三章 一条堀河宮 05
自分の手で提出しなければいけない書類があり、神祇庁から皇宮へ移動した千晃は小さく息をついた。
宮中は雑多な気配が溢れているから苦手だ。人よりも感知能力が高い自分にとって、足を踏み入れるだけでも疲れる場所である。
《千晃、大丈夫?》
小夜が影の中から念話で話しかけてくる。母のように姉のように接してくる彼女の声音は気遣わしげだった。
《皇宮は人が多いから少し辛い。子供の頃はよくこんな場所で生活していたと思うよ》
異母姉の礼子とは理由は違うが千晃も帝位には全く興味がない。皇帝になってしまったら皇宮に住まなくてはいけなくなる。
千晃は一花を使役できて使用人を置かなくても生活ができる神祇卿という今の立場をいたく気に入っていた。
だから自分に理解のある兄に、このまま順当に皇帝になってもらわなければ困るのである。
(さっさと退散したいけど、兄上の様子を見ていくか……)
千晃は小さくため息をついてから、足早に皇帝の執務所である清涼殿を目指した。
そして書類を提出してから東宮御所へと向かう。
だが、その途上――。
「おや、千晃? 今日はこちらに来ていたんだね」
建物と建物を繋ぐ渡り廊下から、涼やかな声が降ってきた。
父帝の声だ。
顔を上げると予想通り、自分を老けさせた顔立ちの男が立っていた。
父帝のやや後方には櫻皇妃もいる。
「神祇卿宮様、お目にかかれて光栄です」
父に続いて櫻皇妃が声をかけてきた。
「これは父上。櫻殿も。こうして顔を合わせるのは半月ぶりでしょうか」
「千晃は用がないと寄り付かないからね」
父帝は軽く肩をすくめた。
「仕方ありませんわ。宮様にもご事情があるのですから」
櫻皇妃が取りなすように発言する。
父帝も彼女も千晃の感知能力が高すぎて、人の気配が溢れる皇宮を苦手としていることを知っている。
だが、皇宮に近付かない理由はそれだけではない。
実母の藤皇后が亡くなってから、その位置にするりと入り込んだ櫻皇妃の姿を見たくないのだ。
父帝と藤皇后は、政略結婚でありながらとても仲睦まじい夫婦だった。
母后が性質の悪い流感にかかってあっさりと亡くなった時の父帝の悲しみようは、傍から見ていても痛々しかった。
櫻皇妃はそんな父帝に寄り添い、献身的に尽くして、気が付いたら心を捉えていたのである。
たとえ皇子であっても、この国の最高権力者である父帝が誰を寵愛しようが物申す権利はない。
しかし父帝と櫻皇妃が並び立つ姿を見かけると、母后を裏切ったという気持ちが湧き上がって溢れそうになる。
「主上はお寂しいのだと思います」
櫻皇妃はおっとりとした口調で千晃に微笑みかけてきた。
(お前に何がわかる)
父帝の寵愛を得た余裕だろうか。訳知り顔が癪に障る。
「ご忠告ありがとうございます、櫻殿。もう少しこちらに伺う頻度を上げるように気を付けます」
千晃は表面上は取り繕い、にこやかに言葉を返した。
「無理はしなくていい。嫌々来られてもお互い気を遣うだけだ」
「まあ。わたくしには子供達が構ってくれないとおっしゃっていたくせに。主上はひねくれ者です」
櫻皇妃は大袈裟に目を丸くした。
「そんなことは一言も言っていない。千晃、櫻は噓つきだから信用しないように」
父帝はじろりと櫻皇妃を睨んでから千晃に視線を向けた。
「主上ったら、恥ずかしいからってわたくしを悪者にして……」
櫻皇妃は眉をひそめる。
「……大変恐れ入りますが、少々時間が押しておりまして」
いちゃつく父帝と皇妃の姿を見るのが苦痛になってきたので、千晃は思い切って切り出した。
「呼び止めて悪かったね、千晃。こちらも貴重な息抜きの時間を満喫中だったんだ。飛香舎に藤を見に行こうかと思ってね」
父帝もまたこの場から解放されたかったのだろうか。手を振ってきた。
「では失礼いたします」
千晃は父帝に向かって深々と頭を下げると、そそくさとその場を後にした。
その足で東宮御所に向かった千晃は、すぐに兄の千弘の私室に通された。
「千晃、お前が皇宮に来るなんて珍しい。どうせ何かのついでなんだろ?」
千弘は千晃が腰を下ろすのを待って声をかけてくる。
「兄上のおっしゃる通りですが、体調が心配だから様子を見に来たんです。お加減はいかがですか?」
「可もなく不可もなくだな。倦怠感は常にあるが、お前の封印術のおかげで進行はしていないと思う」
千弘は母に似た顔に笑みを浮かべた。その面差しは父親似の千晃よりも従弟の晃成にそっくりである。
千晃はじっと精悍で凛々しい兄の顔を観察する。
前に会った時とあまり変わらないように見えるが、呪印が体に浮かび上がる前と比べると明らかに精彩を欠いている。
以前の千弘はもっと生命力に溢れていた。
もし見た目を選ぶことができるのであれば、中性的な父帝よりも精悍で凛々しい兄の顔で生まれてきたかった。千晃の容貌は舐められるのである。
「随分と難しい顔をする。もしかして体調が悪そうに見えるのか?」
「いえ。以前と変わりないようで安心しました」
千晃は首を横に振って否定した。そして辺りを見回す。
「今日は静かですね。いつもは子供たちの声がするのに」
この東宮御所には、兄と東宮后との間に生まれた五歳と三歳になる二人の皇子がいる。
「二人とも午睡の時間だ」
《そうなの? 寝てるんだ……》
小夜の声が聞こえた。
二人の甥は小夜がお気に入りで、千晃を見かけると遊びたいとせがんでくる。
面倒見のいい小夜は鬱陶しそうにしながら相手をするのだが、本当はまんざらでもないようで、残念そうなのが声から伝わってきた。
「子供たちが眠っていると静かですね」
「そうだな。何をしていても可愛いが起きていると少し賑やかすぎる」
千弘は苦笑いを浮かべた。
「……晃成から聞いたよ。礼子の神託が示したのは羽々斬の適合者だったと」
兄は一息つくと、声を潜めて確認してきた。
「はい。女性ですが、織部の里で守人を務めていた人物で腕は確かです」
「それも聞いている」
同様の報告は異母姉のところにも入れてある。
「織部寧々嬢か。素性を調べさせてもらった。元神祇官の来生一志の娘らしいな」
「はい。剣と弓を父君に習ったそうです」
「なるほど、一志殿の血かな
」
寧々の父の織部一志――旧姓来生一志は、神祇四家の一つ、橘高侯爵家の遠縁で優秀な神祇官だった人物だ。
千晃が物心ついた時には既に織部勢津子に婿入りしていたから直接の面識はないが、寧々と同じで身体強化を得意とする術者だったらしい。
退官前は神祇庁の武術師範を務めていたというから相当な腕前だったのだろう。
「羽々斬は父方の血に反応したのかもしれません」
羽々斬は皇祖神たる御祖神が作ったとされる神剣だ。
神祇四家に連なる者には、かなり薄まっているとはいえ皇族の血が流れている。
「どういう女性だ? 性格は?」
「控えめな人ですね」
千晃は寧々の姿を思い浮かべながら返事をした。
「織部の里ではあまりいい扱いを受けていなかったようで、自己評価が低く気弱ですが、いたって善良な人物という印象です。一条堀河宮の中ではかなり萎縮して居心地悪そうにしています」
「平民の女性が皇子宮に招かれたらそうなっても当然だろうな。だが、待遇に慣れた時に変わる可能性はある。警戒はしておけ」
「……そうですね。その時は相応の対処をします」
そういう人ではない。
反論したかったが寧々を知らない兄には理解してもらえないと思い、千晃は心の中でつぶやくに留めた。
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