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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

生まれ育ちを枷にされても

作者: 津籠睦月
掲載日:2026/02/07

 “育ちが悪い”ってさ、数ある暴言(ぼうげん)の中でも最悪の“人でなし”発言だよね。

 だって、育つ環境(かんきょう)を選べるなら、誰だって“良い育ち”を選ぶものじゃん。

 自分で選ぶこともできない“運命”を、その人のせいみたいに悪く言うのって、“育ち”じゃなくて“人格”を疑(うたが)うよね。

 

 前にどこかのチャンネルで、知らない会社の経営者の人が言ってた。

 キラキラネームの新卒者(しんそつしゃ)は、親がそんな名前を付けちゃうようなアレな人たちだから、採用はしないって。

 そんな親の元に育ったなら、子どももアレな性格に育ってるだろうってことらしい。

 今時キラキラネームひとつにそんな差別意識(さべついしき)を持ってるのも、充分(じゅうぶん)アレだと思うけど……それより何より腹が立ったのは、本人の努力も何もかも“育ち”ひとつで無(む)にしてしまう、その心無い発言だった。

 ……まぁ、世間がそんな冷血人間で溢(あふ)れてるなんてこと、とっくの昔から知っているけど。

 

 どの町にもひとつやふたつ、治安(ちあん)の悪い地域ってあるんじゃないかな。

 貧(まず)しい人間は精神まで貧しくなるなんて、私は信じていないけど……哀(かな)しいことに、私の育ったあの辺りは、実際割(わり)とそういう場所だった。

 安くてボロい住宅ばかり集まった、昔ながらの貸家(かしや)の並(なら)ぶ区域。

 二軒先の家に住む兄弟は有名な暴走族兄弟だったし、裏の家に住む下級生は他人(ひと)の物を盗(と)ることを何とも思わない手癖(てくせ)の悪い子だった。

 

 悲しい話だけど、子どもって、自分の育った環境を“普通”で“当たり前”だと思いがちだ。

 どこも皆(みんな)そんな風(ふう)で、違(ちが)いなんて無いと思っている。

 それが勘違(かんちが)いだと知るのは、クラスの他の子の家なんかで“異文化”に触(ふ)れた時なのだ。

 

 保育園児の頃(ころ)は、他所(よそ)へ遊びに行っても“家”の違いなんて全然意識できていなかった。

 重要なのは、目の前の遊び友達とオモチャだったから。

 でも、年齢(ねんれい)が上がると嫌でも気づいてしまう。

 生活レベルの格差(かくさ)と、親の“質”の格差に。

 

 他所(よそ)の家では“友達”が遊びに来ると、お菓子(かし)と飲み物を出してくれるものなんだって、小学生になって初めて気づいた。

 うちの近所では、子どもなんて基本“放置(ほうち)”だ。

「散(ち)らかさないでよ」とか「暴(あば)れないでよ」と釘(くぎ)は刺(さ)されても、“おもてなし”されたことも、したことも無い。

 

 育ちの良い子は、お呼ばれした時に手土産(てみやげ)のお菓子を持って行くものなんだってことも、他のクラスメイ卜を見て初めて知った。

 真似(まね)したくても、私のわびしいお小遣(こづか)いじゃ、とてもできやしない。

 私だけ、ひどい礼儀(れいぎ)知らずになってしまったみたいで居(い)た堪(たま)れなかったけど、どうしようもないことだった。

 

 親を見て子を判断(はんだん)する差別意識って、共感(きょうかん)は全くできないけど、実の所ちょっとだけ分かる気もする。

 子どもは身近(みぢか)な大人を見て育つから。

 マナーも気遣(きづか)いも何も無い親からじゃ、見て覚(おぼ)えることもできはしない。

 

 そもそもうちの親は、子どもに“何かを教える”なんてこと、ほとんど無かった。

 “親は無くとも子は育つ”の実験でもしているように、子どもは基本“放ったらかし”で、教育は保育園や学校任(まか)せ。

 そのくせ、怒(おこ)ったり文句(もんく)を言ったりすることだけは、必要以上にやる親だった。

 

「何でそんなことするの」と言われても、そもそも駄目(ダメ)だと教えられてないのに。

「何でそんなこともできないの」と言われても、そもそもそんなこと教わってないのに。

 親から教えられたものがあるとすれば“この世は理不尽(りふじん)”ってことくらいだ。

 

 うちの近所の子どもたちは、大概(たいがい)皆、親世代(おやせだい)と似(に)たり寄(よ)ったりな性格に育っていった。

 あるいは“ちょっと上のヤンチャなお兄さん世代”を真似(まね)する子たちもいた。

 人生のお手本(ロールモデル)がソレしか無いと、そういう風(ふう)になりがちなのかも知れない。

 だけど私は、あんな風になりたくなかった。

 だから、人生のお手本(ロールモデル)を“外”に求めた。

 

 “子は親の背(せ)を見て育つ”って言うけど、見るのはべつに親の(・・)背じゃなくてもいいと思うんだよね。

 尊敬(そんけい)できない親の背中より、尊敬できる別の誰(だれ)かの背中の方が、よほど追いかけ甲斐(がい)がある。

 それは“会ったことのある人”じゃなくてもいいし、何なら“実在(じつざい)しない人”でもいい。

 目標にして、人生を良い方向へ導(みちび)けるなら、きっと何でもいいんだ。

 

 実際私は、本の中に救(すく)いを求めた。

 私の得(え)られなかった“立派(りっぱ)な親”や“生まれ育ちの環境”や“人生の道しるべ”を、本の中に探(さが)して、本の中の人物像(じんぶつぞう)に憧(あこが)れた。

 現実では身近に存在(そんざい)しない人生のお手本(ロールモデル)も、本の中になら存在する。

 本を読んでいる間だけ、私は“あの街に住む私”じゃない、別の私になれた気がした。

 

 学力を上げたのは、意地(いじ)だった。

 私の憧(あこが)れた“本の中の人”たちは、皆何かしら、人生を切り拓(ひら)く“能力”を持っていた。

 でも、お金も才能も何も無い私には、分かりやすくレベル上げできるものが学力くらいしかなかった。

 それでも、そういう“数値(すうち)”を上げていけば、いつか私も“本の中の人”のように報(むく)われる気がしていた。

 親は教育熱心な人たちじゃなかったけど、成績(せいせき)を上げていけば、担任(たんにん)の先生も真剣に相談に乗ってくれた。

 調べてみれば、アプリや動画やボランティアみたいな“無料”の学習機会(がくしゅうきかい)も無いわけじゃないんだ。

 無料だといつでも止(や)められる分、モチベーションの維持(いじ)が大変だったけど……いつかあの街を出たい一心(いっしん)で、意地になって頑張(がんば)った。

 

 偏差値(へんさち)の高い高校に入って、不思議(ふしぎ)に思ったことがある。

 どうして公立の進学校でも、いるのはそこそこ“実家の太い”子たちばかりなのだろう、と。

 学力のレベルと経済(けいざい)レベルって、世間(せけん)の言う通り、比例(ひれい)しているものなのかな。

 私は明らか“例外”だったから、よく分からないんだけど……中学までは普通にいた“同じくらいの生活レベルの子”が極端(きょくたん)に減(へ)って、人づき合いの戦略(せんりゃく)を、ちゃんと考えなくてはいけなくなった。

 

 クラスメイ卜との会話では、実家のことに話が行かないよう、細心(さいしん)の注意を払(はら)った。

 経済格差(けいざいかくさ)のギャップに気づかず迂闊(うかつ)な発言をしてしまった後は、全力で誤魔化(ごまか)した。

 誤魔化(ごまか)しきれていない部分もあっただろうし、秘密主義だと思われていただろうけど……“育ち”を知られてしまう方が怖かった。

 貧乏(びんぼう)キャラを売りにできるほど、私は自分の育ちを受け容(い)れられていない。

 あの環境を脱け出したくて足掻(あが)いているのに、あの環境でキャラ付けされるなんてゴメンだ。

 

 奨学金(しょうがくきん)という“借金(しゃっきん)”を背負(せお)っても進学の道を選んだのは、その道を行けば高卒よりワンランク上の人生へ行けると思ったからだ。

 近所の人たちは、軒並(のきな)み学歴が低かった。

 良くて高卒。中卒もザラにいる。

 専門学校卒なんて、かなりのレアだ。

 だから、あの場所を離(はな)れるには大学だ、と単純に考えた。

 大学の先に目標(もくひょう)があったわけじゃなく、大卒というステータスが目的だった。

 大卒という“切符(キップ)”さえ有(あ)れば、良い給料をもらえる良い職に就(つ)けると思っていた。

 

 なのに……実際大学に入って、分からなくなった。

 大学って、その学部に応(おう)じた知識や見識(けんしき)を学ぶ場所じゃなかったの?

 どうして“本分(ほんぶん)”の勉強より、それ以外の“学生時代に力(ガクチカ)を入れた活動”の方が、就活(しゅうかつ)で重視(じゅうし)されるの?

 せっかく奨学金という借金(高い授業料)を負って(払って)単位を獲(と)っているのに、それ以外の部分が評価(ひょうか)されるなんて、割(わり)に合わない。

 ――学外での活動なんて、お金が無いとできないモノも多いのに。

 この世界ってどこまでも、お金を持っている人有利(ゆうり)にできているのかな。

 

 サークルに入れなくても、海外留学ができなくても、バイ卜やボランティアなんかで、何とかエン卜リーシー卜の余白(よはく)を埋(う)めた。

 それなのに……そもそも本人の能力や努力と関係無く、名前や育ちや親の性質なんかで門前払(もんぜんばら)いにする人もいるのだと、知ってしまった。

 

 薄々(うすうす)、気づいてはいた。

 勉強をどんなに頑張(がんば)っても、どんなに自分磨(みが)きをしても、箸(はし)の使い方がおかしいとか、歯並(はなら)びが悪いとか、全然別のことでケチをつけてくる人はいる。

 箸の使い方も歯並びも、私が親に指摘(してき)してもらえなかったこと――気づいてもらえていたかさえ、怪(あや)しい。

 幼(おさな)いうちに固まってしまったモノは、今さらそうそう変えられない。

 

 私が自分の力でどんなに努力しても、埋(う)まらないモノがある。

 生まれた時(スタートライン)から決まっていた、人生の格差(かくさ)。

 それを埋(う)めたくて頑張(がんば)っているのに、それがどこまでも私の足を引っ張ってくる。

 自分で選んで付けた足枷(あしかせ)じゃないのに。

 

 世の中、人間を生まれ育ちや環境で区別することを「効率的(こうりつてき)だ」「合理的(ごうりてき)だ」と悦(えつ)ってる人って、多いんだろうな。

 まぁ実際、うちの近所はあんな感じで、澱(よど)みが澱(よど)みを生む悪循環(あくじゅんかん)な環境だったけど……そんな中から這(は)い出そうと、足掻(あが)いている人間もいるのに。

 

 差別好きな人たちは、気づかない。

 どんな環境、どんな集団にも、“例外”が在(あ)るってことを。

 定説(セオリー)を打ち破って現れる、突然変異(とつぜんへんい)の“奇跡”を。

 どんな逆境(ぎゃっきょう)にもめげずに結果を出す、ハングリーな“挑戦者(ちょうせんしゃ)”を。

 偏見(へんけん)で目を曇(くも)らせた人たちは、そのわずかな可能性にも気づかず、希望の芽を握(にぎ)り潰(つぶ)してしまうんだ。

 

 生まれ育ちに足を引っ張られるたび「こんな社会、滅(ほろ)んじゃえよ」って思う。

 差別や偏見(へんけん)に凝(こ)り固(かた)まって、必死の挑戦(ちょうせん)すら踏(ふ)みにじってくる世の中に、絶望する。

 しばらく凹(へこ)んで、動けなくなる。

 だけど、しばらくすれば立ち上がれる。

 生まれ育ちがアレな分、理不尽(りふじん)に対する耐性(たいせい)は強いのだ。

 

 生まれ育ちを枷(かせ)にされても「そんなん私のせいじゃないし」「本人にどうにもできないことで差別するとか、頭悪いんじゃない?」って、逆に馬鹿(ばか)にしてやる。

 生まれ育ちを枷(かせ)にされても、へこたれずに生きてやる。

 そのために、この道を選んだんだ。

 そのために“奨学金の返済義務(新たな足枷)”を自(みずか)ら選んでしまった。

 もう、後戻(あともど)りすることもできないんだ。

(ルビに制限があるようで、思った通りに振れなかったため、ちょっと変な振り方になっている部分があります。(「ガクチカ」など。)読みづらかったらスミマセン…。)


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