稲荷天の報い 2
娘が完全に寝入ったのを見届けてから、母親は、声を潜めて言い出した。
「あんたがお坊さんになるつもりだから言うけど、実はね、美耶の病気って、狐憑きっていうもんじゃないかと思うの」
崇志は父親に注いでいた酒を止めて、
「……ふうん」
と真顔になる。
「なんで?」
「いま住んでるここ、宅地になる前は山だったんですって。それで、頂上には大きな稲荷神社があったらしいのよ」
崇志から一升瓶を受け取って、母親は父親のグラスを満たした。
「ご本尊は京都の伏見稲荷から、ぶ……分社された由緒あるものだったらしいけど、山を崩して移転するときに丁寧に儀式をしなかったみたい。美耶がよく行くあの丘の公園、あそこも境内の一部だったから、未だに自殺が起こったりするの」
『分社』じゃなくて『分祀』な、と崇志は訂正して、さらに『移転』じゃなくて『遷座』な、と答えてから、続けた。
「それで?」
「だからね、私とお父さんで、美耶を連れて、伏見稲荷までお参りに行こうと思うんだけど、あんたも来てくれないかしら」
母親の期待に輝く目をかいくぐって、未来の僧侶は、軽く首を振った。
「狐憑きなんて実際にはねえよ」
対面の晴彦が吹き出す。
「坊さんの台詞じゃないよ、それ。飯のタネ否定するの、崇志兄?」
「酔ってるから正直なんだよ」
崇志は顔をしかめてから、空にしたグラスを遠ざけた。
「あんたは美耶を治したくないの?」
母親が呆れる。
沈黙の中、父親も含めた4人の視線を注がれた美耶は、まったく動じる気配もなく、熟睡している。
晴彦が話題を引き継いだ。
「……狐憑きをする『狐』っていうのは、伏見稲荷の狐とは違います」
「え、そうなの? でも……」
驚いて反論しかける母親を制して、少年は知識欲で満たされている瞳を向けた。
「祟りを起こす稲荷神と認識されているのは、本来の神さんの使いのほうじゃなく、神仏習合で統合された仏教の荼枳尼天のほうです」
場の空気の中に、果てしない?????が飛び交った。
「つまり」
正座に正す晴彦の膝元で、無意識の美耶が身を任せるように寄り添ってきた。
「美耶ちゃんがこんなふうになっているのは、狐憑きじゃないってことだけは、ちゃんと説明できるんです」
少年の断言に、大の大人が説明を待つ。
※『遷座』は本来寺院の移転時に使われる言葉で、神社の場合は『遷宮』と言いますが、今日では遷宮というと伊勢神宮の『式年遷宮』に対して固有で使われることが多いため、混乱を避けるために、常用されている表現を使いました。