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3つの小屋の物語

作者: 山谷麻也
掲載日:2026/03/12

挿絵(By みてみん)


 プロローグ


 小屋と聞いてもピンとこない人が多いのではないか。

 身の回りで小屋を見かけることが少なくなった。昔は人が生活を営む場所にはたいてい小屋があった。

 犬を飼っていれば犬小屋があるのはお馴染みの風景。四国の山奥に育ったせいで、鶏小屋、牛小屋が屋敷内にあった。炭焼き小屋も知っている。


 それらの小屋の中で、忘れられないものが三つある。

 詳しくは順に述べていくとして、この中には筆者の極めて個人的、特殊な体験に基づくものもある。同時代を生きた人でも知り得ない事実が含まれることを、予めお断りしておかなければなるまい。


 その1 囚人小屋


 四国の中央部、秘境の入り口にある二〇軒あまりの小さな村に生まれ育った。生家は村の最奥部にあり、背後に鬱蒼(うっそう)とした森林が広がっていた。

 村に一本の往還が抜かれていた。道は秘境へと通じる。村の子どもたちと、釣り道具を手によく出かけた。途中に大きな谷があり、アメゴがいたからだ。


 谷に沿って山道を登ると、平らなところがあった。そこに大きな小屋が建っていた。

 真ん中が土間になっていて、左右に板の間があった。誰もいない。(のぞ)くと、つい最近まで人の住んでいた気配がした。


「それは囚人小屋の跡じゃ」

 昼間に見た建物のことを報告すると、父親が教えてくれた。

 戦前、囚人を公共工事などに駆り出したことがあった。北海道の開拓や九州を初めとする鉱山の採掘などに投入された。「囚人労働」である。

 当地では林業に従事させた。今でも村には、囚人服を着た人たちが腰縄姿で送られてきたことを、覚えている人がいる。


 村では一行の世話をした。接待が心に沁みたのか、戦後、年始のあいさつを欠かさない人がひとりいた。

「まあ、この人は今年も年賀状をくれとるわ」

 母親が毎年驚きの声をあげていた。


 村を過ぎると後は森林地帯である。囚人がどんな労働に従事させられ、どんな待遇を受けていたかは、村人も知り得ない。多くの死者を出した北海道や九州ほどではないにしても、苛酷な毎日であったことは想像に難くない。脱走した囚人がいて、村人を総動員して山狩りした話が伝わる。


 終戦になり、小屋は新たな役割を与えられる。森林の伐採・搬出、植林などを行うためのベースキャンプとなったのだった。遠方から働きにきた人は小屋で寝泊まりもした。

 少年が感じた人の気配は、それらの名残りだったに違いない。


 従姉(いとこ)のひとりが川向うの村の出身である。家を離れ、奥地で働く父親を訪ねる機会があったらしい。

「遠い、遠い山の中に小屋があった」

 小学生の頃の話だろう。大変な道行(みちゆき)であったことが、彼女の口ぶりからもうかがえた。


 谷を越えると、そこは秘境だった。

 江戸期以前、流刑の地だったことでも知られ、昭和の中頃まで数軒の孤立集落があった。家々は急こう配の山肌に建てられ、不便な生活を強いられていることが遠目にも分かった。

 一帯はまことに隔絶された世界だった。


 その2 疱瘡(ほうそう)小屋


 辺境の地にあったことから、囚人小屋の存在を知る人は少ない。しかし、疱瘡小屋については、話が合う人がいる。同時代人ではない。これにも特殊事情がからんでいる。


 疱瘡とは天然痘を指す。全世界で猛威を振るい、不治の病として恐れられた。運よく治癒しても、痕跡が残った。あばたである。


 エリザベスⅠ世(一五三三~一六〇三)も天然痘の感染者だった。一命は取り留めたものの、あばたが残り、厚化粧でカバーした。肖像画の顔が真っ白なのはこのことによる。

 日本では明治の文豪・夏目漱石(一八六七~一九一六)が三歳で天然痘にり患、あばた顔になったことはつとに有名な話である。


 天然痘はエドワード・ジェンナー(一七四九~一八二三)がワクチンを開発するも(一七九六)、WHO (世界保健機関)が根絶宣言(一九八〇)するまでに二世紀近く要した。

 日本では昭和三一年(一九五六)以降、天然痘感染者は報告されていない。したがって、筆者が物心ついたころにはほとんど忘れかけていた伝染病のはずである。それなのに、天然痘にこだわるのは、生家の裏山に疱瘡小屋の跡があったからである。

 そこに疱瘡小屋が建てられていたことは両親から聞いていた。すでに屋敷は崩れ、よくよく注意しなければ小屋があったことなど気づかない。獣道があり、くくりワナを仕掛けて歩いている時に発見したのだった。


 伝染病ゆえ、感染すると隔離されるのが普通だった。そのために建てたのが疱瘡小屋である。

  灯ちらちら疱瘡小屋の吹雪(かな)

 小林一茶(一七六三~一八二七)がとらえた疱瘡小屋の姿がそこにはある。


 筆者の治療院の患者さんは

「小屋で亡くなる人がいると、吉野川の河原でダビに付していました」

 と語っていた。

 その方は昭和一〇年(一九三五)の生まれ。村に何か所か疱瘡小屋があったという。


 ワクチンが開発されてもなお、亡くなる感染者はいた。

 我が村では死者をどう弔ったことだろう。河原は遠い。小屋の前の空き地でダビに付すしかなかったはずだ。一茶に(なら)って一句。

  春まだき疱瘡小屋のけむり哉


 その3 水車小屋


 少年時代、水車はまだ現役で働いていた。とはいえ、高度経済成長の恩恵が四国の田舎にも波及しはじめていた。精米(麦)機を導入する農家が増え、一方で離農して主食類は米穀店で手っ取り早く購入するようになってきた。


 水車小屋は村の中央部を流れる谷にあった。

 大きな水車が谷から引いた水を受けてゆっくり回る。唱歌さながら、コトコト・コットン、コトコト・コットンと、のどかな音が響く。

 今にして思えば、歴史的使命を終えようとしていた水車最後の雄姿だった。それは同時に、村落共同体が崩壊に向かうカウントダウンでもあった。


 水車小屋の多くは村の何軒かで共同管理していた。

 先の患者さんの村では谷川に沿っていくつか水車小屋があったらしい。

 従姉の村には一つだけだった。大きな村の割に水車を回せるほどの谷が少なかったのだ。従姉の家から水車小屋は遠く、家に足踏み式の精米機があって、手伝わされた、という。


 協同管理している水車小屋ではよく盗難に遭ったらしい。

「朝、行って見ると、(うす)は空だった」

 患者さんは笑って当時を振り返った。

 不心得な者がいるのも共同体だ。また、患者さんの村の対岸には国道が走っており、クルマや人の往来も激しかった。大らかだった昔の人は盗難のリスクも織り込み済みだったのだろう。

 ただ、筆者の場合、戦後の混乱期から安定期に入っていて、その種の案件はついぞ耳にしなかった。


 水車小屋の少し上流に滝があり、岩盤を穿(うが)って淵を形づくっていた。それが村の子どもたちの天然のプールになっていた。水遊びに行って着替える時、子どもたちは水車小屋を使うこともあった。更衣室だった。

 水車小屋に足を踏み入れると、粉でうっすらと白くなった土間に、ゴム草履(ぞうり)の跡が認められた。子どもたちが生きている証のようなものだった。


 実は我が家には専用の水車小屋があった。

 少し奥まった場所に渓が流れていて、そこから水を引き、落として水車を回していた。

 従姉からすれば、なんとも贅沢な環境だった。渓にはわさびが繁り、水が一年じゅう涸れたことがなかった。家庭で使う水はここから取っていた。


 豊かな水、のどかな村があっての水車——。

 片や、乱伐と無計画な植林の末、手入れされることもなく放置された森林。その結果、谷の水は枯渇し、住人は激減して村は消滅寸前。もはや水車小屋の立地する余地はない。


 エピローグ


 囚人小屋、疱瘡小屋に加え、水車小屋も、もはや歴史遺産になってしまった。先の二つは必然として、水車小屋まで消えたのは寂しい。歴史の大波は何もかも呑み込んでしまう。


 なぜ、水車小屋に郷愁をそそられるのか考えてみた。

 水車小屋は、水のエネルギーを巧みに利用した人間の知恵の結晶だ。原始的ながら、今日では極めて先進的な試みだったと言うしかない。

 長年のパートナーをお役御免にしてしまい、迷走日本はどこに突き進もうとしているのだろうか。

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