兄の危機
すみません。R15指定にさせていただきます。
1本がぐらついたかと思うと、次の柱への連鎖が始まった。夢璃が倒れこんだ鳥居から本殿へと向かうそれらが、時間差で大きくうねっていく。
視界が捉える珍妙な現象を把握しきれず、崇志は地震でも起こっているのかと地面を見た。が、足元は微動だにしていない。もう1度目を上げる。赤いトンネルを吹き抜けた気味の悪い波動は、稲荷の神体が収められているはずの建物に至って、閉められた観音扉を揺らしていた。
「立って」
本能的な危機感が状況判断を上書きする。嫌悪したはずの夢璃に手を差し伸べ、起こしてこの場から離れようとする。
「いったあい…。ほんの冗談じゃないのよお、もう…」
未だ周囲の異変に気づかない彼女は、崇志の手を取ったが、なかなか立ち上がろうとしない。
「早く」
促すが、
「ねえ…崇志は、あたしのこと、もう嫌い?」
呑気な質問を返すだけだ。苛ついて、強引に体を引っ張りあげる。
夢璃の体が、勢いづいたまま、のしかかってきた。体重を支えて踏ん張ろうとしたが、彼女はわざと完全に身を任せて、崇志もろとも倒れこんだ。
「…ねえ、あたしのこと、少しも好きじゃない?」
上位を取った夢璃の栗色の髪が、崇志の顔にかかって、甘い芳香を放つ。
「…いいからどけって」
過剰に冷たい態度を維持して、青年は、かつて触れたことのある恋人の肢体を乱暴を振り落とそうとした。
「少しも好きじゃなくなっちゃったのかな…」
けれど、哀しげな表情を称えて呟く夢璃に、つい、力が抜ける。
「…好かれることなんかしてないだろうが、お前…」
柔らかい厚みを持つ唇が動くたびに、密かに動揺する己を隠して目を背ける。
「これから、する」
彼女は、付き合っていた当時に見せていたあどけない笑顔で、崇志を見下ろした。
気づくと静寂が戻っていた。神殿を襲撃した得体のしれない存在は、すでにどこにも感知できない。
「ねえ、戻ってきてよ」
微笑んだまま、夢璃は崇志の頬に手を伸ばした。
「お坊さんになっちゃうなんてヤだよ」
妹と同じような科白を吐いて、でも、きっと美耶とはまったく違う思惑を孕んでいる元恋人の真意に、青年は舌打ちをして、手を払いのける。
「…わかんねえやつだなあ」
過去のすべての縁に戻る気はないんだ、と改めて伝える。
「違うよね」
夢璃は、なぜか断定的に、崇志の言葉を否定した。
「本当は崇志も嫌なんだよね、ここから離れること」
細い指が、また頬を伝う。
耳の中に夢璃の小指が侵入してきた。妙な陶酔感が襲ってくる。このまま、彼女のわがままに屈してしまえば、出家することもなく、この土地に戻ってくることができる。家族のそばにいられるし、なにより、美耶を泣かせずに済む。
抑えこんでいた未練が大きく頭をもたげてきた。自分が死なせてしまった父母の弔いに人生をかける決断と、許されてはいけない過ちから逃げ出す選択が、いまになって揺らいでいる。死者に翻弄されたくない。幼かった自分の愚行を受け入れてもらいたい。
けれど、思いの外、頑固な崇志の性格は、その甘えを拒絶した。
「俺はここが嫌いなんだ。家族もお前も、い…」
妹も、とはさすがに続けられず、憮然として、言葉を濁す。
瞬間、鋭い痛みが耳の内壁を削った。
「いてっ」
反射的に夢璃の手を引き剥がすと、小指が赤く染まっていた。
「崇志の気持ちなんて考えてあげない。あたしはあたしのやりたいようにやるもん」
耳の奥にゆっくりと溜まっていく血液の感触。
「…やりすぎだ、ばか」
疼痛に顔をしかめて、悪態を返す。
罵られても、崇志の上に跨った姿勢のまま動こうとしない夢璃の表情は、どこか陶然としていた。
「ねえ、本当にあたしとヨリを戻さない?」
覗きこむ瞳の色が、なぜだろうか、土の色を反射したような黄土に変わっている。
「あたし、魅力ないかな?」
彼女にとっては大きな武器となっている性的な吸引力を、湿った言の端に乗せてぶつけてくる。青年は即座に拒否できず、
「松原が…」
と友人を引き合いに出して話を切ろうとした。が、
「崇志の気持ちを聞いてるの」
と先回りされた。
どこまでも自分の信念の邪魔をする夢璃に、けれど、抗わないという選択肢が、徐々に崇志の思考を占めてきていた。彼女との付き合いを再開することで、僧侶への道が絶たれ、この地からの脱却も難しくなることは…嫌じゃない。
「…綺麗にはなったと思うよ」
本心を悟られないように、慎重にそう返すと、夢璃は花が咲いたような可憐な笑顔を振りまきながら、
「ありがとう」
と礼を言った。青年の表情も、つい緩む。
ふんわりと夢璃の髪が落ちてきた。同じ速度で顔が近づいてきて、唇をついばむ。意外に幼児体型だった元恋人の姿態を思い浮かべながら、崇志は彼女の背中に腕を回そうとした。
が、ふと正気に返る。
背中をつつくと、夢璃は顔を上げて、
「なに?」
と聞いた。
「こういうなし崩しはやめよう」
苦笑して、青年は、彼女を乗せたまま身を起こそうとする。
「ヨリを戻すにしろ、その前にケジメはつけなきゃならないだろ」
神社の入口で待つ裕貴の落胆した顔を想像するのは辛かったが、夢璃の誘惑に負けてしまった以上、2人の関係についても責任は取らなければならない。
「ほら、立って」
未練がましく身を預けている、これから恋人に戻る予定の彼女にハッパをかける。
がたがた、と、微かに板戸の揺れる音がした。
冷たい空気が辺りを満たす。本能的に緊張感を高める肉体が最初に察知したのは、異常な『重さ』だった。のしかかっている夢璃の体重が、ありえない大きさで、青年をまた地面に縫いとめる。
陸上部に所属していた折に、準備体操の相手で経験した80キロほどの圧迫とは比べものにならない重量だった。平均的な体格をした彼女のものとは考えられない。
「しょ…」
完全に脱力してもたれかかっている夢璃に呼びかけようとすると、瞬間に、耐えがたいまでに質量が増大した。頭部の乗る肋骨がビキッと嫌な音を立てる。夢璃の上半身を預っている下肢と内臓が悲鳴を上げた。
迫ってくるトラックのテール。フロントガラスが飛散し、大型のバンパーが運転席と助手席に座っていた両親の頭を圧し潰した。アクセルの慣性から解放された乗用車は、同じく速度を落としたトラックに追走するように進み、後部に取りつけたチャイルドシートの鼻先で凶器の侵入を止めていた。
直前まで幼児を宥めていた母親の腕は、幼子の手首を握ったまま、肩の付け根からちぎれてぶら下がっていた。死してなお我が子に執着を抱くように、その指先は、長い間、微かに震えていたらしい。
ぎしぎしと軋む骨格の奥で、肺が満足な面積を維持できなくなり、呼吸が途切れた。苦痛に喘ぎながら、なんとか再開するも、待っているのはより大きな絶望だけだ。
都合のいい将来を望んだ罰だろうか…。酸欠と痛みで霞みはじめた崇志の視界の中で、鳥居の羅列がまた大きく揺れ動いた。さらに、取り巻く空間には青白い狐火がポツポツと点りはじめる。
『お稲荷さんは祟らんよ』。晴彦の声が虚しく回想した。
『どうしてあの子だけ生き残ったの?』。自分の生を呪うような幻聴が聞こえた。