空蝉の月 竹取月人秘抄
水飛沫の音と無邪気な子どもたちの声が月宮内に響き渡っている。閑霞は楽しそうな水浴びの中にひとつ異色の声を耳に入れ、建物の陰からその姿を見つけた。
緋の長袴をはしたなくたくし上げ、青い地球の光に照らされる白い足が露わになっている。
「輝夜」
閑霞は呆れを滲ませた声色を隠さず、宮殿に通された遣水で稚児に混じって戯れている女性に声をかけた。
彼女は声の主を振り返ると、無邪気に綻ばせていた表情を瞬時に強張らせ、遊び相手を失うこしづかとに不満を口にする子どもたちを宥めながら遣水から上がる。
脱ぎ捨てられた単や打衣に閑霞は目を向ける。輝夜は取り繕うような浅い笑みを浮かべながら衣を拾った。束ね髪を下ろして手櫛で軽く梳く。
「月后さまがお呼びです」
彼女は表情をさらに引きつらせて、短く「そうなの」と言った。
「ねえ、わたしがここでこんなことをしていたことは黙っていてくれない?」
そして輝夜はそんなことを口にした。閑霞は彼女の締まりのない愛想笑いを静かに睨め上げると、目を逸らす。
「早く行かれた方がよろしいかと」
輝夜は閑霞の不明瞭な感情表現を見抜くと、小さく手を合わせた。閑霞が見て見ぬふりのために目を伏せたとき、耳元にささやかな吐息がかかる。「見逃してくれてありがとう」葉擦れのような声に、閑霞は目を開いた。振り返ると、打衣を引っ掛けた輝夜の背中はすでに遠い。
閑霞は耳に触れながら、遣水で甲高い声を響かせる稚児に向き直った。
「お遊びの時間はおしまいです。中へ戻って和歌を詠みますよ」
子どもらは唇を尖らせながらも素直に水から上がる。
「自由奔放で困った方ですわね」
そのとき、突如掛けられた声に胸の内を暴かれた気がして、閑霞は気づかれないよう息を止めた。
「本当に! 閑霞さまのお手を煩わせるなんて……」
「対して閑霞さまはいつも規律正しくていらっしゃる。まさに規律の番人ですわ」
二人の下臈の女房が閑霞を量るような言葉を掛けてくる。閑霞は心中を悟られないよう声色を殺して口を開いた。
「無駄な口を叩いていないで、貴方たちも持ち場に戻りなさい」
閑霞はたしなめたつもりだったのだが、予想に反して二人は目を輝かせる。「なんてお心の広い……」輝夜を庇ったようにでも見えたのか、勘違いをされているようだ。閑霞はこっそりとため息を押し殺した。
月人らが活動を終え、世界が静まり返る休息の時間。閑霞は自分のものではない衣擦れの音と、潜めるような浅い呼吸にうっすらと目を開いた。
「起きてしまった?」
褥に横たわる閑霞を跨いでいる輝夜の顔はいたずらっぽく笑っている。
「昼はありがとう。本当に黙っていてくれたのね」
閑霞は特に騒ぎ立てることなく、顔を逸らした。
「いやだったでしょう。ほらわたし、はしたなかった」
輝夜は白い小袖の裾をたくし上げると、なだらかな太ももが地球の淡い光に照らされる。閑霞は自然と視線が吸い寄せられていた。
「ねえ、許して。相手は稚児だったのだし」
輝夜の乞うような態度に、閑霞はついに口を開いた。
「私が悋気だとでも思って?」
思いの外冷ややかになってしまった声色に、輝夜は刹那だけ驚きの表情を見せると、すぐに肩を揺らして鈴の鳴るような笑い声を上げた。
「そうよね。閑霞がそんなはずない」
輝夜はゆっくりと上半身を倒すと、閑霞の顔を覗き込んだ。輝夜の長い緑の黒髪が二人を世界から隔絶するように帳を降ろす。
濃い麝香の香りが閑霞の鼻腔をくすぐった。閑霞の衣に焚き染めていた白檀が麝香に塗り替えられてゆく。体の奥底から侵略するような強い香に閑霞は瞼を伏せた。輝夜はそれを受容の合図と受け取り、閑霞の細い顎をそっと撫でる。
閑霞の唇に柔らかい感触が押し付けられた。じっくりと味わうような接吻に閑霞は首の力を抜く。
やがて惜しむように離れてゆくぬくもりに目を開くと、輝夜は慈しみの笑みを浮かべていた。
「下臈の子たちが私たちの関係を知ったら卒倒してしまうわね」
輝夜は閑霞の湿った唇を親指の腹で撫でる。閑霞は指の感触に抗うように口を割り開いた。
「卒倒するのはあの子たちだけではないでしょう」
「そうね」
輝夜の端正な美貌が再び迫る。閑霞はほうと息を吐いて、輝夜にすべてを委ねることにした。
「女知音は禁忌だもの」
棚に積み上げられた巻物の名称を拾う。閑霞は腕の中にある巻物の一つを、棚に隙間を作り、あるべき場所に差し戻した。それから作業的に次の巻物の手に取る。
「あなた、自分の仕事はどうしたのです」
これは向こうの棚だ。そう確認しながら、閑霞は文庫に増えた気配に声をかける。後ろで手を組んで、ぞろりと書物が揃う棚の群を眺めていた輝夜は、気配を露わにすると嬉しさを滲ませるようにはにかんだ。
「抜け出してきちゃった。閑霞に会いたくて」
「またそんなことを言って……」
「本当よ」
輝夜は閑霞の腕に抱えられた巻物を一つ取り上げる。
「昼間に閑霞と二人きりになれるのはここだけ。閑霞は信用されているから」
輝夜は足を放り出して寝転がると、巻物を閉じていた巻緒を解き、あっという間に広げてしまった。
どうせこちらの棚に用はない。おとなしてくれるのなら黙っていよう。閑霞は口を噤んで、棚の向こう側に姿を隠した。棚を隔てて輝夜が紙に指を滑らせる乾いた音だけが聞こえてくる。
しかし文字を読むのは退屈だったのか、輝夜はすぐに閑霞へ語りかけてきた。
「はじめて会話した時のこと、覚えている?」
「──さあ」
閑霞は蘇る記憶に一拍を置いて、首を横に振る。
「わたしが稚児たちと隠れ鬼をしていて」
「……ええ、思い出しました。宮殿内で隠れ鬼をするなんて」
閑霞はあたかも今しがた思い出したかのように振る舞う。ついでに苦言も呈してみたが、輝夜に効く様子はない。それどころか嬉々として立ち上がり、巻物が所狭しと積まれた棚の隙間から目を覗かせた。
「案外楽しいものよ。ねえ、閑霞もやりましょう」
「仕事中ですよ」
輝夜が巻物を手癖でまとめながら掲げた提案を、閑霞は一刀両断する。
「あら残念。⋯⋯でもそれは、仕事が終わったら付き合ってくれるということ?」
輝夜は少々大袈裟に哀しんでみせた。しかしそれも輝夜の巧みな演技である。すぐにからかうように言葉をつづけると、軽い足取りで閑霞に近づき閑霞から借りた巻物を振って見せる。
「わたしを無慈悲に追い出したりしないのが、閑霞のかわいいところね」
閑霞は受けとるべく手を伸ばすが、あと一寸と言ったところで輝夜の白魚のような手が逃げた。代わりに輝夜の甘い麝香が鼻先を掠めたかと思うと、唇に触れるだけの優しい口づけが落とされる。
「──……」
いつの間にか閑霞の腕の中は質量を増しており、輝夜の右手は空になっていた。
その時文庫の外から聞こえてきたささやかな物音に、二人は音の方向を見やった。しばし呼吸を殺して音の主を探るが姿は現さない。
勘違いだろうか──。閑霞が無理やり焦燥感の落とし所をつけたとき、輝夜は顔の皮膚一枚奥に緊張を押し留めながら笑みを繕った。
「そろそろ抜け出したことが気づかれそう。わたし、戻るわね」
麝香の香りが体を翻した輝夜の長い髪からふわりと立ち上る。鼻の奥にしみついて離れようとしない。閑霞は乱れた巻緒の巻物を見下ろすと、ため息をついた。
御簾の向こうにおわす方は一言も口を利かない。しかし他の女房と比べて、気配は段違いに恐ろしかった。
さらに周囲の上下問わぬ女房らによる刺すような視線に、閑霞は一層身を縮こまらせる。その中には閑霞に同情を寄せていた下臈の女房もいた。
きっと皆失望していることだろう。閑霞は俯けていた顔をさらに下げて、目の前の月を統べるお方につむじを見せる。
「月后さま。輝夜が見つからないようで……もうしばらくお待ちください」
上臈の女房は月后を窺うと、すぐさま形相を変えて背後に控える下臈の女房たちを怒鳴りつけた。
「貴女たちも探してきなさい!」
指示を受けた者たちは足早に部屋を出てゆく。その忙しない足音と瞬間静まり返る空間がさらなる緊張感を引き寄せた。
彼女の怒りは収まることを知らず、その勢いのまま閑霞の胸倉をつかみ上げる。袷が乱れ、閑霞は顔を歪ませた。
「神聖な文庫で禁忌の逢瀬など……どうしてそのようなことをしたのです。貴女のような誰よりも規律を重んじる月人が!」
どうしてだろう。
閑霞は沈黙を返した。閑霞すらもその答えは知らなかった。もしかしたらこの檻の中のような場所で、たった一人扉を壊して飛び回る鳥のような輝夜が羨ましかったのかもしれない。はたまた彼女と関わることでその気ままな生き様を分けてもらおうと考えたのやも。
しかし素直にそれらの感情を暴露するほど、閑霞の肝は据わっていなかった。それに閑霞はこの月に生まれ落ちてこのかた、一度も咎められるようなことをしたことがない。この肌がひりつくような空気の中心に置かれたのははじめてのことで、閑霞はすっかり委縮してしまっていた。
「唆されたのでしょう?」
そのとき、聞き慣れた声が閑霞を擁護した。
閑霞は思わず首をもたげた。誰もが口を開いた一人の下臈の女房に注目する。彼女は輝夜をよく思っていない女房の一人だった。いつも輝夜を閑霞と比較して貶める。
「輝夜さまに唆されたのでしょう」
「違う!」
全身の血の気が引いた。閑霞は腰を浮かせて否定する。
「断じて違います!」
しかし閑霞を見る目は瞬時に変わった。妙な納得ののちに同情、哀れみ、憐憫が皆の顔に浮かぶ。皆の目は『奔放な自由人に弄ばれたかわいそうな人』に集まった。
「閑霞が禁忌を犯すような愚かなこと、するはずがありませんね」
下臈の女房の一言は、その場にいる誰もを納得させた。上臈の女房ですら、感心したように頷いている。
「違うのです。輝夜のせいではありません!」
どんな叫びも輝夜に心を乱された人の戯言になってしまう。
「見つけました!」
その声は閑霞をさらに地獄へ突き落した。糾弾する視線は輝夜一人に注がれる。輝夜はまともに小袿も纏っておらず、加害者像としてふさわしい恰好をしていた。
輝夜は真面目な人に禁忌を犯させた加害者。閑霞はまんまと罠に引っ掛けられた被害者。無慈悲にも、その構図は確定してしまった。
「月后さま。どのような処置を下しましょう」
上臈の女房は御簾の奥に姿をお隠しなさる方に問いかけた。月后はしばしの沈黙を携えたのちに、厳かに口を開く。
「十八年、輝夜を地球へ」
どっと場がざわめぎ立った。地球への左遷は月における重刑の一つ。あまりに重い処置に、上臈の女房ですら唖然としている。閑霞は動揺に定まらぬ焦点で輝夜を見上げた。彼女だけが混乱の最中で笑みを崩さない。
閑霞は下臈の女房に腕を抱えあげられ立たされた。もつれる足を奮い立たせ、庭園に出る。輝夜は今までにないほど従順な素振りを見せていた。
閑霞は輝夜の背中に呼びかけた。
「輝夜……!」
輝夜は閑霞の声に振り返ると、笑みを消した。閑霞は輝夜の視線の先を辿って、己の頬に行きつく。閑霞は自身の頬を指で触れた。指先は雫で濡れていた。
「泣かないで」
輝夜は笑みを繕って言う。
閑霞は首を横に振った。
「待ってください」
「大丈夫。たかが十八年、わたしたち月人にとっては大した月日ではないわ。今生の別れでもないのだから、そう悲観しないで」
輝夜の表情は笑みを保ちながらも強張っている。
涙が視界を歪ませる。閑霞は腕を抑える女房らを振り切ろうした。数名がかりで引き留められても、閑霞はもがく。
しかし地表に降りてきた雲は輝夜一人分のみ。輝夜は義務的に単を脱ぎ捨て、雲の上へ足を掛けた。
「私も連れて行って!」
早まる鼓動の中で閑霞は叫んだ。
けれどそれは輝夜が雲に乗り、彼女の姿が小さくなるにつれて空虚なものとなる。静寂の月宮は閑霞の悲痛な懇願を跳ね返した。
輝夜の背がぐんぐんと遠ざかってゆく。
やがて閑霞を押さえつけていた腕は彼女を投げ出した。閑霞はその場にへたり込み、先程まで輝夜が身にまとっていた単をかき集める。麝香の香りだけが衣に残り、すでにその中身はここにいない。
閑霞の目から涙は枯れていた。麝香の単を胸に抱き、虚ろな瞳はただ漫然と青い光を放つ地球へ向けられている。
しかし地球は閑霞の乾いた頬を青白く照らすだけだった。




