第1話【かけがえのない素敵な時間が過ぎ去っていった】
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1935年、昭和10年、アメリカの景気の急速な悪化を端に発した世界的経済恐慌は日を置くごとに増大し、日本はその余波を受け寂れた空気が漂っていた。商店街にはかすかな生気が残りつつも、その賑わいは以前ほどではない。東京郊外にある二階堂医院も例外ではなかった。
二階堂英子は18歳。父祐輔と義兄の風岡翔一郎、そして風岡の子供二人と住んでいる。院長の二階堂祐輔は「低額診療」を経営方針としていた。祐輔の大学時代の教え子であった風岡翔一郎は二階堂家の長女の美津子と結婚し、同居して医院を手伝っている。英子の母サエは英子が小学生のころに急死。姉美津子は二人目の子供を出産した直後亡くなっている。英子は看護学校への進学を目指して勉強に励み、このたび見事入学試験に合格した。二階堂家においては久しぶりと言っていいうれしい出来事である。祐輔は些細ではあるが、お祝いをしようと家族を引き連れて街中にあるレストランへと向かった。
祐輔と風岡は日ごろは白衣姿なので久しぶりのスーツ姿が少しぎこちない。英子は姉のお古の淡い水色のワンピースの装いで、腰まで伸びた艶のある栗色の髪にとても似合っている。街に着いたのはランチの時間帯で、街は華やかさはないがレンガ造りのビルが立ち並び、日差しを浴びて明るい街並みを彩っている。途中、街にはなぜか普段よりも多くの若い兵隊たちが目立っていた。威勢のいい軍靴の足音が歩道を響かせ、街の空気に緊張感が広がっている。英子たちは驚きながらも彼らの行進に見入った。風岡の息子で4歳になる富雄が英子に話しかける。
「英子姉ちゃん、兵隊さんたちがたくさんいるね」
「そうね、どうしたのかしら?」
若い兵隊たちは立派な制服に身を包み、誇らしい表情を浮かべながら街中を整然と行進していた。兵隊の一人が富雄と目が合いニコッと笑った。富雄は緊張しながら直立姿勢を取り、右手をおでこの前に素早く持っていき敬礼した。兵士も笑いながら富雄に向かって敬礼する。隣にいた祐輔もつられて兵士に軽くお辞儀をした。街を行きかう人たちも行進している兵隊たちに向かって手を振り拍手を送っている。祐輔がぽつりと言った。
「戦争が始まるな」
レストランに着いた。決して高級というわけではないがこぎれいな洋食屋で、艶のある綺麗なテーブル席にセンスの良さが表れている。みんなはテーブルに着き、ほどなくして給仕が料理を運んでくる。食事の準備が整った。祐輔がビールが注がれたコップを手に取り祝福を述べる。
「英子、合格おめでとう。母さんや美津子の代わりに家事と勉強を両立しながらよく頑張ったな。これからも家のことは英子に面倒かけるが、父さんもなるべく協力するから勉学に勤しんでほしい」
「はい、ありがとうございます。お父様」
テーブルを囲んでいるみんなが自然と拍手を送った。二人の子供たちは早く目の前のライスカレーを食べたそうにしている。富雄がスプーンをもってプラプラと振り回す。3歳になったばかりの妹の早苗は、初めてのレストランに興奮して毛糸のお人形さんをぎゅうっと強く抱きしめている。そんな二人の喜ぶ姿を見て英子も微笑む。祐輔が両手を合わせて合掌し「いただきます」と言って料理に手を付けた。そのあとみんなも祐輔にならって合掌し、「いただきます」と言って食べ始める。富雄の声が一番大きかった。英子がくすっと笑う。英子にとってかけがえのない素敵な時間が過ぎていった。
食事を終えた英子たちはレストランを出て、家族みんなで道路脇の広い歩道を歩いていた。赤身がかったレンガが綺麗に敷き詰められた路沿いを歩いていると、衣料品店のショーウインドウに目が留まった。ショーウインドウの中には素敵なドレスが飾られている。柔らかなシルクの生地に月明かりに照らされたように淡いピンクの色合い。夜空にちりばめられた星を思わせるビーズの装飾がちりばめられている。こんなドレスを着てダンスを踊れたらいいなと思いながら、英子はうっとりとした気分でいる。そんな英子を見て祐輔が英子に話しかけた。
「英子もこういうドレスに憧れる年になったか」
「いいえ、お父様。私は今の服が一番気に入っています」
「ははは、英子が学校を卒業したらお祝いに買ってあげよう」
「あっ、言いましたね。期待せずにお待ちしております」
微笑む英子。祐輔も笑顔で英子の肩をたたいた。合格祝いの余韻も冷めやらぬ英子たちが交差点に差し掛かった時だ。不意に猛スピードで現れた車が信号無視をして迫ってきた。危険を感じ体を硬直させ身を守るすべを見失った英子。車はさらに勢いを増す。その瞬間、祐輔がとっさに英子の肩に手を掛けた。祐輔は英子を車から守るために身を挺して英子を思いっきり押し飛ばす。祐輔に突き飛ばされた英子はアスファルトの上に倒れこむ。倒れた瞬間、英子は祐輔のいる方に顔を向けた。街の喧騒をかき消すかのようなタイヤの響き。その音ととともに祐輔の姿が英子の目の前から消えてしまった。突進してきた車に祐輔の体が飛ばされ、そのままガードレールに激突した。英子の体が自分のものとは思えないほどガタガタと震える。
「いや、いや! お父様ーっ!!!」
英子の叫び声が街の喧騒を引き裂く。一瞬の出来事だった。賑やかだった街は一瞬にして悲劇の舞台となった。
祐輔はほどなくしてやってきた救急車に乗せられ病院へと搬送された。翔一郎と子ども達もタクシーに乗り救急車を追う。病院に着くなり祐輔は救急ストレッチャーで手術室へと運ばれていった。英子たちは待合室に待機するようにと看護師から指示を受けたのだが、じっとしていられず廊下の隅を気ぜわしく行き来する。不安の表情を浮かべる子ども達を前に唇をかみしめる翔一郎。英子は今にも泣きそうな気持を抑え込むのに精いっぱいである。数時間が経ち英子たちは通路の端にある病室に呼ばれた。担当の医師が案内し、歩きながら話しかける。
「全力を尽くしたのですが」
英子はその言葉を受け止めることができず足早に病室へと向かう。案内された一番奥の病室の扉を開けるとベッドには祐輔が横たわっていた。顔には白い布がかぶされている。病室に入った英子は祐輔に駆け寄り胸のあたりに手を置いた。震える手から次第に力が抜けていく。いま目の前にある光景がまるで遠い世界の映像を見ているかのようで現実感がない。翔一郎は病室の入り口で凍りついたように立ちすくんでいる。そこだけ時が止まってしまったかのようにしんとした静寂が漂う。英子からしてみれば、すでに結果は分かっていたではないか。あれほどの衝撃で飛ばされガードレールにたたきつけられた祐輔の姿がまだ眼瞼に焼き付いている。しかし、万が一でもと一途の望みを託して父が生きていることを祈っていた。英子の横にいた担当医がうつむいたまま小さく首を振った。英子は泣き叫びながら祐輔の体にしがみつく。
「お父様っ! 死なないと約束してくれたじゃないですか。どこにも行かないと、わたくしから離れないと。お父様、逝かないでください!」
『うぅぅ』という嗚咽がこみ上げ小刻みに震える英子の肩に風岡がそっと手を置く。二人の様子を見ていた富雄と早苗の泣きじゃくる声が病院の暗い通路に木霊した。
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