第1話 フォール・レイン・ブルー(1)
空は快晴。走る体を風が濡らしてくれる。
「もう少しペースを抑えてーっ!」
弥生は学生服姿で自転車を走らせていた。黄色いプラスチック製のメガホンを口元に当てて叫んでいる。
昼の三時の河川敷。そこで走っている一人の少女がいた。少女は真っ黒なショートカットを風に流し、ジャージとマラソン用のシューズで走っている。少女の名は新垣皐月。見ての通り、陸上一直線の女子高生である。端正な顔立ちではあるが、まるで異性には興味が無いらしい。
「はい! 十キロ地点だよ、お疲れ!」
弥生がそう言うと、皐月は近くにあったベンチに座って弥生から受け取ったスポーツドリンクを一気飲みした。辺りはジョギングをしている中年男性や、女の子が犬と散歩している光景が見られた。
その向こう側には大きな川があった。透き通った綺麗な水。この時代には珍しいほど良い水質だという。セミが鬱陶しく鳴いている。ただ、鬱陶しいのはたしかだが、人はこれを聞くとようやく、夏の到来というものを知る。そういう点では、人の役に立っているのではないだろうか、と弥生は思う。
「タイム……どうだった?」
皐月は飲み干したスポーツドリンクのペットボトルを弥生に渡すと潤った声で訊いた。
「二十七分五十七秒だよ。ずっとこのペースだと良いんだけれど……皐月は後半になってペースが落ちるタイプだから、もう少し抑えて走ってみたら良いと思う」
「そっか……やっぱ、ペースの問題か」
「汗拭いたら?」
「あ、ありがと……」
弥生は皐月にタオルを手渡した。それを皐月は笑顔で受け取る。
「このペースで42・195キロはキツいよなぁ……ま、もっと体力さえつければ、こんなに考える必要はないんだけれどさ」
「皐月は頑張ってるよ。だから、もっとタイム伸ばせるって!」
「ホント……弥生って、怖いほどポジィティブだな」
「えへへーっ」
「そういうところ……昔から変わってないな」
皐月は微笑んでみせて、弥生に訊いた。
「そういや、何で三ヶ月も学校休んでいたんだ?」
「あ、ああ、それね! それは……両親がアメリカに仕事の都合で行くことになってね。ごめん、理由が言えなくて!」
「いや、別に良いんだ。ただ、心配してたんだぞ、弥生のこと」
「そういってくれると嬉しいな」
今度は弥生が微笑んだ。
川の水が太陽の光を反射して輝いている。眩しいと思った弥生は目を逸らす。逸らした先には、少し落ち着いた皐月の姿があった。
弥生がアメリカから帰って六日が経った。もうあのことも言い出せないだろう、と弥生自身思っていた。しかし、ダメだから諦めろと思えば思うほど、希望を持ちたくなってしまう。
皐月には夏の大会もある。それに自分一人のために命を賭けてくれる……はずがないと。
「なぁ、今日、草壁神社で夏祭りがあるんだけど、一緒に行かないか?」
「え、皐月? 練習とかしなくて良いの?」
「ばっきゃろ! 私だって遊びたい時だってあるっつーの!」
「……何時に集合する?」
「えーっとぉ…………」
皐月は腕時計を見て暫く考えた後、顔を上げて弥生に言った。
「六時三十分に門の前で集合だな」
「わかったよ」
弥生は笑顔で返答した。これが最後なのだろう、皐月と一緒に夏祭りに行くのは……。そう思うと弥生は寂しい想いに駆られてしまうので、あまり考えないことにしようとした。しかし、これも弥生の性格ゆえなのか、どうしても考えてしまう。
ベンチから立ち上がり、軽い準備運動を済まして走り出す皐月。
「んじゃ、部室までもう一走りするぞーっ!」
「うん!」
弥生も自転車に足を掛けて、皐月の後を追う。追い風が二人の背中を押していた。優しく、包み込むように。ただ、それさえも弥生にとっては冷たいものとなっていた。
弥生がふと見上げた空。そして太陽。これから、あそこに行くんだと弥生は不安混じりの絶望を感じていた。そう、もう生きて帰ることなどできるはずのない、残酷な作戦だということは分かっていたのだ。
ただ、顔には出さないだけで……。
草壁神社の鳥居前には溢れんばかりの人がいた。昔と変わらず、ここは活気があるようだ。弥生はそんな中、学生服姿で立っていた。
家に帰らず、学校の屋上から空を眺めていた。そのせいで着換えができなかったようだ。皆、私服や浴衣姿で着ている場所で制服姿だと少し疎外感を感じる。
真夏なので蒸し暑い。神社のほうを向くと出店がズラリと並んでいた。その奥にある神社の姿は見えない。そっと風が弥生の体を包み込む。そして、消えていった。
昔もよく皐月と行ったな……草壁祭り。
「おまたせーっ!」
弥生の背中をポンと叩いたのは浴衣姿の皐月だった。十年間、弥生は皐月と一緒にいて、彼女が浴衣を着たのを見たのは初めてだった。いつもより、女の子らしさを感じる。
「似合ってるね、浴衣」
「というか弥生……何で制服なんだ?」
「あーいや、着替える時間が無かったし……」
「ま、それでもいいけど、さて……弥生、行こうか!」
「うん」
そう言うと皐月は弥生の右手を握り、走り出した。
「そ、そんなに急がなくても……」
「ご、ごめん。じゃあ、ゆっくりな」
「うん!」
二人が歩くにしたがって、出店の種類も変わってくる。フランクフルト……カキ氷……水飴……輪投げ……射的。そこには昔と変わらない匂いがあった。
「で、栄治とはどうなったわけ?」
「え? 栄治くんとは何もないよ!」
弥生は顔を真っ赤に染めて言った。それを見た皐月はニヤリと笑って、弥生に耳打ちをした。
「栄治はあんたのこと、どう思ってるかなぁ?」
「全然、何も思ってないよ!」
「ま、想いを告げるんだったら早いうちの方がいいぞ。森田栄治は待ってくれないよーっ!」
「だーかーらっ!」
まだ、弥生の顔は赤かった。
「弥生! 射的でもやらない?」
「そうしよっか」
「おっさん、一回やらせて」
「あいよ!」
皐月は射的の出店の前で止まり、店のおじさんに二百円を渡した。そして、両手に持った空気銃で景品を定める。それは王将であった。そして、皐月は引き金を引いた。
しかし、当たりはするものの、いっこうに倒れない。結局、皐月は残りの五発をその王将に捨ててしまった。ガッカリした様子で弥生に空気銃を渡す。
「え? 私もやるの?」
「頑張れ」
「うぅ……こういうの苦手なんだけどなぁ」
渋々、弥生は二百円を払い空気銃にコルクの弾を込める。そして、片目を瞑って狙いを王将に定める。
マキナの戦闘シュミレーションでも同じようなことがあった。それを生かして……少し縦に銃身をずらし、王将の天辺に照準を合わせる。それが三十秒ほど続く。
眠たそうにする店のおじさん。彼が再び目を開けた時には既に王将は倒れていた。
「……すっごいよ! 弥生! こんな特技があっただなんて!」
「あ……いや、偶然だよ……」
弥生は苦笑いをして、その場を去った。彼女が王将を貰っていないのに気づくのは、もう帰る頃だった。
「いやぁ、楽しかったなぁ」
皐月はベンチに座って背伸びをした。横で立っている弥生も同じように背伸びをする。神社の裏側にあるここは、弥生たちの住んでいる街が一望できる場所だ。右左を見ても誰もいない。あるのは青々とした木々のみだった。
このベンチから見る夜景は実に美しいものだった。夜の七時ともなれば、街に明かりが灯される。一つ……二つと増えてゆき、その雄大な風景画を創りだしていたのだ。
「ふぅ……でさぁ、話ってなにーっ?」
皐月は陽気な顔で言った。それに反して弥生の顔は沈んでいった。
「あのね……私、皐月に黙っていたけれど……贖罪計画に参加することになったの」
「えー贖罪計画?」
「知らないの?」
「あーうん。最近、全然テレビを見てないし……」
「じゃあ……アルカディアス……って知ってるよね?」
「あーうん……それなら知ってる」
皐月がそう言うと弥生は続けた。




