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短編もの

バイノーラル・ショコラ

作者: 秋乃 よなが
掲載日:2026/02/23


 阿久津 凛は真夜中にSNSを見ていた。


 世間はもうすぐバレンタインデーだ。SNSには、チョコレートに関連したレシピの投稿ばかりが目立つ。


「バレンタインかあ」


 不意に思い浮かぶのは、同じ会社で働く同期の瀬戸 奏太だ。入社してから二年。密かに片思いをしていた。


「今年はバレンタインチョコでも贈ってみるかあ」


 去年はチョコレートを渡せなかった。なぜなら奏太は社内の女性からたくさんのチョコレートをもらっていたからだ。その姿を見たとき、急に自分のチョコレートが貧相で重く見えて、逃げるように持ち帰ったことを思い出す。


 なにか手軽で失敗しないレシピはないかと、スマホの画面をスクロールしていく。すると一つの投稿が目に留まった。


 ――『カカオの調律』。相手の心音で本音が分かります。


「なにこれ、嘘っぽい……」


 でもやり方は簡単だった。これから普段からお菓子を作らない自分にもできそうだ。


 奏太はエリートという言葉が似合うくらい、仕事がよくできる。営業の成績は常に上位だし、気も利く。顔も良いものだから、社内でも奏太のことを好きな子も多い。いつも笑顔で、誰に対しても丁寧で――悪く言えば、隙がない。「完璧の姿」の裏で、奏太が何を思っているのか、知りたいと思った。


 バレンタインデー前日。凛は丁寧にチョコレートを溶かした。少しでも奏太の心が知れたら、その一心で生チョコレートを作る。冷やし固めたチョコレートを一口サイズに切って、上からココアを振りかける。そして小さな箱に入れてラッピングをすれば、それを窓辺にある棚の上に置いた。


 『カカオの調律』のやり方はこうだ。まずは心音を知りたい相手の写真をスマホの待ち受けにする。写真は同期の飲み会で撮っていたから、用意するのは簡単だった。


 その次は、手作りをしたチョコレートの上と待ち受けにした写真を向かい合わせるように、スマホを伏せて置く。そしてその二つを月明りが当たるところで一晩寝かせるだけ。


 半信半疑のはずなのに、凛の心は高鳴っていた。もしこれで本当に奏太の心音が聞こえるなら、きっと彼の本音を知ることができる。その日、凛は、ドキドキしてうまく眠れなかった。


 そして次の日。お昼休みに、凛は奏太をオフィスビルの非常階段に呼び出した。


「おつかれ、阿久津。待たせた?」

「ううん、大丈夫。私も今来たところ」


 奏太は今日も爽やかだ。人好きのする笑顔を浮かべて、凛に近づいてきた。


「……あのさ、今日、バレンタインデーでしょ。だから、瀬戸にもチョコをって思って」


 本当は奏太以外にチョコレートをあげるつもりなんてない。けれど他の人にも渡しているよと伝えることで、凛は自分の本命さを隠そうとしていた。


「おー、うれしいな。阿久津からのチョコなんて初めてじゃん」

「ぎ、義理だけどね。まずくはないと思うんだけど」

「なあ、今食べてみてもいい?」

「勝手にすれば」


 奏太は嬉しそうにラッピングを解く。そして中を見て、「俺、生チョコ好きなんだよね」と笑って、一口つまんで食べた。


「お、うまい。口の中で溶けていい感じ」


 奏太がチョコレートを呑み込んだ瞬間、凛の脳内で「ドクン!」という重低音が爆発した。


「きゃっ! なに!」

「え? どうした?」

「や、今なんか低い音が……」


 こうして話している間にも、凛の耳元でドクンドクンと大きな音が鳴っている。目の前の奏太は平然としていて、この音は聞こえていないようだった。


「……え? 本当に……」


 ――『相手の心音で本音が分かります』。あのレシピの言葉は、本当だったのいうのだろうか。


「阿久津、大丈夫?」


 奏太は心配そうにこちらを見ているが、凛に聞こえる音は、まるで全力疾走した後のように激しく、熱く打ち鳴らされている。


「あ、や、大丈夫……。気のせいだったみたい」


 少しも気のせいではない。確かにはっきりと、この頭の中に奏太の脈打つ心臓の音が聞こえていた。


 その日を境に、二人の距離が近づくたびに『音』が凛を支配していた。


 同じ会議に参加中、少し離れたところに座る奏太。誰かが話す声とともに、彼の心音が耳をジャックする。会議の中で発言するとき、その心音はゆっくりと乱れることなく脈打っていた。


 また別のとき、奏太が他の女性社員と話していると、心拍がわずかに速まった。相手は、凛も綺麗だと思う先輩社員だった。凛は嫉妬で自分の心がチリチリと焼けるのを感じた。


 奏太がその先輩に微笑むたびに、耳の奥で激しいドラムのような音が鳴る。それは彼の浮かれた鼓動なのか、私の怒りの拍動なのか。こんな音は聞きたくない。奏太の心音は、凛の生活を侵し始めていた。


(もう嫌だ! 静かにして!)


 同じ女性の先輩社員と話すときだけ速くなる鼓動。ついに我慢しきれなくなった凛は自分の耳を塞ぐが、音は内側から響く。今聞こえるこの心音が、奏太の心臓なのか自分の心臓なのか、分からなくなった。


 凛は必死にあのSNSの投稿を探す。しかしあの夜見た投稿は、どこにも見当たらない。『カカオの調律』で調べてみても、レシピに関する検索結果はなにも引っかからなかった。


 一週間後、凛は重い身体を引きずって出社していた。奏太と女性先輩社員のことが頭から離れず、ずっと悶々としていた。寝不足がたたって、うまく仕事がこなせない。一人、また一人と社員が帰っていくオフィスの中で、凛はクマのできた目をこすりながら必死に仕事をこなしていた。


 誰もいなくなったオフィス。心音だけで、奏太が近づいてきたことが分かる。


「阿久津、おつかれ」

「瀬戸……」


 案の定、奏太が声をかけてきた。しかし凛の反応は鈍い。頭の中いっぱいに響き渡る音、度重なる寝不足による疲労、仕事が進まない苛立ち。すべてが彼女の神経を逆なでした。


「っ! あんたの心臓の音がうるさくて、仕事にならないのよ!」


 凛は勢いよく立ち上がり、奏太の胸元を強く叩く。しかし瀬戸は驚いた様子も見せず、そっと壊れものを扱うかのように彼女の両腕を取った。そして奏太は凛の耳元に口を寄せる。


「――君も、俺の音が聞こえるようになったんだ?」


 奏太のチョコレートのように甘く蕩けた瞳が、凛を捕らえる。その言葉を聞いた瞬間、凛の肌は粟立った。


 去年、たしかに凛は奏太にチョコレートを渡せなかった。けれど凛は食べていた。差し入れだと渡された、奏太からのチョコレートを。


「俺はずっと君の心拍数を聞きながら、同じ速さで乱れるのを、指折り数えて待ってたんだよ」


 奏太が凛を抱き寄せる。もう二度と離さないというように、強く、きつく。二人の心音は、今や完全に一つのリズムを刻んでいる。


 静まり返ったオフィスに、二人分の、しかし一つの巨大な心拍音だけが響き続けていた。


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