兄の本音
母が笑う。さっきから笑いっぱなしだ。
「……なに?」
不機嫌な声で崇志が問うと、
「つきあって食事抜くほど心配なら、持衰ちゃんのところに行ってあげればいいのに」
と、また微笑む。
「あいつに合わせてるわけじゃない。美耶の体調を忘れたくないだけだ」
兄は変わらず憮然と答えた。
階上でどんな会話が成されているかを知らない崇志は、未だ、持衰に対して、不愉快な感情しか覚えない。彼の中の持衰の印象は、大事な妹の中に巣食う古代の妄執としか映らない。己の目的を果たすまでは美耶の人格を返さないと言い張る、その姿勢自体が腹立たしかった。
「だけど、持衰ちゃんだって、好きで居座ってるわけじゃないかもしれないじゃない」
相変わらず暢気で楽天的な母に諭されても、
「好きじゃなきゃあ、あんなに図々しく居座らないだろ。美耶を返す気なんかないんだよ、あいつ」
すっかり不信に陥った兄は、持衰を敵視する以外の術を持たない。
「返してくれるって言ってたわよ。明日のお……大祓……が終わったら、必ずって」
子どものような持衰に愛情を持ちはじめていた美律子は、息子の思いこみを嗜める。
大祓までは消えることができない。持衰がそう突っぱねる理由を思い出して、崇志は、こっそりと自分の胸に手を当てた。『お前に荒魂が入りこんだ』。持衰はそんなことを言っていた。それを追いださなければ消えられない、と。
妙なこじつけをしやがって。自らの体を乱暴に叩く。己の肉体が持衰の存続に言い訳を与えているのが、不愉快でならない。
「荒魂なんてもんがいるなら、目の前に出してみろっていうんだよ。妙な超能力を持ってるあいつなら、それぐらいできるだろ」
八つ当たり気味に母に言うと、美律子は困った顔をした。
「でも……荒魂……が出てきたら、あんたは死んじゃったりしないの?」
「……」
持衰の言う『荒魂』の正体とは何なんだろう。改めて考えてみるが、やっぱりピンと来ない。稲荷神社の主の荼枳尼天ならば、崇志に害をもたらすぐらいは簡単にやってのけそうだが、持衰は、あの凶悪な女仏ではないとはっきりと否定した。
「知らないうちに人の恨みを買っていたりしていないのか、お前は?」
父が、たぶん冗談のつもりなんだろう、笑いながら聞く。
「知らないうちのことなんか、俺にわかるわけないだろ」
苦笑しながら、それでも心当たりをつきとめようと、兄は頭をフル回転させた。
昨日の荼枳尼天の祟りは、崇志自身の非も大きな一因になっている気がする。美耶に対して呪法を行った自分に『呪い返し』が施されたのかもしれない。
呪い、というのは、一方的に相手を貶める行為ではない。負のエネルギーを持って神仏に祈念すれば、神仏との間に暗黒のトンネルが開かれる。呪いの力が強ければ強いほど、その成功率が高ければ高いほど、太いパイプで繋がってしまう。そして、祈念の力が弱まった瞬間、祟り神のエネルギーが逆流して、自身にも災いを成すのである。
人を呪わば穴二つ。呪いは相手と自分双方の足元に深い穴を掘るようなものである、という意味の諺だ。人間を呪殺する技を持っていた平安時代の陰陽師たちは、安易に呪いを発動することに強い危機感を持っていた。呪法というのは、それほど命がけの行為だったのだ。
けれど逆に言えば、呪法を施すような、はっきりとした害意を持たなければ、自分に呪詛が返ることはない。崇志には、美耶以外に呪った相手はいなかった。
俺に恨みを持ってるやつがいるとすれば、美耶以外にはいないんじゃないか……。
そんな結論が、唐突に閃く。
持衰が『兄の中から荒魂を追いだすことができたら、自分は表から消える』と言ったのは、荒魂の正体である美耶を『追いだす』ことが、同時に持衰自身の存在をも消すことに繋がるからではないのか。
『追いだす』。この意味は何なのだろう……。持衰は、もしかして、このまま美耶ごと、この世から『追いだされる』つもりでいるのではないか……。
持衰の思惑を阻止するために、思わず立ちあがりかけた崇志の耳に、父と母の会話が届いた。
「美耶が死んじゃうかもしれない、なんて、持衰ちゃんは、どうしてあんな言い方をしたのかしら。死んじゃうかもしれないのが崇志なら、最初からそう言えばよかったのに」
「そういえばそうだな。美耶に何かある、と言われれば、崇志も飛んで帰ってくるだろう。持衰が自分で崇志を守ってやりたかったのかもしれないが、こんな混乱した状況を引き起こすより、大きな寺がある京都に留まらせたほうが安全だったんじゃないか?」
崇志に憑いているという荒魂の処遇。たしかに、あの癇癪持ちの頼りない持衰に任せるよりは、厄祓いの専門家である寺院に委ねたほうが、ずっといい解決を導いた気がする。ましてや、崇志は、曲がりなりにも僧侶を目指した人間だ。大学の長期休みともなれば宿坊修行も重ねている。一般人より徳を積んでいるぶん、祓いの効果も高いだろう。
だから、なおさら。
きっと、俺を呼んだのは美耶なんだな……。崇志にはそんなふうに感じられた。
荒魂が妹だったからこそ、寺社の堅牢な結界に守られた安全圏の古都から、兄を引っぱりだす必要があったのではないか。『次の祓えにて我が身を屠る』。持衰の口調を借りてはいたが、持衰と美耶は、もともと同一の存在だ。もっともらしい嘘つくのに、美耶が奸計を施した可能性は大いにある。
俺、美耶に嫌われてたのかな……。そんな呟きをこぼすと、母と父は同時に応えた。
「嫌ってるっていうより、怖がってたみたいよ。あんたが帰ってこなかった時期は、美耶の症状も安定してたもの」
「妹として接するには、お前は構えすぎかもしれん。いい兄であろうとする緊張感が、こっちにも伝わっていたからな」
もっと力を抜けばいいのに。父母は、そう助言する。
「力を抜く、か……」
言われてみれば、実の兄妹でなかったぶん、美耶には、過剰に、兄としての立場を強調してきた気がする。
「俺、美耶が実子だってことに、ずっと引け目を感じてて……。だから、反動で、あいつには悪いことをたくさんしたと思う」
そう認める。
美耶に恨まれる理由は、たしかにあるのだ。そして、それは自分の利己心が招いたことに他ならない。だったら……美耶の望みを叶えてやるのが、本来の道ではないのだろうか……。
けれど。
『どうしていなくなっちゃうの?』と、崇志がこの家から出ていくことを引き止めた妹。3ヶ月後に帰ってくることを約束したときの、安堵の表情。美耶は兄に対して、気後れや戸惑いを感じていた部分は間違いなくあるだろうが、信頼や絆というものも皆無ではなかった、と思うべきなのではないか。
後悔や罪悪感に流されて荒魂の言いなりになることが美耶の真意に適うことではない。崇志はそう結論づけた。
「持衰が表に出ているいま、どれぐらい通じるかはわからないけど、美耶に全部謝ってくるよ。……あいつに嫌われたくないしな」
そう言って頭を掻く息子に、母は笑って、父は答えた。
「お前が美耶を大事にしていることを、素直に伝えればいいんだよ。崇志にちゃんと愛されていると知れば、謝ってなんかもらわなくても、あの子には、充分、嬉しいことだろうから」
家族っていうのは、そういう、理屈をすっ飛ばしたものを持ってるんだよ。父はそう締めくくって、母は深く頷いた。
2階に上がる途中から、持衰と晴彦の会話が、兄の耳に漏れ聞こえた。
「持衰さんは、なんでそんなに崇志兄のこと好きなん?」
はっきりとした少年の声に比べて、切れ切れにしか届かない持衰の言葉は弱々しい。
「……『お…』はこ…な体…ったから、持…の仲間……も興味本位……」
…………。
崇志の頭の中で再生される、断片的な語句。
『おれ』はこんな体だったから、持衰の仲間からも興味本位に扱われた。
持衰には肉体的な欠陥があったのだろうか、と兄は訝しんだ。美耶が発作を起こしたときに手足がないと泣き喚いたのは、持衰の手足が欠損でもしていたからだったのだろうか。
入室をためらい、ドアの外で立ち尽くすと、持衰の声がクリアになって届いてきた。
「『おれ』がいたのは、ムラから隔離された戦人の集落だった。だから、いたのは男ばかりだ。その中で、半分だけ女の『おれ』が、どんな目に遭っていたかは、お前にもわかるだろう?」
「ああ……。そうやね……」
晴彦の短い返事がかぶる。
……半分だけ女? 持衰が男の子どもだとばかり思っていた崇志には、持衰の『こんな体』の形状に想像が及ばない。半分が女ということは、半分は男ということだろうか? 知識の乏しい己の頭の中に再現されるのは、男ばかりの集団に放りこまれた、贄という弱い立場の少女だった。妹と同じ声を発する持衰の容姿は、自然に美耶と重なっていく……。
持衰が、説明を続ける。
「常に緊張を強いられる生活の中で、救いはカガ神だけだった。カガ神の贄を約束されていたおかげで、『おれ』は人間としての尊厳を保つことができた」
「でも、カガ神の贄になるいうことは、持衰さんにとって、殺されてしまうことではなかったん?」
少年の質問が追いかけると、持衰は、ドア越しにもわかるほど、不要に力のこもった声を返した。
「凝々が死ぬことと肉体が死ぬことを同義に扱ってはならぬ。魂を穢すことは身の消滅よりも悪いことだ」
古代の生活に予想がつかない崇志には、2人の話を具体的にイメージすることはできなかった。ただ、持衰が、仲間の内にあっても心の休まらない日々を過ごしていたことは理解できた。
持衰のトーンが落ちて、元の、か細い響きに戻る。
「『ミヤ』に転生してしばらくは、『おれ』は昔のことを完全に忘れていた。あまりにも境遇が違っていて、思いだすきっかけがなかったのだ。でも、『ミヤ』の体がだんだんと昔の自分に近づいてきてからは、理由のわからない怖さがつきまとうようになった」
はっきりとした記憶ではなくて感覚だけが戻ってきたような不安さだった、と持衰は補足する。
「それが、美耶ちゃんの行動がおかしくなり始めた時期なんやな?」
確かめる晴彦に、
「そうだ」
即答する持衰。
肉体の変化が訪れる中学生から始まった妹の自殺未遂は、持衰の悪意の所業ではなく、持衰自身にも制御できない感情から起きてしまった行為だった……。
少し……ほんの少しだけ、崇志にも、持衰に対する同情心が芽生える……。
『ミヤ』には悪いことをした、と、持衰はさらに続けた。
「『おれ』が凝々の乱れを抑えることができていれば、『ミヤ』にまで怖い思いをさせずに済んだものを」
何の話をしているのかわからず、兄が耳を近づけると、察しのいい晴彦が答えを代弁した。
「蛇神さんの神域でのこと? ……美耶ちゃんを襲った相手を死なせてしまったんは、やっぱり持衰さんなん……?」
持衰の返事は鈍かった。が、数十秒かけたのち、
「……うん」
という肯定が返される。
「あのとき、初めて『ミヤ』と完全に入れ替わった。『ミヤ』には恐らく、ぼんやりとした記憶しか残ってないだろう」
「そっか……」
少年の声に非難の色はない。むしろ安堵の響きを帯びていた。
「美耶ちゃんを守ってくれてありがとうね、持衰さん」
「……お前は意外なことを言う」
持衰の声にも穏やかな感情がこもった。
あのとき、持衰がいなければ、美耶はどうなっていたのだろう。
改めて想像して、崇志は戦慄する。人の立ち入らない藪の奥で、小さな少女の肉体は、風化するまで放置されたのではないだろうか。
と同時に、なぜ自分はあの場所にまっすぐに辿りついたのか、と考える。……呼ばれた、とは思わない。けれど、偶然とも思えない。
持衰の口調が、若干、明るくなった。
「持衰だったとき、『おれ』には味方がいなかった。だから、己の身を守ろうとすればするほど、咎められて立場を悪くした。いまなら、『おれ』は自分のことを大事に思ってもいいのだな」
「もちろん」
晴彦の同意に、持衰の微かな笑い声が重なる。
「『ミヤ』を守るためとはいえ、『おれ』は人を殺した。だから、またすべてから見放されるのだと思っていた。けれど」
持衰のトーンがますます高揚する。
「『タカシ』は穢れた『おれ』に向かって、『いなくなっても、また探しにきてやるから』と言った。だから『おれ』は、『タカシ』に感謝している」
『タカシ』に『おれ』を好きになってもらうことはできるだろうか、と、不安と期待の混じった調子で晴彦に問う持衰に対し、少年は、
「大丈夫。崇志兄は根がいい加減だから。中身、持衰さんってわかってても、美耶ちゃんの顔で『好きになってほしい』なんて言ったら、びっくりするぐらい舞いあがると思うよ」
と笑った。
「それは『おれ』の言うことと少し違う……」
古代人の知識はあっても、人間の心理自体に疎いところのある晴彦に、持衰は不満を漏らした。
ドア越しに、小声で、
「馬鹿な晴彦……」
と溜息を漏らした崇志は、そっと部屋から離れて、階段を下りた。2人の妹にかける言葉を練りなおすために。
いままで悪かった、ではない。
兄として大事に思っている、でもない。
そばにいてやりたい。元気にしてやりたい。力になってやりたい。期待に応えてやりたい。幸せにしてやりたい。守ってやりたい。
居間に戻ると、テレビを見ていた父と、昼食の片づけをしていた母が、同時に視線を向けた。
「何て言ってきたの?」
母の質問に、答えあぐねる。
「まだ声はかけてない……」
「お前の本音では、美耶はどんな存在なんだ?」
父の疑問に、慎重に返す。
「妹、とは違う。もっと、なんでもありの、俺の全部に当たるような……」
美耶という存在は、崇志にとって、たとえ人殺しをしても、別の人格になっても、自分を恨んでいても、自分を好きでいても、決して対応を変えることのできない矛先なのだ。
「美耶は、俺の宝物、なのかな」
言葉にしてから、自らの大仰な表現に赤面した。父と母は笑って、
「それが家族ってもの」
と、実父母を亡くした青年に、嬉しそうに教えこんだ。
※『こころ』に『凝々』という漢字を用いたのは、古語や呪いの中の『凝々』という音が転じて『心』となった説があるからです。




