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雲が覆う空の薄暗い夕方だった。塾がない放課後、いつも通学してる道を逸れてひと気のない小道に入った。土埃で汚れた白いガードレールに沿って歩いていく。間隔をおいて現れる古い民家の垣根に紫陽花が咲いていた。紫、ピンク、青、青紫。リトマス試験紙を思わせる色並びだ。


道脇の紫陽花から視線を前に戻すと、少し先にガードレールに前にもたれかかる人影が見えた。歩みを進めるとその人影は制服を着ていることが分かる。もう少し歩みを進めると、長い髪を風に揺らし、ガードレール越しの線路を見つめている、女の人の姿が見えた。風に揺れる髪が頬に触れ口に絡まると、指で払いのけた。線路をずっと見つめているその表情からは何も読み取れない。無だった。

地を削るような音と共に電車が走り抜けた。オレンジ色に緑の一本線を引いた車体だった。


「さっきから何?何か用?」

少しハスキーで棘のある声で、自分が歩みを止めていたことに気づく。

「いや、別に」

と、気まずい空気を言葉で埋めるように返答した。

「ふぅん、そう」

高校生くらいであろう、僕より年上の女の人は無の目をしたまま見ていた。気まずさから抜け出そうと僕は再び歩こうとした。

「中学生?」

女の人が尋ねる。僕は「うん」と短く返事した。

「学校楽しい?」

二つ目の質問に「いや、別に」と同じように短く返事した。

「一緒」

女の人はそう言ってふ、と息を漏らすように小さく笑った。女の人が制服には似合わない化粧をしていたことに気づく。肌に馴染んでいないファンデーション、目尻を強調したアイラインを引いていた。薄暗くて今は目立たないが、髪は茶色に染めているようだ。

「明日も来てよ、しゃべろう」

まだ何者か分からない人に誘われたのに不審には思わなかった。しかし僕は塾があったのでその旨を伝えた。

「受験生なの?」

「いや中学1年です」

「もうそんな年から塾行ってるわけ。さては頭良いのね。ね、名前なんていうの?」

「加藤信人って言います」

「のぶとね。私は綾芽」

綾芽さんという女の人は微笑んだ。

「来週の水曜日も、来てよ。君、なんだかあたしと同じ匂いがするし」

僕は小さく頷いた。それは実にぎこちない動きだったと思う。


学校と塾と家を行き来して、あれから一週間が経った。綾芽さんという女の人と出会ったことが幻のように思えて、あの人は僕の見間違えか、幻覚だったのではないかと思ってしまう。


新しい住宅街が並ぶ大きな道を逸れると、手入れのされていない草木が生い茂る道に入る。古い民家と紫陽花が左に見え、右は土で煤けたガードレール。ガードレールの先は線路があり、それを見つめる女の人…その人はいた。長い髪が風に揺れていた。


「久しぶり」

歯を見せて綾芽さんは笑った。まるで以前からの友達に声をかけるくらいの口ぶりだった。

「どうも」

「ガム食べる?それとジュース、カフェオレかコーラどっちがいい?」

「いいです、そんな」

「ガキのうちから遠慮なんかしないの、生意気。ほら、どっち?」

僕はどちらでも良かった。けれど

ここで選ばなければ綾芽さんに怒られると思い、「カフェオレで」と答えた。綾芽さんは炭酸が好きなような気がしたからだ。


「やっぱりね、カフェオレだと思ったんだ」

綾芽さんはそう言って猫の口みたくにんまりと笑った。


「ここらへんだと信人は、青原中学?」

「そうです」

ジュースを片手に、ガードレールに寄りかかりながら他愛ない会話が始まった。そろそろ試験だという話から、休日はどこに出かけるかという話になる。普段は家にいることが多いが、ときどきゲーセンに行くことを話した。

「ゲーセンか、懐かしい。最近全然行ってない。クレーンゲーム得意?」

「得意ではないですけど運が良ければ、取れることもあります」

「へぇ、すごい。じゃあ今度、キティーちゃんのぬいぐるみ取って」

「取れるか分からないですよ」

「いいの、クレーンゲームって見てるだけで楽しいから」

綾芽さんは大げさなくらいはしゃいで言った。

その時、ゴゴゴゴと地鳴りのような音が会話を中断させた。貨物列車が目の前を走り風を生んだ。

貨物列車が過ぎ去ると、綾芽さんは顔に張り付いた髪を払いのけ言った。


「はずれだね」

「なにがですか?」

「さっきの貨物列車だったじゃん。あれはハズレ。緑とオレンジの線の電車は末吉ってとこで、オレンジ色に緑の線の電車は当たり。その電車をね、あたしが信人くらいの頃、みんなでかぼちゃ列車って呼んではしゃいでた」

「そうなんですか」

僕はかぼちゃ列車というネーミングと、電車をジンクスにしていることが面白いと思い、心の中で笑う。

「信人いま、絶対あたしのことバカにしてるでしょ」

「いや、してないですよ」

「本当?」

綾芽さんが眉間に皺を寄せつつ、口元を緩ませて言った。

「面白いなと思っただけで」

「信人って表情変わらないから何考えてるか分かんないのよ。面白いと思ったなら笑え」

そう言って綾芽さんが僕の頬をつまんだ。

「痛い、止めてください」

「敬語止めてくれたら、止めてあげる」

にぃっと口の端を横に広げて綾芽さんが笑った。

「綾芽さんがそんなに子供っぽいとは思わなかった」

「えー酷い」

綾芽さんの手が離れた。つねられた頬は今赤くなっているだろう。

「また電車くるよ」

遠くから二つのライトが見えたので敬語を払って綾芽さんに言った。年上の女の人にタメ口で話すのはどうかとためらいもあったが、僕自身も少し前から綾芽さんに対して敬語を使うのが不自然に感じていた。

走り去ったのはオレンジの線と緑の線の電車だった。綾芽さんのジンクスだと末吉電車だ。

夜に近づき、時々吹く風が冷たさを帯びていた。綾芽さんはしばらく口を開かず、遠くのどこか一点を見つめていた。その目はこの冷たさを含んできた風のように、曇っているような気がした。

「そろそろ解散しよっか。また来週ね」

綾芽さんがそう言って、手を振りながら、僕の帰り道と逆の道を帰っていく。

僕も鞄の中の教科書の重たさを感じながら、完全な夜になる前の空の下を歩いた。鼻に残る甘い匂いを連れて。



教室の中に気だるさが漂っていた。それは梅雨の時期の湿気と室内の熱気、それから1週間後に迫る期末テストのせいだろう。友達の(かける)

「次は数学の徳井だ、だりぃよ」

という話に相槌を打ちながら、黒板の左斜め上あたりに視線を合わせていた。

「宿題やってねーや。信人、教科書貸して」

「今貸したところで間に合わないだろ。それでも貸さないぞ、自分でやれ」

「ケチだよな~」

翔がそう言った直後に教室のドアが開いた。眼鏡の奥の目がぎょろぎょろ動く、語尾によく「ですね」をつけるのが特徴の徳井先生がやってくると、翔は席に戻って行った。


「数学よりもテストよりも俺にはやらなきゃならないことがある」

授業のあと、翔が突然言い出した。

「どうしたんだよ、突然」

「最近、小遣いでギター買ったんだ。俺はバンド組んで、世界中に俺の音を刻み込んでやるんだ」

目を輝かせ、胸の上のほうまで拳を作って言った。冗談を言っているようなニュアンスではない、真面目そのものの口ぶりだった。ギャグと思い、笑い飛ばそうとした自分の口を、翔の様子を見た瞬間固く結んだ。

「バンドメンバーどう集めようか模索してんだ。雑誌にメンバー募集あるんだけど、俺、自分で1からメンバー集めたいんだよね」

翔はそのために軽音部を作ってもらうよう先生に頼むという話をした。翔はその後も自分の好きなバンドの話や憧れているギタリストの話をまくし立てた。

「信人、なにか楽器弾けないの?キーボードとか」

「うん、弾いたことない」

「だよなぁ。ていうかお前は頭良いし、北青原高校目指してるし、バンドなんてやるわけないよな」

確かに僕は音楽にもバンドにも興味はなかったし、北青原高校をとりあえず志望していることも確かだ。何もしたいことがなくとりあえず塾に通うだけの自分と、自分の夢をはっきりと描く翔を比べてため息が出た。


道脇の紫陽花の色が少し茶色になり始めた。花びらを人差し指で触ると、乾いた感触がした。

「枯れてきたね」

背後の声に振り向くと綾芽さんがいた。

「7月も入るしね、梅雨もあと二週間くらいで明けるかな」

綾芽さんが両腕を後ろに伸ばし身体を反らせた。

「暑くない?コンビニ行こう」

「いいですよ」

「敬語に戻ってる」

一つ咳払いして喉を整えて「いいよ」と言った。


綾芽さんがコンビニでアイスを買ってくれた。僕はバニラバー、綾芽さんはチョコ味のクーリッシュという、シェイクのような飲むアイスを選んでいた。


「暑い日のアイスは最高だね、幸せな瞬間」

僕と綾芽さんは行儀悪くあまり汚れていなさそうなコンクリート部分に座る。

「ここ一週間で変わったことはあった?」

「特になにも」

「テスト勉強してるの?」

「まぁ、うん」

次々に溶け出すバニラの液体を舌ですくって受けとめる。それを繰り返すとあっという間にバニラバーが無くなった。

「そんな小さいアイスじゃ足りないでしょ。もう一本買ってきなよ」

綾芽さんは黒のエナメルのサイフをカバンから取り出す。

「いいよ。もうお腹いっぱい」

「アイス一本でお腹いっぱいって、あんた女子か」

「僕もアイス買えるくらいのおこずかいはもらってるし、買ってもらわなくても大丈夫」

僕がそう言うと綾芽さんは笑みを作り、「信人は優しくていい男だ」と言う。

「綾芽さん、お金けっこう持ってるの?」

「まぁ、バイトしてるからね」

綾芽さんの取り出したサイフは花柄のラメが入っている、千円札数枚では買えなそうな見た目だった。

「綾芽さんはどこでバイトしてるの?」

「どこで働いていると思う?」

ピンク色の艶をまとう唇が、緩いV字の形になる。僕は綾芽さんの茶色の髪と、高校生にしては垢抜けた見た目で、嫌な予想をしてしまう。

「先に言っておくけど、ごく真っ当な高校生らしいバイトしてるからね」

僕の考えていたことを見透かしていたように、綾芽さんは僕を睨みつけた。僕は胸を撫で下ろし

「サーティーワン」

と答えたが、綾芽さんが「ブブー。違います」と言った。

「正解は雑貨屋さんでした」

綾芽さんがにこっと笑った。雑貨屋で働いている綾芽さんを想像できなくはないが、少し意外だった。

「可愛い雑貨見るの好きでさ。だからバイト、超楽しいよ」

綾芽さんが残りのアイスを飲み干した。

「雑貨屋には妖精が住んでるみたいって言ったら笑う?」

「うん、笑う」

「でもさ、絶対いると思うんだよ」

「妖精が?」

「うん」

その瞬間僕は吹き出し、思いきり声をあげて笑ってしまった。

「綾芽さんて、面白いね」

「信人ってそんな風にちゃんと笑うんだね」

綾芽さんが目を見開いて僕を見たあと、ふふふと笑った。


オレンジ色の車体に緑の線のかぼちゃ列車が目の前を走る。綾芽さんが「ラッキー」と言って笑う。薄暗くなった空を見上げて綾芽さんが「帰ろっか」と言った。僕たちは手を振って別れた。

別れ際、またあの甘い匂いがした。

恐らく綾芽さんの香水の匂いだが、話している時には感じないのに、なぜいつもこのタイミングでだけ匂うんだろうと、不思議に思った。


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