黒い神の正体 3
田の神の掃除からやっと解放されたのは、30分ほどあとのことだった。雨雲は完全に去り、北の空には薄く虹が浮きでている。
石積家の居間に通された晴彦は、葉月と並んで着座するように促された。おとなしく座して待つと、しばらくして当主が顔を出す。
「膝を崩してくだされ」
と勧めてくれる長老に、ほっとした顔で正座を緩める葉月の隣で、少年は逆に居住まいを正した。
「教えてほしいことがあります。山の神のことで」
真面目な顔でそう切りだすと、老人は少し困った顔をした。
「モレヤさんのことは地元でもあまり口にはしないんだが」
「『モレヤ』さんという名称は、諏訪大社の土地神のことと受け取っていいんですか?」
晴彦が指摘すると、当主と妻は、揃って目を丸くした。
「諏訪大社、って長野県の? その神様があの黒い神様なの?」
事情の飲みこめない孫娘は、首をかしげながら、話に割りこむ。
長野県の諏訪湖のほとりには日本屈指の大宮、諏訪大社がある。全国にある諏訪神社の総本山。祭っているのは建御名方命という武勇に優れた男神と、その妻の八坂刀売命である。
「タケミナカタは他の地方から諏訪に来た神さんなんやけど、ヤサカノトメは元から諏訪にいた女神さんなん」
葉月を置いてきぼりにしないように、石積の当主夫婦に説明の時間をもらった晴彦は、できるだけ余計な知識を入れないように注意をしながら、内容を砕いた。
「戦いの神であったタケミナカタは、故郷の島根県出雲での戦闘に負けて、追撃の中、諏訪の地まで逃げてきたん。そこで受け入れられ、諏訪を統一して、伴侶を得た」
「戦いの神なんだ!」
武闘派の守護仏、十二神将が大好きな少女が、タケミナカタの猛々しい性質に興味を示す。
「なんかロマンチック……。傷ついた闘神と女神の婚礼……」
「実際には、ヤサカノトメは怪力で、タケミナカタはそれほど強い神さんじゃなかったみたいやけど」
笑いながら少年が答えると、恐らく、頭の中で逞しい男神とたおやかな女神のイメージを思い描いていた葉月は、
「幻滅……」
と呟いた。
タケミナカタが諏訪に敗走してきたとき、諏訪はモレヤという神が統治していた。タケミナカタはモレヤ神と対峙して勝利し、諏訪の地を占有することができたと言われている。
「モレヤ神はそのあとも諏訪の地に留まって、タケミナカタの補佐を務めたんや。主に神職を。諏訪には、もともと、ものすごく強大な祟り神、ミシャグチっていう蛇神がいて、その神と交信する役目を担ってたんやって」
「え? モレヤ神自身が蛇神じゃないの? だって、ここの山の神とモレヤ神は一緒の神様なんでしょ?」
石の祠に封印されていた禍々しい形状を思い出し、葉月は混乱した。
「モレヤ神の神体は石や木といった自然物だよ。その体を依代としてミシャグチの魂を降臨させるん。だから、モレヤ神自身をミシャグチと同様に蛇神とするときもあるんや」
モレヤ神の正体は、より高次の神を自らの身体に憑依させる巫女だ、と説明する晴彦に、理解の速度を緩めながらも、少女は納得した。
「……つまり、あの黒曜石の神様は、モレヤ神の象徴の石でできているから、モレヤ神っていうわけなんだ。形が蛇なのは関係ないの?」
「モレヤ神が神降ろしをする相手はミシャグチや。あの黒い蛇神の像は『ミシャグチ神が憑依したモレヤ神』を意味づけているんだと思う」
少年の推測に、老人が大きく頷いた。
※諏訪地方で暗躍していた神々は、時代が下るにつれてミシャグチに統合されていったようです。モレヤ神、タケミナカタ神もミシャグチと同じ神だという説が散見しますが、ここではわかりやすいように『諏訪大明神絵詞』という文献を参考にして、モレヤ神の由来を説明しました。




