婚約解消で七年分の料理人の名を奪われましたが、市場籠と店の鍵で惣菜店を取り戻します
「僕を支えたのはフローラだ」
お玉の先が鍋底に当たり、こつん、と鳴った。ロザリーは火から鍋を外しかけた姿勢のまま、病室の開いた扉を見た。
朝粥は、もう炊けている。米は舌でほどけるまで煮え、すり潰した蕪と鶏の出汁も馴染んでいた。ここで火を止めなければ粘りが出すぎる。婚約が終わるにしても、お粥まで台無しになる筋合いはない。
「七年ものあいだ、僕は病床にいた。フローラは毎日、温かい皿をこの部屋まで運んでくれたんだ」
寝台の上で、オスカーは穏やかに言った。長く伏せていた頬にはまだ薄い影があるものの、声はずいぶん戻っている。
「雨の日も、雪の日もだ。僕が食べられないときには、食べ終わるまでそばにいてくれた」
なるほど。お粥は鍋で煮えるところより、廊下を歩くところが大切だったらしい。
米を研いだ手も、夜明け前に鶏を捌いた手も、雪で荷車が止まった日に粉袋を抱えて歩いた足も、廊下へ出なければ存在しない。料理というものは皿に盛った瞬間、自然発生したことになるらしい。世紀の大発見である。腹の足しにはならないが。
「だから、ロザリー。君との婚約を解消し、フローラと生きたい」
フローラが寝台の脇へ膝を寄せ、オスカーの手を取った。手袋を外した指は白く、爪の際までなめらかだった。皿の縁を持つには、実に向いていそうだ。
「オスカー様。これからは私がお支えします」
「ありがとう、フローラ」
二人の手が重なる。ロザリーは鍋へ戻り、蓋を少しずらした。湯気の匂いを嗅ぎ、塩をひとつまみ足す。病み上がりには薄味がよい。けれど薄すぎれば、飲み込む楽しみまで消える。
祝いの場ではない。塩梅が難しい。
「承知いたしました。婚約解消の書類は、父を通してお返事いたします」
「すまない。君なら、わかってくれると思っていた」
よく煮えた台詞だった。形がなくなるまで都合だけが煮込まれている。
ロザリーは味見用の匙を置いた。本日の朝、昼、晩については、すでにグレンから頼まれている。婚約を切られた勢いで病人の食事まで切れば、寝覚めが悪い。何より、せっかく戻りかけた食欲を粗末にするのは料理人の沽券に関わる。
「本日お約束した三食は、私が作ります。それで、ここでのお役目は終わりにいたします」
フローラがわずかに目を丸くした。
「まあ。お食事のことなら、今までどおり料理番の方々がなさるのではなくて?」
ロザリーは病室の外に控えていたグレンを見た。老料理番は、きれいに磨かれた盆を両手で持ったまま、こちらを見なかった。
そういう味付けか。承知した。
ロザリーは粥椀を盆に載せ、フローラへ差し出した。
「明日から台所もお任せします」
* * *
二食目の注文は、オスカーの病室で始まった。
「若様、昼には何を召し上がれますか」
グレンが寝台のそばで尋ねる。ロザリーは廊下の壁際に寄せた配膳車の陰で、空いた朝食の椀を確かめていた。きれいに平らげてある。腹が戻ってきたのはよいことだ。腹だけは裏切らない。持ち主が誰と婚約しようが、時間になれば鳴る。
「パンを少し。それから、鶏の汁物がいい」
「具はどういたしましょう」
「豆は重い。根菜なら食べられると思う」
「かしこまりました」
グレンは病室を出ると、配膳車を押すロザリーと並んだ。曲がり角を二つ過ぎてから、ようやく口を開く。
「若様は、鶏の汁物を。豆は避け、根菜を入れてほしいそうです」
「パンは?」
「少しなら」
注文を取る人、作る人、運ぶ人。たった一皿の向こう側で、役目はきれいに三つへ切られていた。ただし感謝だけは、廊下を歩いた人の皿へ大盛り。配分が豪快すぎる。
台所へ戻ったロザリーは、保存棚から人参を一本選んだ。隣の籠のものより細いが、芯まで甘い。鶏は骨の周りから身を外し、朝の出汁へ戻す。乾燥させた香草は指先で揉み、香りが立つものだけを落とした。
「こちらのパンは使わないのですか」
若い使用人が、棚の端に積まれた丸パンを指した。
「昨日の粉は水を吸いすぎています。焼けば固くなるので、昼まで寝かせた生地を使います」
「見ただけでわかるものなのですね」
「匂いです。粉は古くなると、拗ねた戸棚みたいな匂いがします」
使用人は戸棚と粉を交互に嗅いだ。たぶん、どちらも木の匂いしかしない。七年分の鼻は、説明したところで鼻から移植できるものではなかった。
火を細くし、汁の表面が揺れる手前で鍋を止める。腹は立つ。けれど鍋底まで腹を立てさせる必要はない。焦げついた鍋を磨くのは、結局こちらなのだ。
昼の鐘が鳴るころ、盆の上には薄く焼いたパンと、鶏と人参の澄んだ汁物が並んだ。ロザリーが布で椀の縁を拭うと、グレンが盆を受け取る。
グレンは廊下を渡り、病室の前でフローラへ渡した。ロザリーは配膳車を押して、その二歩後ろまでついていく。
「まあ、よい香り」
フローラが笑い、盆を持って病室へ入る。するとオスカーも顔をほころばせた。
「今日もありがとう、フローラ」
「お口に合うとよろしいのですけれど」
うん、その心配は台所でした。味見も二度した。どういたしまして、とロザリーの腹が鳴る。朝から粥の味見しかしていないせいだ。婚約解消より空腹のほうが、よほど正直に体へ響く。
オスカーは汁をひと口飲み、目を細めた。
「この味は、ずっと変わらないな。誰が作ったんだ?」
盆を渡し終えたグレンの指が、前掛けの端をつまんだ。彼は床へ目を落とし、答えない。
「昔からいる料理人でしょう?」
フローラが代わりに言い、パンを小さくちぎった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
ロザリーは空の配膳車を押して台所へ戻った。廊下の向こうで匙が椀に触れる音がした。
冷めないうちに、とは正しい。正しいことは、誰が言っても正しい。その皿がどこから来たのかは、今日いっぱい知らなくても食べられる。
明日は知らない。
* * *
三食目の皿を出し終えたころには、窓の外が藍色に沈んでいた。
オスカーの食欲は昼より増し、焼いた白身魚も柔らかな芋も残さなかった。約束した三食、終了。ロザリーは戻ってきた皿を洗い、布巾を固く絞った。
棚には今朝焼いたパンが二つ。粉桶には二日ぶんほどの粉、塩壺には半分、地下の貯蔵棚には根菜と燻製肉。薪台には乾いた薪を三束積んである。
どれも館のために買ったものだ。代金の多くをロザリーが立て替えていても、ここで持ち出せば明日の朝食が消える。そんな仕返しは腹持ちが悪い。食べた直後だけ胸がすく、砂糖菓子以下の代物である。
置いていく。なくなった後は、なくした側が買えばよい。
ロザリーが持ったのは、吊り棚に掛けていた市場籠だけだった。柳を編んだ古い籠で、持ち手には青い布が巻かれている。七年前、自分の惣菜店で毎朝使っていたものだ。
籠の底には、店の鍵が転がっていた。すっかり曇っている。七年休んだ錠前が素直に開くかは怪しいが、油を差せばよい。人間関係より、錠前のほうが話が早い。
「ロザリー様」
裏口へ向かう彼女を、グレンが呼び止めた。老いた手には何もなく、前掛けだけが不自然に整えられている。
「はい」
「明日の献立を、せめて書いていただくわけには」
「粉は残してあります。パンも二つ。薪も乾いたものが薪台にあります」
「それは、わかっております。しかし、その次が」
グレンの声が細くなった。ロザリーは市場籠を持ち直す。青い布が手のひらに馴染んだ。
献立を一枚書けば、次の一枚も要る。粉屋の名を教えれば、値切り方を尋ねられる。薪を雨に当てるなと言えば、積み方も、乾かす日数も、火持ちの見分け方も。七年は、一晩で書き渡せる覚え書きではない。
書いたところで、おそらくまた誰かが持っていくだけだ。紙は廊下を歩けないから、今度は紙の功績にもならないかもしれないが。
「グレンさん。これまでありがとうございました」
「私は……」
グレンは、開きかけた口を閉じた。視線だけが市場籠へ落ちる。
「若様には、まだ静養が必要です」
「ですから、食材も薪も残します」
「次の市は、二日後です」
「ええ。よく存じています」
この町では冬前になると粉の値が上がる。南門の粉屋は朝が早く、昼まで残っている袋は湿気を吸ったものが多い。ロザリーの足は、頭で考える前に値札と粉袋の張りを比べられる。
けれど、その足をまた館のために使う理由は、今夜でなくなった。
「次の買い出しは、次の婚約者のお仕事です」
グレンの肩が、前掛けの下で落ちた。
ロザリーは裏口を開けた。冷たい夜気が頬を撫で、厨房に残る焼き魚の匂いを外へさらっていく。腹が鳴った。そういえば、自分の夕食を作っていない。
最後まで、そこだ。七年も人の皿ばかり見て、自分の腹を後回しにする癖がついている。まったく、躾の悪い料理人である。
今夜は父の家で、卵を二つ焼こう。ひとつでは足りない。婚約を失った女には慎ましい夕食がお似合い、などと誰が決めた。卵は二つ。チーズも載せる。決定。
ロザリーは籠を揺らし、館の門を出た。
* * *
温かい朝食は、翌朝には続かなかった。
市場へ向かう道は療養館の使用人門の前を通る。店の鍵と油差しを籠へ入れたロザリーがそこまで来ると、開け放たれた台所の戸から、粉っぽい声が飛び出してきた。
「空です」
「昨日は入っていたでしょう?」
「底に少しだけです。パンを焼くには足りません」
使用人たちが粉桶を囲み、揃って隣の者を見た。見られた者もまた、その隣を見る。仕事が目だけで一周した。残念ながら粉は増えない。
門の外からでも、桶の底は見えた。昨夜のパン二つは使用人たちの朝食へ回り、二日ぶんの粉は、加減も知らずに捏ねた大鉢の生地へ消えていた。台の上では、重い生地が布の下でぴくりとも膨らんでいない。
フローラが棚の扉を順に開けた。薄青い朝着の袖が、空の瓶を次々となぞっていく。
「でも、台所にあるのでしょう?」
「そこにあったものが、全部です」
グレンが答えた。声は昨夜より乾いている。
「では、倉から出してくださいな」
「倉にもございません」
「粉屋へ頼めばよいのでは?」
「どの粉屋へ、どれほど頼みましょう」
フローラの問いが止まった。棚の奥へ手を入れ、出てきたのは粉を払うための刷毛一本。朝食には向かない。
そのとき、廊下の奥からオスカーが現れた。厚い上着を羽織っているが、襟元は乱れている。
「何をしている。早く朝食を用意しろ」
「オスカー様、粉がないそうなのです」
「なら買え」
「市はまだ立っておりません」
「ロザリーを呼べ。彼女なら予備を知っている」
短い命令が台所へ落ちた。ロザリーの足は門の外で止まったままだったが、中へ向く気は起きない。呼ばれて戻るほど、彼女の腹は人ができていなかった。朝食前ならなおさらである。
グレンが粉桶の蓋を閉じた。
「予備はございません。ロザリー様が、なくなる前に買い足しておられました」
「では、次の市で買えばいい」
「次の市がいつか、私は昨日まで確かめたことがありませんでした」
オスカーの眉間に皺が寄る。使用人たちはまた互いを見たが、今度は誰も目を逃がさなかった。ただ、答えを持つ者もいない。
「薪はあるのか」
「三束です。冬まで持つ量ではございません」
「なぜ、もっと用意していない」
「用意しておられたのは、ロザリー様です」
グレンは、そこでようやくオスカーを見た。
「若様のお加減を聞いて献立を決め、粉を買い、薪を乾かし、冬前には保存の支度をしておられました。私は厨房で、ロザリー様から鍋を預かっていただけです」
「では、あの粥も」
「ロザリー様です」
「昨日の汁物も?」
グレンの視線が床へ落ちた。答えは、落ちた視線のほうにあった。
オスカーの手が、乱れた襟元を押さえた。フローラは刷毛を握ったまま、粉桶と自分の指先を見比べている。粉は皿になって現れない。火も勝手には点かない。七年ぶんの温もりが、空の桶ひとつへ形を変えていた。
ロザリーは籠の持ち手を握り直した。
胸の奥へ、熱いものがすとんと落ちた。勝った、とは少し違う。焦げついていた鍋底が、ようやく一枚きれいに剥がれたような具合だった。
台所では、グレンが役目を振り分け始めた。
「水は二人で。残りの根菜は、今日中に塩漬けにします。粉を買う者は、私と市へ」
「私が参ります」
フローラが刷毛を置いた。
「どのお店で、何を買えばよいのでしょう?」
「見て覚えていただきます」
答えをもらえると思っていた顔が、ほんの少し固まった。それでもフローラは手袋を取りに廊下へ向かった。
オスカーが呼び止める。
「フローラ、朝食は」
「粉を買わなければ、昼食もございませんわ」
柔らかな声のまま、返事だけが妙に固い。オスカーは口を閉じた。
ロザリーは門から離れた。油を差すべき錠前が待っている。人の朝食より、自分の店の朝だ。
* * *
七年閉めていた店は、拗ねるどころか盛大に埃をかぶっていた。
扉の錠前は油を差して三度揺すると開いた。中では椅子が卓上へ伏せられ、鉄板には薄く錆が浮いている。竈の灰をさらい、鉄板を磨き、窓を開け、床を磨く。それだけで昼になった。
腹が鳴ったので、ロザリーは掃除を中断した。働く者は食べるべきだ。とても大事な規則なのに、七年ほど運用を誤っていた。
市場の肉屋で挽き肉を買い、玉葱と脂を刻む。胡椒を多めに振り、練った生地で包んだ。オスカーは胡椒を嫌ったから、療養館の料理ではずっと控えていた。
今日は遠慮なく入れる。ひと振り。もうひと振り。ついでに三振り目。自由には胡椒の匂いがする。
「ずいぶん景気よく振るな」
店先から声をかけたのは、隣町の食材商テオだった。肩に豆袋を担ぎ、空いた手で肉包みの籠を覗き込む。
「七年ぶんです」
「そりゃ、くしゃみが出そうだ。店を開けるのか?」
「竈が言うことを聞けば」
「竈より、あんたの腹のほうが急かしているようだが」
ロザリーは返事の代わりに、一つ目の肉包みを鉄板へ並べた。焼けた脂が生地の合わせ目からにじみ、玉葱の甘い匂いが通りへ流れる。通行人が一人振り返り、二人目が足を止めた。
「いくらだ?」
まだ看板も出していない。値札もない。それなのに客は匂いへ財布を開いた。匂いは皿を運ばなくても仕事をする。実に働き者である。
ロザリーは慌てて値を決め、紙へ書いた。最初の籠は昼の鐘までに空になった。二度目に焼いたぶんも、テオが「七年ぶりの店だ」と声を張ると、ほどなく売り切れた。
翌日の市場には、フローラが来た。
令嬢らしい外套の裾を気にしながら、粉屋の袋をひとつずつ覗いている。グレンは半歩後ろにいたが、品を選んではやらなかった。
「こちらがいちばんお安いのですね?」
「安いが、冬のパンには向かないよ。湿気を吸っている」
粉屋が答えると、フローラは袋の口へ顔を近づけた。
「私には、どれも同じ香りに思えますわ」
「なら、少し握ってみな」
指でつまんだ粉は、小さな塊になって落ちた。フローラは困ったように首を傾げ、それでも安い袋を買った。
翌々日、彼女は膨らまなかったパンを布に包み、また粉屋へ持ってきた。表面は平たく、角なら文鎮としても働けそうだった。
「同じように作ったはずなのですが、なぜでしょう?」
「粉が水を吸っていたからだ。水を減らすか、別の粉と混ぜるんだな」
「どれほど減らせば?」
「生地に聞くんだよ」
疑問形をもう一つ飲み込んだフローラは、今度は粉へ指を入れ、何度も擦り合わせた。爪の際に白い粉が入り込む。二つ目の袋は、最安のものではなかった。
ロザリーは自分の店から、その一部始終を見ていた。助言はしない。教えれば早いのはわかっている。焦げを見つけると手を出したくなるのも、困った職業病だ。
しかし、あちらの生地はあちらの手で捏ねるべきだ。こちらにはこちらの肉包みがある。今朝は刻んだ茸を混ぜた。味見が必要。厳正な味見が。
冬が近づくにつれ、療養館の使用人たちも市場へ姿を見せるようになった。二人で水桶を運び、別の二人が傷の少ない根菜を選ぶ。誰かが誰かの用事を待つのではなく、買ったものをその場で分けて抱えて帰っていった。
オスカーも、やがて薪売りの前に立った。
高いだの多すぎるだのと短く言い、安い薪を選んだ。翌朝には湿った薪が煙ばかり吐いたらしく、煤で灰色になった袖のまま交換へ来た。薪売りに割った断面を見せられ、黙って乾いた束を持ち上げる。
病床から出たばかりの腕には重い。数歩ごとに持ち直し、それでも使用人へ渡さなかった。指の付け根には、潰れた豆が二つ並んでいた。
ロザリーは焼き上がった肉包みを籠へ移した。粉袋も薪束も、もう彼女の荷物ではない。
そう思うと、自分の籠が驚くほど軽かった。
* * *
本格的な冬の朝、ロザリーはいつもより早く家を出た。
夜明け前に雪が降り、療養館の屋根も市場の庇も薄く白んでいる。籠の中には、発酵を終えた生地と、昨夜から寝かせた肉餡。今日は脂を少し増やした。寒い日の客は、熱と油に正直だ。
使用人門の前まで来ると、台所の裏庭で斧の音が止まった。
オスカーが薪台の前に立っていた。袖には木屑がつき、手袋を外した手には潰れた豆がある。以前より頬へ色は戻っているが、朝の薪割りを楽しんでいる顔ではない。
グレンが薪の断面を確かめ、端に避けた太い一本を指した。
「若様。こちらは、まだ割れておりません」
「今日はもう十分だろう」
「昼までに火が落ちます」
グレンは斧の柄を、オスカーへ向けた。老料理番らしい遠回しな物言いは残っていたが、斧だけはまっすぐだった。
そこへ、フローラが市場側から戻ってきた。両腕で粉袋を抱え、頬に白い粉をつけている。手袋から覗く指先は赤く、いくつか細いひびが走っていた。
「お帰り、フローラ。粉は買えたか」
「ええ。今度のものは、握っても固まりませんでしたわ」
「なら、パンを頼む」
「薪がなければ焼けませんの」
フローラは粉袋を台所の戸口へ置いた。腰を伸ばし、グレンが差し出している斧を見てから、オスカーを見る。
「僕は朝から割っている」
「私も朝から粉屋へ並びました」
「手が痛むんだ」
「奇遇ですわね」
フローラは赤くなった指を開き、また閉じた。疲れた顔で、それでも口元だけを少し上げる。
「明日から台所もお任せします」
オスカーは何も言い返さなかった。
グレンの手から斧を受け取る。潰れた手のひらで柄を握り直し、薪台へ向き直った。フローラも粉袋を抱え直し、肩で台所の戸を押し開ける。
粉のついた頬と、木屑のついた袖。ようやく二人とも、食卓のこちら側へ来たのだ。
ロザリーの胸の奥で、冷えて固まっていたものがほどけた。ざまあみろ、と胡椒をひと瓶ぶちまけたいほどではない。ほんの、ひと振りぶん。料理にはそれくらいがちょうどいい。
斧の音を背に、ロザリーは市場へ向かった。
店の竈へ火を入れると、生地は素直に膨らんだ。肉包みを並べた鉄板から、脂の弾ける音がする。底へ焼き色がつき、合わせ目から肉汁がふつふつと顔を出した。
開店前から、二人の客が待っていた。鐘が鳴るころには五人になり、最初の籠が空く前に次の注文が入る。
「茸入りを四つ取っておいて」
「昨日の胡椒が多いやつ、今日はある?」
「次はいつ焼けるんだい?」
誰かの好みに合わせ続けた七年が、嘘のようだった。胡椒が多いものを欲しがる人もいれば、玉葱を増やしてほしい人もいる。ならば明日は二種類焼けばよい。いや、チーズ入りも捨てがたい。自分が食べたい。重要。
昼前、最後の肉包みが売れた。空になった籠を、テオが頭の高さまで持ち上げる。
「見事に空だな。次の市にも来るんだろう?」
並んでいた客たちも、ロザリーを見た。
「来週は茸を増やしておくれ」
「胡椒のも忘れないでよ」
「朝いちばんに来れば買えるかい?」
待たせてはいけない病人の食卓ではない。作って当然と思う館でもない。次を待っているのは、代金を握り、腹を空かせ、ロザリーの店を目がけて来る人たちだった。
ロザリーは顔を上げた。
「ええ。次の市にも参ります。今日より多く焼きますから、しっかりお腹を空かせてきてください」
「そいつは任せろ」
テオが笑い、客たちも口々に注文を重ねた。
ロザリーは売り物とは別に避けておいた肉包みを取り出した。いちばん焼き色がよく、いちばん肉汁を抱えている一つ。料理人の特権である。七年ぶん行使していないのだから、誰にも文句は言わせない。
かじると、薄い生地の中から肉汁が溢れた。舌が焼けそうに熱い。胡椒が鼻へ抜け、脂と玉葱の甘みが追いかけてくる。
ロザリーは冷まさず、もうひと口かじった。
今日は、誰かを待つ理由がなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




