して仰向けに寝転んだ。
腹が鳴る。片倉が温厚チキンなどと、うまそうな響きのある単語を口にするからだ。そういえば、まだ晩飯を食ってない。
俺は天井の染みを視線でなぞりながら、
「飯、食った?」
と、片倉に訊いた。
「まだだよ。何か食いに行くか?」
片倉は疑問形でそう言ったくせに、もう立ち上がって靴を履き始めている。
「行く。暑くてたまらん。」
俺も言いながら、しなびたタオルを首にひっかけつつ外へ出た。
外気は意外と涼しく、俺は夜気を胸一杯に吸い込んだ。夏草のむせ返るような緑の匂いが心地いい。
「なんだ、そんなに暑くないな。」
外に出た俺の第一声を聞きながら、片倉はやれやれと首を振った。
「外が暑くないんじゃなくて、お前の部屋が暑すぎるんだよ。クーラー買え。いや、買ってくれ。」
「お願いされてもなぁ。ないもんはないんだよ。どうしようもない。金がないから。」
「クーラーないのが、お前の論文執筆効率を落としているとしか、俺は思えないね。お前の幸せを願うからこそ、言ってるんだぜ。」
「よく言う。クーラー買ったら、夏中、俺の部屋に入り浸るつもりだろう。つーか、片倉、お前んとこ、クーラーあったよな。自分の部屋にこもってればいいだろ。」
「嫌なんだよ、一日部屋にいるってのが。学生ニートとなることを、俺は全力で否定したい。」
「否定したいと思うのは勝手だけどな、だからと言って、人の論文邪魔しに来ることもないじゃないか。」
「邪魔とはなんだ、邪魔とは。こうして気分転換に付き合ってやってるだろ。」
「恩着せがましいにもほどがある。腹が減ったから食いに行くその横に、俺がたまたま居合わせているって図にしかなってないだろーが。」
「恩は着ておくべきだぜぇ、友人。」
「これで飯おごれとか言い出したら、お前の友人基準を本気で疑うよ。」
「疑うな。信じろ。それで救われるものもある。」
ははっ、と片倉は能天気に笑った。
ちゃりちゃりと底のすり減ったビーチサンダルを地面にこすりながら俺達が向かうのは、国道沿いの牛丼屋だ。部屋に来た片倉と飯を食いに行くといったら、だいたいそこと決まっている。たまに遠歩きして、うまくもまずくもないラーメン屋に行くこともあったが、今日の腹は牛丼で予約されていた。
片倉も黙って隣を歩いている以上、牛丼のつもりなんだろう。入学後最初の講義で、たまたま席が隣になって以来の付き合いだが、不思議と何を食べるかでもめたことがない。色々意見が食い違うこともあるのだが、食い物だけは、一致を見せた。生活様式が似てくると、顔立ちまで似てくるのが夫婦だと、そんな話を聞いた折、片倉と味の嗜好が似つつある状況に気づいた俺は怖気を感じたものだ。片倉と夫婦って。
俺は片倉のあまり起伏に富まない横顔を見ながら、顔をしかめた。
「あん? 何だよ?」
片倉も俺の視線に気づいて眉をひそめる。
「いや、卵が先か、鶏が先か。」
「は?」
「夫婦だから食の好みが似るようになるのか、食の好みが似てきてこそ夫婦と呼べるのか、だ。」
「何の話だよ。まさか、俺達の食い物に対する嗜好が似てるのを、夫婦のそれに例えようって、そんな話か。気色悪いこと言うなよ。」
「俺だってそんな話ごめんだ。」
「だったら、何でそんな話題持ち出した。」
「いや、何食べるかで意見が別れたこと、ないんだよな。」
「・・・そうか?」
「そうだよ。」
「ふーん。ま、お前と味覚上の相似点があるかないかなんて、どーおでもいいことなんだけどな。」
「同感だ。それより、片倉。噂、聞いたぞ。」
「何の。」
「彼女ができたらしいじゃないか。」
俺はこの噂を大学で聞いたとき、そりゃデマだ、と否定して歩いたものだ。片倉に、このもっさりオタク風味な男に彼女なんてwwwと、信じる気にもなれなかったわけだが、会う奴、会う奴が同じネタをふってくる。それほど俺達の内輪でインパクトのある出来事だったわけだし、つまり、七月の炎天の下、ガ○ガ○くんをかじっているところに空から雪が降り出したようなものだ。
学内、別の場所で会うこと五人、同じように口をそろえて片倉に彼女が・・・、と泣きながら言われれば、さすがに俺も否定しきる根拠を失った。もちろん、否定するモチベーションはまだ十分に残っていたわけだが、ともかく、本人に確認するのが一番だ。
「ほんとなのか? 相手のいる次元、誤認してないだろうな。二次元相手じゃ、無理だからな、いろいろと。」
片倉は汗を振りまきながらこっちを向いた。汚い。
「失礼な。アイナたんは三次元世界の住人だお。」
「アイナたんて・・・。」
「彼女はメイドの国からやって来た、メイド妖精なんだ。」
本気か、片倉・・・。
これが、研究室で一番鋭い論文を書く奴だとは今もって信じられないし、そもそも俺は認める気になれない。頭はいいんだし、黙って研究しときゃあ、彼女ができても不思議じゃない。不思議じゃないが、アイナたんとか、メイド妖精と言ってる時点で、現実世界に彼女ができる可能性はゼロだ。ノッスィング。百倍にしても、ゼロはゼロ。
だから、俺は片倉に言ってやった。
「その、アイナたん、な。写真とかあるなら、見せて見ろよ。」
どうせそんなもの、ないんだろう。あるとしたって、アニメの画像を切り貼りして、待ち受けに設定しているのがオチだ。
「見たいのか?」
にや、と笑いながらもったいぶる片倉に、俺はいらつきながら言った。
「ああ、見たいね。」
「本当に見たいんだな。」
「本当だよ。いいから早く見せろ。どーせ、アニメとかのやつなんだ─。」
「うらぁ! 見ろ、これが、アイナたん、だ!」
片倉は端末を俺の目の前に突き出した。近すぎて合わなかった焦点が徐々に合う。
二人が肩を寄せ合い、指でVの字作って撮った自撮り写真なわけだが、片倉の隣には赤地に白のフリルメイド服を着た、可愛らしい女の子が写っている。
かわいいらしい、じゃない。かわいらしいだ。いや、かなり可愛い。
「か、片倉・・。これ、なんか騙されてないか。」
「騙される? アイナたんが騙すわけがないだろう。相思相愛なんだよ、俺達は。」
「金払って一緒に写真撮ってもらうとか、そういうサービスなわけだろ。な?」
「失礼な。違う。二人でデートした時、撮ったんだ。」
「デートって。」
ますます、金銭を介した契約の匂いがしてならない。俺は片倉にこんなかわいい彼女ができたと信じたくない一心で、ありったけの疑念をぶつけた。
「ほら、あれだろ? オプションで一緒にお散歩できるとか、締めは二人で写真だよ、とか、そんな感じのあれ。だって、そうじゃないか。おかしいんだって。何かが、絶対にさ。こんなかわいい子、絶対に素人なはずがない。プロなんだって。片倉、お前、暑さでいろいろ勘違いしたんだよ。」
「さっきから聞いてりゃ、失礼の上塗りオンパレードだな。そういうのじゃないんだよ。」
「じゃ、じゃあ、お前、このアイナたんとどこで知り合ったんだよ。」
「アキバ。」
「どうやって?」
「知り合ったのかって? ある日、いきつけのメイド喫茶で、俺はいつものように論文の執筆を進めていたわけだ。」
「お前、メイド喫茶で論文書いてんの・・?」
「そうだよ。何か問題でもあるか? 論文を書く場所に規定はなかったはずだぞ。」
「そら、ないけどさ・・・。」
「そしたら、アイナたんがこっそり話しかけてきたわけだ。」
「なんて?」
「打鍵する指の動きがセクシーです、ってな。」
「はぁ。」
「そして、四つに折り畳んだ、小さな紙片をそっとテーブルの上に置くわけだ。ちっちゃく書かれたメアドと、連絡ください(ハート)の文字! 俺の打鍵スピードはそのとき光の速度を越えたね。」
片倉がひとたび論文を書き始めると、物凄い集中力を発揮するのは俺も知っていた。知っていたが、それを見てセクシーだと感じる女性がこの世にいるなんて。
「あまり嬉しかったもんだから、今でもそのメモは俺のお守り替わりだよ。」
「お守りかよ。」
俺は自分が劣勢に立たされているのを感じた。劣勢どころか、すでに負けではないかと理性は囁くわけだが、俺のソウルが必死にそれを否定する。
「じゃ、持ってるんだな、そのお守り。」
「当たり前だ。」
「見せろ。」
俺はごくりと、生唾を飲み込んだ。それを見たら、決定的に確定する。俺と片倉、彼女のいない者といる者、敗者と勝者のブランノワール(白と黒)が決まってしまう。
片倉は懐から、本当のお守りみたいな布袋を取り出し、中から紙を引っぱり出した。
「これだ。」
決まった。俺の負け・・・だ。
そこには確かに、メアドと、連絡ください(ハート)に加えて藍奈と、女の子らしい文字が書かれていた。メモ用紙は薄いピンク色にうっすらと花柄の背景があしらわれたものだし、心なしか、いい匂いがするような気すらした。片倉の自作自演という最後の可能性にすがった俺だが、それも、このメモの存在が打ち消してしまった。
俺は震える手で、メモを片倉に返した。
「だ、大事にしろよ、アイナたん・・・。」
「もちろん。言われるまでもない。」
俺は打ちひしがれた思いで、片倉の隣を歩いた。片倉の横顔を盗み見ながら、こいつとあのかわいい子が付き合ってるんだと考えると、俺は敗北と挫折感にさいなまれた。
友人の幸せくらい、素直に喜べばいいのにとも思うが、俺の理性と感情はそこまで整然と機能するわけではないんだと、痛いくらいに実感した。
「まさか、お前に彼女ができるなんてなぁ。」
「俺も自分で驚いたさ。これはまさに、神の与えたもうた千載一隅の好機! ここを逃したら、たぶん一生俺に彼女なんてできなかっただろう。」
「それも大げさな話だが。いや、大げさじゃない? くそー、メイド喫茶か。俺も今度から、そこで論文書こうかな。」
「いいと思うぜ。部屋にこもって書いてるばかりじゃ、世界とのつながりが断たれてるも同然だからな。」
いやしくも、アイナたんの友達つながりで誰か紹介してもらえるんじゃないかという期待が俺の無意識から昇っていたが、それはそれとして、部屋にこもっても出会いがないのは事実だった。論文を外で書くという発想がなかった俺は、片倉の拓いた新たな境地に飛び込んでみたいという衝動を覚えた。
俺達は牛丼屋に着くと、そろって並を注文した。またたくまに、ほかほかの湯気を上げる並盛りが出てくる。
かき込むように食べ始めると、アイナたんショックも少しやわらぐ気がした。
「しかし、そうなると会うのはいっつもアキバか?」
紅ショウガを山のように載せながら、俺は言った。
「だいたい、そうだな。」
「二人でどんな会話すんの?」
「んー? まぁ、いろいろだが、今期の旬アニメトークから、プラナリアの再生能力が凄い、とか。」
「話題の幅に際限がないな・・。プラナリアとか、そんな話してその、アイナたんは喜ぶのか?」
「おうよ。結構ついてきてくれるんだなぁ、これが。アイナたんは頭もいいから。」
「へぇ。」
頭もいいから、とさりげなく彼女自慢する片倉にのろけの片鱗を見た俺は、その話を続ける気もなくなって牛丼に没頭することにした。
「へぁ。チャージ完了!」
片倉は店を出ながらそう宣言した。牛丼に没頭した俺に構わず、片倉はアイナたん、アイナたん、と二口、三口、食べてはその話ばかりをするものだから、俺はいろんな意味で満腹だった。無論、満ち足りた満腹ではなく、消化不良を起こしそうな類いの満腹だ。
「コンビニ寄ってく?」俺は片倉に言った。メンタル的に口直しがしたい。
「寄る。○リ○リくん、買ってこーぜ。」
「ん。」
俺と片倉は、再び肩を並べて歩き始めた。片倉に彼女という衝撃の真相が発覚したものの、それはいつもと変わらない夜、日常と地続きな一日だった。片倉が部屋に来て、一緒に飯を食べ、歩いている。出来事グラフでいうならば、アイナたん要素でかなりの上下動があったものの、それ以外はぶれのない、穏やかな線を描いている。このグラフが、それから突然、九十度に近い角度で急変するなんて、俺は夢にも思っていなかった。
「うぉ?」
「げ。」
俺と片倉は、同時に声を上げた。街灯や信号、あらゆる光源が、突如消えてしまったのだ。
片倉は、
「停電か?」
と言うのだが、俺には片倉の顔すら見えない。これほど深い暗闇は、最近めっきり目にする機会が減ったものだから、俺は動揺しながらも軽い高揚感を感じていた。
「そうみたいだな。珍しいな、今時停電なんて。電力使用量がキャパをオーバーしたのかな。」
夏場の冷房による電力消費によって、供給電力を上回ってしまった可能性はある。
「まいったな、何も見えないぞ。剛毅、お前、懐中電灯とか持ってる?」
「持ってるわけない。そのうち目も慣れるだろ。」
「目が慣れてもきついだろ、これは。」
片倉の表情は見えないが、奴からは落ち着かない雰囲気が伝わってくる。
道路脇で立ち止まっていると、突然、少し離れた場所で車が急ブレーキをかける音がした。
「事故か? 信号止まってるからな。」
と、片倉はブレーキ音のした方に目を向けた。
「・・いや、変じゃないか。」
おかしい。何かが。俺は感じた違和感をそのまま口にした。
「変って、何がだよ。」
「今の車、ライトつけてたか?」
「ライト? ああ、そういや、そうだな。」
この暗闇の中、車がヘッドライトもつけずに走るなんて、ありえない。停電はしていたって、車のライトがつくのは当たり前の話だ。
「なぁ、この道ってさ、こんなに往来が少なかったっけ?」
片倉が言った。
確かに、車の行き来が少なすぎる。それほど大きくはない国道だが、それでも、この時間帯に上下線とも交通が途絶えるのはおかしい。
「信号が止まったもんだから、立ち往生してるんだろ。」
と俺は言ってみたが、自信はなかった。
「あら?」と、片倉が驚いた声を上げた。
「どうした?」
「携帯の画面が映らない。」
「何で?」
俺は間の抜けた声で訊きながら、自分のデバイスをポケットから取り出す。
「・・あれ、俺のもだ。」
ホームボタンを押して見られるはずの待ち受け画面が、どうやっても現れないのだ。
「嘘だろ・・。故障かよ。」
この通信端末に、対面した場合を除く他者とのコミュニケーションの大半を依存している俺にとって、端末の故障は財布を失くす並にイタい。
それは片倉にとっても同じだった。
片倉は、
「二人とも同時に故障って、おかしくないか?」
と、闇の中から言ってくる。
「・・おかしい、な。これは確かに、おかしい。同じタイミングで故障するなんて、天文学的な確率だろ。これが自然故障なら、だが。要因があると思うか?」
「そう考えるのが自然だろ。」
「となれば、この停電と同じ根本原因が存在する・・・?」
「そうなるな。」
「けど、停電と同時に端末が故障するなんて、どんな要因でだよ。」
そんなことが本当に起こり得るのだろうか。根本原因だとか口にしながらも、俺はその原因に心当たりがない。
「ふーむ。・・ある種のECM(電子対抗手段)は通信電波をジャミングしたり、電子機器そのものを無力化したりするらしいけどなぁ。」
「ECMって、どこの誰が使うんだよ、そんなもの。何のために?」
「侵攻作戦の布石として、とか。」
「侵攻ぅ? 今時そんな戦争ふっかけても、利益より出費の方が大きいだろ。それに、ECMで車のライトまで消えるか、ふつー。」
「だよなぁ。」
片倉も自信なげに曖昧な相づちを打つ。
ようやく目が暗闇に慣れ、アパートへの帰り道くらいは分かるようになった。
俺は、
「とりあえず、部屋、戻るか。」
と、暗中の片倉に言った。
「ああ。」
歩き出した俺達二人の足音だけが、不気味に辺りへ響いた。往来の途絶えなかった国道に、今は一台の車両の影もないというのは、なんだか異様で、非現実的な沈黙をそこに感じた。講義の開始から終了まで、一瞬の間隙もなく喋りまくる准教、三重田の時間に訪れた、三十秒の沈黙に等しい。そこだけぽっかりと、時間の停止した空白が存在するかのような、まるで空虚な不安を呼び起こすのだ。居眠りしていた学生まで起き出すその沈黙は、いまだ学内でレジェンドとして語り継がれている。
「あ。」と片倉が声を上げた。
「おい、剛毅、空、見てみろよ。」
片倉に言われるまま空を見上げると、そこは一面に広がる星の海だった。満天の、とはまさしくこのことで、これだけ大量の星を見るのは、プラネタリウムに行った以来だ。今にも降り出してきそうな星の圧力に、俺は圧倒された。
「おお。すごいな・・・。」
星を見ながら、隣にいるのが片倉、という現実に、俺は少し、というか、かなり、落胆した。これは仲のいい女子と見たい光景であって、野郎友達と見たところで感激は三分の一未満だ。
片倉はアイナというメイド彼女と、いつかこんな星空を見る機会にも恵まれるのだろう。うらやましいような、妬ましいような、うごめく緑色の感情が、俺の腹の中で練り込まれるのを感じた。
「なぁ。」と片倉が話しかけてくる。
「何だよ。」
「ちょっと、わくわくしてこないか?」
「わくわく・・? するわけないだろ。停電じゃ、デバイスのバッテリー切れたらアウトじゃないか。論文が間に合わなくなる。」
「バッテリー残量が足りなくなる頃には復旧してるさ。それより、こういう非現実ってなかなかないからな。うぉー、なんかアドレナリンが湧いてきた。」
「勝手に湧かせてろよ・・・。」
しばらく歩くと、交差点のところに赤いライトの明滅が見えた。
「何だ?」
目をこらしてよく見てみると、警官が交通整理用の赤い棒状ライトを振って、道路の横断を誘導しているようだった。
「足下暗いので、注意してください。」
言いながら、警官は横断しているまばらな人影を誘導しているわけだが、さっきから車が一台も通らない道で交通整理というのも、なんだかシュールな絵だった。
何を思ったのか、片倉が突然警官に歩み寄る。
「あの、すいません。」
「はい?」
警官がいぶかしげな表情で片倉を見る。
「これは停電でしょうかね? さっきから端末もつながんなくて、状況がよく分からないんですけど・・・。」
「さぁ・・。私も信号が消えているという指摘を口頭で受け、ここに来ただけのもんだから、なんとも・・・。」
「ああ、そうでしたか。すいません、ありがとうございます。」
「いえ。足下暗いので、気をつけてください。なるべく、ご帰宅された方がよろしいでしょう。」
「そうします。」
俺と片倉は警官にぺこりと頭を下げると、その場を後にした。
片倉は少し行ったところで、警官の方をちら、と振り返りつつ口を開いた。
「おい、剛毅。聞いたか?」
「聞いたって・・? 信号が消えたから、交通整理してるだけだろ。」
「そうじゃないよ。信号が消えたと、「口頭で」指摘を受けたって、あの人そう言っただろ。」
「ああ、そういえばそうだな。それが?」
「それが? じゃないだろ。つまり、固定電話や警察無線も機能していないか、あるいは指示系統の上位層も、状況を把握できてないってことだよ。口頭で指摘を受けるまで、あの人には何も命令が降りてこなかったってことなんだから。この近辺一体の停電というより、かなり広範囲に影響が出てるんじゃないか、これは。」
「それは考えすぎじゃないかぁ? いくらなんでも。今時、災害でも発生しない限りそんな大規模停電起こんないだろ。」
「だからぁ。」
片倉は、のんきに構える俺へじれったそうに続けた。
「その何かが起こってるんだよ。沿岸のでかい変電所で事故が起こったとかさ。」
「そうなのかねぇ。」
片倉は、危機感がいまいち伝播しない俺に訴えるのを諦めたのか、腕を組みながらしきりに、隕石が、とか、いや局地的な地盤陥没が、とか推論を組み立てては否定する、を繰り返している。
ようやく部屋に帰り着いて、俺は手探りでテレビのスイッチを入れてみた。
「やっぱりつかないな。」
もわ、と立ち込めた室内の熱気を入れ替えようと、窓を大きく開けた。今度は、隣家の室外機も回転しておらず、涼やかな夜気が部屋に吹き込んできた。
「そうだ、ラジオなら、何かやってるかも。」
ぶつぶつと一人ごとを続けていた片倉は、俺の発したラジオという単語に食いついた。
「ラジオ? そうか、それならいけるかも。剛毅、早くつけてみろよ。」
「分かった、分かった。ちょっと待てよ・・と。」
スイッチを入れるが、ざー、ざ、ざざー、という不規則に波打つようなノイズが聞こえてくるだけだった。他の局に合わせてみるが、どこも同じだ。
「だめか・・。」
俺はノイズをたれ流し続けるだけの、単なる雑音発生器と化したラジオを置きながら、
「ラジオもだめって、端末と同じように故障したのか・・?」
顎を机の上に載せてつぶやいた。
「故障つっても、電源は入ってんだろ。」
片倉は諦めきれないのか、ラジオを手にすると窓辺に立ち、向きを変えたり傾けたりしながら、受信できる電波がないか、しきりと探っている。
「お?」
片倉の動きが止まった。ラジオのスピーカーに耳を近づけ、一心にそこから出てくるかすかなメッセージを、死者の囁きにも似たノイズの向こう側の声を聞いている。
俺は、
「聞こえるのか?」
と、にわかに湧き立つ興奮を感じながら、片倉の隣に立った。
「動・・・逃げ出し・・・。みなさ・・・に出ない・・よう・・・。」
ノイズが酷くてほとんど聞き取れないが、
「何かが逃げて、外に出るな、って言ってる、のか?」
俺は聞こえた単語の断片から思い描いた推測をそのまま言ってみた。
「・・・しっ。」
片倉が人差し指を口に当て、静かに、というジェスチャーをつくる。
「・・・・なんか、ワニが逃げたらしい。」
「ワニ? ワニって、動物園にいる、あのワニか?」
「今の時代、ワニって言ったらそのワニしかいないだろ。」
「ワニって、停電になると逃げるもんなのか?」
「んなこと俺が知るかよ。とにかく、そう言ってるように聞こえたんだ。」
「ワニが逃げたって言われてもなぁ・・・。やっぱり、下水にでも逃げ込むもんなのか、奴ら。」
「さぁな。」
「下水道に白ワニがいる、なんて都市伝説が昔あったが、それもたんなるデマだったろうし。まぁ、どうってことなさそうだけど、この暗闇でワニと出くわすのはごめんだな。」
「ああ・・・・。」
片倉はワニが逃げたなどと突拍子もない情報を口にしながら、俺の言うことを聞いているのかいないのか、生返事しか返さない。
「どうしたんだよ?」
「剛毅、あれ。」
片倉は窓枠の外へ身を乗り出すようにしながら、空を指差した。
「あれって、どれ?」
俺は片倉の指す方向を見た。
何か、靄のようなものが空に揺れている。いや、靄と形容するより、帯状に垂れる光の幕と呼んだ方がいいみたいだ。緑や赤、オレンジ色とその光波長を変えながら、ゆらゆらとたなびくそれを、俺はテレビで見たことがある。というより、テレビでしか見たことがない。
「オーロラ・・・?」
光の帯は、夕暮れ時の海風に吹かれる浜辺の家のカーテンみたいに、ゆったりとその形を変え続けている。
俺は自分の出した声が、興奮で震えているのに驚いた。
「こんな低緯度地域で、オーロラなんて・・。生まれて初めて見た。」
「俺も・・・。剛毅、外、出てみようぜ。」
片倉はそう言うなり、ラジオを手にしたままサンダルをつっかけると、外に飛び出してしまった。俺も急いで片倉の後に続く。
窓から見える空は狭い。オーロラが「一枚」たなびいている程度とばかり思っていたが、外に出て俺は驚いた。通りに出て空を仰ぎ見ると、見える限りの範囲、ほぼ全天がオーロラに埋まっている。広がるオーロラのおかげで、外はさっきよりもかなり明るい。
「す、すげぇ・・。」
片倉の驚嘆に、俺も黙ってうなずいた。
辺りの住民もこの空の異変に気づいたのか、続々と外に出て来ては感嘆の声を上げている。
パパー、空が光ってる、とか、端末壊れなきゃ写真撮れたのにー、とか、それとも単に、ぅおお、とうなってみたり、リアクションは様々だったが、皆一様に驚愕している。
そりゃ、そうだ。雷、大雨、雪、台風といったあたりの気象現象なら見たことある人間は大勢いるが、オーロラとなると、北欧や南北極の辺りまで出向かないとまず目にすることはない。
「剛毅、端末壊れてるの、やっぱり俺達だけじゃないみたいだ。」
彼氏の隣で、写真が撮れないと嘆く女の人の声に片倉は反応したのだろう。
俺は、
「ああ。電子機器全般に影響が出てるのかもな。」
と相槌を打って、あることに気がついた。
「うっ!」
「どうした?」
俺の上げた焦燥感溢れる呻きを聞いて、片倉が振り向いた。
「電子機器が壊れるってことは、書きかけの論文もだめになったってこと、か?」
「かもな。」
「かもなって、簡単に言ってくれるな。くそー、また一から書き直しじゃ、何日か徹夜しないと間に合わないぞ。ぐぁー。」
頭を抱える俺を、片倉は、あらら、そりゃたいへん、といういかにも他人事、という顔で見ている。
「片倉、お前、そんな顔して俺を見てるが、お前の論文だって消えたかも知れないんだぞ。落ち着いてられるのか。」
「だって、俺、ハードディスクとかメモリに三重でバックアップ取ってるもん。静的な磁気配列にまで影響してるとは思えないし、それになんといっても、紙に印刷した後だからな。」
「うぅ。見かけによらず、用心深い奴だよ、お前は。」
「見かけと用心深さに関連はないな。ちょっとくらいは手伝ってやるから、そう落ち込むなよ。」
「ちょっとって、どれくらい・・?」
「報酬に比例する。」
くぅ。片倉に思わず心の友よ、と呼びかけそうになった自分を、俺は悔いた。報酬に比例する協力なんて、友情の範疇に入らないと、俺は固く信じている。
俺は財布の中身と、片倉におごらなければならない食事の回数を試算しながら、うなだれて言った。
「それでいいから、手伝ってくれ・・・ください。」
「しょーがないなぁ、剛毅。ちょっとだけだぞ。」
ばん、と俺の肩を叩く片倉の優越と、自分は被害に合っていないという安堵の入りまじった顔は小憎らしいものだったが、今の俺にはこの選択肢以外、取るべき道がない。
「しかし、これ。写真に撮っときたかったなぁ。」
片倉が悔しそうに言った。
「はぁ。そうだな・・。」
こうとなっては、オーロラの写真など俺にはどうでもいいことポジションへ格下げなわけだが、俺はスイッチを入れ替えた。この種の割り切りは、人生の苦難を乗り切る上で必要なスキルだと思っている。バックアップを取っていなかったことを悔やんでも、失われた論文は帰って来ない。
失われた論文、って、響きがちょっとかっこいい、とか思いながら、俺は片倉に向かって言った。
「でも、何でこんなオーロラが? 北の方に行けば、何年かに一度くらいは見られるって聞いたことあるけど、この辺ではまず無理だろ、普通は。」
「オーロラは大気に荷電粒子がぶつかってできる発光現象らしいからな。何かが激しくぶつかってるのかも知れないな。」
「荷電粒子・・・。この停電とも、何か関係があるのか・・・。」
「さぁ、そこまでは知らんが。」
通りの前後を見渡すと、いつの間にかかなりの人間が外に出て来ている。
俺はきょろきょろと辺りを見回しながら、
「しかし、つくづく人間は好奇心が旺盛だよな。」
と、感心したように言った。
「あん?」
「ほら、停電したらネットもテレビも見られないわけだろ。おまけに端末も調子が悪い。そんなところにこの空だ。こんな時間帯だってのに、みんなこれ以外にすることがないとばかりに、オーロラ見物へ出るんだからな。」
「好奇心は猫を殺すとも言うぞ。」
「それは猫の話だ。人間じゃない。」
一直線に伸びる道路の空一面を覆うオーロラを、俺はもう一度、端から端まで見渡した。オーロラはちょうど、緑色から赤色へその色相を変化させていた。まるで赤いカーテンに頭上を覆われたみたいで、それは幻想的な光景でありながら、どこか不気味な重さを感じさせた。
片倉と二人で、しばらく道路の真ん中に突っ立っていると、不意に車の近づいて来る音がした。
「何だ?」
片倉が目をこらして見る先から、車はどんどん接近してくる。ライトはついてない。
道路脇の歩道まで俺達が避けるのを見計らったかのように、車両が一台、二台とかなりのスピードで通過して行く。
「おい、自衛隊だぞ!」
片倉が興奮気味に叫んだ。ジープや、大型のトラックが次々と走り抜け、それは単体の車両というより、車列という規模だ。
俺が、
「ライトもつけないで、よくあんなスピード出せるな・・。」
とあきれ声でつぶやくのを、片倉は耳聡くキャッチして言った。
「暗視ゴーグル(ノクトビジョン)でも使ってんだろ。しかし、血相変えてというかなんつーか、ずいぶん慌ててたみたいだな。何かあったのか?」
「さぁ。停電で事故でも起こったんじゃないか。」
「ただの事故で自衛隊は動かないだろ。あ、そうだ。ラジオで何かやってるかも。」
片倉は再びラジオをひねくり回しながら、あちこちへ身体の向きを変えている。まるで、オーロラの下に電波を求めて踊るシャーマンみたいだ。
「なぁ、それ、俺のラジオなんだけど。いいかげん返せよ。」
「ちょっと待てって。今いい所なんだから。」
片倉はそう言いながら、ラジオのスピーカーを耳に押し当て、切れ切れのアナウンスを聞いている。
ラジオからの情報を独占している片倉にしびれを切らし、俺はいらついた調子で、
「何て言ってるんだよ。」
と、片倉の肩に手を掛けながら言った。
「・・・なんか、動物園から虎が逃げた、とか言ってる。」
「虎? さっきはワニだったじゃないか。」
「いや、虎の「ような」動物が逃げた、って。」
「虎のようなって、虎なのか虎じゃないのか、はっきりしてないってことか?」
「・・・虎以外に、サイみたいな動物の目撃情報もある、だってよ。」
「ワニに虎、それにサイか。動物園を檻ごとゲート解放したみたいだな。どうなってんだよ。それで自衛隊が・・?」
片倉はラジオから耳を離すと、眉間にしわを寄せた。
「それはまさか、だろう。猛獣くらいだったら、警察とか猟友会なんかでカバーできる。わざわざ自衛隊が出張るほどじゃないと思うぜ。」
「じゃあ、さっきの車列は何だったんだよ。」
「俺が知るわけないだろ。俺達が持ってる今現在のソース(情報源)は、このラジオだけなんだからな。」
片倉はそう言って、片手で持ったラジオを振って見せてから続けた。
「どうも情報が錯綜しているみたいだが、虎だかサイだかが逃げたのも、なんかこの近辺らしい。よく分からんけど、確実に言えることはひとつ。何かが檻から逃げ出した、ってところだろうな。」
俺は辺りを見回した。虎が逃げた、なんてちょっと想像もつかない事態だが、そう言われると、すぐそばにある狭い路地の奥から、ぬっ、と四つ足の肉食獣が歩み出てきそうな気もしてくる。
「こんな停電の中、虎に追われるのはごめんだ。もう帰ろうぜ。」
「ああ。」
片倉がうなずきながら、ラジオを俺に返したときだった。
道路の奥、目の前の国道が環状線とぶつかるところに、突然、赤い炎の上がるのが見えた。いや、炎そのものというより、炎のつくる、赤い光の揺らめきが見えた、というのが正確だ。
「事故?」
俺と片倉は顔を見合わせた。
片倉は道路の先を見据えながら、
「しかし、事故にしちゃ、炎の明るさが異常だったな。」
とつぶやく。
俺はうなずきながら応えた。
「タンクローリーか何かが炎上でもしたんじゃないか。いいから、帰ろうぜ。」
「まぁ、ちょっと待てよ、剛毅。」
「待てって、どうすんだよ、片倉。」
「見に行ってみようぜ。」
「見に行くって、どうせ事故だろ。見たってしょうがない。」
「ただの事故じゃない気がするんだ。自衛隊が曲がってった方だろ、あっちは。何かが起こってるんだよ。」
片倉はまるで、熱に浮かされたような興奮のまま俺を誘うのだが、俺はさっきからどうも、嫌な予感がしてたまらなかった。
頭上のオーロラ、同時に故障した端末、自衛隊、赤く揺らめく炎の影。
俺の身の回りにあった日常という日常、ことごとくを裏返してしまうような出来事が、立て続けに起きすぎている。
こういうとき、ふらふらと歩き回るのは危険だ。状況も分からず、何の準備も心構えもせずに動き回るべきではない。今が、そんな状況のような気がしてならない。
「何が起こってたって、俺は帰るからな。」
俺は片倉へ一方的に宣言すると、部屋に向かって歩き始めた。
片倉は俺においすがりながら、
「ええ? ほんとに帰っちゃうのかよ。こんな非日常的イベントに遭遇するなんて、一生に一回あるかないかなんだぞ。なぁ、剛毅。行ってみよーぜ。」
「知るか。俺は帰る。」
「ったく。強情だよな。剛毅のごうは、強情のごう、ってな。はいはい、分かったよ。帰るってば。じゃあ、今日はお前んとこ、泊めてくれよ。もう家に帰るの、めんどい。」
「勝手にしろ。」
俺は名残惜しそうに自衛隊の去った方を何度も振り返る片倉を放っておいて、どんどん歩いた。すぐそこに虎が出たわけでもないが、なんだか、のし、のし、と歩くネコ科の大型肉食獣が後をついて来ているような、俺はそんな錯覚にとらわれて、自然と足が速くなる。
最後には、ほとんど駆け出しそうなくらいの勢いで歩くと階段を駆け上り、薄い扉をはねのけるように開けると、部屋の中に飛び込んだ。
後に続いて片倉も入ってくる。
「どうしたってんだよ、剛毅。そんな慌ててさ。」
「別に、何でもない。」
怖い、とか、不安だとか、片倉に向かって口に出して言いたくはなかったし、そもそも、そうした言葉では言い表しようのない、四方を高い壁に囲われてしまったような、息詰まる閉塞感が俺の意識の中を満たしてしまって、どうしようもない。
俺は椅子に座ってもう一度、ラジオのスイッチを入れてみた。
片倉が、さっき閉め忘れていた窓から外をのぞいて言った。
「なんか、オーロラの色が濃くなってるみたいだ。」
「ああ・・。」
「太陽風の影響か何かかな・・・。」
「うん・・・。」
「おい、剛毅・・! 今、ラジオ、何て言った?」
「え・・?」
ぼんやりと机の端を見つめていた俺は、片倉に言われ我に返った。
いつの間にか、片倉がラジオへかじりつくようにして聞き耳を立てている。
遠いエコーのような、砂漠の砂嵐の隙間から聞こえてくるアナウンサーの言葉は相変わらずほとんど聞き取れないが、緊迫した調子で何かを繰り返していることだけは分かる。
「・・・が、・・・未確認・・・・・・北米・・・攻撃を・・。」
「何だって?」
よく聞き取れなかった俺は、片倉に尋ねた。
「嘘だろ・・・・。」
「何て言ったんだよ、ラジオは。」
「北米が・・・、核攻撃を受けたらしいって。」
「・・・・はぁ?」
俺は自分でも驚くほど、間の抜けた声を上げた。
「カクって、ニュークリアの核か。」
「それ以外に何があるって言うんだよ。」
「いや、まさかだろ。誰が、何のために? 世界経済がこんだけグローバルに絡み合ってる現代じゃ、アメリカを核攻撃して儲かる奴なんて皆無だろ。そもそも、攻撃した相手も報復されてるだろ、それじゃあ。」
「攻撃したのが誰か、とはラジオも言ってない。情報が錯綜してんだろ。くそー、ネットが使えれば、もうちょっと情報が集まるんだが。」
俺は急に、粗末な吊り橋の上で揺られているような、激しい心もとなさを感じた。
核攻撃だって?
そんな、SF映画でも取り上げなくなった旧時代の単語を、今、この瞬間に公共の電波上で聞くことになるなんて、俺はにわかに信じられなかった。国家という組織は、俺が生まれた頃から既に存在していたものだし、ごく「小さな」修正はあるものの、世界地図の構成が変わるなんて考えたこともなかった。
それが揺らいでいる。本当にアメリカが攻撃を受け、それに対する武力報復措置もすでに実行済みだとしたら。報復の手段については、言うまでもない。核には核。相互確証破壊の前提、お互いがお互いを破壊し尽くす結果になる以上、互いに見合って核戦争は起きないという了解が、崩れてしまったのか。
世界のいくつかの地域が、いや下手をすればいくつかの大陸が、人間の住めない土地と成り果ててしまった可能性があると、ラジオは告げているのだ。
「いや、やっぱりありえないだろう。」
俺は椅子に座りなおすと、片倉に言った。
「どう考えてもさ。情報が未確認のまま、という状況からして、相当な被害は出てるんだろうけど、だからこそさ。そんな威力の大きいブツを使える勢力なんて限られてるわけだし、単発のテロ攻撃程度じゃここまで混乱しないじゃないか。」
「だったら何だよ。」
「相互確証破壊ってのは、この数十年、有効に機能してきたんだ。そのバランスを現代において崩す目的も、意味も意義もないってことだ。どこの誰も、得をしないんだ。戦争は究極の経済活動って誰かが言ってたけど、利益を見越せない戦争をする奴はいないってことだよ。」
「それで?」
「核攻撃は誤報だ。特定できていない、別の要因があるんだよ。」
「ずいぶん確信をもっていうじゃないか。そうあって欲しくないという、希望を口にしただけじゃないのか?」
「そんなんじゃ・・・。」
ない、とは言い切れなかった。片倉の言うように、今の世界が根底から覆されるような状況を、ただ否定したいだけだと、そう考える自分がいる。
反論しきれない俺を見ながら、片倉は小さくうなずいた。
「ま、全然通らない理屈ってわけでもないけどな、お前の言う考えは。確かに、今の時代、核戦争をやって得する奴なんていない。得に、あの国へ仕掛けるなんて無茶な話だよ。むしろ、このオーロラと関係があると、そう考える方が自然かもな。」
「だろ。」
俺は片倉の言葉に希望を見た気がして、片倉へ食いつくように寄った。
「世界がひっくり返るなんて、んなことそうそう起こるわけがないんだって。きっと、通信衛星やらの不調で状況を正確に把握できてないだけだんだよ。」
「おいー、剛毅。近い。暑苦しい。」
「あ、ああ、すまん。」
「だぁー。しかし、この停電はいつになったら復旧するんだ。」
片倉は団扇をばたつかせながら、窓辺に立った。
「心なし涼しくなったんじゃないか。」
「ん? まぁ確かに・・。」
「ここら辺の世帯全てで、エアコンの室外機が止まってるんだ。本来の気温に下がったのかもな。」
「本来の気温ねぇ。」
片倉は窓から身を乗り出して、再び外を眺めている。
「人間活動によって出る排熱も含めての気温じゃないか。どこからどこまでが「本来」なのか、決める権利なんて誰にもないだろ。」
片倉はつぶやくように言った。
窓枠から見える空には相変わらずオーロラがかかって、それはいっこうに消える気配がなかった。
鈴虫の鳴き声がどこからか聞こえてきて、外は不気味なほどに静かだ。国道から常に聞こえていた、地響きのような車の通過音も今はまったく聞こえない。
俺と片倉は黙ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
突然、何の前触れもなく爆竹の爆ぜるような音が聞こえた。
「何だ、今の? 花火か?」
片倉がきょろきょろと見回す。
ぱぱん、ぱぱぱん、という異常に渇いた音が断続的に続いている。
俺はその音源の正体に思い当たって、ぎくりと身を強ばらせた。
「あれって・・・。」
「何だよ。」
片倉が振り向いた。
「いや・・・。」
「花火だろ、どうせ。停電に退屈した連中が、爆竹でも持ち出して遊んでんだよ。呑気なこっった。」
「花火、じゃないと思う。」
「じゃあ、何だよ。」
「銃声。」
「・・・何?」
「ニュースサイトで見たことがある。映画なんかじゃ音をかなり誇張してるけど、実際の銃声はあんな感じなんだよ。」
「銃って・・。自衛隊が、虎退治でもしてるって言うのか?」
「何に向けて撃ってるのかは知らないけど・・。」
「いやいやいや。市街地であんな連発って、あり得ないだろ。」
再び、渇いた銃声が風にのって響いてきた。
片倉は両耳に手を当てて、音のする方角と距離を探ろうとしている。
まただ。また、銃声だ。間違いない。
「何かと交戦してるんだよ。」
俺の顔を見ながら、片倉は数秒、真剣な顔を保ったが、やがて、ぶはっ、と吹き出した。
「交戦って。どっかの国がこのどさくさ紛れに攻めて来たとでもいうのかっつー話だ。あり得ない。」
「じゃあ、この銃声は何だっていうんだよ。空に向けて、空砲でも撃ってるっていうのか?」
「そんなこと、俺は知らん。いや・・・。」
片倉の顔に、再び熱に浮かされたような笑みが現れる。
「じゃあ、見に行こうぜ。この目で見れば、はっきりする。」
片倉はそう言いながら、すでにサンダルをつっかけて扉に手を掛けている。
「本気かよ、片倉。」
「ああ、本気だね。剛毅、行きたくないっつーんだったら、いいよ、別に。俺一人で行く。」
行きたくない、という気持ちはもちろんあったが、同時に、何が起こっているのか知りたい、この目で見たい、という欲求が、激しく頭をもたげる。
好奇心が恐怖心に打ち勝つのは早かった。
「ちょ、待てよ、片倉。」
俺は慌てて、片倉の後について外へ出た。
前を走る片倉に追いつくと、
「いきなり飛び出すなよ。のぞくだけだからな。」
と、釘を刺した。
もし、もしも本当に銃声だったら、かなりやばいことになっている。自衛隊が何に向かって撃っているのか知らないが、市街地で発砲許可が出るなんて、尋常じゃない。訓練で小銃弾を一発紛失しただけでも、夜通し弾探しを続ける彼らなのだ。それが今は、水鉄砲でも撃つみたいに連射している。
国道を走って、さっき赤い炎の照り返しを見た、環状線との合流部分に俺たちは近づいた。
片倉は環状線に面したコンクリート塀に取り付き、そろそろと向こう側をのぞく。
俺は片倉の背後から、
「どうだ?」
と訊くしかない。片倉の身体が邪魔で、環状線の方をのぞけないのだ。
片倉の背中が、固まったまま動かない。
と、工事現場で大きな鉄骨を落としたような、ズシっ、という鈍い音が響いてきた。
「おい、片倉。今の何の音だよ。」
ズシっ。
「何の音だって聞いてんだよ、片倉。」
俺は片倉の肩に手を掛けようとして、はっ、と気づいた。片倉の足が小刻みに震えている。
ごくり、と生唾を飲み込んだ俺は、四つん這いになって塀際に寄ると、硬直して動かない片倉の下から、そっと塀の向こう側をのぞいた。
横転した車両が燃えている。
炎に揺らめく影がアスファルトの上で左右に身をくねらせ、闇夜に浮かぶ巨大なかがり火のごとく、世界の光をただその一身で代弁するかのごとく、炎が煌煌と周囲を照らしている。
いつの間にか銃声は止んで、ぱちぱちと炎の爆ぜる音がここまで聞こえてくる。
「トラックが横転してる。やっぱり、何かあったんだ。・・こっからじゃ、よく状況が見えないな。片倉。もうちょっと進んでみるか。」
俺は上を見上げながら言うのだが、片倉は微動だにしない。
「どうしたんだよ、さっきから。」
炎に赤く照らされた片倉の顔にはびっしょりと汗が浮かんでいるが、奇妙なほどに青ざめていた。
「もう少し近づいてみるからな。」
俺は様子のおかしい片倉をとりあえずその場に置いて、四つん這いのままそろりと前へ進もうとした。
だが、片倉が俺の肩を鷲掴みにすると、離そうとしない。
「ちょ、何だよ、片倉。急に黙ってさ。離せって。」
俺は片倉の手を振りほどこうと身をよじらせるが、片倉は首を振りながら、炎上するトラックの脇の方を無言で指差した。
「ん?」
片倉の指のさす方向へ、俺は目を凝らす。トラックからもうもうと立ち上がる黒煙が光を遮って、そこだけ薄い闇に覆われている。
じっと見つめていると、何かが、こちらを見つめ返しているような気がした。
ただの影かと思っていた。
だがそれが、闇に紛れた影だと思った「それ」が、ぬるりと光の中へ姿を現す。
ズシっ。
さっきから聞こえてきた音は、「それ」の足音だった。
「それ」はもう一歩、踏み出す。
ズシっ、という重厚な音は、そこへ水あらば水面に波紋を作ったことだろう。
大地を、地を這う人間を睥睨するかのごとく、黄金色の双眸が光る。縦に長い瞳はまるで、ワニのそれだ。鈍く光る皮膚は炎によって赤く照らされ、地の色がよく分からないが、硬質の岩みたいな質感でもって全身を覆っている。
「それ」がワニであると思おうとしたのだが、俺はすぐに諦めた。諦めざるをえなかった。「それ」はワニと呼ぶにはあまりに大きく、「それ」をワニと呼ぶにはあまりに圧倒的で、動物園だろうが、テレビだろうがネットだろうが、俺はそんなものを現実に目の当たりとしたことがない。
煙の中から、それはすでに全身を現していた。頭までの高さが、地上から三メートル近くもある。巨木の枝のような角を生やし、重機にでもついていそうなかぎ爪のある足が、一歩踏み出すごとに大地が鳴った。
俺はからからになった口から、ひとこと絞り出すことしかできなかった。
「ドラゴン・・・。」
それは巨大な竜だった。ロボットじゃあない。そう思おうとしたのは、俺の思考の無駄なあがきだ。どふ、どふ、という「ふいご」のような吐息、ぎょろ、と動く目玉、がち、と音を立てながら踏み出す足とその筋肉は、機械でできる動きじゃない。首から下は動いているのに、その視線が、俺と完全に合ってしまって逸れる気配がない。
何より、その圧倒的な威圧感が、俺の本能を萎縮させた。蛇ににらまれた蛙。猫に狙われた鼠。食物連鎖のヒエラルキー上、今、目の前にいる存在が、自分よりも完全に上位に位置していると、脳髄の奥でびしびし感じるのだ。そんな存在が機械であるはずがなかった。パワーショベルを見てこんな思いをするわけがない。匂い、音、体格から相手の肺活量まで、五感で感じるその全てによって、俺は圧倒されている。
竜からは、俺を警戒し、狙っているという、激しい意志がほとばしっていた。これなら、檻の中で熊と格闘する方がまだましだと思った。
これは理屈じゃない。こんな生物がいったいどこで生まれたのかとか、誰が創り出したのだろうかとか、そんな理性的疑問を次々と吹き飛ばしながら、俺の生物としての本能が、叫び続ける。
逃げろ、逃げろ、と。
「か、片倉・・。に、逃げ・・・。」
呼吸が呼吸にならない。ひぃ、ひぃ、という音のない悲鳴みたいな空気の出し入れにしかなっていない。
足に力が入らない。さっきから立ち上がろうとしているのに、俺は固いアスファルトの上で四つん這いになったままだ。
ひゅぅぅ、という風の音が、竜の吸い込む息のたてるそれだと気づくのに、随分時間がかかった。
溜め込んだ空気を、竜は膨大な空気の塊として一気に外へ吐き出す。
咆哮、とはまさにそのことだった。
空気の振動が目に見えるかと思えるほどの激しい雄叫びに、俺は完全に「折れ」た。もはや、立ち上がり方すら忘れたみたいに、茫然と、ただそれが近寄ってくるのを見守るしかなかった。
「こ、好奇心が殺すのは、猫だけじゃなかった・・・な。」
震える自分の声が、まるで他人の声のように聞こえた。
交通事故。病気。高所からの滑落や果ては通り魔に襲われる。そんな自分の死に様パターンをこれまで、俺は何度か考えたことがある。あるけれど、竜と遭遇して殺されるなんてケース、もちろん完全に想定外だ。
「・・・剛毅。立て。」
「え?」
俺は片倉の顔を見た。
「立てって言ってんだよ!」
片倉はほとんど泣き出しそうに顔をしかめて、それでも歯を食いしばりながら俺を見た。
「逃げるんだよ!」
「あ・・? だ、だめだ。俺は、もう・・。こ、腰が抜けて。ひ、一人で逃げろよ。」
「・・・!」
片倉は俺の襟首をぐい、とつかむと、手のひらで思いっきり俺の頬をはたいた。
弾けるように鮮やかな音が、辺りに響く。
「こ、こんなところで死んでたまるか! アイナたんが待っているんだ! 死んでたまるか!」
だったら、一人で逃げればいいだろ、というツッコミを入れられる程度には、正気を取り戻すことができたのも、片倉がはたいてくれたおかげだ。入魂の一撃は俺の目を覚ました。
ばんっ、という大きな音が、竜の背後から聞こえた。直後、竜の尻尾の付け根あたりに何かが当たり、鱗が派手に飛び散る。
竜はうなりを上げながら方向転換すると、自分を撃った奴に襲い掛かった。戦車が竜に砲弾を浴びせたのだ。
「今だよ、剛毅! 立て、ほらっ! 立ってくれ!」
片倉はそう言いながら、さらに俺の頬をはたく。
「い、イテっ、痛ぇよ。分かった、立つ。立つから、そうぱんぱん殴るな。」
俺は、笑う膝を必死に手で抑えながら、のろのろと立ち上がった。
へなへなと、腰の抜けた操り人形みたいになりながら、俺は片倉と共に走った。心臓の音が、うるさいほどに頭の中で響く。走るだけで死ぬんじゃないかと思ったのは、人生、このときが初めてだ。
「な、何だよ、アレは!」
俺はようやくろれつのまわり始めた口で叫んだ。
「知るかっ! 特大のワニかなんかだろ!」
片倉も、ぜいぜいと激しく息を吐き出しながら応える。
「あれがワニなわけないだろ! デカすぎだ!」
「じゃあ、何なんだよ。」
「ど、ドラゴン・・。」
「ドラゴン・・?」
馬鹿も休み休み言え、もしくはファンタジーゲームのやりすぎだ、と言外に含める片倉だが、それでいて、あの姿に対して他に形容する言葉を見つけられないみたいだ。
俺は自分で発したその言葉を聞きながら、世界はもはや、元の世界に戻らないのでは、という疑念を抱いたし、その疑念は、いまだ耳から離れないあの咆哮を思い出すごと着実に、確信へと変わって行った。
世界はいったいどうなってしまったんだ。
「世界の終わりって、案外突然やって来るのかもな・・・。」
俺は、いまだ消える気配のないオーロラを見ながらつぶやいた。
俺の言葉に、片倉がうなずいた。
「ああ。牛丼食べてる内にやって来るんだ。突然すぎてゆっくり驚く暇もないぜ。」
その日、太陽フレアの大延伸によって地球の昼側が焼き尽くされたことを知ったのは、俺達がドラゴンに喰われかけてから、三ヶ月と四日も後のことだった。
日常は遠い過去のものとなり、現実とは程遠い、ありえないものと考えていた世界がそのまま俺達の日常となるのに、それほど長い時間はかからなかった。
境界線となったその一日を、すべての転換の始まりの日、人々はゼロと呼んだ。