最終話【月の光につつまれて】
最終回
隆之が南郷家に戻った1週間後、隆之の生還祝いパーティーが南郷家の屋敷で開催された。とてつもない大戦が終結して間もない時分ではあったのだが、大日本帝国の財閥各関係団体は細々とした身を寄せつつ、形式ばかりではあるが、力強い国体を保とうと必死に華やかな集まりを挙行したのである。
当日は南郷財閥とゆかりのある華族や各業界の財閥のお偉い方とその御子弟が招待された。旧家である黒澤家の夫妻と桜子も招かれていた。多江はまだ隆之と桜子との婚姻を考えているのだが、以前とは少し気持ちが揺らいできているようだ。
パーティー開催に先立ち、主催者である南郷財閥総帥の南郷隆夫が厳かに開催の挨拶を述べた。
「皆様、大変困難な時期とは存じますが、お集まりいただき誠に恐縮至極でございます。我が南郷家の跡取り息子が命からがら戻って来られたのも、ひとえに皆々様方のご支援ご協力があったればこそと心得ております」
隆之が生還したのは喜ばしいことである。だが、隆之と同船していた者のほとんどは死亡もしくは未だに行方が分かっていない。隆夫は言葉を続ける。
「戦後の傷跡が色濃く残るこの時代だからこそ、幾多の悲しみを乗り越えねばなりません。荒涼とした社会に明かりを灯すのは我々の役目でもあるのです。今宵は苦役の思いを払拭し、未来への希望を見据えて元気を取り戻そうではありませんか!」
来賓者一同、目を潤ませながら拍手を送った。
音楽が始まった。オーケストラの規模は20名ほどでそれほど大きくはないが、優雅な音楽の調べが軽快にダンスホールに鳴り響く。桜子が隆之に歩み寄ってきてダンスに誘った。隆之は英子の姿をちらっと見るが、女性からの誘いを断ることは失礼にあたる。ここはまず桜子とダンスに興じることにした。
英子はというと、ダンスが苦手なため一人テラスに行き、そのまま中庭へと出た。すでに日は沈み、ひときわ明るい月の光が優しく広がってる。芝生の上で遊んでいた鶴丸が英子に気がつき尻尾を振りながら走ってきた。
「ワンワン!」
「あら鶴丸、ここで遊んでいたのね」
英子が鶴丸の頭をなでると鶴丸も英子の手をペロペロとなめる。桜子とダンスを踊っていた隆之だったのだが、英子がテラスに行ったのが気になって仕方がない。ちらちらと外を見る隆之を不満に思いながら桜子はほっぺを膨らませる。ダンス会場ではいったん音楽が鳴りやみ、しばし休憩に入った。
桜子とのダンスが終わった隆之がテラスに出た英子の後を追う。桜子は『しょうがないわね』といった表情で給仕から受け取ったシャンパンに口をつけた。多江が桜子のそばに来た。多江は隆之と桜子を結婚させようと考えていたのだが、最近はなんとなくそんな気も薄れてきた。多江が桜子に話しかける。
「桜子さん、ごめんなさいね。隆之は本当にわがままで」
「いいえ、多江様、お気に召さらず。私には言い寄ってくる殿方は大勢いますわ。黒澤家と釣り合いの取れる華族で素敵な方を見つけることにいたします」
桜子は、英子が行方不明になった事件以来、隆之の英子への一途な思いを目の当たりにし、自分は隆之を振り向かせることはできないと、心持ち諦めていたのであった。ふともらす桜子。
「英子さんには、かなわないわ……」
桜子は、ふふと笑いながらシャンパンを啜った。
音楽が鳴りだした。来賓として招かれていた、とある財閥の御曹司が桜子に声をかける。
「桜子様、もしよろしければ一曲お付き合いいただけませんか?」
「ごめんなさいね、今そんな気分じゃないの」
笑顔で応える桜子は、そのまま視線を窓の外に向ける。今夜は空気が澄んでお月様が綺麗だな、と思っていると自然に穏やかな気持ちになった。
英子の姿を追ってテラスから外に出た隆之が中庭の中央にある池に向かった。
池のほとりで英子と鶴丸が遊んでいる。隆之は英子のそばまで近づき声をかけた。
「英子さん、こんなところにいらしたのですか」
「あっ、隆之様。ダンスの方はよろしいのですか?」
「ええ、会場は窮屈です。英子さん、あの、ここで私と一緒に踊っていただけませんか」
「え? 私、踊れません」
ダンス会場からかすかに音楽が聞こえてきた。隆之は続けて英子に話しかける。
「大丈夫です、英子さんはお忘れでしょうが、以前私が英子さんにダンスを教えたことがあったのです。体は覚えているものですよ。私の帰還祝いに一曲お願いします」
英子はしばし戸惑ったのだが、隆之の申し出を受けることにした。
「承知いたしました、隆之様。私でよろしければ一曲お相手させていただきます」
丁寧にお辞儀をする英子。いまだに記憶が戻っていない英子を前に軽く唇をかみしめながら隆之は英子の手を取った。
少し離れた会場からショパンのノクターンの調べが夜風に混ざって流れてくる。隆之は英子の手をやさしく導き、もう一方の腕を背中に回す。隆之のステップに従うように身を任せる英子。ダンスは苦手なはずだったのだが、なぜか隆之の腕の中では魔法をかけられたように舞うことができる。まるで忘れられた時間が流れるようであった。
会場ではみな賑やかにダンスを興じている。そんななか南郷財閥総帥の隆夫は、庭に出てダンスを踊っている隆之と英子に気がついた。テラスに出てしばらく二人を見やっていると、知り合いの鉄鋼会社の会長が隆夫のそばに来て話しかける。
「南郷さん、どうされましたか? テラスなどで。ご休憩ですかな」
「ああ、いえ。月を見ていたのです」
池のほとりで踊る二人に視線を向ける隆夫。その視線の先に気がついた鉄鋼会社の会長が話を続ける。
「おや? あれは南郷さんの御子息ではありませんか。一緒に踊っておられる方はどこの貴族の御令嬢ですかな?」
「うちの使用人ですよ。今は……」
含みのある笑みを浮かべながら言葉少なに応える隆夫であった。
南郷財閥の総帥と鉄鋼会社会長がテラスに出ているのに気がついた来賓の面々が一人二人とテラスに出てくる。そのうちの一人がシャンパンを片手に「いかがなされましたか?」と隆夫に聞く。隆夫が顔を横に振って中庭を指すと、その先で隆之と英子がダンスを踊っていた。その情景を見た一同が「おお」とどよめく。
暗い中庭でダンスをする二人、淡い月の光に照らされている。ダンスホールにいた来賓客のほとんどがテラスに出てしまい、会場には人がいなくなってしまった。オーケストラの人たちは不思議に思ったのだが、そのまま演奏する。庭にある小さな池のほとり。夜空には青白い月が浮かび、艶のある芝生を照らしていた。英子がまとった黒いドレスにちりばめられた無数のビーズに月の光が反射して煌めいている。夜空に星々が瞬いているように。
ダンスに興じている二人であったのだが、突然英子は柔らかい芝に足を取られ、のけぞるような形でつまずいた。隆之はすかさず英子の背中に手を回し英子の体を支える。のけぞった英子は、思わず空を見上げる形になった。目の前に隆之の顔が月の光に照らされてほのかに浮かび上がっている。
どこかで見た光景だ。瞬間、英子の唇から小さく「あっ」とふるえるように声がこぼれた。英子の目が大きく見開かれ、やわらかな黒い瞳から大粒の涙が零れ落ちる。にじんで見える隆之の顔の先に英子の脳裏に忘れ去られていた記憶がよみがえったのだ。英子はゆっくりと体を起こし、両手でしっかりと隆之の手を握りしめ、隆之の目を見据えた。
「隆之さん。わたし、わたし、今まで……」
あふれ出る涙が頬を伝い雫となって零れ落ちた。やさしく微笑む隆之の瞳からも涙がにじみ出る。隆之がそっとささやく。
「どうやら記憶が戻ったようだね。お帰り、英子さん」
淡い月の光によって生じた白色の虹が二人をつつみこむ。そのそばで二人を見ていた鶴丸が遠慮がちに「クゥーン」と鼻を鳴らした。
「月の光につつまれて」
終わり
今まで読んでいただき、ありがとうございました。




