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黒い神  作者: 小春日和
兄妹の邂逅
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持衰の気配

 洗面所にこんなに長くいたら怪しまれるかな。そう思いながらも、美耶は念入りに黒髪を梳いていた。もう何年も切っていないそれは、腰に近い長さを持って、彼女の行動を制約している。

 ドアを締め切った狭い室内は、底冷えと圧迫感で居心地のいいものではなかったが、それでも、鏡の中の少女の顔は明るく弾んでいた。

「一緒にがんばろう、かあ……」

医者からは精神病と言われ、父母からは完治という無言のプレッシャーを受け続けていた美耶にとって、日常は鬱屈とした暗いものだった。それが、たった一言で、こんなに晴れた気分になれるなんて。

 何度も作り直している髪型に、また不満を覚えたとき、母親の声がドアの向こうから飛んだ。

「美耶、ここにいるの?」

「あ、う、うん」

慌ててドアを開け、中途半端に結い上げた部分を手で抑えたまま、顔を見せる。すると母親は含み笑いをしながら、

「……朝ごはんだから、そろそろいらっしゃい」

と誘った。

「ち、違うもん!」

心の中を見透かされた焦りに、大声で反論すると、

「何も言ってないでしょ」

とますます声高に笑われた。


 「おはよ」

と美耶が挨拶をして居間に入ると、朝食はすでに始まっていた。崇志が、広げた新聞の向こうから腕だけ出して、煮物をついばんでいる。父親は臨時の出勤で不在だ。晴彦は母と談笑していた。

「おはよ」

笑みのまま美耶に顔を向けた少年は、ふと表情を曇らせた。

「……なんか、雰囲気違うね」

その言葉に、崇志も新聞を下げる。

「髪型のせいか?」

背にかかる毛を頭頂でまとめ上げ、残した側面の髪を顔の横に垂らしたままの美耶は、わずかに赤面しながら食卓についた。

「そ、それって、いいほうに取ったらいいの? それとも悪いほう?」

「え、あ……い、いいほう、いいほう」

慌てて答える晴彦の反応には、若干、不満が湧く。

「なんだ……気に入らないんだ……」

箸を握りながら俯く美耶に、母親がとどめを刺した。

外見(そとみ)変えたって、性格の暗いのは隠せないものね」

「だから違いますて」

美耶よりも晴彦のほうが困って否定の声を上げた。


 「びっくりした」

「そうか?」

朝食後、崇志の部屋に入ってきた晴彦は、開口一番に、先ほどの美耶の印象を漏らした。

「だって、もろ古代の人って感じだったからさ。美耶ちゃんじゃなくて持衰が表面に出てきたのかと思った」

「そんなにアピール力はない奴だけどな」

崇志は大学から借り受けてきた宗教学の本を読みながら、返事を返す。

「崇志兄、持衰と直接対面したことある?」

少年が、横から本の中身を覗き込みながら尋ねた。

「正常な状態では、ないな。美耶がヒステリー状態の時にしか出てこないんだ、あいつ」

180近い身長を持つ大柄な青年は、晴彦のほうに本を放る。

「集中できん。読むなら持ってっていいぞ、それ」

「もう中身知ってる、これ。父さんも大学から借りてきたことがあるから」

『アジア地域以外における仏教の痕跡』を掲載した単行本は、少年の手から、床に無造作に下ろされた。

 ベッドにもたれかかり無言で天井を仰ぐ崇志。それを観察していた晴彦が、また口を開く。

「崇志兄は、美耶ちゃんの話をどれぐらい信じてんの? 持衰の生まれ変わりって、思える?」

「……わからん」

妹の突拍子もない認識に、兄はどう反応していいか迷っているようだ。

「美耶が『憑依』現象を起こしていることは認める。けど、俺、憑き物自体をあんまり信じてないんだよ。思い込みだろうとしか思えない」

「じゃあ、美耶ちゃんが名前を出した『持衰』についてはどう説明すんの? 美耶ちゃん、そういう知識ある子なの?」

「『そういう知識がある』奴が、そんなにうようよしててたまるか」

崇志は第一候補の少年を見ながら苦笑した。


 京都の晴彦の自宅での崇志は、すでに一家の身内のような立場に昇格していた。晴彦の父親、大月(さとる)が崇志のゼミの教壇に立つようになってから2年、特に勤勉とは言いがたい、ごく普通の大学生だった青年は、この一言で、諭を心の拠り所とすることに決めて、日参し続けているからだ。

「人間の心の闇は古代から変わらない。歴史を知ることは、今の自分を知ることでもある」

当時から妹の奇行に頭を悩ませていた崇志が、その鬱屈とした思いを諭に打ち明けるようになるまでに時間はかからなかった。

「妹に起こっていることも、歴史の一端だとおおらかに受け止めていれば、そんなに苦にはならなくなるんですか?」

「人間のすべてに濃い闇があるなら、家族に冷めた感情を向けちまう俺自身のことを許してもいいんですか?」

豊富な経験から崇志に助言を繰り返す諭を見て、密かに父親を尊敬していた晴彦が『崇志の妹』に興味を抱いたのは、ごく自然な流れだった。

「オレ、会ってみたい」

と言い出したのが、もはや1年以上前のこと。ずっと許可を出さなかった兄が、切羽詰まった様子で、

「力になってくれないか」

と同行を依頼してきたのが3週間前。


 「冬休み終わったら、すぐセンターテストがあるってのに」

愚痴りながらもまんざらではなさそうな晴彦が、今さら勉学の必要がないレベルを維持していることは、崇志も確認済みだった。それでも、

「悪いな。三が日が終わったら、いったん京都に送るから」

と気を遣う。

「崇志兄はどうするの?」

『いったん』という言葉を聞き咎める晴彦。

「俺は、休み中はずっとこっちに()るよ。あの人たちは、いまいち当てにならないからな」

自分の父母に対して信頼を置かない青年が本音で語ると、

「いい父さんと母さんだと思うけどな。崇志兄は依怙地すぎる」

と少年はからかうように笑った。そして、

「今さら早く帰っても受験に集中できんわ。オレもぎりぎりまでこっちにいる」

と、崇志の提案をやんわり断った。


 少しすると、部屋のドアがノックされた。

「崇志、いる?」

母親の声だ。

「いるよ」

青年が短く答えると、遠慮がちに顔を覗かせる。

「あら。ハルくんも一緒だったのね。……ちょっといいかしら。美耶のことなんだけど」

そう言いながら、返事を聞く前に入室してきた。

「ええですよ。オレが聞いていいことなら、同席させてもらいます」

晴彦が自分の部屋のように、母親に座を勧めた。


 「あの子の腕、見た?」

隣室の美耶を気にしての小さな母親の声が、場の空気に軽い緊張感をもたらした。

「腕?」

崇志が身を起こして顔をしかめる。

「見てないけど……どうかした?」

「すごい痣になってるのよ」

母親は眉を寄せて、自分の左手首を掴んで見せた。

「このへん全部がね。夜中によっぽど暴れたんだと思う」

「どういう暴れ方すると、そんなとこに痣なんかつくんだよ?」

すぐ隣で寝ていた自分の耳には、夜中の妹の暴れっぷりは届いていない。物音には気をつけていたつもりの崇志は、半信半疑で、母親の説明を茶化した。

「あら、あんた知らなかった?」

母親は悪びれた様子もなく言った。

「あの子、夜中に抜け出せないように、いま、左手を手錠でベッドに繋いで寝てるのよ。朝になったら、私が起こしついでに鍵を開けてるの」


 崇志が溜息をつく。母親に対する若干以上の非難が含まれているのを感じ取った晴彦は、慌てて間に入った。

「たっ確かに効果的だとは思いますけど、ちょっと可哀想と違いますか、それ?」

「うん。可哀想なんだけど、精神科の先生がそうしなさいって言うのよ。ああいう病院にも拘束具っていうのがあって、自殺を起こすような患者は動けないようにされるんですって」

「はあ……」

崇志から、美耶が病院に通うことを嫌がっていると聞かされた意味が、今になって晴彦にも理解できた。

「死ぬよりいいでしょ?」

当たり前のように言う母親に、でも、反論できる理屈もない。


 多少、不機嫌になりながらも、崇志は先を促した。

「で、夕べは痣ができるほど拘束から逃れようとした、と。今まではどうだったんだよ?」

「ここ2年ぐらいは、夜中のことに関しては、全然、兆候はなかったのよ。だから、お父さんとも、もう治まったのかねって話してたの」

「2年って長いですね。その間は落ち着いていて、昨日、急にフラッシュバックを起こした原因って何でしょ」

う、と言葉を完成させようとして、当の『原因』に思い当たり、晴彦は右手で頭を抱えた。

「……ごめん。オレが自殺現場なんかに連れてったせいや、それ」

「あらあら」

母親は責めるでもなく、微笑む。

「そんなことがきっかけになるのねえ。近所にそんな場所があるんだから、なかなか治らないわけね。引っ越そうかしら」

「手錠よか建設的だな」

しつこく話を戻して、手錠への嫌悪感をアピールする崇志を、また母親は軽く()なした。

「親より心配してどうすんのよ、あんたは。お坊さんになったら、うちとは縁を切るんでしょ?」

「まだ入門してないから、気にかけたっていいだろ」

仏頂面で剃髪の青年は答えた。


 「美耶ちゃん」

ドアの外から呼ぶ晴彦の声に、美耶は慌てて、持っていたタオルと手錠をベッドの下に押し込めた。腕に当たる金具の苦痛を軽減するために巻き付けていたパイル地の厚布は、昨日の衝撃によって分断され、用をなさなくなっている。そんなものを見られたら、咎められるに決まっている。

「ちょ、ちょっと待っててね。いま片づけ物してるから」

焦った声で言い訳すると、

「はあい」

と間延びした返事が返る。

 見られたくない。見られると怒られる。医者の、

「もう自殺なんかしないでくださいね」

と言った険しい顔が脳裏に浮かんだ。深夜の居間での、父母の、

「あの子、いつまでこんなことを続けるのかしら」

と落胆した科白を思い出す。

 あたし、好きでやってるわけじゃない。甘えて気を引きたいわけじゃない。でもわかってくれる人はいない。だから隠さなきゃ。痛くても平気なふりして、何事もなかったような顔をして。

「お待たせ!」

あえて元気な声を張り上げて笑顔を見せる少女の目に飛び込んだのは、痛々しい青痣をつけた少年の左手首だった。

「ど、どうしたの……」

自分の腕と同じような醜態を晒す彼のそれを指さすと、

「崇志兄とちょっと実験したんだ。痣がつくほどの力ってどれぐらいなんだろうって」

あの人マジで容赦なさすぎ、と愚痴る晴彦。

 少し前に、隣室から、じゃれ合っているような悲鳴が聞こえていたことを、美耶は思い出した。……なんで?あたしと同じことをして、ハルくんに何の得があるの? 疑問がグルグルと回る。あたしは異常者なのに。誰かに理解されることはないはずなのに。それに付き合う人なんていないはずなのに。

 少年は頭を掻きながら、

「オレ、昔の人間の行動を想像するのは得意だけど、現代人はそれほど得意じゃないんだ」

と言った。そして、

「だから、こういう方法を取らないと、美耶ちゃんがどういう状態で、どういう気持ちになってるのか、理解できない」

と続ける。

「結構……笑い事じゃないぐらい、いろんな意味で痛いよね、これ」

そう笑いかける晴彦に、美耶は小さく首を振った。

「痛くない」

とっさの虚勢。

 けれど、そのあと、自らの意見に反論した。

「痛くないけど……、もう悲しいとかあんまり思わないけど……、でも、理解してもらえたら嬉しい……」

贅沢なことを望んでしまった、と萎縮する美耶に、

「うん。任して」

晴彦はあっさりと肯定を返した。


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