プロローグ
来年の春に仏教大学を卒業する予定の崇志が、正月、久々に実家に帰ってきた。高校までスポーツマンとして鳴らした頑強な体格に、気の早い坊主頭。母親から順番に、父親、妹の美耶まで、
「なんか怖いわよ、あんた」
「坊さんには見えんな」
「ヤ○ザ……」
捗々しくない感想を述べる。
「やかましい」
一蹴してから、玄関先にどっかりと荷物を下ろす彼。
父親が普通のサラリーマン、母親は専業主婦という、ごくごく一般的な家庭に育った崇志が僧門に入ることを目指したのは、単なる気まぐれだったと、美耶は聞いていた。
「愛読書が孔○王だったんだ」
と真言を駆使して魔物退治をする漫画を引き合いに出して茶化す言葉を、鵜呑みにしたわけではないけれど、元々の深慮のない性格から、まあ、真実もそんなところなんだろうと思っていた。
「お兄ちゃんは気楽でいいよね……」
自身の根暗な性格から、友達付き合いでつまずき、高校で登校と不登校を繰り返している美耶にとって、崇志は、目障りでもあり、また尊敬の対象でもあった。普通に学校に通えるという理由だけでなく、彼の評判が、親、友だち、かつての恩師たちに高評価されているからである。
「あたし……なんで、妹なのに、お兄ちゃんと同じようにできないのかなあ……」
以前、コンプレックスをそのままぶつけたときに、兄からはこんな言葉が返ってきた。
「お前、妹じゃねえもん」
そこまで存在を否定されると、自信のなさにますます磨きがかかるものである。
靴を脱ぎ、玄関を上がりかけてから、崇志は思い出したように、外に顔を向けた。
「おい、入ってこいよ」
え、という表情をした崇志以外の3人の前に、おとなしそうな、そして利発そうな雰囲気を持った少年が姿を見せた。
「紹介してくれないと、肩身が狭いじゃないですか」
苦笑しながら頭を掻く彼の風貌は、高校生の域を出ていないような稚さを持っている。
繊細な顔立ちに線の細い体躯を見咎めて、美耶は慌てて母親の後ろに隠れた。この手の男子に免疫がない。免疫のないタイプに近寄ることは苦手だった。
「あ、こいつ、大月晴彦っていうの。正月の間、うちに泊めるからよろしく」
事も無げに言う崇志に、母親が、
「先に言っときなさいよ、そういうことは」
と叱った。そして晴彦のほうを見て、
「とりあえず上がってくださいな」
と促す。礼儀正しく一礼した少年は、脱いだ靴を揃えながら、崇志に向かって、
「信じられん。連絡してなかったの、崇志兄?」
と毒づいた。
晴彦を迎えるために、母親と客間を片付けながら、美耶は大きな溜息をついた。
「普通、急に来客があったら、断るもんじゃないの?」
問題の客人は上階の崇志の部屋に引っ込んでいるから、聞かれる心配はない。
「崇志のお客さんなんだからいいじゃない」
母親は笑みを浮かべてそう答える。絶大な信頼のなせる技だ。
「だって……よりによって男の子なんて……」
ぶつぶつと文句を呟く美耶に掃除機を渡しながら、
「女の子連れてきたら、もっと問題だったと思わない?」
と母はつれなく言った。しかたなく、歓迎しない来訪者のために労働をする。
ひととおりの手伝いを済ませ、夕食までの時間を自室で過ごしていた美耶の耳に、ノックの音が聞こえた。
「俺。ちょっと出てきて」
問答無用の兄の誘いに、しぶしぶドアを開ける。
「何? あたし、いま、宿題中……」
「嘘つけ」
広げていたティーンズ用の雑誌を即座に見破られた。
「…宿題はしてないけど、お兄ちゃんの用事をしてあげる気はないからね」
バツの悪さを隠して、そう牽制すると、
「んじゃ『晴彦のために』近所を案内してやって」
と告げられた。
目が点になる。
「はい? あたしが?」
非難を含んで確認すると、ガラの悪くなった兄は、当たり前のように頷いた。
「そう。俺、いまから一寝入りすっから」
因果関係がわからない。崇志の昼寝と、
「あたしがなんで」
案内役に抜擢させなければならないのか。
「暇そうじゃん」
簡潔な理由だった。
さらに文句を重ねようとした美耶を遮って、マイペースな兄は晴彦を大声で呼んだ。
「おい、美耶がいいって」
人懐っこい目をした少年が、隣の崇志の部屋から顔を出し、
「よろしくお願いします」
と丁寧に依頼した。
黄昏時の住宅街を抜け、木枯らしの吹き荒れる田園の傍を行く。西にそびえる丘の向こうから、残照が、掌のような赤い痕跡を伸ばした。
「……寒いだけなんだけど」
小声で愚痴る美耶の横で、晴彦は、彼女より若干高い背丈を姿勢よく維持したまま、止まった。
「いいとこだね」
「寒いだけなんだけど」
もう一度繰り返し、美耶は、ポケットに突っ込んだ手を出して、マフラーの位置を整えた。
「それだけ重装備してんのに?」
呆れたふうもなく、他意のない無邪気な笑顔を振りまきながら、少年は、自分の上着から使い捨てカイロを取り出して、渡す。
「根本的に解決になってない。帰りたいって言ってるんです」
俯いたまま口を尖らせると、
「あの丘のほうに行きたい」
と完全に提案を無視された。溜息をついて、見た目に反して図々しい来客のために、また歩を進める。
丘は自然公園として整備されている。麓には10台ほどのスペースを持つ駐車場があり、そこから、遊歩道が雑木林の中に伸びていた。すでに辺りは夜に近いほど暗い。
「こんな時間から中に入るのは嫌だよ」
と釘を刺すと、
「いいよ。ここまでで」
と答えが返った。じゃあ何しに来たのよ、こんなとこまで、の文句は飲み込んだ。言えば、これ以上の進行を誘うようなものだ。
晴彦は、しばらく思慮深い顔で遊歩道の先を見ていたが、不意に美耶のほうに振り向いた。トーンを落とした声で語りかける。
「崇志兄に聞いたんだけど、この山って自殺者多いんだってね」
どきん、と心臓が跳ねた。慌てて晴彦から距離を取り、取り繕う。
「そ、そうなの? 聞いたことない」
「美耶ちゃんは、もうそんなことしないだろ」
「しっ……」
反論の途中でつぐむ言葉。沈黙。溜息。また沈黙。
駐車場の手前に配置された、木製の柵に腰をかける。同じく隣に落ち着いた少年に、顔を向けないまま、美耶は告白した。
「最近は落ち着いてるの……。中学生の時はひどかったけど……。お兄ちゃんが見つけてくれた頃がピークかな……」
「崇志兄が、オレに会うたびに美耶ちゃんの話するんだよ。ほら、同じ高校生だからさ。多感な時期っていっても、習慣みたいに繰り返すのはおかしいって。オレもそう思う」
晴彦も美耶を見ていないようだった。前方に真っ直ぐに飛ぶ声が、美耶への直接の非難を回避してくれる。
「わかってる。自分でもおかしいと思うの。でも、生きてるのがすごく怖いときがある……。……じゃないね。生きてるのが間違ってるって思うときがあるんだ……」
あの衝動をどうやって説明したらいいかわからない。自分が自分ではないような、生への執着が罪悪であると断定されてしまうような。
また沈黙が訪れた。あと。
晴彦が、頭を掻きながら、苦笑した。
「ジサイの恨みって強力だなあ」
「ジサイ?」
聞きかえす美耶に向きなおって、少年は説いた。
「美耶ちゃん、自分で覚えてないかな。普段の生活の中で、ときどき、別人みたいになるらしいよ。自分がなぜジサイに選ばれたのかって泣き喚くんだって」
情緒不安定になって、突然泣いたりするのは記憶していた。でも。
「……ジサイって何?」
そのキーワードに覚えはない。
「ジサイってのはさ……別の言葉で言えば、巫女」
美耶と歳の変わらないはずの晴彦は、一般的でない知識をすらすらと解いた。
「『持つ』に『衰弱の衰』と書いて『持衰』。じすい、とも言うけどね。邪馬台国以前から日本にあった職業で、……えっと……、現代で言うと、生贄みたいな立場」
「え……」
『生贄』の単語に、確かに反応する恐怖があった。
「それが、あたしとどう関わるの……?」
聞いてはみたが、答えはもう出ている気がした。
「オレにもそこはよくわからない。1800年も前の存在が、美耶ちゃん憑依するとは思えないし」
首を傾げる晴彦に、真実を知ってもらいたい衝動が湧いた。
「あたし……たぶん、生まれ変わりなの」
そういうと、彼は、
「あ、そっち」
と大して驚きもしなかった。
「自覚あるんだ?」
と聞きかえされて、
「なんとなく」
と答える。
持衰の名前の出てくるもっとも有名な書物は『魏志倭人伝』だろうね、と少年は言った。
「魏志倭人伝……は知ってる?」
現役高校生がまさか知らないことはないだろう、でももしかして、という口調で尋ねる晴彦に、美耶は、
「邪馬台国の説明本」
と答えた。
「あははっ」
屈託のない笑い声が響く。
「それも有名だけど、当時の日本の習俗を表記した書物としての価値のほうが高いんだ。邪馬台国の記述は信憑性に欠けるから」
そういえば、邪馬台国の位置が未だに特定されないのは、魏志倭人伝の注釈が間違っているからだと、美耶も聞いたことがある。
魏志倭人伝は、古代の日本人の習慣を記した書物、その中に『持衰』の項目がある、ということか。
さっき、晴彦は『持衰はシャーマンのことだ』と言った。シャーマン……。
シャーマンと言えば代表格は卑弥呼だ。……というぐらいの知識は美耶にもあった。鬼道という、一種の超能力を使って、政治を行った邪馬台国の女王。ということは……。
「……え、じゃあ、あたし、卑弥呼の生まれ変わりなの?」
驚く美耶に、
「壮大な勘違い」
と晴彦は言い捨てた。
「その言い方、ムカつく」
不慣れだった異性への壁がいつの間にか取り払われていた。頬を膨らませると、賢明な少年はまた笑った。
「婆ちゃんの卑弥呼よか美耶ちゃんのほうが可愛いじゃん」
膨れた顔が見る見る赤くなる。
「話を戻すけど、魏志倭人伝の中の持衰の項目は、こんなふうに書かれてるんだ」
晴彦は幾分か真面目な態度を取り戻して、言った。
「古代人が航海に出るときは、厄除けに持衰が選ばれる。持衰はすべての厄を身に受けるという意味から、体を清潔にすることもできず、肉食は禁止。船が無事に帰ってくれば褒美として財産が与えられるが、船に災難があれば殺される」
『災難があれば殺される』。その言葉が美耶の頭にリピートした。
「あたし……殺された持衰の生まれ変わりなのかな……」
「だったとしても、生まれ変わった肉体まで壊そうとするのは、度を越してるんじゃないの?」
少年の言い分にも頷けた。
「だったら……あたしの中にいるのは……普通の持衰じゃないの?」
油断すると頭をもたげてくるドス黒い存在の正体を知りたい、と思った。
「イレギュラーなケースは知らないけど、想像することはできるよ。怨霊とか呪いとかって、オレの中じゃメジャーな世界だから」
知りたきゃ協力する、と、博識の彼は請け負った。
日が暮れきって真っ暗になった夜道を、2人で帰る。
「ねえ……もしかして、今回来てくれたのって……」
崇志から自分の悪癖を聞いた晴彦の善意なのではないかと、美耶が尋ねると、
「半分は。でもごめん。半分は興味」
と少年は苦笑した。
「いいよ、それで」
赤の他人が気にかけてくれる。それだけでなんとなく心強かった。
「ところで、大月くんって何年生なの?」
同じ高校生であることはわかったけど、態度や容姿からは年齢が測れない。
「ハルでいいよ。3年生」
「あ、歳上なんだ」
2年生の美耶は、ちょっと意外に思いながらも、覗きみた横顔が思いのほか大人びていたことで、納得した。そして、気づく。
「……受験生?」
「それ、言うなって」
晴彦は、困った顔で、また頭を掻いた。