第21話【英子、渓谷へ落ちる】
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隆之が崖を見下ろした。高く切り崩れた谷間の奥に川が見える。流れが激しく水深も深そうだ。必死になって英子を呼び続ける隆之。藤原と渡瀬も大声で「英子様ー!」と叫ぶのだがその声は渓谷に吸い込まれ、川の音にかき消される。隆之は川まで下りられそうな場所を探した。しかし、そのようなところはどこにも見当たらない。それでも何とか崖に張り巡らされるように露出している木の根を伝って降りようとする隆之だったのだが、突然桜子が隆之に抱き着いてきた。別のイノシシがもう一匹草むらから出てきたのだ。
草むらから出てきたイノシシは近くに横たわって死んでいるイノシシよりも一回り小柄だった。もしかしたら死んだイノシシとはつがいかもしれない。イノシシの目が恐怖と怒りの色に染まり、かなり興奮している。突然イノシシが桜子に向かって迫ってきた。桜子が「きゃーっ!」と悲鳴を上げ隆之にしがみつく。その横から鶴丸が素早く桜子の前に飛び出してきた。
「ウー、ワンワン!」
大きな声をあげながら吠える。驚いたイノシシがとっさに向きを変え草むらの中に逃げていった。鶴丸がイノシシの後を追い、「ワンワンワンワン」という叫び声が次第に遠のいていった。
桜子があまりの恐怖になかなか隆之から離れようとしない。渡瀬が桜子のそばまで来て優しく肩に手をかけた。桜子はなんとか落ち着きを取り戻したようで、その場にへたれこんでしまった。藤原が隆之に声をかける。
「隆之様、このまま英子様を探しに渓谷へ降りると隆之様までもが谷底へと落ちてしまうかもしれません。それに、英子様はすでに下流の方へと流されているかと思われます。ここはひとまず警察へ連絡いたしましょう」
隆之は歯を食いしばり、口惜しさとやるせなさに苦しみながら藤原の話を聞いている。
「隆之様、ここは一旦近くの民家に行って電話を借り、警察に連絡いたします。急ぎますゆえ、隆之様たちはこちらで待機してくださいませ。なにとぞ、むちゃな真似はお慎みください。分かりましたな」
「……分かった。藤原さん、お願いします」
隆之は体を硬直させたまま深くお辞儀をした。
藤原が車で近くの集落まで行き、目に入った民家にの前に車を止めると急いで家の人を呼び、急用の旨を知らせ電話を借りて警察に連絡した。しばらくすると、連絡を受けた近隣の警察署と消防団から人員が集められ、さらに消防団から連絡を受けた地域の住民らが応援に駆け付けた。
青葉山から渓谷へ降りられる小道は、英子が落ちたところから500mほど下流に行ったところしかない。そこからならば、なんとか川にたどり着ける。急きょ捜索隊が組織され、一団は一旦、川へ繋がる小道のある場所まで行き、そこから川辺に行って上流と下流の二手に分かれて捜索を開始した。季節は秋口に差し掛かっていたのだが、まだ寒いわけではない。しかし夜になるとかなり冷え込んでしまうため、早く探さないと危険である。警察は、行方不明となった英子は南郷財閥の客人と聞いている。捜索隊にも自然と熱が入る。
その日の捜査は夜の9時まで続いた。一向に英子の姿は見えない。痕跡さえも見つからないのだ。捜索隊の中には、もうダメではないのかと囁く声も聞こえたのだが、捜索に同行した隆之達はなんとしてでも英子を探し出す思いを捨てず、夜の闇の中で英子を探し続けた。しかし、夜の10時を過ぎ、隊員の身にも危険が及ぶ可能性があるため警察本部からの指示により一旦この日の捜索は打ち切りとなった。隆之たちにも警察から退避命令が下る。みんなは苦渋の決断に涙を呑む思いであった。
その日隆之たちが家に着いたのはすでに日付が変わっていた。みんな無言のまま家に入ると玄関で多江が待っていた。英子が行方不明になったことは、すでに警察から連絡が入っていたのだ。多江が隆之に話しかける。
「隆之、英子さんは結局見つからなかったのですか?」
「はい、地元の警察や消防団の方、近隣の住民の皆さんにも協力していただいたのですが、見つけることはできませんでした」
疲れた様子でうなだれる隆之を気遣う多江の表情も暗い。突然桜子が泣き出す。
「わたくしが悪いのです。イノシシが突然草むらから飛び出してきて、足が震えてしまいその場で動けないでいると、イノシシがわたくしに向かって飛びかかって来たのです。そのとき英子さんがわたくしを押し飛ばしてイノシシから守り、イノシシが英子さんに体当たりしました。そのせいで英子さんが谷底に……」
桜子はその場で嗚咽を漏らしながら泣き崩れてしまった。多江も英子の安否を心配し目に涙を浮かべながら桜子の肩に手を置いた。桜子は英子のとっさの行動が今も目に焼き付いている。自分の身を顧みずイノシシから救ってくれた英子に対して、申し訳ない気持ちで胸がつぶれそうになっていた。桜子に今できることは、英子が無事であることを祈るだけである。
英子が行方不明になり、翌日早朝から捜索が再開された。しかし、警察と地元消防団とで組織された捜索隊の懸命な努力にも関らず、依然として何の手掛かりも見つけられない。捜索隊に参加する隊員たちはすでに英子の生存についてあきらめているようだ。それから捜索はひと月にも及んだ。結局のところ捜索は一旦打ち切りとなった。それでも隆之はあきらめきれず、来る日も来る日も英子を探し続けた。南郷財閥グループの病院に勤める傍ら、忙しい合間を縫って隆之は青葉山へと赴き、英子が落ちた川沿いを歩き回る日々が続いた。
そのころ世界情勢に不穏な変化があった。日中戦争が勃発してから数年経過し、太平洋戦争の開戦機運が高まり、日本軍はハワイにあるアメリカ太平洋艦隊の拠点を突如空襲し、太平洋戦争の幕が切って落とされたのだ。時代に暗い影が落とされながらも南郷財閥は軍部からの多大な支援を受け、船舶輸送を手掛けるとともに戦時医療の先駆けとして困難な責務をこなしていた。南郷財閥の一人息子である隆之も職務に翻弄され、自宅に帰る日も少なくなっている。しばらく仕事の都合で自宅を空けていた桜子の両親も自宅へと戻り、南郷家に居候していた桜子もそれを機に実家へと戻っていった。
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