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渚のドラゴン  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
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序章 冬の世紀

2075年 7月23日 摂氏二度 薄曇り後雪 

 世界がどのように「在る」のか、私にはときどき分からなくなる。耳と、目と、肌で感じる外界に現実感を求めようとしても、それが誰かに囁かれている幻影ではないと、確信することができないからだ。手がかじかみ我に返る。鉛筆を持つ手が震える。皮肉なことに、部屋の隙間から入る雪風の冷たさが、私の体温を奪うと同時に、生きているという実感を与えてくれる。「考えるんじゃない、感じるんだ。」かつてそう言った孤高の格闘家に、私は敬意を表したい。なぜといって、感じることこそ、自分が生きていることを忘れないための、唯一の方法だから。失った右足の先がいまだに時々うずくのは、げんしつーだとゴーキが教えてくれた。寒い。


2075年 7月24日 摂氏マイナス二度 氷雨後ぶ厚い曇り

 今日は雲が厚い。これでも昔と比べてマシになったらしいけど、一日真っ暗闇というのはやっぱり落ち着かない。夜の次には朝が来るという。かつて自然と人間の間にそんな暗黙の了解が成立していたなんて、私には信じられない。世界はいつだって気まぐれで、残酷だ。人間へは無頓着に、平気で夜を明かさず、日を昇らせない。太陽が昇ったかと思えば、その次の五分で大地を闇に閉ざしてしまう。無頓着で自分勝手といえば、まるでセリみたいだ。彼に自然という壮大さを当てはめるには器が小さすぎる気もするけれど。鼻水がつららになった。


2075年 7月25日 摂氏マイナス四度 厚い曇り

 久々に猪を穫った。この二週間、まともな獲物を得られなかったから、この成果は大きい。スズシロが無邪気に喜ぶ姿が目に浮かぶ。猪鍋が食べられるからだ。年上で頭も悪くないくせに、どこか間が抜けている。スズシロのことだ。彼にそう言ったら、そんなことはない、証明してやる、とか言って目の前で割り算をして見せ始めた。割り算ができたら間が抜けてない証明になると思ってるところが、やっぱり、間の抜けている証拠だ。割り算なら私にだってできる。


2075年 7月28日 摂氏一度 雪

 セリがいなくなった。私は放っておいてもいいと言ったし、ゴーキも、そのうち帰ってくるだろうとあくびをしながら言うのに、スズシロが心配そうな顔で探しに行こうと言って聞かない。雪中、タイプスに遭遇する危険を冒して探し出した挙げ句、どうしていなくなったとセリに問い質した返事がひとこと。別に。だから探さなくていいと私は言ったんだ。スズシロは心配しすぎだ。セリみたいな、自分のことしか考えてなくて、周囲がどう思うかなんてまるっきり無視で、人の心の分からないとーへんぼくを、探しに行く必要なんてなかったんだ。どうせ、自分勝手だとセリに言ったところで、それを治す気概など本人は持ちえないんだろう。あのバカタレ。


「誰がバカタレだ。」

 珍しく本を読んでいるんだなと思いながら、視界の端で寝そべっていたセリの口から出た言葉へ、ナズナは敏感に反応した。

 見れば、ゴーキがいつも使っている教科書の間に大学ノートを挟んで、カモフラージュしている。セリに興味などないナズナは気にもしていなかったが、あろうことか、セリが手にしているぼろぼろの大学ノートは、ナズナの日記。セリが勝手に日記を読んで、感想を漏らしたのだ。いつもは自分のバラックの床下、一番奥に隠しているそれを、セリが漫画でも読むような気楽さで、組んだ足をぷらぷらと揺らしながら見ている。

 ナズナは右が義足であることをまったく感じさせない素早さでセリに向かって踏み込むと、ノートを奪いつつ全体重をかけそのみぞおちに肘を落とした。

「うぇげ!」

 駝鳥がお尻を叩かれたような声をあげるセリ。

「いっ・・・・てぇな! 何すんだよ、この凶暴女!」

 ナズナは、ノートを懐の中にねじ込みつつ叫んだ。

「私の日記に・・、私の心に入るな!」

 いつも、低い声でもそもそと喋るナズナの激しい剣幕に、セリはたじろいだ。たじろいだが、ひるんだのも一瞬、セリは、

「心の中に、だとぉ。後生大事に床下へしまっているそれがお前の心だっていうなら、お前がネクラなのもうなずけるぜ。凍土につかってがちがちに凍ってるんだもんな。」

 と、ナズナに激しく言い返した。

 家と呼ぶにはあまりにも粗末な、トタンと廃材で半地下に組まれた部屋の中に、張りつめた空気が流れた。

 ナズナは金色に近いさらさらのショートカットの間から、燃える怒りを宿した碧眼でもってセリを睨みつけている。一方のセリは、濃い茶の髪の下で、まだどこか幼さを残した少年特有の不安な惑いを、やはり怒りでもって取り繕っていた。

 二人の睨み合いを傍で見ていた、ガタイのいい老人が億劫そうに口を開いた。

「やるなら外でやれぇ。部屋ん中を荒らすな。」

 老人の隣に座っていた、眼鏡の男が慌てて老人を見る。

「ゴーキ、いいのか?」

 男、というより、青年の一歩手前、少年以上青年未満といった方が当てはまる、その眼鏡男子は、腰を中途半端に上げながら、ゴーキと呼ばれた老人と、ナズナ、セリの二人へ交互に目をやっている。

「いいんだよ。怒りはエナジーだ。ぶつける相手がいるならその幸せを、今ここで噛み締めろってこった。」

「はぁ? 何言ってるんだよ、ゴーキ。意味が分からん。おい、二人ともやめろ。」

 眼鏡が間に割って入ろうとするが、二人から同時に押しやられると手も出ない。

「出ろよ、ナズナ。決着をつけてやる。」

 セリはナズナの向こう側にある出口へ向かいながら、わざと肩をぶつけようと一歩大きく(かし)ぐのだが、ナズナはするりとそれを避け、黙ったままうなずいた。

 肩すかしをくらったセリはちょっと顔を赤くしながら、赤面したことを気づかれまいと大股で歩く。扉というよりは、ベニヤ板がそこに立てかけてあるだけ、という扉の出口を二人はくぐって外へ出た。

 昨日までの雪は上がって、久々に青い空の下広がるのは、広大な白の世界だった。

 町と呼ぶにはあまりにも寂しいそのコミュニティは、むしろ「ムラ」とテロップをつけた方が正しそうだ。散在するバラックが雪に埋もれながら盛り上がることで、かろうじてその外形を保ち、自らの存在をつなぎとめている。

 アスファルトの上に幾層も重なった雪は固く凍りつき、まるで白大理石の上を歩いているかのようで、遠景にあるのは、かつてそこで人間が活動していたと思しき、倒壊寸前の雑居ビルだった。

 スズシロが二人を追って外へ出て来た。

「二人ともやめろって言ってるだろ。」

「スズシロは黙ってて。」

 氷雨混じりの冷たい風のような声で、ナズナが言った。

 セリも、

「スズシロ、手出しすんなよ。」

 と、すでに体勢はナズナへ飛びかかる寸前だ。

 氷の上に散っている粉のような雪が、風で舞い上がった。スズシロがもう一度、二人を止めようと身じろぎした瞬間、セリがナズナに向かって突進した。

「この野郎!」

 前傾した猪みたいに突っ込むセリなのだが、

「野郎じゃない。」

 言いながら受け流すナズナの動きを、スズシロは華麗だと思った。

 身体を半回転させながら、ナズナは義足の固い金属製膝をセリのみぞおちに鋭く入れた。同時に、セリの右手首を取ると泳いでいる身体の重心をそのまま崩しつつ、セリの背中側にひねり上げ地面に倒す。

 一連のフローがあんまり継ぎ目なく進行したものだから、スズシロが止めに入った二歩目を踏み出したのは、すでにセリが組み敷かれた後だった。

 動かなくなった二人に近づいたスズシロは、手にしたノートで、ぱぱこ、と二人の頭を軽くはたいた。

「勝負はついた。セリ、人の日記を勝手に読むのは悪いことだ。ナズナに謝れ。それからナズナも、ちょっとやりすぎだ。お前もセリに謝るんだ。」

「なんで私が・・。」

 ナズナはそこまで言いかけ、はっ、としてスズシロの手に収まっているノートを見、それから自分の懐を探った。

 ない。いつの間にか、シャツの下に入れておいたノートを落としたのだ。

「返してよ。」

「読みやしないよ。」

 スズシロの手からひったくるようにノートを奪うと、ナズナはそれを再び懐に入れた。地肌に触れるノートはひんやりとして、氷みたく冷たい。

「そんなところに入れるから落とすんだよ。部屋にしまってきな。お互いに謝ってからな。」

 スズシロは腕を組んで、仁王立ちになっている。スズシロがこんな風に立って腕を組むのは、言うことを聞くまで絶対に解放しないというジェスチャーであることを、セリもナズナも知っていた。

「ごめん。・・・ちょっとやりすぎた。」

 と、ナズナはセリの腕決めを解きながら言った。

 挑発して喧嘩を挑んだ挙げ句、一瞬で組み敷かれたセリは、立ち上がってもバツが悪そうにうつむいている。

「セリ。」

 スズシロに促されても、セリは黙ったままだった。

「どうしたんだよ。この前もいきなりいなくなったかと思えば、今日は勝手にナズナの日記を持ち出して読んだり。何が不満なんだ。」

 セリはスズシロの言葉に、きっ、と視線を上げる。

「何が不満か、だって? 全部だよ! 俺達も、人生も、この世界へも、全部不満だらけだよ。食い物は十分にない。死ぬほど寒い。外を出歩けば命の危険にさらされる。不満のない日なんて、ありえないだろ、スズシロ!」

 振られた炭酸缶が爆発したみたいに、セリは溜まった怒りと鬱憤を吐き出した。

「なんで毎日怯えながら、こそこそ隠れて生きてかなきゃなんないんだよ。踏みつぶされないよう逃げ惑う虫みたいにさ。どうしてなんだよ。」

 引っ張れば千切れそうなほど着古したスズシロのシャツの襟をつかみながら、セリはぐらぐらと揺すった。

「・・どうしてかって? それを俺に聞くなよ。答えなんて、持ってるはずないだろ。」

 スズシロはセリから目を逸らしながら言った。

 答えなんて、持ってるわけない。その通りだとナズナは思った。

 どうして、今、ここに生まれ落ちて生きているのかなんて、人に訊いて分かるものじゃないし、そんな問いをあえてスズシロにぶつけるセリを、子供っぽいと思った。思ったけれど、セリが持っている、毎日が何かに追い詰められている感覚は、真実だとも感じた。

 この世界は、人が生きるには厳しすぎる。ナズナはどこまでも広がる、雪と氷に閉ざされた風景を見た。どこまで行っても白い。それは、無垢や純真といった言葉で形容するにはあまりに残酷な、そう、言うなれば、いっさいの入力を拒絶する書き込み禁止のホワイトペーパーのようなものだ。

 ナズナは囁くような声で二人へ言った。

「人の周りに世界が広がっているんじゃない。人が世界に押し込められているのよ。しょうがないじゃない。こういう世界に生まれたんだから。」

「・・くそっ。しょうがないで済ませられるんだった、そうしたいぜ。」

 セリは言って、力が抜けたみたいにスズシロの襟を離した。雪原を走る真夏の北風が、飄々として三人の間を吹き抜けて行った。

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