嫌いだったはずのこいつは
――馬鹿げている。本当に馬鹿げている。
処刑台の前で剣を抜いた瞬間、私は何を考えていたのだろう。濡れ衣だと分かった瞬間、なぜ躊躇なく動いてしまったのだろう。
「逃げろ」と、そう叫んで、こいつの拘束を断ち切った時の自分の行動が理解できない。敵である彼を、親の仇である彼を、なぜ助けた?
混乱の中を一緒に逃げながら、私の頭は真っ白だった。周りから飛んでくる矢を避け、追手を振り切り、廃墟に身を隠すまで、まるで夢でも見ているかのようだった。
「……なぜ助けた?」
未だ血の混じる口をぬぐい、息を整えながら彼は私を見つめて呟く。当然の疑問だった。私にも答えられない。
「知らない!」
それしか言えなかった。本当に分からないのだから。矢がかすったのか、血がにじむ腕をギュッと握りしめる。
見ると彼はいつも通りに薄笑いを浮かべていた。唇の端がかすかに上がり、瞳の奥では何を考えているのか掴めない影を感じる。
「君にとって僕は敵。親の仇だ。むしろ、この機会に殺すべきだったんじゃないか?」
その通り。絶好の機会だった。この混乱に紛れて復讐を果たし、誰にも気づかれないようにして国へ帰ればよかったのだ。
それなのに、二人でこんな場所にいる。
「……うるさい」
彼の言葉を遮った。考えたくなかった。なぜなら考えれば考えるほど、ある可能性に行き着いてしまうからだ。
その可能性は、宿敵の男に抱くにはあり得ないものだった。
沈黙が流れる。彼は私の横顔をじっと見つめていた。その視線が妙に重い。
「君は僕を憎んでいるんじゃなかったの?」
「憎んでいる」
即答した。それは間違いない。この男への憎悪は確かにある。
「それなのに、なぜ?」
なぜ。なぜ……?
その問いかけが胸に刺さっても抜くことができない。答えなど出るはずがないからだ。出てほしくもない。
「分からないと言っただろう!」
苛立ちを込めて言い放つ。声が思ったほど出ないのは疲れているからか。
でも、本当は薄々気づいている。親の仇という理由以上の、この異常なまでの執着が何なのか。四六時中こいつのことを考えているのはなぜなのか。
憎いのに、なぜ彼が殺されそうになれば胸が締め付けられるのか。憎いのに、なぜ無事を確認してしまうのか。憎いのに、私は——。
「……でも、ありがとうね」
背中に向けて小さく呟かれたその言葉で、思考が一瞬飛んだ。
振り返ると、彼が複雑な表情で見ていた。憎悪でも困惑でもない、何か別の感情が混じった瞳で。
皮肉屋で、面倒で、冷酷で、頭のおかしい邪魔な男だったのに、やけにおとなしく私の掴んだ腕に引かれて、しまいにはこんな風に礼を言うなんて。
凝視しているこちらに気づいて目をそらした彼の横顔を、廃墟の隙間から漏れる薄い光が半分だけ照らす。血の色も、瞳の色も、その光に混じって妙に柔らかく見える。
嫌いだったはずのこいつが、他の何かに変わろうとしている様子を見て、私もどこかが変わろうとしている。
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が私を襲った。まるで堰を切ったように溢れ出して、妙に納得できる『答え』。
――ああ、そうか。
私が彼に抱いていたもの。それは確かに憎悪だった。でも、それだけではなかったらしい。
憎悪の奥に、もっと根深く、もっと複雑な感情が潜んでいたのだ。
なんて皮肉な話だろう。訳も分からず敵を助けて逃げて、やっと初めて、自分の本当の気持ちに気づくなんて。
「今なら僕は、君に殺される方がマシだと思うよ。だからもし、君が、したいなら……」
「……礼など言うな。さっさと休め」
掠れた声でそう言うのが精一杯だった。
今更こんなことに気づいても、私たちの立場はおそらく変わらない。彼は私の敵で、私は彼の敵。ただ、それでも——?
彼を助けてしまった自分に、もう嘘をつけなくなっていた。




