終章 02
千晃が自家用車を所有しているのは知っていたが、寧々がこうして乗せてもらうのは初めてだ。
車を運転する彼の横顔は凛々しくて、いつまでも見ていられる。
まだこの見目麗しい男性が自分の夫になるというのが信じられない。
一花も小夜も、何も異論を挟まなかったばかりか祝福してくれた。
まるで夢の中にいるみたいである。
他愛ない会話を交わしていたら、いつの間にか皇宮にたどり着いていた。
千晃は前に訪れた時と同じ場所に車を停めると、先に降りて寧々が降りるのを手伝ってくれた。
今日に限らず、初めて会った時から一貫して彼は寧々に優しくて丁寧だ。
そのせいで彼への気持ちは日に日に大きくなっていく。
誰よりもこの人の近くにいたい。この人のためなら何だってできる。だから他の人を近くに寄せ付けないで――。
高貴な人に愛人はつきものだ。いつか彼は寧々に飽きて別の女性に目移りするかもしれない。
そうなった時、身分も教養も美貌も持たない寧々には千晃を責められない。
わきまえているつもりだが、ともすれば分を超えた感情が溢れそうになる。
「予想はしていましたが、まだ地面が濡れていますね。気を付けてください」
千晃の手を借りて車から降り立つと、気遣いの言葉をかけられた。
皇宮の通路は石畳で舗装されているが、乾ききっておらずところどころ水たまりができている。
「はい。ありがとうございます」
寧々は感謝の気持ちを伝えると、先導する千晃に従って歩き始めた。
皇宮の中の景色は二か月前とは変わっていた。
以前は建物が建っていた場所は更地になっており、木の柵と紙垂のついた縄で囲われている。
「あそこって……」
「御常御殿があった場所です。邪法の瘴気と死の穢れがこびり付いていて、あまりにも不吉だったので取り壊されることになりました」
寧々のつぶやきに千晃が応えた。
「跡地には御祖神の社が建立され、両親が揃って合祀される予定です。御霊になりかねない亡くなり方でしたから」
「御霊……?」
「極めて強力な怨霊を指す言葉です。皇族や神祇四家の人間がそうなると簡単には祓えません」
「それはそうでしょうね……」
死者の魂が現世に留まり怨霊化した場合の力は生前の霊力に比例する。
皇帝だった人物が怨霊化したらどうなるか、想像しただけでもゾクリとした。
千晃は跡地に向かって拝礼する。
寧々もそれに倣って頭を下げて手を合わせた。
「…………行きましょうか」
少しして、拝礼を終えた千晃が声を掛けてきた。
寧々は頷くとやや後方に付き従う。
彼が歩く方向には覚えがあった。
前に来た時と同じ道――東宮御所へと向かう通路だ。
「あの……千弘様は今も東宮御所にいらっしゃるんですか?」
おずおずと尋ねると、「はい」と肯定の言葉が返ってきた。
「お伝えしていませんでしたね。御常御殿があの有様なので、兄は東宮御所をそのまま使っています。そのうち場所を替えて建て直す予定ですが、しばらくはこのままでしょうね」
千晃は説明をしながら眉を下げた。
◆ ◆ ◆
東宮御所に近付くと、幼い子供の泣き声が聞こえてきた。
「この声は下の子かな? むずがっているみたいですね」
千晃が発言すると、猫形態の小夜が影の中から顔を出した。
「私が行けば泣き止むんじゃないかしら」
「うん、行っておいで」
千晃が許すと、小夜は影から飛び出して建物の中へと走っていく。
彼女が出入りするのは珍しくないのか、誰も咎めない。
門の前に立つ近衛兵は微笑ましげに目を細めながらこちらに声をかけてきた。
「よくお越しくださいました、神祇卿宮様。織部寧々様。すぐに女官を呼びます」
「ああ、頼む」
千晃が返事をすると、近衛兵は一礼して中へと姿を消した。
いくらも経たないうちに応対に出てきた女官に案内されたのは、以前通されたのとは別の部屋だった。
舶来の家具が据え付けられた洋風の応接室には、背広姿の千弘と巫子装束を身に着けた礼子がいた。
「来てくれてありがとう。寧々さん、千晃も」
千弘が声をかけてきた。
「俺はおまけですか?」
「ああ。今日は寧々さんに会うのが目的だからお前はおまけだな」
千弘は苦情を申し立てた千晃をあしらう。
その姿は前に会った時とは全然違った。どこか陰があり退廃的な雰囲気があったのに、今の千弘は堂々として生気に満ち溢れている。
これがきっと本来の彼だ。
寧々は邪法の影響を思い知らされた。
千弘の変化に目を奪われていたら、礼子が口を開いた。
「次は生身でと伝えたのが現実になったわね、寧々さん」
寧々はハッと我に返ると千弘と礼子に向かって頭を下げる。
「こ、皇帝陛下も、斎宮様も、お久し振りです! 本日はお招きくださってありがとうございます」
焦りのあまり声が上擦っておかしな発言をしたような気がしたが、目の前の貴人二人は微笑ましげな笑みを浮かべた。
「これまで通り千弘と呼んでくれて構いませんよ。近い将来寧々さんは義妹になりますから」
「わたくしのことも名前で呼んでくださって結構よ」
寧々は二人の申し出に動揺し、思わず助けを求めて隣の千晃に視線を向ける。
「受けていいですよ。婚儀を挙げたら一応義理の親族になるので」
「……で、では、お言葉に甘えてお名前で呼ばせていただきます。千弘様、礼子様」
どうにか言葉を絞り出すと、千弘も礼子も笑みを深くした。
「どうぞ、お掛けになって楽にしてください」
千弘は寧々に対面の席を手で示す。
すると千晃が寧々のために椅子を引いてくれた。
「本当はこちらから出向かないといけないのに呼び立てて申し訳ありません。どうしても時間が取れなくて」
千弘の発言に、寧々はふるふると頭を横に振った。
「千弘様がお忙しいのは知って、いえ、存じ上げていますから……」
敬語を間違えた。寧々はざあっと青ざめる。
「緊張されているみたいですね。どうか楽にしてください。寧々さんは私の命の恩人です。あなたが呪印を斬ってくださらなかったら一体どうなっていたか……」
「より強力な化け物を生み出していたかもしれませんね。あれはそういう術だと思います」
礼子が発言した。
「わたくしの母ではなく、父が犯人だったから神託が降りなかったんだわ。父は誰よりも御祖神の加護を受ける存在ですもの」
彼女は渋い表情で吐き捨てるように告げる。
「そういえば母君は今はどう過ごされているんだ?」
千弘が尋ねると、礼子の顔は更に苦々しいものになった。
皇帝が崩御すると正妻である皇后は皇太后として遇されるが、側室という位置付けの皇妃は皇宮を出なければいけないと決まっている。
大抵の場合皇家と縁の深い社に身を寄せて神職として先帝を祀るのが倣いで、櫻皇妃もその先例通り、帝都五条にある御祖神を祀る社に移り住んだらしい。
「毎日のようにわたくしのところに遣いを寄越して、あの日皇宮で何があったのか、新しく分かったことはないのかと詮索してきます。あの人は無関係でしたが何か企んでいるかもしれません。今後も注意された方がよろしいかと」
「監視のために五条社に行かせたんだ」
千弘は肩を竦めた。
「五条社の宮司は藤澤侯爵家の縁者なんです」
千晃が寧々にもわかるように教えてくれる。
「母があそこに行ってくれたおかげでこうして自由に出歩けるようになったのよ」
そう告げる礼子は嬉しそうで、実母との確執の深さが窺えた。
「お父様の喪が明けたら慶事が続くわね。お兄様の即位式の後はあなた達の婚儀でしょう? おめでとう」
礼子は笑みを深くした。心から祝福してくれているように見える。
「私も早くお相手を見つけないと……」
「あれ? 姉上には恋仲の男性がいたはずですよね?」
千晃の発言に礼子の顔が凍りついた。
「中村のことを言っているのなら、とっくの昔に別の女性と結婚したわ」
礼子の発言に千晃はばつが悪そうな表情をした。
「母が手を回したのかもしれないけれど薄情よね」
「よさそうな者を見繕って紹介する」
千弘が割り込んできた。
「お願いします。千晃もいい方がいたら教えてちょうだい」
「俺が紹介できるのは学友か神祇官になりますが……。どんな男性が好みなんですか?」
「見た目にはあまりこだわらないけど、清潔感があってわたくしを絶対に裏切らない方がいいわ」
礼子は真顔である。
話題が彼女の縁談へと移り変わったので寧々は安堵する。
この国で一番高貴な三人に囲まれて注目されるのは心臓によくない。
寧々はこっそりと礼子の顔を窺った。
彼女はとても綺麗な女性だ。
明和帝から受け継いだ端正な顔立ちに茶色の髪と瞳。
肌理の細かい肌は透けるように白く、ただ黙って立っているだけでも人の目を惹きつける華があり、何気ない仕草ですら優雅で上品だ。
おそらく彼女は藤澤侯爵家の令息である晃成のような、皇女を降嫁させるに足る身分の男性に嫁ぐのだろう。
その貴公子は、礼子と相思相愛になるに違いない。
目の前で理想の男性について語る彼女は、ぐっと親しみやすい雰囲気になってとても魅力的である。
自分との違いにズキンと胸が痛んだ。
「そういえば貴子さんの姿が見えないわね」
いつの間にか話題は移り変っていた。
「下の子が貴子でなければ嫌だとぐずるのでなだめに行った。静かになったところを見ると小夜かな?」
「小夜って千晃の猫又の式神?」
首を傾げた礼子に千晃は頷く。
「ここに着いたら子供の泣き声が聞こえてきて、自主的に子守りに行きました」
和やかに会話を交わす兄弟の姿に、自分と美栄の関係を比べてしまい更に気持ちが沈んだ。
(……千晃様は同情してくださったのよね)
寧々は皇族の重大な秘密を知ってしまった。
羽々斬の適合者でなければ口封じもありえたのではないだろうか。
女官として生涯囲い込むという手段もあるだろうに、そうしなかったのは、きっと千晃が手を挙げてくれたのだ。
(私がどこかに嫁ぐのが夢だと言ったから……)
千晃の近くには、礼子や貴子のように生まれながらのお嬢様がたくさんいるはずだ。
男の中に混ざって生きてきたからがさつで、傷痕もあって、特別容姿が優れている訳でもない自分が女性として好かれるとは思えない。
千晃は見目麗しいだけでなく、優しく穏やかな貴公子だ。
実は秘密の恋人がいて、隠れ蓑として寧々を選んだと言われても驚かない。
そういう女性が今はいなかったとしても、未来はわからない。
――でも、それでも構わない。
結婚相手が欲しいと願ったのは、母とも妹ともうまくやれなかったから、寧々を大切にしてくれる家族が欲しかったからだ。
だけどその願いはいつしか変わっていた。
千晃は寧々をお姫様のように大切にしてくれた初めての人だ。この人の傍にいられるなら何だっていい。
(人を好きになるとこんなにも世界が変わるのね)
寧々には千晃が光の粒子をまとっているように見えた。
続編の構想はありますがひとまずこれにて完結となります。
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