↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い神  作者: 小春日和
兄妹の邂逅
35/104

兄の救済

※僧侶に対して一部不適切な表現があります。

 あのね、崇志くん。あなたが生きていたのは奇跡に近いことなのよ。神様が味方してくれたのよ。神様はあなたに生きていてほしいと思ったの。だから お父さんとお母さんの分までがんばって生きなきゃね。


 あのね、崇志くん。あなたが生きていたのは奇跡に近いことなのよ。神様が味方してくれたのよ。神様はお父さんとお母さんを殺して、あなたに生きていてほしいと思ったの。だから お父さんとお母さんを殺した分までがんばって生きなきゃね。


 一方で親の死という絶望を与えておいて、一方で将来という希望を与える。そんな神という存在に、感謝することなんかできるのだろうか。

 僧侶になると決意したのは、矛盾を与える神と同列に見える仏に対して、唾棄すべき言葉をかけ続けたかったからかもしれない。衆生救済? 馬鹿馬鹿しい。木彫りの偶像を拝むだけで解決できる苦しみなんかない。立派な寺院を作り、名声を高め、檀家を集めるのも、ただの金儲けのためだ。僧侶は、恭(うやうや)しく御簾の向こうの仏像に手を合わせる信者を、札束に見立てて笑っているだけの存在だ。

 出家することに、もともと期待するものなどなかった。実親の供養? 自分への断罪? 意味のない形式に縋るぐらいなら、もっといい方法があったはずだ。存在してはいけない自分があの世の両親に謝りに行く方法が…。


 断続的に続く圧迫の苦悶から、崇志は無意識に身を捩(よじ)った。意識は朦朧としていたが、その瞬間だけ、体が自由になったことは認識できた。

 が、すぐに腰骨の辺りに、自動車のタイヤが乗ったような殺人的な重さを感じて、呻く。

 霞む視点で対象を捉えると、それは車などではなく、やはり夢璃だった。青年の上に馬乗りになって、うつ伏せた白い顔を奇妙に歪めている。

「ねえ、崇志は何がしたいの?」

付き合っているときから、彼女はたびたびその手の質問をしてきた。『崇志は将来をどうしたいの?』、『崇志は幸せになりたくないの?』、『崇志はあたしのこと好きなの?』、『崇志はあたしと幸せにならなくていいの?』。

 そんな資格はない、と、答えたことがあっただろうか。恋人に対して適当にはぐらかす言葉の裏で、いつも繰り返していたのは『生きていることに未練を持ってはいけない』という思いだった。親を殺した自分、育ててくれた義父母をないがしろにしている自分、小さな存在だった妹を逆恨みしていた情けない自分が、この先、『幸せ』など望んでいいはずがない。

 けれど、希望のない未来を生き抜くには、青年はまだ稚(わか)すぎていた。軽蔑している神仏に仕える道を歩みきれる自信もなく、かと言って、戻って『やり直しをさせてほしい』と頭を下げる勇気もなかった。

 だったら、不安なだけの将来を断ち切るという選択もある…。いつのころからか、その誘惑が纏わりついていたことに、いまになって気づく。

 潰されないように必死に自己防衛している肉体から、無理やり言葉を絞りだした。

「東海林…ごめん…」

自分自身で選ばなければならなかった結果を、彼女に任せてしまって、すまなかった、と思う。


 またちゃんとした答えを返さないんだ。期待した言葉をいつもかけてくれない、かつての恋人に、夢璃は不満を大きくした。

「崇志が言っていいのは、あたしと結婚したいってことだけでしょ?」

呟きながら睨むと、青年は、焦点の合わない目を向けながら、わずかに首を振った。

「あたしとやり直すって言わなかった?」

語気を強めると、顔をしかめながら、指先で否定の意思を示す。

 どういうことだろう。なぜ心変わりしたんだろう。自分の誘い方が甘かったのだろうか。誘惑に関しては絶対の自信を誇る彼女は、ついさっきまでの思い通りの筋立てがどこで狂ったのかを省みる。

 裕貴というかませ的な存在をちらつかせることによって嫉妬を誘い、崇志自身の過去の傷を抉(えぐ)ることによって反抗の意志を削ぐ。完全に上手くやれていたはずだ。自分から離れていこうとした青年を手中に戻すことなど、容易かったはずだ。

 あたしのために崇志が折れてくれる。そこに最高の征服感を見出していた夢璃は、その考え自体が唾棄すべきものだということに気づいていなかった。自分が否定される理由が、己自身にあってなどならない。それを認めれば、『大勢の異性に好まれる魅力的な女』という支えが根本から揺らぐ。

 サディスティックな欲求を乗せて、崇志の腹の上に膝を立てた夢璃の行為に対して、崇志は驚くほどの悶絶を示した。絶叫に近い叫び声を上げ、失神する。


 わけは、夢璃自身にもわかるような気がした。自分はいま非力な女性ではない。『何か』が欲望を後押ししてくれている。

 何でも叶う。だから考えた。自分の本当の望みとは何なのか。崇志と結婚したいと思っているのは本心だろうか。

 …否。

「結婚は…まだダメかなあ…」

自分の言葉に苦笑する。常に異性と一緒にいたいという願望はある。むしろ強い。けれど、一人に絞りこめば、すぐに次に目移りがする。そういう自身の性質も、彼女は見抜いていた。だから、崇志へのプロポーズまがいの言葉も本気じゃない。

 では、何のために彼を手に入れようとしているのだろうか。

「崇志は冷たいんだよね…」

他の男は夢璃の願いを必死で叶えてくれた。いまのカノジョと別れて、と言えば、逡巡しながらもその場で電話をしてくれた。交際相手の非難する怒鳴り声を受話機越しに聞きながら、内心ほくそ笑んだ。選ばれたのはあたしよ、と。それなのに、崇志は、一貫して夢璃を後回しにする。


 付き合っていた高校時、初詣へと、この神社に誘ったことがあった。広大な敷地を持つ稲荷とはいえ、正月のイベントにはそれほどの賑わいを見せない。管理者の一行が用意した甘酒と神酒が振舞われ、おみくじやお守りが販売される程度だ。それでも、ふだんは完全な無人と化している境内には人の姿が多かった。

 崇志はなぜか執拗に拝礼を嫌がった。わけも話そうとしない。そこに、夢璃に対して能動的に愛情を伝えてくれない原因があるような気がしたのだ。だから食い下がって何度も聞きだした。

 妹の消滅を願った。嘆息しながら、彼はそう語った。美耶とは兄妹ではないこと。実の両親は死んでいること。いまのように、友人を作ったり、大人の中でコミュニケーションを取れるようになったのは、妹が自分のことを兄と呼んでくれるからだ、と。立ち直ったのは美耶のおかげだな、と目を細める。


 その妹が精神病を発症した、と伝えられたのは、3年生になってからだった。自分のせいだと深い後悔を口にした崇志は、もしかしたら夢璃に心情を理解してもらいたかったのかもしれない。

 だから利用した。

「そう…。統合失調症ってそんなふうになるの…。美耶ちゃん、中学生だったよね。自傷ならいいけど、クラスメートに危害を加えたりしないのかしら」


 自分の周囲に狐火が取りまきはじめたことにも気づかず、夢璃は青年の頬に手を伸ばした。

「あたし、そこまでやる気はなかったの。だけどチャンスが来ちゃうんだもん」

反応のない崇志の唇に触れ、言葉を続ける。

「美耶ちゃんとうちの妹、高校になってから同じクラスになっちゃったんだ。ごめんね。あたし、妹の意地が悪いこと知ってたんだけど、美耶ちゃんの病気を教えちゃった」

 統合失調症は、社会性の未熟な高校生の間で、こんなふうに取り沙汰されたらしい。多重人格なんだって。人殺しがこの病気にかかってたんだって。何やっても無罪なんだって。急に別人になるんだって。

 被害を恐れたクラスメートから美耶は孤立し、学校にも行けなくなった。理由を彼女の病状の悪化と見た教師は、保健室登校を促すに留めたという。

 本当は崇志にも絡んでもらいたかったな、と元凶の夢璃は囁く。あたし以外のことで悩むからこんなことになるのよ、とほくそ笑む。


 実母のちぎれた腕がそばに這いよる。という夢を青年は見ていた。

 『どうしてこの子だけ生き残ったの?』。周囲の無理解な批判に晒されるたびに、彼女は崇志の傍らに現れて、そう嘆く。連れていってあげればよかった。遺すべきではなかった。せめてずっと見守っていこう。この子が自分で私のそばに来られる日まで。

 養母に向かって親戚の1人が言った。

「こういう子を育てるのは難しいわよ。すっかりヒネちゃって可愛げがないったら。愛情なんか持てないでしょ?」

養母は苦笑しながら首を振った。

 養父に向かって近所の父親が耳打ちする。

「あんたは立派だと思うけど、選択間違ったんじゃないの? 実の娘と一緒の扱いはできないだろう」

養父はきっぱりと否定した。

 どう接していいか戸惑いながら、遠目にしていたベビーベッドの中の美耶が、ある日、いきなり火のついたように泣き出した。両親が何をしても止まず、声が枯れても訴えつづける妹を見かねて抱きあげると、しゃくりあげながら、はっきりと、

「にいちゃ」

と言った。乳児の初めての言葉だった。

 とっくに受け入れてもらってたんだな…。3人もの味方を得ながら、自分の意地1つですべてを拒絶してきた青年は気づく。するべきことは、逃げることじゃなくて、恩を返すことだ。


 境内に弦を弾くような澄んだ響きが渡った。わずかに鼓膜を震わせるだけの音色は、妄執に囚われていた夢璃にも届いた。

「痛いっ! なにこれ?!」

悲鳴を上げながら耳を抑えた彼女は、それでも止まない脳への振動に激しく悶えた。

「痛いっ。いた…いっ。何してんのよ、あんたっ!」

目を吊りあげて雑言をぶつけたのは。

 崇志ではなく。

 息を切らして石段を駆けあがってきた現在の恋人でもなく。

 裕貴の隣に立って、事態を把握できずに固まっていた少年に対してだった。

「え? オレ何かした?」

目を丸くして晴彦が聞き返す。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。