第三話
榎吉の案内で天満堂の中に入った。土間では既に二人の女性が夕餉の準備に取り掛かっており、その二人に榎吉は声を掛ける。
「咲さん、お優さん、お客さんを連れて来たから、夕餉一人前追加できるかな?」
「あらまあ」と振り向いたのが妙齢の女性、お優で信次郎の奥方だろう。
「おかえりなさいませ」
榎吉に恭しく挨拶したのが榎吉の嫁で信次郎の娘である、咲だった。若い女性らしく淡い桃色の着物を身にまとい、支度の最中だからか襷掛けしている。
「こちら戯作者様の……」
と榎吉が旺志郎を紹介しかけたが、そう言えば名前すら名乗っていないことに気が付く。流石にここは逃れられない。
「ま、丸鹿旺房と申します」
いつか一世風靡するはずの名だ。戯作者として名乗るのは悪くない。
「まあ! はじめまして、妻の咲です」
咲は長い髪を後ろにひとつくくりし、清潔感があった。何より礼儀正しい娘だと思った。
「一人追加できるかな?」
「はい、大丈夫ですよ」
にこやかに応対する咲に、榎吉も笑顔で返す。夫婦間に亀裂はないように感じた。
旺志郎は榎吉に勧められるまま部屋へと上がり、夕餉が出来上がるまでの時間を過ごした。
天満堂の店員の居室は二階部分にあり、一階部分は店舗と応接室を兼ねているらしい。床に臥せっている信次郎は二階にある一番静かな部屋で過ごしているらしかった。
もてなしに預かった夕餉は、質素ながらもきちんとした食事で、温かいご飯に、副菜主菜、汁物とお漬物が揃った膳で味もとても美味しかった。思わず口に出すと、榎吉はにこりと微笑み、妻の咲をみる。
「だそうですよ。咲さんの作る手料理はいつも美味しいですからね」
「いやですわ、そんなこと言っても何もでませんからね」
恥ずかしそうに謙遜する咲。でもどことなく誇らしげで、なんとも新婚らしく、見ているこちらも笑みがこぼれる。その様子には、嘘偽りなく、化けものである夫に怯えて暮らしているようには、とても見受けられなかった。
違ったようだ。旺志郎は意気消沈する。
軽い気持ちで潜入したが、やはりあの噂は単なる噂にしかすぎないのだろうか。
気分もなんだか落ち込んで来て、主菜に伸びていた手が止まる。
「なんだかお顔がすぐれませんね」
旺志郎の様子を訝しがった榎吉が尋ねた。なんとかうまく誤魔化さねばならない。
「いえ……あ、そう……最近いい戯作を思いつかないものでしてね……」
「ああ……それは困った問題ですね……」
地本問屋としても頭の痛い問題なのか、榎吉の顔色も曇る。
うまく誤魔化したが、一部は本音である。なんとか源三郎が納得する戯作ができたらここまでの苦労はしなくて済んでいる。あれやこれやと考え、したため、源三郎に提出しているが、源三郎が頷く作品は一向に生まれない。
「……ですが、まあ気落ちせずに気長に待つのもありですよ。〝化物遊戯〟をしたためた作者の方もしばらくずっと何も書けずに悩んでおられたのですよ。しかしながら私が婿入りしたことを知らせに伺ったところ、何か思いつかれた様子で、その場で戯作に取り掛かられました。それで出来上がったのが今の物です。一体何がきっかけになるかはやってみないとわかりません。悩めるのも今の内かもしれません。では、今を楽しんではいかがでしょう?」
真摯に打ち明けてくれた話は、信憑性があった。
今を楽しむか。今を楽しんでいるうち、良い戯作で源三郎を納得させることができるかもしれない。今は今しかないのだ。
確かにそうかもしれない。
「なるほど、そうかもしれませんね」
何がきっかけになるかもわからないのだ。今やっていることは決して無駄ではない。
腑に落ちた様子に、榎吉もホッと微笑みを浮かべた。
少し一緒にいて旺志郎は違和感を覚え初めていた。やはりどうもこの榎吉という御仁は正直すぎるように感じる。どことも知らぬ戯作者を名乗る男を食事に招き入れ、ましてやその悩みを親身になって聞く。こんな男が化けもののはずがないではないか。
「ちょっとお伺いしたいのですが、……いや、たまたま耳にしたほんの噂なんですがね、いや私は信じてはいないのですが……ちまたで若旦那さまが〝化けもの〟という噂が広がっているのですが、ご存知ですか?」
「ああ、その噂ですか。勿論知っておりますよ」
榎吉はあっけらかんと言ってのけた。
「ご存知なんですか!」
「急に婿が現れ、ましてや同時に〝化物遊戯〟なんてものが流行ってしまえば、変な噂が立つのは当然ですよ。別に悪い気はしておりませんし、そのままにしております。噂が〝化物遊戯〟の購買につながれば、尚の事」
なるほど、と旺志郎は遂にわかった。これは榎吉の策略なのだと。ようやく結論に辿りついたのだ。
突然降って湧いた婿養子、更にその人物が美男子とくれば、興味本位で噂も立つというもの。その噂に〝化物遊戯〟を重ねて、売上部数を伸ばそうという魂胆だ。そうして、自分はその罠に見事はまってしまっていたのだ。
婿も奥方の咲も悪い人ではない。むしろ、どこともしれぬ戯作者を迎い入れ、夕餉までご馳走してくれる。仲も良さそうだし、何もやましいことはない。
「今日は急にお邪魔してすみませんでした」
「いいえ、またいらしてくださいね」
玄関で見送られ帰路につく。
真相は藪の中だが、不思議と心は穏やかだ。天満堂とはライバル関係にはあるがなんとかうまくやって行きたいと心から思った。
そうして、ゆっくりと龍神堂に向かい、敷居をまたいだ。
「こんな時間までどこほっつき歩いてやがったんだ!!!」
頭の上から飛んできた轟雷に、旺志郎の気分は一転した。
「旦那にいい話があるぜ」
源三郎からの大目玉を食らったあと、今度こそ真面目に仕事をしていたら、いつもの二人組が話しかけて来た。
「どうされたんですか?」
「あの天満堂の噂だよ」
「いや、その噂ならもうデマだって分かりましたよ」
旺志郎が一蹴すると、客はへそを曲げる。
「なんだい、面白くねえなあ。龍陣堂と天満堂、やるかやられるかの大勝負じゃねぇか。もっと盛り上げてくれよ」
「ははは……まあ、聞くだけならば」
二人組のうちの一人が旺志郎の耳元でそばだてる。
「どうやらあの家の猫が噂のもとらしい」
「……猫?」
猫といえばあの茶太郎とかいうまだらの猫だ。
「オヤジさんの頃からずーっと飼ってんだが、なんか歳をとらねぇらしくて、いつもピンピンしてるらしい。実はその猫が化け猫で、あの家を操ってるんじゃねぇかって話さ、なあ?」
片割れが「おうよ」と受け継ぐ。
「なんでも、昼間は猫の格好してて愛想振りまいてんだが、真夜中になると人間に化けてみんなを脅してるらしいぜ。いやーおっかねえ!」
旺志郎はおののいた。
「ま……ま、まさかそんなはずは……」
「いやー、確かだぜこりゃあ! 実はあの戯作もその化け猫が書いたんじゃねえかって話さ。自分を題材にすりゃあそりゃあいい戯作も生まれるってもんだい」
確かにあの猫は怪しい。猫嫌いの旺志郎に懐いているところが一番怪しかった。こちらは及び腰だというのに、あちらは一切気にも止めないどころか、向かってくる始末。嫌がっているのを楽しんでいるようにも見えた。
もし、あの仲睦まじい家族の中があの猫によって脅かされているとするならば……。
旺志郎の頭に榎吉や咲の笑顔が化け猫によって蹂躙されていく姿が、荒々しく想像された。
これは由々しき事態だ。
旺志郎はまたしても決意した。